アネットに抱きつかれて素数を数える殿下(タイトルメモまま)「きゃあああっ!」
「どうした!敵襲か!」
蹴破る勢いで扉を開くと、どっと何かが飛び込んでくる。アネットだ。理解するより早く構えていた手槍を室外へと放る。敵影はない。侵入された形跡も不審な点もなく、ただ慌てる彼女だけが異常事態を知らせている。
「ど、どうしたんだ」
声が上滑りしそうだった。腹の上の方に柔らかい感触があたっていることから気を逸らした。心音が無闇にうるさい。彼女が落ち着くまでは、と平静を保とうとするが、アネット自身はそれどころではない。
「く、蜘蛛、蜘蛛が……!」
「……蜘蛛?」
「さっき鏡見てたら、背中に、背中にくっついてて……!」
頭越しに覗き込むと、確かに白い布地に虫が張り付くようにしていた。比較的小さな、確か毒のない種類だったと思う。大事ではなかったことに安堵しつつ、手を伸ばす。指を伸ばせば自然とそちらへ移動してきたので、窓の外へと逃してやった。その様を見届けて、ようやくアネットは俺から離れた。
「はあ、よ、よかった……ありがとうございます」
「いや、大したことはしてない」
「そ、そうですよね。こんな時に大騒ぎしちゃって……迷惑かけて、ごめんなさい」
「そう気にするな。大ごとでなくて良かった。刺すような種類ではないから、どこもぶつけていないなら大丈夫だろう」
「はい……」
肩を落とす彼女にかける言葉がそれ以上なく、沈黙が場を支配した。こんな時、シルヴァンならほどよくおどけただろう。イングリットならすぐ切り替えられただろうし、フェリクスは……いや、フェリクスはどうだろう。逆に怒らせて空気を変えてしまえたかもしれない。現実逃避をしていると、アネットがふと顔を上げた。
「あの、何かお礼させてほしいんです。今度作ったら、お菓子を持っていっていいですか?」
「ああいや、本当に大したことじゃない。そこまで気にしなくても……」
「そんなことないです!あたし、いつも殿下にお世話になってばっかりだから。他にできることがあれば、何でも言ってくださいね」
「ああ……」
少し胡乱気な返事になったのに、気づかないでくれただろうか。「なんでも」と男性に言うのはあまり、とたしなめるのも違うかと、逡巡したのが顔に出た気がする。しかしアネットはもう平静の明るさを取り戻して、「じゃあ、材料のついでに買い出しに行ってきますね!」と駆け出して行ってしまう。未だに落ち着かない心音が情けなくて、かぶりを振る。