Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    nanndemo_monyo

    @nanndemo_monyo

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 51

    nanndemo_monyo

    ☆quiet follow

    2022年5月発行のディミトリ中心小説アンソロジー「鏡の月」に寄稿させていただいた、ディミトリとペトラの話です。CP色は皆無、蒼月√。再録可能になったそうなので掲載。原文一切修正してないです。
    残部小とのことでBOOTHのURLも載せておきます。
    BOOTH→https://minesreone-aoi.booth.pm/items/3803756

    #ディミトリ
    demetri
    #ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド
    #鏡の月
    #ペトラ
    petra
    #ペトラ=マクネアリー
    petra-mcnairy.
    #FE風花雪月
    feWindAndSnow

    【Web再録】境界線 そこは監獄だった。
     着なれない異国の衣服、見知らぬ風貌の人々、聞いたこともない言葉たち。誰一人、わたしを名前で呼びはしなかった。何を言われているか、何が起きているのかさえわからない中でも、侮蔑の眼差しだけは確かに感じ取れた。満足に眠ることもできず、いやにやわらかな寝台で無為に時を過ごすだけの夜が幾度も繰り返された。
     ある朝だった。わたしはその部屋につけられた、とても小さな窓から外を見つめた。気味の悪いほど明るい日差しが目を焼いた。重い瞼を押し上げると、彼方遠くに、抜けるような青空が広がっていることに気が付いた。息の詰まる狭い部屋の棚に、いっぱいに本が詰まっているのに思い当たった。半身を起こし、立ち上がる。そこには確かに動く四肢と、何かを思う心があった。
     その日から、わたしは諦めることを辞めた。



