「じゃ、この子をよろしく頼むよ!」
暗い洞窟に似つかわしくない快活な声とともに、ずずい!と目の前に差し出されたしましまの毛玉。
脹相はとてつもない嫌な予感に眉間にしわを寄せた。
山犬の獣人である脹相と鷹の鳥人である九十九が出会ったのは、脹相の弟八人が立派に巣立ちしてからしばらくたってからの事だった。ひどい雨の日に脹相が住む洞窟にびしょ濡れで転がり込んでくるや否や「どんな女が好みかな?」とウィンクしてきたのが始まりだった。その時からというもの、鷹であるのに渡りをするこの自由気ままな女との腐れ縁に脹相は辟易としていた。
今日も今日とて突然現れたかと思うと、脹相の前にしましまの毛玉――小さな虎の子を差し出してきたのだった。まだ人型になることはできないのだろう。柔らかい首の皮を九十九に掴まれてゆらゆら揺れる毛玉はまさしく毛皮をまとった虎の子の姿だった。橙のような明るい茶色に白が混ざったふわふわの毛。ころりと丸い頭に、これまた丸い小さな耳。小さな体躯に見合わないずんぐりと太い手足と広い手のひら。首の皮を九十九に掴まれているのに楽しそうにきらきらと輝く青色の瞳と目が合った。脹相と目が合ったことに気づいたその毛玉は、ひどく嬉しそうに目をつむって小さく「きゃぅ!」と鳴いた。
「………なんなんだ。いきなり」
「あれ、言ってなかったかい?今から旅に出るからこの子を預かってほしいんだよ」
「断る」
「この子とは二ツ山の向こうで会ってね。虎の子なのに母親もいなくて一人ぼっちで泣いてたんだ。きっと人間に殺されたんだろうね。でもほら!見てこの腕の太さ!きっと立派なヌシになる!それに、素直で優しい子だよ。あー、でも力の加減がまだ分かってなくてね………そうだ!君が鍛えてあげてくれ!うん、それがいい。力はコントロールしてこそだからね。」
「話を聞け」
「じゃ、よろしく!もう乳離れしてるから肉をやわらかく砕いたものをあげるといいよ~」
こちらの返答を全く意に介す様子もなく、九十九はニコニコと微笑みながらずずい!と虎の子を脹相の胸に抱かせた。幼い弟たちを優しく抱きしめてきたその腕は無意識に虎の子の重さを受け止めてしまい、やられた、と思った脹相が何かを言う前に九十九は洞窟の入り口まで飛び去ってしまっていた。額に乗せていたゴーグルを付け、背中から大きな深緋色の翼を取り出した九十九がウィンクをする。君も一人じゃさみしいだろう?彼女がそう囁いた時の瞳は真っすぐな優しさを孕んでいた。寂しくはない。兄がひとりでいるということは、弟たちが立派に自分が選んだ道を歩んでいるということだ。俺の望みはそれだけだ。そう答えようと口を開くが、腕の中の虎の子がぎゅ、と脹相にしがみつき額を擦り付けてくるものだから、脹相はまた何も言えなくなってしまった。
「あ、ちなみに男の子だよ。」
最後にそう言って高らかに笑うと九十九は翼を広げ空へと飛び立っていった。
「………………」
また流されてしまった。小さく舌打ちをする。腕の中の毛玉がもぞもぞと動くのを目の端でとらえると、不機嫌そうな脹相の顔を心配そうにのぞき込む二つの瞳があった。すがるように服を握られて、脹相は目を伏せてはぁ、と大きくため息をついた。ふいに、洞窟の入り口から風が吹き込み、これから冬に差し掛かろうとしている冷たい空気が脹相を包む。深い山の厳しい冬。愛しい弟たちと鼻をすり合わせて毛を重ねてあたため合った記憶と、いま腕の中にある陽だまりのようなぬくもりがどうしようもなく重なる。脹相の頭の上の黒いとがった耳が、ぴくりと動いた。
―――弟たちが巣立った広すぎる洞窟。持て余すくらいならば、一匹くらい居候がいても構わないだろう。脹相は目を開いた。九十九がそうやったように首根っこの皮を掴み地面に下ろして、こちらをぽかんと見上げる虎の子に「ついてこい」と声をかける。
「自分の獲物は自分で獲れ。水の場所だけは教えてやる。」
途端に目を輝かせてぎゃう!と嬉しそうに吠えてすりすりと足元に絡みついてくるそれに歩幅を合わせながら、まずは人型になる練習からだな、と脹相は鼻を鳴らして笑った。
「――たしかに、きっといい友達になるとは思ってたけど……」
