チェズレイはやっぱりひどいやせ我慢をしていたようだった。最後の最後、母の姿を借りていつかのようにモクマを罵倒した――その表情は泣き笑いの複雑に混ざり合った、あのときよりずっと彩りゆたかなものだったけれど――あと、紫の瞳の焦点が急にあいまいにぼやけたと思ったら、次の瞬間には糸が切れた操り人形のようにかくんと膝から崩れ落ちていた。モクマの反応速度がなかったらまた雪の中に埋もれるはめになっていただろう。
ざく、ざく、ざく。
スノーブーツの底の花の形をしたスパイクが、歩くたびにまっさらな背後の雪原を花畑へと変えていく。いつも履いている雪駄も一応名前に雪を冠するだけあって、草履よりは向いていると言われるけれど、さすがにこの国では太刀打ちできなかっただろう。久々に会ったチェズレイも、同じようなブーツを用意していた。
けれど、今背に負った細い身体からだらりと伸びる白い脚の先にはまったものは、到底雪道なんか歩けそうにないハイヒールだった。変装したまま気を失ってしまって、モクマには魔法の解き方はわからないから、そのまま運んでいる。不思議なことに体重まで女性のそれに近くなっているのだから、本当に魔法なのかもしれない。
ざく、ざく。車まではそう遠くなかった。早く降ろして横にしたい。一人で運ぶ方法は、どれだってけが人に負担がかかる。今だって彼の、このきゅっとひょうたんみたいにくびれた腰のなかに納められた臓器のどこかに傷がついていたらと考えると気が気じゃなかった。かといって急げば揺れてよくないし、転んだりしたら元も子もない。一歩一歩、大地を掴むようにして歩く。ざく、ざく、ざく。
「……モクマさん」ふいに声がした。ざくざくに溶け込んでしまう、雪風に舞って消えてしまう、ちいさなかすれ声だったが、借り物ではない、彼の声だった。
「なんだい、痛いだろう、寝れるなら寝てなよ」
だから、聞き逃すはずはなかった。返した声にはスパイクのような棘が生えていた。だからせめて、痛み止めを飲めと言ったのに。聞くに堪えない弱々しい、らしくもない声だった。だけどチェズレイは臆せずに「起きてしまいましたので……」と、変わらずしんどそうに、そのくせいかにも彼らしいふてぶてしさで返した。
ため息。
「もう、車着くから。痛み止めを飲むこと。一番後ろまで助手席を倒すから、ちゃんと横になること」
「おや、さきほどは優しく私のわがままを聞いてくださいましたのに……今はまるで鬼のように怖い声だ」
「からかわないの」
「モクマさん」
ストッキングを穿くきりの太腿を支える手に力がこもる。もう一言も喋らせたくなかった。聞きたいことも話したいことも降り積もる雪よりあったけれど、それを聞くのは白い壁に四方を囲まれた病室でだ。彼の母の、最後まで抱き続けた愛を知ったからこそ、この寄り道は必要なことだったが、だからこそ彼女の愛した息子に傷ひとつだって残したくはなかった。
あの手紙を読んだ時、任された気がした。背を押された気がした。見守られている気がした。恥じぬようにその襷を受け継ぎたいと思った。もとから何があっても守りきるつもりだったが、ますますと覚悟が強まった。
「……モクマさん」
「なあに」
でも、肝心要の息子は強情っぱりで、梨の礫にもめげずに繰り返しモクマを呼んだ。それがあんまり置いて行かれた飼い犬のように哀れっぽかったから、決断を翻して反射的に返してしまう。
瞬間、ずし、と、身体が重くなった。にょっきりと伸びた脚はナイロンのすべすべした触り心地でなく、上等なウール地の黒いスラックスに変わっていた。その先の踵の高いお姫様の靴はキャメルのスノーブーツになっていて、その裏には食らいつくようなスパイクの花びらが咲いていることが想像できた。
ふわ、と、舞い散る雪のようにやわらかく、風をはらんで、長い金の髪がモクマのうなじをくすぐった。香りすら、馴染んだあの、故郷の香木にも似たなつかしい匂いへと。肩から前に回されて垂れ下がった腕も、カシミヤのコートに包まれていた。
魔法が解けていた。
一瞬にして、彼の身体は相棒のものに明け渡されていた。どういう理屈かはやっぱりわからないけれど、今更驚く道理もなく、CAさんの服は寒いから、コートの方がいいとモクマは思った。
「モクマさん」繰り返す声はほとんど夢の中にいるようだった。ざく、ざく、その繰り返しだけが現実と繋がっていて、脚だけを機械的に動かしながら、それ以外の全てはチェズレイへと捧げる。車まで。車に着くまでの夢は、ともに見たかった。
「母は、わたしを、愛していた……」
「……うん」
「嬉しい。うれしかった。ずっと、誤解をしていた。愛は永遠ではないと。やさしかった母の愛の翼は、わたしや父が、寄ってたかって奪って、むしり取ってしまったのだと……」
……だけど、ちがった。ちがったんですよ、モクマさん。
子どもじみた甘い声。うん。そうだ。ふたたび頷く。
いくらモクマが想像を語ったって、あの手紙の力の前には足下にも及ばない。チェズレイの母を死に追いやり彼を傷つけたタチアナを許してはいなかったが、あれを残していたことだけには感謝したい。
手紙の中身を思い出すと、それを読んだ彼の心を想像すると、たまらなくなって、そっと服越しに太腿を撫でると、「ふふ」とくすぐったそうに笑われて、拙いととめる。この体勢じゃ自由になるのは指先くらいで、彼の身体に負担をかけず、同意と共感をしめす方法がわからなかった。
「それでね、モクマさん」
「うん」
そっと、回された腕に力がこもる。とはいえ実際はほとんど願い通りにはいかなくて、手袋の先がモクマの胸元をこするくらいだったけれど。
それでも、心は確かに掴まれた。耳を澄ます。「わたし、わかったんです」続く声は、やっぱり子どもじみた、用意されたなぞなぞを全て解いたような、晴れがましい声をしていた。
「なにがだい?」
「ふふ」おかしそうな吐息が一拍はさまって、むきだしのモクマの冷えた耳をあたためた。
「あのね、あなたも、私を愛していた。母のように、私を。どう、あっているでしょう」
「…………」
ざく、ざく、……ざく。
一定だったリズムが、不意に止まった。
よくない。この脚だけは、夢に溺れてはいけないのに。このまま歩いて、車に向かわないといけないのに。
だけど、土台無理な話だった。
「……」
モクマさん、と、問いかけの声は聞こえなかった。チェズレイはただ黙って、続く言葉を待っていた。
ぽた、ぽた、と、これまで順調に花を咲かせていた白い道にふたつ、熱い水滴が落ちてちいさな穴を開けた。
鼻水が出そうになって、すん、とすする。おぶっていたのは失敗だった。……涙を拭う手段がない。
ざく、ざく。なんとか歩き出す。もはや守り手の意地だった。チェズレイはまだ静かだった。
濡れたまつ毛が冷たい風に吹かれて、凍りついてしまいそう。必死に瞬きをしながら、頼むから気を失っていないでくれよと祈りながら、雪のおかげで明るく白い空を見上げてモクマは涙声をあげた。
「うん、うん。俺はね、お前を愛してるんだよ。だから、来るなと願われてもここまで追ってきてしまったし、今、お前の身体が心配でしかたないし、いつまでだって、お前の一番そばにいたいんだ」
伝わって嬉しいよ、というさいごのセリフは、ほとんど声にならずに口の中でとろけて消える。
相棒が心を読めることが、こんなに頼もしいこともそうなかった。