     真っ直ぐに座る背中に、複雑に編み込まれた赤髪が伸びている。少し前まで黒鷲学級で見られた光景が、今や青獅子学級で当たり前の景色になろうとしている。奇妙な感慨を覚えて、気づけば歩みを止めていた。
    「殿下」
     学内一の巨躯と相反する繊細さを備えた男が、静かに呼びかけてくる。何かあればすぐ自分を案じようとするのが彼の常なので、つとめて明るい声で応えた。
    「いや、何でもない。本当に勤勉だなと思っただけだ」
    「……ペトラですか」
    「ああ」
     名前に反応したのだろうか、不意に彼女はこちらを振り返った。弓術の授業の際先生からも褒められていた、まっすぐな瞳がかち合うと、立ち上がって綺麗な礼をした。異なる大陸出身とはとても思えない、貴族の子息にも勝るほどきちんとしたお辞儀だった。つられて礼を返す間もなく、彼女はすぐに腰かけ直し、再び教本に目を落とす。白い上着の背中に、狼の尾のように赤髪が凛と落ちた。
     彼女を学級に勧誘した先生曰く、希望を出したのはペトラの方だったという。
    『帝国となら卒業後も関わるだろうが、王国や同盟とはきっと、在学中しか関われないからと言われたんだ。剣を学びたいなら俺も指南できるし、転級しても構わないんじゃないかと』
     なるほど彼女らしい、実にもっともな動機だった。級長である以上許可は下りないだろうが、今後の外交面や見識を広める意味でも、俺こそ彼女の姿勢を見習わなければと思う。とはいえ、先生の人柄故か、既に学級内には何人か他学級出身者がいる。結果として級内でさえ異文化交流が叶うのは、贅沢でありがたい話だった。特に、ペトラに至っては他大陸からの留学生だ。フォドラの南端と隣接するブリギットの民は、帝国との国交が改善されたとて、大陸北部に位置するファーガスを訪れることはまずないだろう。
    「……話されるようでしたら、俺は席を外しますが」
    「あのな、ドゥドゥー。何故生徒同士の談話で、級友を疎外しなければならないんだ」
    「込み入った話もあるでしょう」
    「残念だが、まだそこまでの交流を持てていない。勉学の支障になるのも良くないと思うと、どうにもな」
     アッシュなんかは持ち前のおおらかさと優しさで親しくなっているようだが、生憎俺にそこまでの器量の良さはない。何度か声を掛けてこそいるものの、彼女が非常に慇懃無礼であるために、『配慮、感謝します。痛み入る、入ります。ですが、学級の皆、とても優しい、接します。ご心配、いる、要りません』と言われ、会話が終わってしまいがちなのだ。この時ばかりは、自分の融通の利かなさが憎らしい。いつかシルヴァンに『固すぎるんですよ、殿下は。もう少し、なんなら俺くらい緩くないと周りも気を遣うでしょ』と言われたのを思い出す。ああまで緩むのもどうかと思うが。金鹿学級の教室前を通り越し、大広間を横切ると、日中の喧騒に俺たちも紛れていく。フェルディアではあまり味わうことのないこの奇妙な安堵が、俺はわりあいに好きだった。
    「お前こそどうなんだ、ドゥドゥー。彼女は異国からの生徒に興味があると聞いたが」
     あくまで先生からの伝聞であるが、彼女にとっての異国たるフォドラ、あるいはファーガスの出身者だけでなく、騎士団のシャミアさん、ツィリルにも声を掛けているという。ひと目でフォドラの人間ではないとわかる――それが奇異の視線を集めてしまう現状は嘆かわしいが――ドゥドゥーも例外ではないだろう。
    「少し言葉を交わした程度ですが。何故そんなに流暢に喋るのかと尋ねられました」
    「ああ。お前は本当に習得が早かったものな」
    「いえ。殿下のご教導によるものだと、彼女にも話しています」
    「お前な……。己の努力を棚に上げるのはどうかと思うぞ」
     実際、あの悲劇の後のドゥドゥーの尽力は、血の滲む、と形容して差し支えないものだった。俺とて彼の母国を侵略したファーガス、ひいてはフォドラの言語を教えるのに、当初は躊躇もあった。一先ず日常生活に支障がないようにとは思いつつも、何度となく辛くはないか、決して無理はするなと尋ねたものだ。しかしドゥドゥーは絶対に諦めなかった。俺が訓練で傍にいられない時など、空いた時間は全て勉学に充てていた。だからこそ、彼はこうして士官学校への入学も叶ったというのに、本人はどうにも謙虚過ぎる節がある。
    「事実ですので」
    「全く……。しかし、もし彼女から請われることがあれば、是非お前も教授しに行ってくれ。俺のことは放っておいても構わない」
    「そういうわけには」
    「本当に頑固だな、お前は」
     おまけに非常に過保護だ。やや皮肉なことではあるが、ここはフェルディアのように叔父上の影響力が強くはない。騎士団も常駐しているし、俺も人並み程度には鍛えている。もう子どもでもないのに、そう付いて回る必要はないと言って聞かせているのだが、一向に頷く様子はない。騎士の間へ足を踏み入れると、竪琴の節の柔らかな風が吹き込んでくる。訓練にはちょうど良い、からりと晴れた心地よい日だと思った。