ズズ、と熱い茶をすすりながら九十九が微笑む。
「まさかここまで仲良くなるとはね~!」
「………何が言いたい」
洞窟に響くほど高らかに、そして嬉しそうに笑う九十九の顔を脹相が睨む。
その胡坐をかいた股のうえには、三つの黒みがかった毛玉が乗っていた。跳ねるように遊ぶ小さな獣たちは、脹相と同じく黒く艶やかな毛をしていた。しかしその毛は脹相よりもずっと短く、背にはさらに深い黒色ではっきりと縞模様が描かれていた。
――黒毛の虎。そう呼ぶにふさわしい可愛らしい子虎が三匹、脹相の膝の上でじゃれ合っていたのだ。
「九十九さーん、干し柿食べん?今年スンゲー甘く出来たんだ」
世界中を飛び回った後、数年ぶりにこの山に戻った九十九を迎えたのは、相も変わらず仏頂面の脹相と三匹の黒い子虎。そして、九十九の思った通り、大きく逞しく成長した虎―――悠仁の姿だった。
九十九は、悠仁のその育ての親に負けないほど立派に鍛えられた体躯だけでなく、九十九に合うや否や命の恩人だと深々と頭を下げ、突然訪れた客に嫌な顔一つせず子供たちをあやしながらテキパキとお茶を入れる悠仁の成長ぶりに、すっかり舌を巻いてしまった。やはりこの男に任せて正解だったと、なんとも言えない複雑な表情の男をちらりと見やりながら、若虎の人懐っこい笑みに微笑み返して差し出された干し柿を受け取る。
「ああ、ありがとう。立派になったね、悠仁君」
「お!マジ?カッコいい?お茶のおかわりも今淹れるから―――あ、脹相いいって!俺やっから座っててよ」
膝の上の子虎たちを優しくひと撫でして、脇に座らせてから立ち上がろうとする脹相を悠仁が止める。
「お前にだけやらせるわけにはいかない。水を汲んでくる」
脹相としても、九十九と向かい合って話すのはどうにも気恥ずかしいのだろう。何とも言えない表情のまま横をすり抜けて洞窟の入り口に向かう脹相を横目で見ながら、九十九は納得したようにウンウンと頷く。そりゃそうだろう。どんな顔をして、何をどう説明していいかわからないのだ。数年前、あんなに預かるのを拒んでいたはずの子虎を立派に育て上げ―――そして、番になり、子をなしたというのだから。まぁ、あとで絶対聞き出して見せるけどね!と目を鋭く光らせながら、九十九はぽてぽてとたどたどしく近づいてきた虎の子たちのふんわりと柔らかい小さな頭を撫でてやった。
「………あの、さ」
九十九が子度たちと遊ぶ後ろで、木桶を掴もうと延ばされた脹相の腕を悠仁がぱし、と掴んだ。人に変化することにもすっかり慣れたその腕には橙色の毛は生えていなかったが、その太さと逞しさはあの頃のままだった。掴んだ腕を引き寄せて、脹相は背後から抱きすくめられる。悠仁っ!と注意する声を無視するように頭上のとがった黒い耳に悠仁の唇が寄せられて、それと同時に腹のあたりにその大きな手が添えられる。脹相の顔のすぐ横で飴色の瞳が輝き、丸い耳がぴこぴこと揺れる。悠仁は嬉しそうに目元を赤らめながら低い声でぽつ、と囁いた。
「……脹相、また匂い変わったの気づいてる?」
ぶわっ。
その言葉が囁かれてからややあって、意味を理解した脹相の黒の毛が逆立ち、同時に白かった肌が茹ったように赤くなった。ぁ、う、と呻きながら悠仁の腕のなかで真っ赤になって震えていた脹相が、やがて小さく息を吐き、膨らんでいた黒色のしっぽが萎んでいく。長い毛のしっぽがそろそろと悠仁の脚に甘えるように添えられる。そして、腹に添えられた悠仁の――番の雄の手にゆっくりと己の手を重ねると脹相はうつむいたまま小さく何かを呟いた。悠仁はぱぁ、と頬を緩ませると力強く頷いてその真っ赤な目尻に口づけた。
「だから、ゆっくりしてて。な?」
腕の中の脹相がこくんと頷くのを確かめてから、水汲みに行ってくるから待っててー!と大きな元気のよい声を洞窟に響かせて、悠仁は木桶を掴んで駆けだした。自分の腹に手を添えながら真っ赤に染まった顔を背後の九十九に見られまいと必死で袖で隠す脹相と、すべてを察し、祝いの品を脹相が嫌がるくらいとびきり豪勢にしようと企み微笑む九十九――そして、家族が増えることなど未だ知らない幼い三つ子。
冷たくも春の香りがする風が吹き込む洞窟は、にぎやかな声であふれていた。