メルヒェン・ドリーム・グッドバイ「……何だよ、ここ」
ホイップクリームの上にカラースプレーをトッピングしたような装飾のメリーゴーラウンド。ピンク色の葉っぱが生えている木々が植えられた植え込み。突然広がった非現実的な景色に、ギアッチョは困惑していた。
遠くにはジェットコースターや観覧車なども見える。上空を見上げると薄いピンク色の空が広がっていた。全体的に白い霧のようなモヤが掛かっており、あまり視界は良好ではない。深く考えずともここが遊園地であることは分かったが、ギアッチョはいつもの仕事が終わってアジトに帰り、仮眠室で昼寝をしていたはずであったのだ。
……非現実な光景と先程までの行動を照らし合わせると、つまりこれは夢である。夢だと言うことが分かれば何が起こってもおかしくはないか、と自分に言い聞かせる。改めて周囲を見渡したが、自分以外にこの不思議な遊園地に客はいないようだった。遊園地などというものには昔から縁がなかったが、それでもこのだだっ広い空間で大きい機械だけが延々と動いている中、誰も居ないというのは随分と不気味なものがあるなと思う。
夢だと自覚して見る夢のことを明晰夢と言うが、明晰夢であればある程度夢の内容をコントロール出来るはずだ。このふざけた景色から日常的な景色に変えられないものかと思ったが、どうやっても景色が変わる事はなかった。ギアッチョは舌打ちをして、仕方なく遊園地の中を散策する事にした。
数分ほど歩いた所に遊園地全体の案内板を見つける。この近くにあるメリーゴーラウンドやコーヒーカップ、遠くに見えたジェットコースターや観覧車の他に、お化け屋敷などさまざまなアトラクションが設置されており、更に進んだ所には大きな城も建てられているらしい。どれも別に興味惹かれるものは無い。出口を見つけてさっさと帰ろうと思った時、近くのベンチに誰かが腰かけていることに気づいた。
アッシュピンク色の髪と、エメラルドの双眸にはとても見覚えがある。ただギアッチョの記憶の中の『彼』よりも目の前の人物はとても幼くて、四歳か五歳くらいに見える。ピンク色のブラウスに黒いリボンを結び、白いフリルの着いた膝丈の黒いスカートを穿いている。白いタイツと赤い靴に包まれた細い足をパタパタとさせながら、手に持った三段アイスを食べようと口を開けたところだった。ギアッチョの視線に気付いた子どもがこちらを見て、こてんと首を傾げる。
「おにーちゃん、まいご?」
「はァ?」
どちらかと言えば親も付き添わずにこんなところで一人でいるお前の方が迷子だろうと思ったが、子ども相手にムキになっても仕方ない。
「……オメー、名前は?」
「んー?えっとね、めろーね!」
子ども……改め『メローネ』の名前を聞いて、ギアッチョは記憶の中から構築された架空の人物が夢の中に出て来たのだと考えた。
「おにーちゃんの、おなまえは?」
「ギアッチョだ」
「ぎあちょ!」
「……ギアッチョ、だ」
「ぎあちょー!」
舌足らずに名前を呼んできゃっきゃとはしゃぐメローネを見て、ギアッチョは訂正するのを諦めてため息を吐く。子どもの相手などした事がないから分からない。
「あっ」
メローネが短く声を上げる。はしゃいだことで三段に積まれたアイスがぐらりと傾き、地面へと落ちてしまった。何味を積んでいたのかは分からないが、白色とピンク色と薄い緑色の半固形が地面で混ざり合っている。メローネはそれを見て泣くでも怒るでもなく、「あーあ」と言いながら無表情でそれを見つめていた。
「……あたらしいの、もらってこよ!」
しばらく地面に落ちたアイスを眺めていたが、パッと表情を明るくしてベンチから飛び下りる。
「ぎあちょも、いっしょ!」
「……」