     連日降り続く雨のせいで、暗雲が空を覆い隠しているのが遠くに映った。中庭と玄関ホールの間へと吹き込む風の冷たさに、思わず身震いしてしまう。もうフォドラで過ごす冬は片手の指の数を超えてしまったが、今年はとりわけ厳しい気候に感じた。それは恐らく、単なる雨だけのせいではないだろうけれど。院内には未だ緊張と悲壮感が漂い、互いの間で疑心を芽吹かせている。アドラステア帝国との戦役の際、父が亡くなった頃の故郷のことを思い出し、ペトラの中に塞いだ気持ちが蘇った。偉大なる指導者の死とは、現実的な職務上の影響よりずっと大きな心の喪失をもたらす。それもかつて近しかった者であればあるほど、より深く、強く感情を揺さぶられるのだ。目当ての人影が見渡す限りに居ないことを確認して、ペトラは学生寮の方向へと足を運ぶ。すると、ちょうど彼の自室の方から歩く、黒衣の輪郭を遠目に見つけて駆け寄った。
    「先生」
    「ペトラ」
     外套で頭を覆う様に、ペトラはようやく安堵を覚えた。正常な判断が働くくらいまで回復している証拠だ。父を亡くしたばかりの彼は、滂沱のように涙を流すばかりで、他のことなど何も手につかないほどだった。今は以前ほどとは行かなくても、その目に光が宿っている。
    「ここでは濡れるだろう。寮の軒下に」
    「はい。身体、悪寒、良くありません。無礼、働く、申し訳ない、です」
    「大丈夫だ。俺の方こそ、心配をかけてすまない」
    「いいえ。喪失、皆、理解します。今、安息、肝要です」
    「……学級の皆にも言われた。本当に、君たちは優しいな」
    「はい」
     この数日より以前、転級した頃から感じたことだったが、ファーガス神聖王国出身の生徒は、皆他者の痛みに敏感だった。ここの共感と協調の姿勢はブリギットの民の結束とも、帝国の自立の精神とも異なる。ペトラ自身に馴染みこそないけれど、今の先生には必要なものだ。
    「もう、覚悟は決まった。大丈夫だ」
     その時ペトラの背筋に僅かな震えが走った。どこか遠くで、雷鳴の唸る音がする。はっと目を合わせようとしたが、先生は大聖堂の方を向いており、視線は合わなかった。
    「先生。ひとつ、言葉、あります。わたし、かつて思う、したことです」
     ようやっと、深い海を湛えた瞳がのぞき込めた。瑠璃色は陽光の差さないここでは、水面の奥深く、地の底にほど近いような暗さをも抱えている。かつてブリギットでよく感じた、海へ潜った時の光景を思い返す。
    「心、思う、複雑です。悲しみ、憎しみある、当然です。けれど、先生、それだけ、ありえません」
     切れ長の瞳が僅かに丸くなって、続きを促した。この人の、戦場での迷いのない剣と指揮とを信頼している。けれど、茶会でたどたどしく言葉を繋げる自分を待つ様、見守る眼差しも同時に、ペトラに大きな影響を与えていた。ただ意志と武芸が強いだけの人であれば、ここまで師事することはなかっただろう。
    「わたし、先生、敵、討つ、協力、惜しむ、惜しみません。全力、出す、します。必ず、終わる、させます。迅速果断、です」
     意志がどこまで伝わったのかはわからない。けれど、この人が自分の拙い言葉から、いつもまっすぐに真意を探ってくれることをペトラは知っていた。だから、今もただ、心得たと静かに頷いてくれたのを信じた。
    「ありがとう。絶対に、この手で蹴りをつける」
    「はい」
     雨はやがて弱くなり、今は柔らかく地を濡らすばかりだ。ふと何気なく、視線を足元へやる。跳ねた泥に塗れながら咲く一輪の花に、ベレトはようやく気が付いた。
    (……ディミトリの復讐にも、終わりはあるのだろうか)
     そうであったらいい、と不意に思った。他者を慮り、誰より痛みをわかろうとしている青年だからこそ、目的の成就と安息の日が早く訪れたらいいなと思う。それまで彼を見守ることができれば、何よりなのだが。
     まだ分厚い雲の合間から、切れ切れの陽光が差し込んでいる。遠くの山々を照らす陽が、良い事の兆しであればいい、と、素朴な祈りに似た何かを思った。



