刺繍針と針山のジレンマ ある日の魔法舎、談話室でクロエはデッサンノートに鉛筆を走らせていた。季節の変わり目は衣更えを意識して、次の季節の服のデザインを多く描く。そうして、本格的に季節が変わる前に準備をしておくのだ。
「―クロエ、輝いてますね」
「えっ!?」
「えっと……デッサンノートを開いてるときのクロエは輝いてるなあって思って。ごめんなさい、集中してるのに邪魔しちゃいましたね」
不意にかけられた声に反射的に顔を上げれば、晶が身を屈めてこちらを覗きこんでいた。困り笑いのような表情を浮かべて、きっと驚かせてしまったのだと申し訳なく思っているのだろう。
「うっ、ううん。そんなことないよ! 急に誉めてもらってちょっとびっくりしちゃっただけ。そろそろ一旦休もうかなって思ってたところだから、声かけてくれて嬉しかったよ! ありがとう」
「それならちょうどよかった! そろそろパイが焼ける頃なんです。今日はネロに手伝ってもらいながらですけど、自分で調理してみたんですよ」
「すごーい! 手料理だね!? あっ、魔法の調理器具を使っても手料理には違いないけど!」
「えへへ。今日のは、真・手料理です! 上手くいってるといいんですが……よかったら、食べてみてもらえませんか?」
「いいの? じゃあ、喜んで!」
気づけば昼食後から少し時間が経って、ちょうど少し口寂しくなる時間だったので、ありがたい。クロエはデッサンノートを閉じて立ち上がり、晶と連れだってキッチンに向かった。
その道すがら、描いていたもののことや最近流行のスタイルのことなどを訊かれて話していたが、クロエは狼狽を隠すのに必死だった。何を隠そう、ノートに書いていたのは次に晶のために作ろうとしている服のデザインだったのである。夏の名残ももうわずかとなり、本格的に秋になる。着るものに迷いがちな季節が訪れるその前に、もう少し何か作ってあげたいと思い描くのに集中していたから、すぐ近くに晶が来ていたことに気づけなかった。
以前の自分ならそれくらいのことで心はどよめかなかったのだが、このところは少しおかしい自覚があった。
晶に服を作ってあげるのが好きすぎるのだ。正確に言うと、晶のことが好きなので、彼のために何か作るのが好きすぎるのである。
自分の服作りに対する思いというものは、この魔法舎に暮らす魔法使いのほとんどが知っていて、こうしてデッサンノートを持ち歩いてデザイン図を描きまくっていようともそれをおかしいと言う者はいない。だから、傍目からは自分が晶のことが好きすぎるあまり彼に作ってあげたい服を描いてばかりいるとは分からないはずだ。晶本人にだって気づかれていない自信がある。
シャイロックやムル、ラスティカはとっくに察しているかもしれないが、仮にそうだとすれば彼らは晶本人に暴露するなどといった野暮なことはしないだろう。それゆえ、少し油断していた。
脳裏に思い描いていたひと本人が、あんな至近距離にいて自分のことを誉めてくれるだなんて。嬉しかったけれど、それと同じくらい驚いたし狼狽えた。そして、晶に気づかれていやしないか、いま気が気でない。
結局気が気でないままキッチンにやってくると、廊下にまでうっすら漂ってきていた香ばしいにおいがふわっと身のまわりを包んだ。パイが焼けるにおいだ。クロエは期待にすんと鼻を鳴らした。
「おっ、来たな。ちょうど焼けたとこだよ」
オーブンの前にはネロがいて、こちらに気がつくとふと笑いかけてきた。キッチン台の上には天板が出ており、その上では手のひらサイズのパイが数個焼けている。パイを焼いていると聞いていたからてっきりホールケーキくらいの大きさだと思っていたので意外さにクロエは興味を抱いた。
「ありがとうございます! クロエ、ちょっと待っててもらえますか?」
「うん、分かった」
晶はクロエを作業台兼テーブルに案内し、ネロがオーブンから出した天板の上のパイを一個皿に移して持ってきた。遠目から見るよりもひとまわりくらい大きかったパイは、バターのいい香りがして食欲が掻き立てられる。
「賢者さんの世界にあった店のメニューなんだってさ。俺も興味あったから、一緒に作らせてもらったんだ」