小さい手がこちらへと差し出される。この広い空間にこんなに小さい子ども一人放り出しておくのは危険だし、特に行きたいような場所も思いつかないギアッチョは、とりあえずメローネの行きたい所に着いて行こうとその手を握り返した。
……のだが、並んで歩くと全く歩幅が合わず、メローネが早足になってすぐ疲れてしまう。
「ぎあちょ、足はやい……」
「ンな事言われてもよ……」
かと言って歩幅をメローネに合わせるのも面倒だったので、仕方なくギアッチョはメローネの前にしゃがみ、手を広げた。
「ほら、抱っこしてやるよ。これなら疲れねーだろ」
「ぎあちょ、だっこしてくれる!?やった!」
メローネがギアッチョの広げた手の中に笑顔で走って飛び込んで来て、すっぽりと収まる。そのまま抱え上げ、目的のアイスクリーム屋まで向かうことにした。
新しいアイスを貰ってご機嫌なメローネに「今度は落とすんじゃあねーぞ」と忠告する。
アイスクリーム屋の店員は透明のマネキンに服を着せているようなものが動いていて、話しかけても不鮮明なノイズが返ってくるだけだった。それでもこちらの言語は理解しているようなので、メローネの欲しいアイスは難なく注文が出来た。
「なあ、オメーどっから来たんだ?」
夢の中の人間に変なことを聞いてしまったな、と言った後で思う。美味しそうにアイスを食べていたメローネが、キラキラしたエメラルド色の瞳をぱちぱちと瞬かせて首を傾げた。
「めろーねは、ずっとここにいるよ」
「家族とか……親はどっかに居ねーのかよ」
「んーん」
アイススプーンを咥えて首を横に振る。
「……ずっと、ここに一人で居んのか?」
「うん」
いくら夢の中の登場人物とは言え、知り合いに似たこんなに小さい子どもがこの広い空間にずっと一人で居ると言うのは少し複雑な気持ちになる。
「ぎあちょ、どっかいたい?」
「あ?」
「おかお、いたそう」
メローネが心配そうにギアッチョの顔を覗き込んでくる。複雑な心境が顔に出ていたのだろう。「何でもねーよ」と言って顔を背けたが、それでも尚メローネはギアッチョのことを気遣ってくる。
「ぎあちょ!しゃがんで!」
服の裾を引っ張りながらそう強請られるので、ため息を吐いて仕方なくメローネの言う通りにすると、メローネの小さい手がギアッチョの頭に置かれた。
「いたいのいたいの、とんでけー」
「……別にどこも痛くねーよ」
「そーなの?ぎあちょ、つよーい!」
「まあ、オレが強いってのは間違ってねーな」
メローネが無邪気にケラケラと笑うと、ギアッチョもつられてフッと笑ってしまう。
「もうすぐアイス食い終わるだろ。次はどこ行くんだ?」
「んーっとね、あれ!」
メローネが指差したのはここからそう遠くない場所にあるコーヒーカップだった。真ん中にプリンの乗ったタワーが建っており、パステルカラーで彩られたそれはやはり無人で回転している。
再びメローネを抱き上げてコーヒーカップ乗り場へと向かうと、こちらでも透明のマネキンが従業員を勤めていた。二人で乗ることを告げると、恐らく好きな場所に座っていいというようなジェスチャーを返された。はしゃいだメローネが外側に位置したカップを選んだので、そこに座ることにした。
「ぐるぐる!ぐるぐるーってして!」
中央のハンドルを握りながらメローネがそう言って回そうとするが、まだ稼働前なのでハンドルは固定されている。
「んーっ」
それでも何とかハンドルを動かそうと躍起になるメローネが面白くて何も口を出さずにいると、「ぎあちょもてつだって!」と怒られてしまった。
ギアッチョがハンドルに手をかけた瞬間、開始のブザーが響き渡ってコーヒーカップが動き出す。もちろん、そのタイミングでハンドルの固定も解けた。
「わーっ!ぎあちょ、すごーい!」