     常ならば穏やかな気配を保つ大聖堂にも、今や不穏な喧騒が滲んでいるのを、ペトラは確かに感じ取っていた。祈る、という行為そのものに、ペトラはあまり馴染みがない。女神という一つの存在が世界の全てを司っているという考え方も、正直理解の及ばない事だった。けれど、それが人々の拠り所となり、生きる支えになっているというのは事実だ。それゆえ中に入ることはせずとも、時折鍛錬の合間に遠くから、大聖堂で祈る人々の背中や、大橋を通り救いを求める人々の横顔を見ることはあった。今節は特に礼拝者が通い詰め、代わりに内部で責務を果たす修道士の多くが出払っているようだった。無理もなかった。アドラステア帝国が宣戦布告をしたのは、他でもない、セイロス教団そのものに対してだったからだ。当然、士官学校の生徒も無関係とはいかない。特にこれまで何度となく皇女殿下(今や皇帝陛下、なのだが)、闇に蠢く者達との邂逅を遂げてきた先生と、青獅子の生徒は縁も深く、動揺を見せる者も多かった。そして、これまでに見たことのない、深い憎悪を露にした者も。
    (……復讐のため……)
     学級の生徒の話からすれば、ディミトリ殿下が豹変したのは、同胞の敵討ちを志したためなのだと言う。しかし、王国臣下の家系の者が多く、共感に長けた彼らでさえ、何故ああまで変わってしまったのかは測りかねるようだった。実際、彼とは深く関与したことのないペトラも衝撃を受けた。話したことさえ両の手指で足りるほどの数しかしていないが、彼は常にペトラのことを学級の一人の生徒として分け隔てなく扱い、声を掛けてくれた。生真面目に過ぎるきらいはあれど、たゆまぬ慈愛があり、民を思う仁君となる人だろうと思っていた。それ以上のことは何一つ知らなかった。
    「……ファーガスの王子殿下は、一体どうされたのかしら」
     大聖堂から大橋へと向かう下働きの女たちが話している。静謐な堂内を抜けた直後だからか、やや遠くからでも彼女たちの声が、欄干から空を眺めていたペトラの耳にも入った。
    「元々よく祈りに来ていたけど……」
    「あれは、お祈りなんかじゃないわよねえ」
    「私、近くを通った時聞こえちゃったのよ。近くを通る時に、ずうっと小さく、何かを呟いてらっしゃって……」
     まあ、などと零したのを最後に、彼女たちの声は掻き消えていった。どうしたって目立つ風貌の男が一人、大広間から歩いてきたためだった。足音に目を向けるペトラと目が合うと、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。遠目に気まずそうな侍女たちが去っていく背中が映った。
    「殿下を知らないか」
     大柄な体躯がペトラの顔に影を傾ける。急いでいたのか、ドゥドゥーは常より少しばかり呼吸が浅い。
    「私、ディミトリ様、会う、会いません。しかし、話聞く、聞きました。大聖堂、一人、今、見たと」
    「感謝する」
    「いいえ」
     短く言葉を交わしたきり、彼は足早に歩いていった。その背を視野に入れながら、ここ数日で級内の生徒と交わした言葉を思い出す。元々青獅子の生徒だった者も含め、皆が様々な思案を織り交ぜながらも、『殿下のことがわからない』と言った。その上、彼が何故かはわからないが、故意に一人でいられる場所と時を探しているようだった。西の空を見ると、遠くに渡り鳥が飛び去って行くのが映った。
    (……そういえば)
     ペトラはふと気が付いた。彼が王国の話を誰かとしているとき、先行きを語ることがあっただろうか、と。鳥たちは雲の合間に身を隠し、行く方角さえここからは定かでない。不意に振り返ると、先ほど橋から見送ったドゥドゥーの背中は、もうとっくに見えなくなっていた。



     そこは牢獄だった。
    薄暗い室内は底冷えして、石畳と触れあっている膝頭が酷く痛んだ。足元だけではない。鞭を打たれ続けた胴の皮膚が、鎖を外そうともがき血の滲んだ手足首も、深く抉られた目元も疼痛を訴えていた。情けないことだった。たかがこれしきのことで、弱く、愚かな心は揺らぎ、時に意識が薄れかけた。
    (忘れてはならない、)
    拘束のせいで微塵も動けず、床石の継ぎ目を食い入るように見つめ、怨嗟の声に耳を傾ける。全ての痛みは俺のものでありながら、それだけに留まらなかった。『自分は身を焼かれた』『私は胸を貫かれた』と嘆く、悲痛な訴えから逃げてはいけない。こんなものは、彼らの受けた苦しみのほんの一部でしかない。今や生を持たず苦しみを晴らすことさえできない彼らより、生きながらえた自分の方が苦しいなどあり得るわけがなかった。
    「必ず、かならず……」
     脳裏に映る女の顔を何度も、何度も反芻する。あれを殺さなければ。同胞の痛みを、苦しみを、己の責務を果たさなければならない。ただ誰かが他者を虐げ、無残に命を散らすのを見過ごすわけにはいかなかった。
     あの日から、俺に逃げることなど許されないのだ。



