涙の味、掌の温度陛下を傷つけてしまった。
どうしようもない諍いの後はものすごく落ち込んで、一人で寝台に沈んでしまう。やらなくちゃいけないことは山積みで、こんなことしてる場合じゃないってわかってる。けど身体は動かないし、心は沈み切ってどんよりと重たい。いつもならお菓子でも食べて切り替えちゃうけど、今はそんなわけにもいかなかった。
お昼まではすごく平和だった。休憩にでも、って自分用に淹れた紅茶を、陛下にも分けて差し上げた。美味しい、って笑ってくれたのが嬉しくて、自分も笑いながら口をつけた。それはびっくりするほどしょっぱかった。お砂糖と塩を間違えるなんて初歩的なミスは何回もやってるから、すぐにあたしの間違いだって気がついた。でもそれを口にした途端、陛下の顔がさっと青くなった。そこであたしもやっと、陛下はどうして気がつかなかったんだろうと思い至った。
落ち着いて考えてみれば、ヒントなんてたくさんあった。陛下はいつも味の感想を言わない。ドゥドゥーは陛下の好きな食べ物がわからない、ってずっと考え込んでいた。それに陛下は幻聴があって、身体の感覚が時々おかしいのかもと苦笑いしている時があった。それらが一気に線で繋がって、あたしは陛下に聞いてしまった。「もしかして、味がわからないんですか」って。何も言わずに目を伏せたのが答えだった。
「どうして言ってくれなかったんですか?」
批難みたいな言い方になったのをすぐ後悔した。でも出してしまったものはもう、戻らない。陛下はずっと静かなままだった。
「お前たちを不安にさせるだけだろう」
「そ、そうかもしれないですけど……。あたし、沢山陛下に、無理言ってましたよね……。いっぱい味見すればわかるとか、おいしいと思って欲しいとか……」
士官学校で一緒に食事当番だった時のことだ。でも学生の時だけじゃない。戦争中だってこの人は、必要なら厨に立っていたのだから。でも陛下は変わらず、たおやかに返すばかりだ。
「それを嫌だと思ったことは一度もないよ」
「でも、……」
続く気持ちは言葉にならなかった。込み上げてくるものがあるのがおかしくてなんとか堪えた。だって辛かったのはあたしじゃなくて、陛下なのに。あたしが泣いてもどうしようもない。
「あたし、まだ陛下のこと、何にもわかってないんですね……」
はっと陛下が目を開いた。見ていられなくて駆け出した。アネット、と呼ぶ声が聞こえたけれど、止まれなくて部屋に駆け込んだ。こうすれば多分、優しい陛下は無理に入ってはこない。わかっていてやるなんてずるい。ずるくて、無知で、きっと無力だ。咄嗟に陛下のせいだ、と言いたげな言葉になったのも許せなかった。しばらく、何がこんなに悲しいのかもわからないまま、わんわん泣いた。何度も涙を押しつけられたシーツが水気で暗い色になるのを、どうすることもできずに眺めた。
そうしてしばらく泣いた後、二回、優しいノックの音がした。
「……アネット。すまない。入っても良いだろうか」
すごく申し訳なさそうな声だった。多分ダメだって言えば、入らずに大人しく引き返してくれるんだろうなと思った。きっと今はひどい顔で、王妃どころか、ただの妻としても夫に見せていいものじゃない。でも鏡を見る余裕はなかった。よろよろと立ち上がって、扉を開ける。少し項垂れかけた殿下がゆっくりと、しゃくりあげるあたしに促されるまま部屋に入る。
「うう、ごめんなさい、へいか……」
「……お前が謝ることは一つもない。悪いのは俺だ」
「そうじゃ、ないんです、違うんです……」
子どもみたいに落ち着かないあたしを、陛下は黙ったまま待っていた。こういう時、陛下は絶対に触れてこない。傷つけたくないから、と言われたことがあるけれど、今は優しさがちょっとだけ憎い。そうして待ってもらった時間で、少しだけ落ち着いた呼吸で感情を絞り出す。
「……頼りない妻で、ごめんなさい……」
「っ、違う!」
陛下が大きな声をあげるのは珍しくて、びくっと身体が跳ねてしまう。表情の変わりにくい彼の眼差しが、明らかに動揺して揺れていた。
「そんなことは絶対にない。お前がいてくれて、俺が……俺がどれだけ救われたことか……」
「……ディミトリ」
たまにしか使わない名前で呼ぶ。細められたままの瞳がじっとあたしを見つめる。王でも陛下でもない、ただの夫と妻として話がしたかった。それを多分受け止めてくれている。
「そうやって言ってくれるのを、あたしも信じたい。だって貴方は、すごく優しいから。だから、だから……優しさで、隠し事とか、嘘をつかないでください。あたしのためでも、誰かのためでも」
きっとこの言葉は、すごく陛下を傷つける。わかっていたけれど、今言わなきゃいけないことだ。
「陛下の傷を、あたしもちゃんと知りたい。無理して欲しいわけじゃないけど……。でも、重たいものは二人で分け合っていけばいいと思うんです。あたしも今たくさん、そうしてもらっているから」
与えることばっかりで、それ以外がきっと下手な人だ。わかってるし、覚悟の上で結婚したつもりだ。でも、多分あたしの努力だけじゃどうにもならないことだと思う。一人のことじゃない、これは二人のことだから。
「あたしも次言われた時は、もうこんなふうに泣いたりしません。今よりずっと、強くなりますね」
陛下はふと下を向いた。泣きそうなのかもしれなかった。そのまま泣いても良いのにな、と思ったけど、言わなかった。その代わり、ゆっくりと頬を撫でた。初めて触れる皮膚ごしに、頬骨の硬さが伝わった。
「……ありがとう、アネット」
「はい」
何にも言わずに、ただ頬を撫でる。指先にあたたかい雫が落ちても、黙って撫でるのをやめなかった。