寮の部屋のドアの向こうから「開けてください」と声がしたので開けてやると、紙袋を両手にどっさりと抱えて、更に腕にぶら下げた月島が思い切り不機嫌な顔で「ただいま」と呟いた。反射的に「おかえり」と答えたものの、鯉登の視線はその荷物に釘付けで、部屋の片隅にそれらを漸く下ろした背中が深く重い溜息を吐き出す。
「た…大量だな」
今日はバレンタインデー。紙袋の中は大量のカラフルな包み、とくれば、中身は考えずともわかった。
どうやら同室で二つ年上の先輩は随分とモテるらしい。見る目があるな、と誇らしくなる反面、その中のいくつが本命で、どれかに気持ちを返すのかと考えると胃の中がぐるぐるした。
月島に憧れて、鹿児島のユースから無理を言って北海道の高校に転入した春からもうすぐ一年が経つ。三年生の月島はもう卒業が間近だ。先月就職試験を受けた彼は無事に希望の就職先への進路を決め、あとは卒業を待つばかり。社会人サッカー部のある会社ではあるが、一緒にサッカーをやる機会ももうなくなってしまう。まして卒業してしまったら、今のように朝も夜も顔を合わせることなどなくなってしまうのだ。
床に置いたままの荷物を眺めて何かを考え込んでいた月島がまた溜息を吐いた。それにはっとして、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
「これ、ぜんぶ鯉登さんのですよ」
コートを脱ぎながら呟いて、目を合わせないまま荷物を置いた隅と反対にあるクローゼットへと向かった。え、と思わず声を零して紙袋と月島を交互に見遣る。
「頑張ってください」
「こんなに無理……ていうかいらん!」
「甘いもの好きじゃなかったでしたっけ」
着替えの手を進めながら振り向きもしない彼に眉を寄せた。甘いものは好きだけれど、本人の与り知らないところでこんなものを貰って来られても困る。顔も名前も分からない相手からの食べ物など口にする気にもならない。ましてや、片想いの相手に仲介されたバレンタインチョコレートなんて。
「平之丞さんに手伝ってもらったらどうですか」
五つ年上の兄は月島がリスペクトするプロサッカー選手だ。そのリスペクトついでに鯉登にも敬語を使うのをやめて欲しいと何度か言ったはずなのに一向になくならない。
いつも以上に素っ気ない物言いに悲しくなって、ぐっと奥歯を噛んだ。
「……いらん。食わん」
「食べ物を粗末にするとバチが当たりますよ」
「そもそもこんなもの勝手にもらってくるのも悪い」
「俺のせいですか」
苦笑した分厚い肩が揺れる。漸く振り向いた月島はかなり機嫌が悪そうで、思わず怯んでしまった。睨まれているわけでもないのに、視線が冷たく感じて動けない。
「どんな気持ちで預かってきたと……」
「え?」
「何でもないです。シャワー浴びます」
「あ、おい、」
逃げるように、拒絶するように備え付けのシャワールームに入ってしまった背中にどうしようもなくなって拳を握った。部屋の片隅、紙袋に詰め込まれた誰かのこころ達がイレギュラーな鯉登の恋心を囃し立てているような気がする。
半ば呆然としながら勉強机のイスに腰掛け、そっと引き出しを開けた。友チョコだとでも言って渡すつもりだったチョコレートはあの不機嫌な先輩に受け取ってもらえるだろうか。
こんなことならこんなもの、用意しなければよかった。取り出したそれは何の変哲もない、真ん中がハートに切り取られ透明のフィルムが貼られた赤いパッケージの市販品。月島が持ち帰ってきたものと比べたら随分と地味だけれど、一人で催事場に行く勇気はなく、コンビニで買ったこれが精一杯だった。
「本命ですか?」
シャワールームのドアは最近付け替えたばかりで、以前のように開閉する度にガシャンガシャンと音を立てなくなったのが便利だったのだけれど。考え事をしていたのも相俟って全く気付かなかった。
いや、これは、違う、誤魔化そうとする言葉がどれも喉に仕えて出て来ない。白の上下のルームウェア姿の月島がふいと視線を逸らした。
「本命」
絞り出した声は震えていて、情けなさに頭痛がする。並んで置かれた勉強机の間にはメッシュタイプのパーテーションが設置されていて、黒い格子越しに月島の横顔を見詰めた。ピクリと反応した太い指先が机の上の教科書を取るのを躊躇う。
「じゃあ、あれは受け取れないですね。すみません、勝手なことして」
「うん」
勝手なことだ。勝手に鯉登宛のものを持ち帰って、それらを頑張って食えだなんて。勝手極まりない。どうしたって、鯉登の本命はこのこころひとつなのに。
しばし手の中のパッケージを見詰めてから、月島へと差し出した。
「……やる」
「いりませんよ」
「いらないとか言うな」
「だってあんたがもらった本命を何で俺が」
つり上がった眉が本気の怒りを湛えていて唇が震えた。どこまでも勝手なやつだ。
「これは私がお前に買ったんだ。勘違いするな」
パッケージを握る手が震えているのにはどうか、気付かれませんように。祈る気持ちで差し出した鯉登の手を恐る恐る見た月島が息を詰める。それからやっと、短くはっと吐き出した。
「どれだけもらおうと、私がやるのはお前だけだ」
「……まるで告白みたいですね」
まるでも何も、告白のつもりだったのだけれど。やはり同性ではそういった対象にはならないということだろうか。悔しさに唇を噛んだ。
「勘違いしますよ、俺」
月島の分厚い左手が赤いパッケージを掴む。その手が微かに震えているような気がして、目だけを持ち上げて様子を伺った。右手で顔を隠しているけれど、隠しきれていない頬や耳や首筋までもが赤く染まっている。鯉登の手がパッケージから離れ、赤いそれが月島の元に届いた。
「……月島」
敬語が苦手な鯉登の言葉遣いを咎めることなく。呼び捨てにしていても叱らない。鬼軍曹と呼ばれているくらいに厳しいくせに、鯉登にはどこか甘い先輩。
熱に浮かされたみたいだ。まっすぐに月島を見詰めて呼び掛けると、そろりと右手が外されて海松色の瞳が鯉登を捉える。
「好いちょ」
短く告げたその一言に何故かバランスを崩した月島がイスごとひっくり返り、それでも鯉登からの赤いハートだけは離さずにいてくれたものだから、満足気にうふふと笑った。