     風切り音が短く鳴ると、遠くで何かが落ちる音が聞こえた。故郷から持ち込んだ、小さな緑柱石の耳飾りが揺れる。念のため気配を殺しながら近づくと、矢の刺さったキジが一羽地に伏せていた。
    「……肉付き、大きさ、悪い、ありません」
     小さく呟くと、ペトラはすぐさま矢を抜き血肉を拭った。物資が貴重な今、資源は有効に使いまわさなければならない。崩落しかかっていたガルグ=マクに身を寄せる人々の数は、節を追うごとに増えてきているらしかった。帝国領内で行き場を失った修道士や、戦争で身寄りを亡くした者達も、教団を頼りにやってくる。働き手や仲間が増えたとて、食糧の供給さえギリギリなのが現状だ。幸いにして、修道院を取り囲む山や森は資源が潤沢で、食べられる生き物、魚、野草の類には恵まれている。元々得意としていたこともあり、今は率先して、戦以外の場では狩りに出ていた。未だにフォドラの言葉が不得手であり、もとは帝国領で生活していたペトラを、当初は蔑み厭うような動きもあった。けれど、メルセデスを始めとして帝国の出身者が将として活躍していること、そして何より、今の教団の実質的なトップである先生が彼らを受け入れると表明したことにより、表面上の不穏さは徐々に薄れていった。だからこそ、ペトラは今、為すべきを為す必要があった。
     思慮する最中、不意に気配を感じる。振り返ると、槍を携えた大柄な人影がそこに在った。外套の上から毛皮を身に纏い、伸びきった髪の合間から睨むように見据える様は、何度見ても過去の彼とは一致し難い。
    「……ディミトリ、殿下」
    「何をしている」
     彼はペトラの姿を視界に捉えながらも、槍を手放さずに尋ねかけた。地を這うような声色が自分に向いたのは、この戦争が始まって以来初めてのことだった。視線が手元の弓に向いていると理解して、つとめて冷静に言葉を選ぶ。
    「狩り、する、していました。皆、食糧、足りません。人、今多く、ありますので」
     仕留めたばかりのキジを眼前に出すと、彼が小さく鼻を鳴らした気配があった。警戒されている。無理もない。彼が深く帝国を憎み、兵がいようものなら虐殺して回っているのは、修道院にいる皆の知るところだった。
    「……はっ、呑気なものだな。このあたりにも、修道院内にも……内通者はいくらでもいる。諸共に屠られたくなければ、さっさと戻れ」
     しばし向かいあったのち踵を返すと、彼は殺気を隠さないまま立ち去ろうとした。猪。戦友であり、かつての旧知だった男は彼をそう呼ぶ。猪は力強く、獰猛で、尚且つとても賢い生き物だ。狩りの折、熟達した成人男性でも死に到る大怪我を負ったこともある。戦地にて敵兵を凪ぎ祓う姿は、確かに獣の荒々しさを連想させる。けれど同時にあれほど周囲を拒絶しながらも、けして味方の兵は巻き込まないとも評されていた。事実、むしろディミトリのいる戦地では、彼の進軍によって命拾いしたと零す兵も多い。思案の最中、額に一筋、汗が落ちた。深く呼吸をし、緊張は解かないままに唇を開く。
    「……貴方、何故、孤独、なりますか」
     去りかけていた背がぴたりと立ち止まった。首だけでこちらを窺う眼光は鋭い。
    「何が言いたい」
    「一人、人、強くする、しません。わたし、知る、しています。意志、強固、人といる、生きる、関係ある、ありません」
     届いていないとはわかっていた。言葉はそうたやすいものではない。自分のように言語が得手かどうかに関わらず、人と人との間で、何もかもが通じることはきっとない。けれど、伝えることそのものを諦めたくはなかった。きっといつか、気づく日が来る。少なくとも過去のペトラのように、彼は本当に孤独なわけではなく、その手を取ろうとする人たちが確かにいるのだから。
    「……くだらん」
     吐き捨てるような言葉だけを残して、彼は遠ざかって行った。不思議と強張っていた身体から力が抜ける。長閑な鳥の鳴き声がして、ペトラは空を見上げた。故郷の青さには程遠く、いくら高きに上れども、たやすく近づくことはできそうにない。けれど、見上げることをやめるつもりはさらさらなかった。



