さっきまでぎゅっと身を寄せ合っていた卵麺が、いまは大泡の沸く寸胴鍋のホールで菜箸とダンスしている。
茹で時間は、五分。いつもは面倒がって使わぬタイマーをきちんとセットしながら、腕を組んで職人ちっくにコンロを見下ろすモクマの顔はなぜだかとってもにがにがしい。
「……なしてこんなことに……」
古い作りのセーフハウスだからキッチンは三方を壁に囲まれ、こぼれたぼやきは湯気と共に換気扇に吸われて消えた。
こんなとこまで高級そうなステンレス製のタイマーの、忙しなく階段を降りていくデジタル表示のその上にちょこんと乗った数字が示すのは、今がもうすぐ日付をまたぐ頃合いだということ。
なぜモクマがこんな時間にこんな場所で腕組みしているかといえば、晩酌の果てにまっすぐ座るのすら困難になったとろとろの相棒にごねられたからである。
や、いつものおねだりならよかったよ? なんだかんだでまだまだ若く、最近健啖家の芽をすくすく伸ばしてる彼のため、記憶をたどって、或いはタブレットをスクロールして、彼に似合いそうな小洒落た夜食を作ってやるのなんかその名のとおり朝飯前だ。
だけど先ほどソファで初夏のつるまめみたいに長い腕に絡みつかれながら請われたのは……、
『モクマさん、みそラーメンがたべたいです。あの、戸棚の中に隠している、袋に入ったやつ』
だった。
まずバレていたことに仰天した。ひとりの夜か、先に眠ってしまった相棒のほっぺを優しく撫でたその後に、忍びの力を総動員してそ〜っとベッドから抜け出して作っていたはずなのに……。ちらりと重たい腕を盗み見ると、お尻をだいぶ座面の前の方にずり下げて身長差をむりやり縮めてまでモクマの肩に顎をのっけて甘えるチェズレイが、そのかわいい仕草とは真反対の不穏な目で笑ってみせた。……うん、聞かないでおこう。
それに、モクマの動揺の理由はここではないのだ。絡まれていないほうの手を伸ばしてなだめるように頬骨のラインを指の背でくすぐってやる。気持ちよさそうに一本になる目に、よし、今だ。
『う〜ん、作ってやりたいのはやまやまだけど、具がないんだよねえ』
『具、とは?』だから今度、という前に、かぱりと目が開いて割り込まれた。
『味噌でしょ? だったらほら、もやしとかひき肉とか、いろいろあった方が美味しいじゃない』
『……そんなのここに常備されていないでしょう。いつもは何で作ってるんです』
ぎくり。指が固まる。流石酔ってても勘がいい。
確かに、そう。オリーブオイルと岩塩なら三種類ずつ常備されているこのキッチンに、もやしはちょっと足が遠のくようで、肉はぎりぎりあったかもしれないが、深夜の耐えがたい空腹はフライパンで炒めるだなんてまだるっこしいステップを踏むのを許しちゃくれなかった。
かといって、付属のスープだけだと刺激が足りない。ゆえにモクマはいつも……、
『それがいいです。……どうぞ、普段のあなたの気取らぬ味を』
頭にどんぶりの絵が浮かんだ瞬間、まるで心を読んだよう、止まってしまった指を惜しんで頬を擦りつけながら、チェズレイはそうささやいた。
酔ったり疲れたりしたときの相棒のきまぐれなおねだりに、モクマはたぶん、一生勝てない。
どんぶりひとつとお椀ふたつ、それに箸とれんげをお盆に乗せて小部屋を出ると、広いリビングはしんと静まり返っていた。支柱を失ったきれいなつるまめはソファの上で膝を抱えてちいさくなっている。あわい緑のパジャマに包まれた首も背中も、らしくなく丸められて顔が見えない。
「お待たせ〜……」
「あァ、できました……?」
ローテーブルにお盆を置いて、隣に座って囁くと、緩慢に頭が持ち上がる。声も顔もとろとろで、眠りの国にだいぶ引っ張られているのが窺えたが、ワンチャン寝オチ、への期待は儚く潰えた。
……もう、ここらが年貢の納め時だ。太ももの上で手のひらを固く握りしめて、判決を待つ罪人のようなここちになる。
そうしてついに、相棒の慧眼が、正面すこし下の、それを捉えた。捉えてしまった。
「これは……」
次に絶句。とろけていた目も口もまるくあいて、そのまま硬直。
やっぱり。予想通りの反応に、モクマはうなだれながら「バターとチーズです……」とこたえた。
ふちが青に塗られた白いどんぶりの中に、茹で汁で割ったスープの素、麺、その上に……、
ピザ用のシュレッドチーズをふりかける。有塩バターを切ってすきまに乗せる。あつあつのスープの熱で両方がとろけて混ざり始めたところで、ダメ押しの粉チーズと黒胡椒。
その果てに生まれた『ニンジャさん特製罪の味スペシャル』は、舌の肥えたチェズレイの辞書にはどう見ても存在しない、下世話で不健康極まりない欲と脂質に塗れたズボラ飯であった。
チェズレイは黙ったまま瞬きを繰り返している。あ〜やっぱり、袋麺食べてるのと何か乗せとるのは見てたけど、それ以上は知らなかったか……、だよなあ……、食べてるもんが見えるくらい近くに来たらさすがにわかってたろうから……。
「あ〜、こんな悪いもの食べてたって知れたら、明日のチェズレイに絶対怒られちゃう……ッ!!」
モクマはわっと顔を手のひらで覆った。それがわかっているから、こっそり食べていたのに。
言っとくが、毎回こんなじゃない。三食きちんと食べているから夜食欲自体がかなり減ったし、人間ドックを受けてから健康志向も身について、塩分カロリーに気をつけて……酒も減らして……、でも、だからこそ……、
(この時たまの罪の味が輝くっちゅうか……!!)