まるでギアッチョがハンドルを動かしたように見えたメローネは、目を輝かせながらパチパチと拍手した。
メローネのことを考えてゆっくりとハンドルを回していたが、それだと物足りないようで、メローネもハンドルに手を添えてきた。
「もっとぐるぐるーってする!」
「おいおい、あんまり回しすぎるとぶっ飛んじまうぜ」
「いーの!ぐるぐるして!」
一度言い出すと聞きそうにない辺りは本物とそっくりだな、と思いながら、二人で最大まで回るようにハンドルを回した。ギアッチョの力ですぐに加速したカップは、もう景色なんて見えないくらいの速さで回転する。遠心力でどうにかなっていないかと心配してメローネの方を見たが、両手を上げて全力で楽しんでいたので杞憂だったようだ。
しばらく全速力で回転していたカップは、終了のブザーが鳴ってから段々と速度が落ちていく。
「たのしかったー!……わっ、わ」
ものすごい勢いで回っていた乗り物から降りたメローネは重心を失ってフラフラとしている。今にも転んでしまいそうで、ギアッチョも急いで降りてその身体を抱き上げた。
「ったく、危ねーな……」
とは言えギアッチョも平衡感覚をすぐに取り戻せる状態ではなさそうだったので、ゆっくりと歩きながら退場口へと向かい、少しだけベンチで休むことにした。
空を見上げると先程は薄いピンク色だったものが、少し濃いピンク色になって来たような気がする。夢の中とは言えしっかりと時間が経過しているようだった。
「ぎあちょ!つぎ、あれがいい」
そう言ってメローネが指差したのは、少し遠くに見える観覧車だった。平衡感覚が大分戻ってきたギアッチョは、再びメローネを抱きかかえて観覧車の方向へと歩き出す。道中、ギアッチョの髪の毛を弄って遊んでいたメローネが口を開いた。
「ぎあちょは、のりたいものないの?」
「……特にねーな」
「なんで?ゆうえんちきらい?」
「別に来たくて来た訳でもねーしな……」
昼寝をしていたらこの夢の中に放り込まれただけで、遊園地に来たいなどと思っていた訳ではない。だが、その答えを聞いてメローネはしょんぼりとしてしまった。
「めろーねといっしょにいるの、たのしくない?」
「何でそうなるんだよ」
「めろーねは、ぎあちょといっしょで、たのしい……けど、ぎあちょがたのしくないの、やだ……」
メローネの声が段々と小さくなっていき、泣きそうになっているのに気づいたギアッチョは、その小さな頭をポンポンとあやすように撫でた。
「楽しくねーなんて一言も言ってねーだろ」
「じゃあ、たのしい?」
「そうだな、仕事してる時よりは全然マシだわ」
楽しくないとも楽しいとも言っていないが、純粋無垢な子どもはそれを素直に『楽しい』という答えだと受け取り、すぐに機嫌が戻る。笑顔を取り戻したメローネがギアッチョの頭にしがみつき「前が見えねーんだよ」と引き剥がされる頃には、観覧車まであと数歩のところまで来ていた。
抱きかかえていたメローネを下ろすと、元気よくチケット売り場まで走っていく。精一杯ジャンプして二人で乗ることを従業員に伝えているようだった。ギアッチョも後から歩いてついていくと、改札が開いて回って来たゴンドラへと通される。二人で乗り込むと扉が閉められ、ゆっくりと浮上していく。
「みてみて!おそら、たかいたかーい!」
「あんまはしゃぐなよ。揺れると落っこちるぞ」
窓の外を見てキャッキャッとはしゃぐメローネにそう注意するが、あまり聞いていないようである。ギアッチョも窓の外を眺めると、膨大な敷地内に巨大なからくりが点在している遊園地の全体像が一目で見えるようになっていた。更に遠くへと目を凝らしたが、とても濃い霧に視界を阻まれていてどうなっているのか全く分からない。まるでこの遊園地だけが切り取られた世界のようだった……否、夢の中だから実際そうなのであろう。
