ほんのりとレトディミかもしれないしそうでもない隣の客が立ち上がる音で、ようやくスクリーンの外側にいる自分に気がついた。エンドロールももう終わり、館内が次第に明るくなり始めていた。あれほど場内を埋めていた観客はもうほとんど、出入り口の通路に詰めかけている。息をゆっくりと、吐いた。カシミヤのニット越しに、建国当時のファーガスの冷気と、民衆の歓声がびりびりと肌に残っていた。ファーガス統一王国史は王国歴500年となった今でも、とりわけ人気のある題材であり、これまでも何度か目にしたことがあった。しかし、今回の作は歴史家が監修に大きく携わったためか、はたまた監督が良かったのか、史実的にも、いち映画としても高く評価されているのだとは聞いていた。けれど、想像以上だった、と思う。少なくとも、もう人気もない映画館で、まだぼんやりと余韻を噛み締めているくらいには。
「大丈夫か?」
振り返ると、席越しにこちらをうかがう男性の姿があった。羞恥から慌てて立ち上がってしまうと、彼はゆるく頬を緩めた。
「あまりに動かないから、寝ているか、倒れてるのかと思った」
「いや……すまない。惚けていただけなんだ」
口をついて出た言葉に、失礼だったかもしれない、とふと思った。男の人相は年若く、自分とそう変わらないように見えたが、一方で随分泰然としていた。10代後半と言われても、30代と言われてもおかしくないような、捉え所のないものを感じる。しかし、感じた印象とは逆に、男はとても気さくに話しかけてくる。
「もし良かったら、少しそこで昼飯でもどうだろう。すぐ外にテラスに面した売店があったと思うから」
「……俺と?」
「ああ」
男に躊躇いはなさそうだった。あるいは、彼にとっては、ふらりと出先で遭遇した人間と食事を共にするのは、それほど不思議なことではないのかもしれない。旧同盟領のデアドラに近いあたりでは、渡航客も多いためか気さくな人間も多いと聞く。
「感想を言える友人とくればよかったな、と思っていたところだったんだ」
何しろ、彼に他意はなさそうだった。奇妙な縁を感じたのもあり、逡巡ののち、「俺でよければ」と相伴に預かることにした。ふと男の雰囲気が柔らかくなり、「ありがとう」と言葉が落ちる。表情はさほど変わらないのに、どこか素直な気質が覗くのが、飾り気のない好感を持たせた。
男の言う通り、売店は映画館のすぐ側にあった。敷地内にやや開けた屋外スペースがあり、人工芝の中パラソルを広げたテラス席が点在している。まだ温かいチーズサンドとテフを置いて待っていると、両手いっぱいに軽食と飲み物を持った彼が歩いてくる。よく見るとビニールの手提げまである。
「随分大食漢なんだな」
「よく、意外だと言われるよ。これでも今日は控えめなほうだけど。君はそれだけ?」
「ああ。足りなければ後でまた」
向かいに腰掛けながら、持っていた包みを彼が広げ出した。ホットドッグやクレープなどの主食類が多く並ぶが、軽めのサラダやポテトまであった。当然のように、彼はプラスチックフォークをひとつ差し出す。
「せっかくだから」
「いや、俺は……」
「食べるのはあまり、好きではない?」
妙な質問だった。今の自分たちの関係でも、並ぶ食事の好みでもなく、そこに注目するのか。しかし向かい合う表情は真剣で、とても冗談などではなさそうだった。やはり少し変わった人なのかもしれない。
「そうじゃない。俺は俺で買ったものがあるし、分けてもらうほど腹が減ってるわけじゃ、」
「これだとか、甘くて美味しいはずだ。食べる?」
言いながら、サラダの端に混ざっていたベリー類らしき小さな果実をフォークで刺す。それをそのまま、俺の口元まで持ってこられるとは思っていなかったが。明らかにおかしな光景だったが、幸か不幸か、辺りの喧騒に紛れこちらを見ている人間はいなさそうだ。意を決して口を開く。ぷちり、と皮が弾けると、口いっぱいに酸味が広がる。
「っ、すっぱいぞ……」
「本当か?」
からかわれたのかと思ったが、すぐに彼も自分の口にベリーを放り込む。きゅっと眉を顰めたのがおかしくて、ふと笑ってしまう。
「……店の人は甘いって言ってたんだ」
「冗談のつもり、だったのかもしれないな」
「そうだな。けど良かった」
何が、と聞けはしなかった。表情の変わらないくせ、どこか嬉しそうな彼の、「これはどうだ」「これも食べるといい」という、猛攻が始まったからである。一度食べてしまった分ほとんどなし崩しで、彼の買ってきた食事は実質二等分されたような有様になっていた。あらかた一度ずつ手をつけて、俺のチーズサンドの半分を頬張りながら彼がふと口を開いた。
「しかし、今回のは本当に良かった。ものすごく忠実に作られていた」
「そうだな……。かなり、細部までこだわっていたのは俺にもわかった。あまり映画で建国史を見たことはないから、主観なんだが」
「映画以外では見たことがあるのか?」
「一応、専攻分野なんだ。今は建国史も含めた、主にファーガス地方の発展と今後の展望についてがテーマなんだが」
とはいえ一学生の身分なので、けして専門家というわけではない。メディア化された建国史関連作品はどこか華美な気がして、今までは殆ど触れていなかったのだが。あまりに評判が良く、研究者からのお墨付きもいくつか散見されたので、ようやっと見にきたのが今日だ。経緯を聞くと、彼は不思議と嬉しそうにしていた。