ほんと、年に三回とかなんです。だからお願い、これだけはゆるして……!
と、暗闇のなかで切実な祈りを捧げていると、
「『わるいもの』……、それを、分け合って……」
……あれ。
耳に届いた審判は、呆れの形も怒りの形もしていなかった。どころか、なんだか嬉しそう……?
「……?」
おそるおそる指のシェードの間から隣を覗くと、膝を抱えたチェズレイが、その出っぱったいびつな丸い骨を枕にしながらこちらを見ていて、目があったとたん、待っていたとばかり、にんまり、まぶたと唇を横にひきのばして笑った。
「では……、わたしたち、共犯者ですねェ……?」
どきん、と、胸が高鳴った。
……共犯者。同じ罪を、共有するものたち。
チーズとバターよりとろとろの声で告げられた言葉は、なんとも甘美なひびきをしていた。
モクマが今度は口を開けてかたまってしまうと、
「……あなた、いつもわたしに隠れて食べるから」付け足された声は少し形を取り戻して、先がやや尖っていた。ゆるいズボンのうすい生地を、細い指が掴んでしわになるのが見える。
コンロのそばにいたせいで乾いた喉が「さびしかったの?」と尋ねたときには、まだ頭の回路はつながりきっていなかった。掠れた声にチェズレイはまた微笑んで「どうでしょう」とだけ返す。
……なんてこった。
彼の今日の、あまえんぼのわがままの根っこにあったもの。それは、気まぐれじゃあなかった。
モクマが、チェズレイを仲間外れにして食べていたから。まぜてほしいと、隠さないでと、共有したいと……、そう願って、どうみても好みに合わないだろう添加物塗れの袋麺を、食べたいと?
……かわいいな。
ときめきが身体に火を灯すけど、先に飛び出したのはちいさな笑い声だった。
「共犯者って……、明日のお前からのお仕置きに怯える?」
だってそれって、明らかに矛盾している。自分で自分にお仕置きをすると?
だから指摘したのに、返ってきたのは眉根の皺だった。尖った口から、だだをこねる子どもの声。
「こら、明日の私のことは考えない。浮気ですよ」
「…………」
……くらくらする。
やっと動いてきた頭を回そう。つまるところ、今までの言い分をまとめると、お前と罪を共有し、お前からの罰に怯え、今日のお前と明日のお前に取り合いにまでされちゃう……、ってこと?
それは、それは……、
(愛されすぎて、困っちゃうねえ……)
立ち上がって、どんぶりを覗き込む。溶け切って広がるチーズとバターは雪野原のよう。そこに箸を突っ込んで、混ぜてお椀に取り分けていく。
実を言うと、さっきはあんな懇願しちゃったけど、この罪の味の味噌ラーメン、この前食べたらちょっと胃がもたれちゃったのだ。シェアできてちょうどよかった。身体は鍛えられても内臓は歳には勝てんな。ますます健康に気をつけないと。
だけど。膝を抱える腕をとって、脚を下ろす。お椀を差し出す。見下ろすモクマの幅広の影が、チェズレイをすっぽりと包みこんだ。
「今日のお前も明日のお前もあまさず愛しちゃうからさ、そこんとこは心配せんといて」
愛と濁りを受け止める容量は幾らだってあるし、もらったものを返す準備だってできている。予備も残弾もたくさんあるし、なんとさらに湧き出すしまつ。
ふてぶてしく言い放てば、チェズレイはどろどろの罪のお椀をためらいなく受け取りながら、「それ、明日目覚めたわたしにも言ってください。朝のわたしもあなたの口から聞きたいと、きっと嫉妬するでしょうから」と、また可愛いことを言った。
おしまい