     割れんばかりの歓声が上がった。ファーガス城下は民衆で埋め尽くされ、誰もの顔に陽が差して、雪国特有の白い肌を染めている。長い苦難からの解放と未来への希望で、人々は久方ぶりに生気を取り戻したのだ。それは彼らに見上げられた、一人の若き王にも言えた。動揺に覆われていたひとつきりの瞳が次第に滲み、熱い雫が頬の上を滑り落ちる。
     かつて長きに渡って、復讐のみを生きがいとした獣の面差しはどこにもなかった。
     その光景を、王国軍の若者たちは皆、思い思いに見つめていた。主君と同じように涙ぐむ者もいれば、安堵の笑みを零す者もいた。希望に胸を逸らせるものも、ここからだと決意を新たにする者もいた。
     そして、もう一人の王として、一人の王の背中を眺める瞳があった。



     長い夏が終わりを迎えると、にわかにフォドラには秋風が吹き始めた。大戦によるフォドラ全土の死者数は計り知れず、修道院には遠方からも礼拝が相次いだ。戦前のような賑わいを取り戻しつつある寮の一室にて、静かに荷造りをする影があった。戦中はかつての生徒がそのまま用いていた個人の私室も、新たに割り振り直す運びとなったからだ。修道院にそのまま籍を置くと決めているものは多くなく、ほとんどが故郷やかつての自領へと戻ることとなった。ペトラもまた例外ではなく、ようやくブリギットに、本当の意味で帰郷しようとしていた。士官学校卒業間際に一度帰国した際は、あくまで祖父に現況を報告するのが目的だった。孫の決意が固いと知った祖父が、叱咤激励の後送り出してくれたことを思い出す。追憶に耽るペトラの耳に、小さくノックの音が響いた。
    「はい」
    「ペトラ。忙しないところすまない」
     落ち着いた青年の声に驚きながら戸を開く。そこには、今修道院にて、下手をすればフォドラ全土で最も忙しいであろう、ディミトリ殿下その人がいた。どうやら供などもつけていないらしい。開けるなりフォドラ式の精緻な礼をしたペトラに、彼は恐縮さえしたようだった。
    「いや、そう構えなくていい。出立が近いと聞いたから、挨拶しておきたくて」
    「訪問、送別、感謝します。明後日、修道院、出る、します。明日、皆に最後、告げる、する予定、あります」
    「そうか。なら余計に邪魔をしてしまったな……」
    「邪魔、ある、ありません。丁重、礼節、感謝します」
     戦中や戦場にあってでさえ、ついぞ言葉を交わした機会はほとんどないまま、今日までを過ごしてきていた。グロンダーズの会戦の後に一度、カスパルらにそうしたように謝罪はされている。だが、個人的なわだかまりなどが特になかったペトラは、あっさりと許容するのみで終わっていたのだ。いつか木々の間で見かけた、剣呑な視線の鋭さはなりを潜め、今は穏やかに薄くはにかむばかりだ。
    「礼が言いたかった。ここまで共に戦ってくれたことに対しての。勿論、お前にとって祖国の為の行動だったとは承知しているが」
     ディミトリの言は事実だった。ペトラがここで剣を取ることを選んだのは、あくまでブリギットの未来のためだ。王国につくと決めたのも、どちらかと言えばディミトリよりも先生を信頼したから、という部分が大きい。
    「はい。けれど、わたし、貴方、フォドラ、多く見る、見ました。後、経験、生きる、思います」
     何しろ今後、隣国として外交を為していく直接の相手となるのだ。それらはペトラ自身の戦争での功績以上に生きていく糧となるだろう、と思っていた。しかし、ディミトリの方は違うことを考えていたようだった。どこか感嘆するように、ほうと息をついたのがわかった。
    「お前は強いな」