「賢者様の世界には、こんな可愛いパイが売ってるんだね。いいなあ」
「この間思い出して食べたくなっちゃって。きっとクロエも気に入ると思います!」
「本当に俺が食べていいの?」
「もちろんです! 中身が熱いと思うので、気をつけてくださいね」
「ありがとう……! それじゃあ、いただきます!」
晶がいた世界の食べ物、正確にはそれを再現した料理はたまに食べる機会があるが、こうして個人的に呼ばれて出されたのは初めてだ。クロエは六角形の可愛らしいパイと晶の顔を交互に見て、瞳をきらめかせた。
キッチンに入る前に抱いていた不安は一旦置いて、クロエはネロが置いてくれたカトラリケースの中からフォークとナイフを手に取る。晶は中身が熱いと言ったが、何が入っているのだろうか。楽しみにしながら表面にナイフをいれると、幾層にもなった生地の中からとろみのある乳白色のフィリングが姿を現した。
「これ……グラタン?」
「そうです、グラタンパイです! 俺、これが好きでよく買って食べてたんですよ」
「賢者様の世界のひと、天才……!」
「すごいよな。これ応用できそうだから、色々作ってみるかな」
グラタンは、自分の好物のひとつだ。それで誘ってくれたのかもしれない。そう思いながら口に運べば、いつものグラタンにパイの食感とバターの香りが合わさり、うっとりするような感動をもたらした。
「何……? すごい……これ、好き……!」
「あはは。仕立て屋くん、めろめろだな」
「やった! 気に入ってもらえてよかったです……!」
「賢者様、ネロ、ありがとう! 本当においしい!」
「どういたしまして。さ、賢者さんも座りなよ」
晶とネロも同じテーブルについてグラタンパイを食べ始め、試食会のようになってきたそのころ、クロエは晶からパイのおかわりをもらいながらふと一旦置いたはずだった不安のことを思い出した。
いま過ごしているこういった時間も、この押し留めている気持ちを伝えてしまったらどこか気まずいものになってしまい、それ以前に関係だって変わってしまう。分かってはいるのだ。
舌の上でとろけるホワイトソースをゆっくりと味わいながら、クロエはついさっき自分が口にした言葉を反芻してみた。
おいしい食べ物を好きだと言うような気軽さで、晶にも好きと言えたらいいけれども、それが引き金になっていまあるものが壊れてしまうのは嫌だし、怖い。
そんな感情に知らん顔をして相づちをうって笑えば、胸がつきんと痛んだ。
◆◇◆
指に棘が刺さったようなその痛みをやり過ごそうと、クロエは自室に戻るとノートに描いていたデザイン画をパターンに起こしてそのまま裁断に入った。
手を止めると余計なことを考えてへこんでしまうから、同じように晶のことを考えるのなら自分の作ったもので喜んでもらいたいとか、どういったものを着て欲しいとか、そういったことを考えていたい。その一心でひたすら作業を進め、何日かかけて服を数着仕上げると、クロエはそれを抱えて晶の部屋を訪ねた。
「賢者様! これ、この間食べさせてくれたグラタンパイのお礼。とってもおいしかったよ。ありがとう!」
「こんなにたくさん……! いつ作ったんですか? ちゃんと寝てます!?」
「寝る時間はちゃんととって、毎日ちょっとずつ進めて作ったから大丈夫だよ」
「それならいいんですが……。ありがとうございます。ちょうど、そろそろ秋用の服を見に行きたいなって思ってたところだったんです」
服を一着一着広げて見ている晶の表情は、くるくるとよく変わった。驚いていると思ったら気遣わしげに、申し訳なさそうな顔は一瞬で、いまは嬉しそうににこにことしている。
彼がそういった顔を見せてくれるだけで救われるし報われるはずだったのだが、その傍らにもっとと望んでしまう自分もいる。クロエは結んだ唇に笑みを浮かべながら晶の様子を見ていた。……けれども。
「ありがとうございます、クロエ!」
感情の加速が、止まらない。留めきれず溢れて流れ出ていってしまうそれに追いすがるように、クロエはまだ自分が抱えたままの服の下でぎゅっと手を握りしめた。
「あのさ、賢者様」
「はい」
「その服、いま着てみてもらってもいい?」
「いまですか? いいですよ! じゃあ少し待ってて―」