「ねーねー、ぎあちょ」
「何だよ」
「おそら、ちかいねぇ!」
「……そうだな」
ゴンドラがちょうど頂点近くまで回って来ている頃だった。メローネの声にギアッチョも何気なく答える。
「このまま、てんごくまでいけるかなぁ」
「オメーは……笑顔で物騒なこと言うんじゃあねぇよ……地上に戻ったらまた違う乗り物に乗るんだろ」
「そっかあ。でも、いってみたいなあ、てんごく」
「……天国は死んだ奴が行くもんだぜ」
何も罪を犯していない、このメローネであれば天国に行けるのであろうが、本物のメローネならば到底行けるはずもないし、『あの世』という物を信じているかも分からない。そんなギャップがおかしくて、つい口元が緩んでしまう。
「あ!ぎあちょ、わらってる!」
メローネに指をさされて「っるせーな」と返し、照れ隠しにその柔らかい頬を軽く摘む。予想以上に柔らかくてマシュマロのようで驚いていると、メローネもギアッチョの頬を抓り返して来た。そうやって戯れ合っていると、地上が近くなってくる。
ゴンドラを降りると、今度はメローネの視線が向かいにあるジェットコースターへと向いていた。近くにあるため、手を繋いで歩幅を合わせて乗り場へと向かったが。
「あー……ダメだな。身長制限がある」
乗り場の手前にある身長制限の目盛りが十センチほどメローネより高く、従業員にも手で阻まれてしまう。
「や!じぇすとこったー、のるの!」
「ジェットコースターな」
「じぇすとこったー!」
一度言い出したら聞かないが、こればかりはギアッチョにもどうしようも出来ない。どうにか諦めさせられないだろうかと悩んだが、メローネは梃子でも動かなさそうだった。
「ったく……仕方ねぇな」
ギアッチョは面倒くさそうに頭を掻いてから、メローネの前にしゃがみ込む。
「ほら、背中。乗れよ」
「……?」
メローネはギアッチョの意図が汲めないまま、目をぱちくりとさせながらも素直にその背中に身を預ける。落ちないように肩に掴まっているのを確認すると、速度をつけて一気に立ち上がった。
「わっ、わっ!」
「落ちねーようにしっかり掴まってろよ」
そう言うと、今度はガクッと膝を下げて一気に高度を落とした。
「きゃーっ!」
ギアッチョの言う通りに力一杯肩にしがみついているメローネは、楽しそうな悲鳴を上げている。そのまま足に力を込めて、五十メートルほどを一気に駆け抜けた。
「すごい、すごーい!」
ギアッチョが小さい頃、リゾットに「何か面白いことやって」と無茶振りしたときに肩車をされて思い切り上下に振られたときの応用だったが、幾分かは楽しんでもらえたようだ。本気を出せばもう数百メートルは走れそうだが、こんなことで疲れ果てたくはないのでここで止めておく。
「どうよ、ジェットコースターの代わりになったか?」
「なったー!じぇすとこったーみたい!ありがと、ぎあちょ!」
「ジェットコースターな」
すっかり機嫌が直ったメローネの様子を見て、何とかなったと少し安堵した。もしこれが本物のメローネだったらこんな事で誤魔化しは利かないであろうし、もっと手こずっていただろう……と苦笑する。
駆け抜けた先には今までのお菓子がモチーフだったアトラクションとは違う、少し不気味な建物が設置されていた。とは言えこの遊園地の全体的な雰囲気を崩さないように、ハロウィン調のデザインになっている。恐らくこれが案内板で見たお化け屋敷だろう。
「ぎあちょ、これこわいやつ?」
「怖いやつだな」
「はいってみたーい!」
「ビビって泣いちまうかも知んねーぞ?」
「なかないもーん!ぎあちょ、こわいの?」
「バカ言ってんじゃあねーよ。こんなん怖くて暗殺が務まるかってんだ」
「あんさつ……?」
