夕暮れ。遠くガラディオン湾の向こうに沈んでいく陽光が、リムサ・ロミンサに停泊する船のマストを赤く照らしている。
船着場のすぐ横にある開けた造りの酒場のカウンター席へ腰を下ろし、ウェドは酒の入ったジョッキをのんびりと傾けていた。
悪くない報酬の仕事が思ったより簡単に片付いた。故になんとなく時間を持て余し、結果船乗り達がロープを巻いたり荷を担いで行ったり来たりしているのを眺めながら周囲の会話に聞き耳を立てている。
酒場は情報の宝庫だ。次の仕事の目処を立てるのにも、捨ておけない"仕事"の影を見逃さないという点でも役に立つ。
…ウェドにとって難点といえば、長居をし過ぎると女性から断れない誘いを持ちかけられたりすることくらいだろう。相手が男なら気が乗らなければ理由をつけなくともさっさと捲けば良いが、女性から声をかけられては無碍にすることはできない。
港の酒場は賑やかだった。陽気な男女が歌を歌い、楽器をかき鳴らし、酔っ払った男が大声で笑っている。注文した魚のフライを半分ほど平らげたところで、ウェドの背後から聴き覚えのある声がした。
「今日はもう夕飯なの?ウェド」
「ん…ああ、テッドか」
振り返った視線の先にいた青年は夕焼けに透ける金髪を揺らし、ウェドの顔を覗き込む。
「君も仕事帰りに食事かい」
「うん、と言ってもまた港の雑用だったから贅沢は出来ないけど…」
「ならこの店にしてよかったな。今日はドードーの笹身が安く食えるみたいだぞ」
ウェドがカウンターの頭上に吊り下がったおすすめメニューの看板を目で見遣り、人のいい明るい笑みを浮かべる。
テッドは心なし頬を染めると、一声掛けてからウェドの隣の席へ腰掛けた。ウェドのテーブルの上を見て少し考えてから、ドードーの笹身焼きとパン、ジョッキのエールを注文する。
「えと…ウェドは今日の仕事はどうだったの?」
「もう少しかかるかと思ったが、拍子抜けするほど早く片が付いてね。久しぶりに暇と金を持て余してたところだ」
「そっか。さすが、熟練の冒険者って感じ」
「はは、褒めてくれるじゃないか。じゃ、今夜の飯代は俺が持とう。他にも好きなものを頼んで食っていいぞ」
「えっ!あ、いや、そんなつもりじゃ…!」
「わかってるさ。今日は俺の気分が良かったってことで、気持ちよく食ってくれよ。な?」
優しく肩を叩いてウインクした顔を、テッドは目を大きく見開き顔を真っ赤にして見つめていた。すぐにわたわたと何か口にしようとしていたようだが、しばらくすると諦めたのか大きく深呼吸をする。
「じゃあ、お言葉に甘えて…あ、ありがと……」
控えめに手を上げてデザートのフルーツを注文したテッドがなんとも遠慮がちに思えて、ウェドは眉を下げて笑った。何故だか懐かれたようで街でもこうして度々会うようになったが、話しかけられるのもこんなふうに甘やかすのも…時折夜の相手をするのも、全く嫌だとは思わない。それほどに、ウェドはテッドの無邪気さや善良さに居心地の良さを覚えていた。
程なくして目の前に置かれた食事を前に、テッドはいただきます!と元気な声を出して手を合わせた。こんがりと焼かれた笹身を口に放り込み、次の瞬間にはきらきらと目を輝かせながらパンに手を伸ばし、美味しそうに飲み込んでいる。
その様子を横で眺め、ウェドの口許は自然に綻んでいた。
(本当に面白い子だな。純粋と言うか素直と言うか…こんなに美味そうに食事をしてるのを見てると、俺まで食が進む)
ウェドは魚のフライにナイフをいれ、一切れずつフォークで口に運んでいく。荒くれ者の多いリムサの男にしてはかなり品の良い所作だ。テッドはしばし見惚れた後慌てて目を逸らし、喉に支えてしまった肉をエールで一気に流し込んだ。
「…大丈夫かい?」
「けほっ、へ、へーき……ちょっとむせちゃった、へへ……」
「そんなに慌てなくてもまだ肉はたくさんあるぜ、追加で山盛り注文しておくかい?君ならそれくらいぺろっと平らげそうだ」
「な、なんだよ〜!そんなに大食らいじゃないもん!」
「ははっ、そうかな?」
茶化しながら自分もエールを傾けるウェドの横顔を、テッドはどきどきする気持ちを隠しながら見つめていた。
今日ここへ来たのも、偶然なんかじゃない。
仕事帰りにウェドを見かけた、というのはたまたまだが、この店へ入って食事を摂ろうとしているのを見てからうんうん唸って悩んで悩んで、意を決してウェドの隣へ座ったのだ。
そして今、深い意味合いが無くても「今夜一緒に過ごさない?」という一言をいつ言い出そうか、ずっと頭の中でぐるぐると考えている。
(う〜!言うなら早く言わないと…!もうウェドが食事し終わっちゃう…!)
