夢とつなぐキス 雨の音で目を覚ました晶は、薄く目を開けてみてここが自室ではないことに少し遅れて気づいた。自室にはない調度品と、落ち着いた青色のカーテン、そして、自分のものではない寝具に包まれて隣ですやすやと眠るひとの姿。
ここはヒースクリフの部屋だ。
昨夜は彼が作った工作物やこれから作る予定のものの設計図を見せてもらって、自分でも読めそうな本を借りてソファで読んでいたところで記憶が途切れている。おそらく寝落ちしたのだろうが、この部屋で目覚めたということはヒースクリフがベッドまで運んでくれたということである。
人様の部屋で寝落ちしただけでなく、ベッドを半分も占拠して、何てことだろう。晶はあわわと慌ててベッドから降りようとしたが、そのときふとみたヒースの眦に小さくきらりとひかるものを見て、はたと動きを止めた。
「(泣いてる……? )」
見間違いかと思い、顔を少し近づけてみたがやはり小さな真珠のような涙が目の縁に溜まっている。
「……ヒース」
そっと息をひそめて名前を呼んでみても、彼はすやすやと寝息をたてて瞼をおろしたままだ。泣いていると思ったら起こした方がいいような気がして声をかけてしまったが、よくよく見なくても彼の寝顔は苦しそうでも悲しそうでもないので、余計なお世話だったかもしれない。
きっと生理的なものだったのだ。そう思い直し、晶は強く触れないよう気を付けながら指の背でヒースクリフの涙を拭うと、涙の粒のあった眦にキスをひとつ残して今度こそベッドを降りて静かに部屋を出たのだった。
その後、ヒースクリフとは朝食の時間に顔をあわせて昨夜のことを少し話した。他の魔法使いたちの前だったので軽く礼を言う程度に留めたが、頭も体も覚醒してくるにつれ自分が今朝方ヒースクリフにしたことに対する恥ずかしさが出てきて、晶は食事中気もそぞろだった。
自分も目が覚めたばかりでぼんやりしていたし、ヒースクリフとはそういったこともする関係ではあるけれども、それにしても自分にしては大分大胆な真似をしてしまった―。そう思いながら口に運んだ筈のエッグベネディクトを頬にくっつけてしまい、同じテーブルで食事をしていた中央の若い魔法使いたちに心配され、二倍恥ずかしい。
「どうしたんだ? 賢者様。さっきからぼんやりしてるぞ」
「よく眠れなかったのですか?」
「はい……そんなところです」
「お忙しいときは、どうか私たちを頼ってください。力になります」
「ありがとうございます。そのときは、お言葉に甘えさせてください」
ふと見れば、オズも食事の手を止めてこちらの様子を気にかけているようだった。他の三人の間に入って何かを言うということはなくても、目を見れば少なからず案じてくれていることはよく分かる。晶は、そんなオズに大丈夫だとこたえるように笑って見せた。
大丈夫であって大丈夫ではないのだが、何があったかは言えない。ひとまず落ち着いて朝食を済ませ、晶は皿を下げたその足で一旦自室に戻った。
それから少し休み、図書館に移動して直近に行った調査任務や入ってきた依頼に関することをまとめていたが、ふと気を抜くとやはりヒースクリフのことが気になってしまう。他の魔法使いがいたので言いたいことがいくらか言えなかったからであるのだが、改めて話すのはそれはそれで身構えてしまうのだ。
まず、彼の部屋で寝落ちしてしまったことについて謝りたい。それはできるはずだ。しかしもうひとつ、今朝方泣いていたことについて―どうしたものだろう、そう思ったときだった。
「賢者様、」
「んわぁ!?」
斜め後ろからかけられた声に、晶はびっくりして声をあげた。この声はヒースクリフだ。振り向けば、いままさに考えていた彼本人がいて、端正な顔に驚きの色を浮かべて立っていた。
「すみません! 急に声をかけてしまって……!」
「大丈夫です! こちらこそ、大きな声出してすみません!」
「いえ……。ええと……カインが、賢者様が疲れてそうだって言ってて……様子を見に来たんですけど」
お互い謝りあって少し気まずくなったところで、今日はヒースクリフが先に切り出した。
「ああ……」
朝食のときのことだな、とすぐに思い至って晶は苦笑いする。しかし、どういう経緯でそのことをヒースクリフに振ったのか考えると、カインの洞察力が少し怖くなる。一応、ヒースクリフとのことはまだふたりだけの秘密にしているつもりなので、知られているかもしれないと思うとうしろめたいことではないにせよ落ち着かない。
「もしよかったら、少し休みませんか。コーヒーを淹れますから」
「ありがとうございます。じゃあ移動しましょうか」
晶は机の上に広げていた書類を片付けて席を立った。悩む時間があると考えこんでしまうし、二人になれる時間を作れたら昨夜のことを話すつもりではいたので、いいタイミングだったのかもしれない。
連れだって廊下を歩きながらふとヒースクリフを見れば、彼の横顔は相変わらず綺麗で、長い睫の美しいその目元にキスしたという事実がまた追いかけてきて晶の心を揺さぶる。
だからというわけではないが、やはり言っておいた方がいいと思い至り、晶は書類の束を抱える腕にわずかばかり力を入れたのだった。
ヒースクリフも今朝のことには思うことがあったらしく、食堂ではなくどちらかの自室でという話になり、いま晶の部屋はコーヒーのほろ苦い香りが満ちていた。