聞き慣れない単語に首を傾げるメローネを見て、口が滑ったと思う。子どもに喋る内容ではなかった。
「ぎあちょのおしごと?なにするの?」
「あー……。悪いヤツを、やっつける……みてーな……」
口ごもりながらそう答えると、メローネの表情がパッと明るくなった。
「すっごーい!ぎあちょ、ヒーロー!?せーぎのみたか!」
「正義の『味方』な……そんな良いもんじゃあねーけど」
この話を引きずるのはあまり良くないと判断して、「入るなら入るぞ」とメローネの手を引いてお化け屋敷へと入場する。特に年齢制限のないものだったので内容などたかが知れていたが、メローネは暗がりから何かが飛び出して驚かしてくると言った事が面白かったようで、お化けやからくりに出くわす度に楽しそうにケラケラと笑っていた。ギアッチョは「こんな子ども騙しに付き合っていられるか」と内心思っていたし、一番ヒヤッとしたのは道中でメローネが頭から転んだ事だったが、特に大きな怪我もなく本人も平気な顔で笑っていたので安堵した。
十分ほど歩くとアトラクションは終了する。退場口から出ると急に視界が明るくなり、思わず一瞬目を瞑ってしまった。
「ぎあちょー、おんぶして」
メローネに服の裾を引っ張られる。お化け屋敷で歩き疲れたのだろう。ここで愚図られても面倒なので素直にしゃがむと、背中にメローネがしがみついた。
「あと行ってねーのは何処だ……?」
案内板を思い出しながら歩いていると、背中から寝息が聞こえてくる。とうとうはしゃぎ疲れて眠ってしまったらしい。近くのベンチに起こさないようにそっと座らせて、ギアッチョもその隣に腰掛けた。
空を見ると紫掛かったピンクへと変化しつつある。陽が傾きかけているのかも知れない。そう思うと、この無人の遊園地もより一層寂しく見えてくる。
隣ですやすやと眠っているメローネを見る。この夢の中の設定では、ずっとこの遊園地に一人ぼっちの、友だちと名前が同じで見た目が似ている、小さい子ども。思えば、普段の生活では言われないような言葉を沢山掛けられているような気がする。
仕事をしていても、別段「強い」とか「すごい」なんて、誰にも言われない。……強い、くらいは言われたって良いと思っているのだが、確かに褒められた仕事内容ではない。
「……褒められたいとか、思ってんのか?オレ」
そう考えて、そんな自分にイライラしてくる。思い切り首を振ってそんな思考を振り払うと、メローネが身じろぎした。
「んん……」
ハッとして動きを止めたが、まだ起きる様子は無さそうだ。起こさないようにそっと座り直す。
「いつ起きんだろーな」
それはメローネに向けてではなく、現実世界のギアッチョに向けての言葉である。明晰夢ならば起きようと思えば起きられると思ったのだが、そう上手くは行かなかった。自分が目覚める時が来るまで、この小さいメローネと遊園地を彷徨うのだろうか。疲れたから眠ったのだが、こんなに夢の中で連れ回されていては起きた時の疲労が激しそうだと溜め息を吐いた。
十数分ほどして起きたメローネは疲れが吹き飛んだようで、メリーゴーラウンドやゴーカート、ミニSLなど色々なところに連れて行かれた。次はどこに行こうか、またコーヒーカップに乗るのもいいかななどと言っていると、園内に少し寂しげなメロディーが響きわたる。
「あ……」
メローネが小さく声を上げた。
「ゆーえんち、おわっちゃう……」
ぽつり、と淋しそうに呟かれたそれは、まだこの時間が終わってほしくないが、受け入れなければならないという気持ちが伝わってくるようだった。「終わるのが嫌だ」と駄々を捏ねるのかと思ったが、やはりそこは夢の中の住人なのだろう。空を見上げれば、確かにかなり深い紫色に包まれていた。