「そうか。学生なのか、君は。勤勉だな」
「まあ、そもそも好きな分野でもある。趣味みたいなものだ」
「成程。俺はそこまで専門的ではないんだが……昔、教鞭を取っていた時期があって。その時に少し」
懐かしむように目を細めて、彼はホットの紅茶に口をつけた。やっぱり同世代のようには思えない。だが無礼ではないかと尋ねたところ、「何故?そのまま話して欲しい。同じ釜の……袋の飯を食べたのだし」とはにかむばかりだ。普段ならそれでも気後するのだが、彼には何故か、胸襟を開いて話したくなるような気安さを抱いていた。
「歴史を教えていたのか?」
「いや、もっと全般的だった。むしろ最初の頃は人より史実に無知なくらいで……。教師とは言ったが、実際のところは、俺の方が教わるばかりだったな。ただ、それなりにあの時代には詳しくなる機会があった」
紙のカップに浮かぶ紅色の湖面をぼんやりと眺めて、彼は言葉を続けた。昼下がりの穏やかな風が、あたりにそっと吹いている。
「建築物だとか、衣装もそうだし、何よりあの映画の中の人物像が良かったな」
「そうだな……。思ったより人間臭くて、少し驚いたよ。生々しい描写も、重たい場面も多かった」
特にかつての救国王の苦悩や悲劇の場面に力が入っていた。悲哀とその中で紡がれる絆や、立ち直るまでの経緯は、時に遅々としていたが、その分慎重で、現実的なものを感じさせた。俺の感想に彼も深く頷く。
「実際、王自身の過去の敵兵惨殺や、五年の放浪記のことは、後年に本人の書いたものが発見されているしな。あまり取り上げられないから、広くは知られてないらしいが」
「……妙な話だが、俺は、ああいう暗い部分があったからこそ、今回の映画が好きだったのかもしれない」
片眉を上げた仕草で続きを促される。自分でもまだまとまり切らない、スクリーン前での余韻を残す心の中を、ページを繰るように整理する。
「権威と後継の安寧を望むなら、本人があんな放浪記を残す必要はないはずだ。事実、彼以前、あるいは彼以降の権力者は、自らの悪事を隠蔽し、華々しい活躍ばかりを綴らせることが多い。それでもあれを、人の目につくところに残しておいたのは、単なる悔恨ではないんじゃないかと思っていてな」
彼はずっと、ただ静かに耳を傾けてくれていた。同じ研究テーマを持つ友人間でさえ、まともには取り合われない話だ。気づけば滔々と話し続けていた。
「そうした残虐性、悲観的な感情もまた、自らの本質として……受け止めていたのではないか、と思う。理性的で合理的だと言われた他の資料とは、少し矛盾するような考えなんだが」
「人間なんて、矛盾する生き物だろう」
ごくそっけない言葉だった。顔を上げると、彼は何故かまた、あの柔らかい微笑を浮かべている。
「俺は良い説だと思う。研究職になるなら、是非論文でも出すと良い。俺は読むよ」
「……ありがとう」
彼の声色に世辞はない、ような気がした。それに、どういうわけか自分自身の心が僅かに軽くなっているのを感じて、考えずとも礼が口をついた。冷めてしまうぞ、テフを勧められて初めて、自分がかなり熱中して話していたことに気づく。
「研究職とは言ったが、作家でも良さそうだな。歴史小説は人気の分野のようだし、君のなら人気が出そうだ」
「やめてくれ。生憎文芸に向いてる性質じゃないんだ。本当は身体を動かす方が、まだ性に合うくらいで……」
「多才なのか。将来有望だな」
「単に優柔不断なだけだ」
くつくつと、喉の奥で鳴らすような不思議な笑みを溢すと、彼はゆったりと紅茶のカップを傾ける。
「大いに迷うといい。きっと、君なら何でもできる」
今日会ったばかりの人物が言うには、随分確信的な響きを持っていた。それでも、ただ適当に言われだけではないのだろう、と思わせる口ぶりだった。そういえば、教師をやっていたのだと言っていた。その頃の名残りなのだろうかと考えれば、何か先見の明を感じさせる物言いにも納得いくような気がした。
あらかた料理が片付いて、すっかり腹もくちてしまうと、不意に彼は口を開いた。
「今日はありがとう。何だか俺の話ばかりになってしまったな」
「いや。楽しかった、とても」
「良かったら、また」
彼はゆるやかに微笑んでいる。なんとなく、また、なんてものは来ないんじゃないかと感じたが、口に出すほどの根拠はどこにもなかった。彼はふと背広のポケットに手を入れると、何かを机の上に置いた。
「大したものじゃないけど、御礼だ。どうか、息災で」
簡潔なのに、祈るような、どこか厳かな言葉だった。ひらりとあげられた手のひらの下からは、見慣れない銅貨が見えた。しかし脳裏が、不意にどこかの文献で見かけた記憶を蘇らせる。それはファーガスの銅貨だった。今はもう流通していない、救国王の顔が彫られた建国記念硬貨だ。顔を上げると、もうそこに彼はいなかった。立ち上がってあたりを見渡しても、どこにも姿はない。テーブルの上の銅貨を手に取る。少し錆びついた硬貨を裏返すと、かつて救国王を支えたという、当時の大司教の姿が彫られていた。その横顔や眼差しが、彼と不思議と重なって、鈍く日光に照らされていた。