こっちの気も知らないで涼しい顔で酒を飲んでいるウェドが小憎らしい。どことなく頭もぼんやりとしてきた気がする。
(かっこつけてジョッキのエールなんか頼まなければ良かったかなぁ…)
「おうおう色男ォ。ちょっと面貸せや」
テッドが一人思い悩んでいると、突然背後からにゅっと太い腕が伸びてきてウェドの肩を掴んだ。
ぎらりと眼光鋭い、青髪をした壮年のミコッテが凶悪な笑みを浮かべて立っている。
横にはもう一人壮年の男が寄り添うように並んでいた。帽子でわかりにくかったが、腰あたりで揺れている尻尾を見るにこの男もミコッテ族のようだ。
「やあ。久しぶりだね」
「爽やかアピールしやがってこのヤンキー野郎が。おいウェド。俺は今すこぶる機嫌が悪ぃ。一発喧嘩に付き合えや」
「また手合わせかい?君は本当に血の気の多い…」
「うるせー!いいからヤらせろ!」
「おいおいおいお前さんはまた…言い方、言い方」
今まで黙っていた帽子の男は低く落ち着いた声で青髪の男を諌めると、やれやれ、と肩をすくめたウェドに語りかける。
「悪いな、ウェド。この間任地でお前さんみたいな気の良いハンサムにうまくやり込められてからというもの、気が立っててこれなんだよ」
「そりゃまた大変だったね、ホセさん」
「なァに、慣れたもんさ」
「んだとコラァ。ごちゃごちゃ言ってねェでさっさと相手しろや!」
「はいはい…今残りの食事を片付けちまうからちょっと待ってくれよ」
青髪のミコッテはテッドとは反対側の座席にどかっと腰を下ろすと、イライラと尻尾を振りながらそれでも大人しくウェドの食事が終わるのを待ちはじめた。
「クソッ、全くあの若造、思い出すだけで腹が立つ!てめェによく似た人の良い面でニコニコへらへらしていやがって、そのくせ目はこれっぽっちも笑ってねェ!だから面白そうだと思ったのによォ…いざ始まってみたら、周りにわからないように卑怯な手ェ使って喧嘩してきやがった!あー!クソが!あのノラ蛇野郎!前言撤回だ、やっぱりてめェとはどこも似ちゃいねェや!」
よほど腹に据えかねる相手だったのだろう、時折テーブルを殴りながら、男はウェドのジョッキを奪いぐいとあおって残ったエールを飲み干す。
「おいウェドォ。テメェは正々堂々相手してくれんだろ?」
「はいはい。銃は抜かないよ…ナイフもなし、素手だけの一回勝負でいいかい?」
「流石だなァ!話が早ェ、さっさと表出ようや!」
男は自分よりも幾分背の高いウェドのシャツの袂を引くと、ぐいぐいと外へ引っ張っていく。ウェドはそれに抗いながら勘定をテーブルへ置くと、いつものように困ったような笑みを向けながらテッドに声をかけた。
「悪い、そんなわけでちょっと行ってくるよ。君はゆっくり食事を楽しんでくれ。またな」
待って、と呼び止めるより早く、ウェドとミコッテの男の姿が人だかりに消えていく。
(…言い損ねちゃった……)
行き場のない手を力なく下ろしため息をついたテッドに、ホセ、と呼ばれた帽子のミコッテが話しかけた。
「うちのが悪いことしたな。お前さん、ウェドに何か用があったんじゃないか?」
「え、ええと…まぁ、あったといえばあったというか…なんというか……」
もじもじしてはっきりしないテッドの様子を見て、ホセは顎髭を撫でながらひとつ唸る。
「……なるほど、な。……おい、マスター。すまんが表の通りがちょっと騒がしくなるかもしれん。なに、私がすぐに治めてくるから心配はいらないよ」
ホセはテッドの隣でマントを翻すと、カウンターの奥の店主に声をかけて店の外へ向かった。
と、不意に立ち止まりテッドを振り返る。
「…お前さん、ウェドのことが好きかい」
「え!え…えっ⁉︎えっと、いや、違…ええとっ、違くなくて、その…ちょっと、気になるというか…」
「悪いことは言わん。憧れだけるだけなら良い。だがただの憧れならやめておけ。怪我をしたくなければな」
責めるでもない、穏やかな声だった。
その表情も優しさに満ちている。
テッドは唇を引き結び、震える声を絞り出した。
「……俺じゃ釣り合わないって、わかってるよ…でも…」
「いや、覚悟があるなら追えばいい」
ホセはなおも穏やかな面持ちで言葉を続ける。
「あの男の抱える海は、他人が思っているものと違う。私が思うに、奴の輝く波間の奥にあるのは、暗く深い水底だぞって話だよ。お前さんがそこまで行く覚悟があるのなら…いや…そうでなくても、私は見守ることしかできんのだな。ああ、忘れてくれ」
目を細めて笑うと、ホセはテッドの肩をポンと叩き踵を返す。
「じゃあな、若いの」
その姿は振り返ることなく、店の外にできた人だかりに消えた。
ふいに歓声が上がる。ウェドと先ほどの青髪の男が手合わせを始めたのだろう。
テッドの頭には、ホセの言葉が重く渦巻いていた。
(ウェドの、暗くて深い海…)
二人だけの夜にウェドが時折見せる、どこか心ここに在らずといった暗い眼差しを思い出す。覚えがないわけではない。ウェドが明るく、富も名声も優れた友もなにもかも持っている人間だ、とはもう思っていない。
彼にもきっと、他の人と同じように…自分と同じように、心に秘めた悲しみがあるのだろう。
それがなにかはわからない。でも…
(知りたい。俺、ウェドのこと、もっと知りたいよ)
歓声を上げる人だかりの向こうへ意識を飛ばす。そこにいる男のことを、テッドはまだまだ何も知らない。
テッドはぱん、と両頬を手で挟むと、デザートも置きっぱなしのまま店の表へ向かって駆け出した。