「俺が着せてみてもいいかな」
「えっ……」
「駄目……?」
「……分かりました。お願いします」
衝動的な発言の後から自覚が後を追ってくるが、引くに引けず食い下がれば、晶はほんのわずかの逡巡の後着ていた服のボタンに手をかけ脱ぎ始めた。
クロエはそれから目をそらして着てもらう服を一着選んだ。
ひとつひとつ手縫いでつけたボタンをはずしてから晶を見やれば、彼はたった今着ていた上衣から袖を引き抜いたところだった。
思いきったことを言ってしまった。
いつもなら渡したあとはすぐに帰り、実際に着てからサイズ感を教えてもらって必要に応じて直しを入れるのだが、今日は晶のことを考えながら作った服をこの手で着せて確認がしたかった。もしかしたら、もう少し彼といたい口実でもあるのかもしれない。
でも、それにしてはやはりいきすぎている。いくら、衝動的な発言だったとはいえ―。クロエは、晶に着せた新しいシャツのボタンを留めながら思う。
いま、自分はどんな顔をしているだろう。知られたくなくて、顔をできるだけ上げずにボタンを上まで留めると、すぐ背面に回って肩周りや丈の確認に入った。
「どう? きついところとかない?」
「大丈夫です。着心地いいですし、動きやすいです」
「そう? 丈も丁度いいかな……。合わせにくかったら言ってね、詰めるから」
「ありがとうございます!」
一通り見て落ち着いてきたところで、クロエはそっと深呼吸した。後ろの確認は済んだのでまた晶の前に立たないといけないが、胸に手をやればまだ鼓動が速い。発した言葉だって、いつもの自分の声ではない気がする。
「早く着て出かけてみたいです」
「……そう言ってもらえて嬉しいな。もっと色々作りたくなっちゃう」
晶の背後でそう返したところで覚悟を決めて前に回ると、意識して見ないようにした晶の顔が自分の方を向いているのが視界の端にうつるが、いまはまだ顔を見てはいけない。どんなことを口走るかわからないし、どんな顔をしていいか分からないのだ。
「今度はアウターを作るね。寒くなるまで着られるのと、真冬用の」
「ありがとうございます。でも、本当に無理しないでくださいね」
「心配?」
「……ちょっと」
「ありがとう。集中するとついつい寝るの忘れちゃうから、気をつけるね」
最後に首周りや袖口などのチェックをしたが、問題のありそうな箇所はひとまず見当たらなかったので、クロエはついさっきとめたばかりのボタンをはずし始めた。ボタンつけもボタンホールも大丈夫だ。着脱の度にほつれていったりゆるんでいったりするようでは困る。
そういったことを考えながらひとつひとつボタンをはずしていくが、着せているときよりも胸がどきどき波打ち息苦しかった。心臓がめちゃくちゃなダンスをしているようなかんじだ。クロエはこの期に及んで平静を保とうと試みたが、どうしたところでおかしいのだ。
晶のために服を作るのが好きすぎることだって、晶が喜んでくれること以上のことを望んでしまうことだって、服を作ることだけでなく彼のことが好きだという自覚があるにも関わらず、好きとも言えないままこんなことができるということだって、普通とはもう言いきれない。
でも、仕方がない。
「(好きになっちゃったんだもの)」
クロエは諦めにも似た思いをそっと隠すように、最後にひとつボタンをとめた。
「これでよし! ありがとう、賢者様!」
とびきり普段通りの笑顔を作って、おやすみの挨拶をして退室する。そんな流れを頭のなかに描きながら、クロエはやっと顔を上げた。しかし、さっきまで新しい服を広げて嬉しそうにしていた晶はいま頬を赤く染め、面映ゆそうな表情を浮かべてクロエを見つめていた。
「えっ……と、賢者様……?」
「クロエ。俺、本当に嬉しいんです。この世界にくるまでは、自分のためだけに作られた服を着たことがなかったから」
やっぱりひとに服を着せられるなんて嫌だったかもしれないと思いかけて血の気が引いていきそうなクロエに、晶は言った。その声色は励ますようにあたたかく、けれども少しばかり震えている。もしかしたら、こんな表情を見せるのもこんな声を聞くのも初めてかもしれないと思いながら、クロエは息を詰めて晶の言葉を待った。