俯きがちになっているメローネの手を取り、案内板を探す。ここにずっと居るらしいが、せめて普段住んでいる場所までは送り届けてやりたい。
案内板の前まで着いて、どこまで送ればいいのかメローネに声を掛けようとした……が。
「……メローネ?」
おかしい。しっかりと手を握ってここまで連れてきた筈のメローネの姿が、忽然と消えてしまっていた。もちろん手を離したことなど一度もない。まるで砂糖菓子がサラサラと溶けてしまったようだ。いくら夢の中だからといって、そんなことがあってたまるか。
無人の園内を駆け回り、メローネの名を大声で呼びながら小さい彼の姿を探す。こんなに夢見心地の悪い別れ方をされるのはギアッチョも嫌だった。コーヒーカップ乗り場やジェットコースター乗り場、アイスクリーム売り場にお化け屋敷の入り口など、考えられる場所は全て回った。寂しげに響き渡っている閉園のメロディーが、段々と音階が狂っていることに気付いた。時間が経つごとに薄かった霧も濃くなってくる。まるで夢の世界からギアッチョを追い出そうとしているみたいだ。
「あと行ってねーのは……あそこだけだな」
遊園地の最奥に位置する大きな城に注目する。霧に飲まれないよう、再び全速力で城の入口まで駆け抜けて行く。閉園メロディーの不協和音が耳にこびりついて気持ち悪い。入口に到達し、そのままバタバタと音を立てて薄暗い場内の階段も駆け上がる。夢の中だと言うのに普通に疲労は足に溜まっていくのが腹立たしかった。
頂上に辿り着くとバルコニーがあり、急に視界が明ける。そのバルコニーの縁に、ぽつんとメローネが立っていた。
「……っ、メローネ……!」
息も絶え絶えにその名前を呼ぶと、メローネがこちらを振り返る。相変わらずくりくりとしたエメラルドの双眸は、少し暗くなったこの空間では一層輝いて見えた。
「ぎあちょ」
ギアッチョの名前を呼び、柔らかく微笑む。
「あのね、いっぱいあそんでくれて、ありがと。めろーね、すっごくたのしかった。だからね……」
そこで言葉を区切り、メローネはバルコニーの縁に足を掛ける。
「ッ……何やってんだよ、危ねェだろ!」
急いでその身体を引き戻そうと足を進めようとするが、何故か身体が思うように動いてくれなかった。
メローネの身体が空中に放り出される。
「めろーねのこと、わすれないでね」
「……ッ!!」
ガバッとベッドから身を起こし、目を見開いて肩で息をする。時計の秒針の音がやけにうるさく感じた。時刻を見ると、たったの一時間程度しか眠っていなかったようだ。
呼吸を整えながら、メローネの最後の言葉を思い出す。
『めろーねのこと、わすれないでね』
「……忘れる訳ねーだろ」
大きく溜め息を吐いて、ベッドから下りて仮眠室を出る。居間に移動すると、“見慣れた方の”メローネがパソコンをカタカタとタイピングしていた。
「ああ、おはよう。起きたのか」
「他の奴らは?」
「まだ帰ってきてないよ。おれは作業報告書の手伝い」
メローネが操作しているパソコンはベイビィ・フェイスの親機ではなく、普通のパソコンだった。リゾットが自身の放つ磁気で機械をダメにしがちだったり、他のメンバーもタイピングが遅かったりするため、最終的に提出期限が近い書類は機械操作とタイピングに慣れているメローネが片付けることが多い。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、メローネの隣に腰掛けた。
「……なあ、メローネ」
「どうしたんだ?」
「オメーがガキの頃って、どんな感じだったんだ?」
「うーん……覚えてないな」
画面から視線を外すことなく、メローネが答える。とぼけている風でもなく、本当に覚えていないようだった。