「気を遣ってくれてありがとうございます」
「いえ。付き合ってもらうかたちになってしまってすみません」
片付けた物書き机にカップやミルクポットを乗せてきたトレイを置き、ヒースクリフがやわらかに笑みを浮かべる。窓の外では今朝方降っていた雨がまだ降り続いていたが、もう雨音が聞こえるほどではなかった。
晶は部屋を訪ねてくる魔法使いのために置いている椅子を持ってきてヒースクリフに勧めると、机の引き出しを開けて紙の包みを取り出した。
「賢者様、それは?」
「少し前に、ヒースにあげようと思って買っておいたんです」
ラスティカが気に入っている、中央の城下にあるティーハウスに置いてあった品物だと説明しながら、晶は包みを開けて見せる。
「ラッピングしてお渡ししようと思っていたんですけど……せっかく二人でコーヒーを飲める機会なので、ここですみません」
「とんでもない! とても嬉しいです」
紙の包みの中から現れたのは、指先程度の大きさの歯車―の形をした砂糖の瓶詰めだった。色も実物に少し似せてあり、なんとも遊び心に溢れている。それを見たヒースクリフは、自分への贈り物だったという晶の言葉もあり晴れやかな驚きを綺麗な顔に浮かべた。
「以前、ヒースは俺にシュガーをくれたじゃないですか。俺は魔法使いじゃないから普通のお砂糖になっちゃうんですけど」
小瓶を手に取り蓋を開けると、晶はキッチンから持ってきたシュガースプーンで砂糖の歯車をひとつ掬い、ヒースクリフに向かって笑いかけた。
「シュガーをどうぞ……なんて」
「賢者様……。ありがとうございます」
しっかり目は覚めているはずなのに、夢のようにふわふわとした心地よい幸福感に、ヒースクリフはとろけるような笑みを浮かべる。
カップの中にぽとんと落とされた砂糖は、瞬く間にしゅわりと溶けてなくなってしまったが、ふたりの間にはやわらかくほどけた気持ちがわだかまり、ここにくるまでに抱いていた緊張もまた、砂糖とともに溶けてしまったかのようだった。
そんな空気になったからか、ふたりは互いにカップを手にしてややあってから昨夜のことを話し始めた。
「せっかく本を貸してもらったのに、寝落ちしちゃってすみませんでした」
「いえ。俺も作業に気をとられてて……すみません。それに、きちんと起こして部屋まで送ってさしあげるべきでした」
「大丈夫です! こちらこそ、ベッドを半分も占領してしまいましたし。……お互い様ということで」
ここまでは、あらかじめ話そうと決めていたことだ。問題は朝のことである。晶はヒースクリフがシュガーをいれてくれたコーヒーを飲んで少し減ったところにミルクを注ぎながら思う。寝顔を見ただけでもまだ何となく悪いことをしたような気がするというのに、その上泣いていたときたらこれもまた何となくだが黙って自分のなかだけに留めておくのは罪悪感のような気持ちで苦しいのだ。
「……賢者様、おかしなことを言ってもいいですか」
「も、もちろん……!」
自分から切り出すつもりが、ヒースクリフが先に仕掛けてきた。彼がどんなことを言うかは検討がつかないが、晶は気持ち姿勢を正してヒースクリフに向き直った。
「今朝、賢者様がキスをしてくれる夢をみたんです」
「えっ!?」
「すみません……! 夢だからって勝手に都合のいいことを……」
「大丈夫です、すみません! 続けてください……!」
いまコーヒーを口に含んでいたら危ないところだった。晶は動揺してひっくり返さないようにカップをソーサーに置き、続く言葉を待つことにした。
「はい、ええと……。どんな夢だったか、内容はもう忘れかけてるんですけど、でもキスしてくれたことだけは覚えてるし、キスの感触だけまだ残ってるような気がするんです。おかしいですよね、こんなの……」
「おかしく……ないです!」
「賢者様……?」
ヒースクリフが頬を染め面映ゆそうにしている、そんなところを見たらもう堪らないような気持ちになり、晶は心を決めた。あちらからその話が出てきた時点で話すしかなくなっていたのだが、やはり気持ちに加速をつけないとおいそれと口にするのは恥ずかしいのだ。
「ヒース、それ夢じゃありません」
「えっ……?」
「ごめんなさい、キスしました」
だってヒースが泣いてたから、などというよく分からない理由つきで白状したが、本当のことだ。寝ながら泣いていたので涙を拭いたそこにキスをしたと正直に言うと、ヒースクリフはいよいよ顔を赤くして慌てたような照れたような、それでも卑怯なほど綺麗な表情で晶を見つめた。
「じゃあ、あれは夢じゃなかったのかな……でも目が覚めたときには賢者様はいなくて」
「それについては、本当にごめんなさい。もう早朝だったんですが、それでも起きるまではのびのび寝てほしくて……」
「そうだったんですね……」
夢は眠りが浅いときにみるものだというから、ちょうどヒースクリフの眠りが浅くなったのと晶がキスをしたタイミングが合ってしまったのだろう。ふたりして見つめあっていたが、ふとどちらからともなく絡まった糸をぱちんと切ってしまったような呆気なさでふっと頬をゆるめる。
「ありがとうございます、賢者様。今度は、眠っていないときにまたキスをくれますか?」
「そっ……それはちょっと、かなり勇気いりますね……!」
ほろ苦くほろ甘いコーヒーとミルク、そしてシュガーの香りのなか、ふたりはまだ面映ゆさを残したまま見つめかわすのだった。