「だからっていうわけじゃなくて、なんか……俺、勘違いしてるかもしれないんですけど……」
晶の手が、いまボタンをとめたばかりのシャツの胸元をくしゃっと握りしめる。そうして、曖昧に言いよどんだ言葉の最後に、耐えるような表情で「好きなんです」と吐息と変わらないような声を唇からこぼした。
夢かなにかじゃないかと思った。
クロエはシュガーのひとかけのように小さな、でも確かに聞こえたその言葉を、胸のなかで惜しむように繰り返した。
―好きなんです
自分が伝えたかった気持ちであり、欲しかった言葉だった。
「ごめんなさい。忘れてください」
「待って、賢者様。好きになってくれたことに、謝らないで……! なにも悪いことじゃないし、俺だって……賢者様のことが好きだもの」
「それは……友達としてですよね?」
「友達としても好きだけど、賢者様は友達にそんな顔して好きだって言うの? 俺なら言わない……」
自分も、最初は友達として好きだという自分の感情を少し掴み間違えているだけだと思っていた。けれども、勘違いかもしれないと思い気にしないようにし続けても、どうしても友達に対する感情とは違うのではないかという答えに行き着いてしまうのだ。クロエは、晶が胸元で握りしめている手にそっと自分の手を重ねた。
自分の感情を能動的に止めることはできない。だから苦しいのだ。自分だけ苦しいのだと思っていて、ひとの気も知らないでと感じた日もあったが、それはきっと晶も同じことだったのかもしれない。よく似た色をした苦しみを同じ場所に抱いていたのだと思うと、泣いてしまいそうなほど切なかった。
「後出しは格好つかないけど、でも賢者様が言ってくれたから俺も言うね。俺、賢者様のことが好き! 好きって言っちゃったら、もうこれまでの関係には戻れないって思ってなにも言えなくなっちゃうくらい好き」
いまだって、晶の方から先に言ってくれたから言えたようなものだ。格好がつかないどころか、情けなくなる。けれども、なりふりを構ってなんかいられない。伝えたところで受けいれてくれるとも限らない想いを、結べそうなのだから。クロエは、うっすらと潤んだ晶の目に視線を絡ませた。
「俺って本当根性なし。賢者様が言ってくれなかったら、石になるまで黙ってたかも」
「そんなことないです! 根性のないひとは、こんなに素敵な服を何着も作ってもってくるなんてことはできません。……きっと」
つよい口調の最後に少し自信がなさそうな様子で眉を下げる晶に、クロエの胸はまた痛んだ。けれども今夜はあのときのそれとは違う。きゅんとして切ない、苦しくも幸福感のある痛みだった。笑いたいのと泣きたいのが同時になだれてくるような、めちゃくちゃだけれど嬉しい。そんな感覚に泣き笑いのような表情を浮かべる。
「それに、服を持ってくきてくれるときのクロエを見てたら何となく分かるような気がしてたんです。勘違いかもって思ってはいたんですけど」
「そんなに分かりやすかった!?」
「いえ! 俺が都合のいい勘違いしてただけだと思ってました。でも今日のクロエ、俺に服を着せてる最中顔が赤かったから」
「嘘っ!?」
「本当です! だから俺、勇気がもてたんです」
そう言われて嬉しいやら恥ずかしいやら感情が忙しいけれども、同じ気持ちを抱いているということが分かったいま、心に屈託は最早なくなっていた。ただ、晶に言わせてしまったことは少しばかりくやしいような気はするけれども、自分がうつむいて決して視線をあわせないようにしている間も晶はずっとこちらを見ていたのだ。晶の方がよほど根性がある。
「そっか……」
「頑張ってみてよかったって思います」
「俺は、もうちょっと頑張ればよかったなあ。でも、本当に嬉しい……」
「俺もです」
けれども、根性がなくたって情けなくたって伝えられたらそれだけで上出来だし、同じ想いを抱いていたということはつまり、両想いというやつだ。もちろん、これで関係は完結ではなくてこれからは少し形を変えて続いていくのだが、まずはこれまで板挟みになっていた互いの心を安心させてやりたい。どちらからともなく笑ったふたりの表情は、晴れ晴れとした恋しさに溢れていた。