「おれ、小さい頃の記憶が頭の中からすっぽりと抜け落ちてるんだ。それこそリゾットに拾われるまでなんて全然覚えてなくてさ」
「そうか……何か、悪かったな」
「何であんたが謝るんだよ。期待に添えるような回答が出来なくて、こっちこそ悪かった」
『あれ』はあくまでもギアッチョが創り出した夢の中のメローネで、現実世界の子ども時代のメローネがどんな生活をしていたかは全く分からない。ただ、記憶から抹消したいほど凄惨な過去だったのだろうと言うことを窺い知ることは出来た。
会話が区切られて沈黙が続き、メローネが報告書を作成するタイピング音と、時計の秒針の音が室内に響きわたる。ボトルの中に入っている水を一気に飲み干して、再びメローネに話しかけた。
「オメー、急にいなくなったりとか、消えたいなんて思ってたりとか、してねーよな」
脳裏に先程見た夢の最後の光景が思い浮かび、衝動的に口をついて出た言葉がそれだった。
「……急にどうしたんだ?」
流石のメローネも画面から視線を外し、ギアッチョに顔を向けて声をかける。
「いや……何でもねぇ」
可愛い服を着た小さいメローネが高いところから飛び降りる夢を見た、なんて、本人に言えるわけがなかった。
「よく分からんが……急にこのチームを無断で抜けるとか、裏切るとか疑ってるなら、そう言うことは断じてしない。もし連絡がつかなくなったなら……きっと誰かに急襲でもされたんだと思ってくれ」
「そう言う意味で言ったんじゃあねーけどな……」
こういう時だけ真っ直ぐな瞳を向けてくるメローネに、ギアッチョは苦笑する。これだけチームのことを思っている仕事人間が、裏切るような真似をするとは思っていないし、年も近い友人だからピンチの時は駆けつけたいと思っている。
「色々変なこと言って悪かったな。みんなが帰ってくるまでもう一眠りするわ」
「ああ、分かった。おやすみ」
後ろ手にヒラヒラと手を振って、仮眠室へと戻る。ベッドに横たわって目を閉じると、そのまま段々と微睡みへと誘われていく。今度は変な夢を見ることはなく、快適な睡眠を得ることが出来た。
——旧アッピア街道・午後七時四十七分。
メローネと通話中、突然会話が途切れて通話が遮断されてから、ギアッチョが何度電話をかけ直しても再度それが繋がることはなかった。
『もし連絡がつかなくなったなら……きっと誰かに急襲でもされたんだと思ってくれ』と言う、あの日の言葉が急に蘇る。メローネの身に何かあったと言うのは明白だった。メローネが言っていた『新入り』とかいう奴の仕業だろうか、今から加勢して間に合うだろうか。考えていても仕方ない、とハンドルを握り直し、アクセルを踏もうとしたその時。
車のライトで、前方の路上に小さな人影が照らされているのが見えた。危うく跳ね飛ばすところだったと、慌ててアクセルから足を退けるが。
その人影には見覚えがあった。
「……あれは……メローネ……?」
ライトに照らされたのは、以前夢で見た“あの”メローネだった。ピンク色のブラウスと黒いスカート、白いタイツと赤い靴に身を包んだ、幼い姿の彼だ。
周囲には霧が漂っていて、その姿がはっきりと見えるわけではない。それでもギアッチョには、それがメローネだと絶対に断定出来た。
メローネはゆっくりと片手を上げて、ひらひらと左右に大きく振る。最初は「ここにいる」と合図をしているのかと思っていたが、そのジェスチャーはメローネが次に口にした言葉で違うものだと分かった。
「ばいばい」
到底声が届く距離ではないはずなのに、ギアッチョの耳にはその声がしっかりと届く。届いた瞬間、メローネの姿が霧に包まれて掻き消えていった。
「……」
ギアッチョの左目から一筋だけ、涙が溢れ落ちる。
それ以外に表情を変えることはなく、今度こそアクセルを踏み込んで車を走らせた。