     武人が兵の剣筋に感嘆するような、純粋な響きがそこにあった。ディミトリはやや重くなった口を開いた。
    「お前に、いつか言われたことの意味が、あの時はわからなかったんだが」
    「いつか、いつ、ですか?」
    「会戦の前だ。孤独になるな、と言っただろう。覚えていないかもしれないが……」
    「いえ……。覚える、しています。記憶、明瞭、確かです」
     まさかディミトリの方から口にされるとは思っていなかっただけだ。開け放しの扉越し、ディミトリは真っ直ぐペトラを見つめながら言葉を紡ぐ。
    「今になって、見抜かれていたんじゃないか、と思ったんだ。俺が自分の弱さ故に、己の責務を忘れかねないと思っていたことを」
     秋風がさやかに金糸を揺らしている。瞬きをする間に、彼の思慮は過去の己に向いていた。
    「……お前がフォドラの王筋であったら、きっとここまでの戦いは、全く違うものになっていただろうな」
     ともすれば、他国の王となる人間に話すには危ういほどの、ひどく柔らかな響きがあった。ペトラもまた、やや間を置いて、常より慎重に口を開く。
    「信頼、評価、感謝します。ですが……わたし、貴方、わかりません」
    「そうか……」
     ペトラの言葉は至極簡素だった。時折フォドラ出身者でも使わないような、古風な言い回しをすることはあったが、元々性根がまっすぐなのだろう。不必要に自分を飾らず、相手を慮りすぎない言葉はどこか心地が良いとディミトリは感じていた。困惑を隠さなかった響きから一転して、ペトラははっきりと言葉を紡いだ。
    「けれど、問題ある、ありません。民、先生、戦友、選ぶ、選びました。貴方を」
     すっと胸を貫かれたような衝撃があった。あまりに贅沢な、幸福すぎる話だった。国と民とを見捨てようとし、我がままと罪に散々他者を、皆をつき合わせた。にも関わらず、俺はこうして、ここにいる。じきに戴冠し、王として彼らを統べることとなる。未だに認めがたい、どこかもどかしささえ心に残る。しかし、ここで語るべきことではなかった。籠手を身に着けたままの拳を握ると、鉄と革の硬質な音が響いた。
    「……お前ともっと話ができていたら、と今更ながらに思うよ」
    「光栄、恐縮、至極です。けれど、機会ある、あります」
     彼女はこれまであまり見なかった笑みを覗かせた。生真面目な武人としての姿ではなく、どこか勝気に笑う様は、初めて彼女を年相応に思わせた。
    「わたし、ブリギット、フォドラ、友好、望みます。貴方、望み、あるならば、必ず、また会う、会います。会いに来ます」
    「……ああ。その時を楽しみにしている」
     きっと次に会う時は、こうして忌憚なく話せるわけではないだろう、とはわかっていた。それでも、前途は過去よりずっと開けている。責務でも悲願でもない未来が、若き彼らの先行きに続いていると、互いに信じることができていた。秋の空は澄んで、遠く高く晴れ渡っている。夏の間に遥か大陸を渡った鳥たちは、今ようやく、命の芽吹き始めた大地へと降り立っていた。



     ――ブリギット国王とフォドラ初代統一王との間に、交流があったという記録は残っていない。ブリギットの女王が若年の頃フォドラに滞在し、大陸全土の戦争に自らも身を投じたことだけは伝えられているが、詳細は不明である。しかし、統一王ディミトリがブリギットの独立に大いに賛同し、長年の両国の友好関係に寄与したことから、私的に言葉を交わす機会はあったのではないか、と後世の学者の間で言われているという。


    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works