心の在り処 なんとなく連れてきてみたくなって、ミスラは晶を湖に誘ってやってきた。天候はというと、雪は降っているが風はなく上々である。湖面も凍っていない。けれども、北の国の冬としてはまだまだだ。少し落胆しながらミスラは小島を過ぎた辺りで櫂を動かすのをやめた。舟はしばらく惰性で進んだが、やがてゆっくりと動きを止め波に揺られるのみとなった。
「湖面が全部凍るほど寒くなれば、いいものを見せてやれるんですけど。今日は駄目でしたね」
「でも全部凍るくらいっていうと、死ぬほど寒いんじゃ……」
「そうですね。相当強めの魔法をかけないと、きついかな」
魔法でもかけないと、こうして少し話すのに口を開いた瞬間体内に冷気が入り込んできてたちまち凍えるし、口を閉じていたって外から凍える。この程度の寒さならまだ死ぬことはないが、『あれ』が見られるほどとなると晶の言ったとおり死者が出始める。そうやっていくつもの集落がなくなっていった。
「いいものって、どんなのですか?」
「死者の戻り道です」
湖面が全部凍るほどの寒さがしばらく続くと、湖面の氷が山脈のように盛り上がるという現象を、葬ったはずの死者が現世へ戻ってこようとしているのだと勝手に人間が騒いで、そんな名前がついた。そう話してやると、晶は「うーん」と首を傾げた。
「いいもの、なんでしょうか」
「俺は結構好きですよ」
「……それなら、ちょっと見てみたいかもしれないです」
てっきり、たまにそうするように曖昧な表情でなんとなくかわすのだろうなと思っていたミスラは、晶の口から白い息と一緒に出てきた言葉に目を瞬かせた。
自分に限らず、北の魔法使いの感覚とおおよそ普通の人間である晶のそれには、なかなか大きな隔たりがあることはうすらぼんやりと感じている。だから、たまに何かが噛み合うとなんとも言いがたい気分になる。驚いたような嬉しいような、どちらでもないような。名前がつけにくい感情は冷たい湖の波間に漂うようだった。
「嫌がらないんですね」
「ミスラが好きなものなら見てみたいなあって」
「死ぬほど寒いですよ?」
「それは嫌ですけど、ミスラにどうにかしてもらいますから」
「まあ、どうということはありませんけど」
要求されるのは好きではないが、このことに関しては自分が誘ったのが先なので、晶の希望とあらばこたえるつもりはある。死ぬほど寒いと聞いてもどことなくお気楽そうにしているところは、北の国の厳冬をなめているようにも見えるけれども、あれほどの寒さは経験しなくてもいいのならしないに越したことはない。なにしろ、死ぬほど寒いのだから。賢者に、晶に死んでもらっては困る。
ゆらゆらと揺れる舟の上から、ミスラは小島を見つめる。ここは自分の心の在り処だ。ここへ誰かを連れてくるということの意味を考えて、今日晶を連れてきてみたくなった理由がうっすら見えてきた。
心の在り処にある風景を知らせるということは、自分の経験を共有するということである。
自分を知ってほしいのだ。そして、それと同じくらい晶のことを知りたいと思っている。そんな熱が、自分のなかから生まれてくるだなんて、ここで渡し守をしていたときには考えもしなかった。
「あれは死者の戻り道とは呼ばれていましたが、俺は迎えなんじゃないかと思ってました」
「死者からのですか?」
「はい」
小島から視線を戻し、ミスラは厚手の上着を着込んでもなお寒そうにしている晶に語りかけた。
「あれが出ると、死人が増えるので。まずは年寄りや子ども。他はその後ですが、先に死んだ家族が寂しくて戻ってこようとするから、丁重に葬ってくれなんて言われましたね」
「……でも、いま住んでるひとはいないということはみんな……」
「そうですね。こんなところまで来たら、もう死ぬ以外はないんじゃないですか。人間は」
どこへも行けず、戻る場所も雪で閉ざされて、ここを終焉とするのだ。死ぬほどの寒さが過ぎ去るのを祈りながら、或いは死の気配に絶望しながら。
「こんな過酷な場所で、ミスラはひとりだったんですね」
「昔の話です。思い出せないことの方が多いですよ。それに、北の魔法使いのおかれる環境としては別に―」
珍しくもなんともない、ミスラがそう言おうとしたところで、ついさっきまでお気楽そうに見えた晶は切なげに目を伏せた。きっとなにかを思って心を痛めているのだろう。
彼をお人好しだとか優しいだとか評する者は少なくないし、それは彼の美点なのだろうが、自分とかけ離れたことを自分事のように想像しすぎるのはときに愚かだ。
優しくて、それゆえ愚か、そんな晶にふと触れたくなってミスラは腕を伸ばした。けれども、少しばかり届かない。自分が前に身を乗り出すか、晶から来てくれないと触れられないその距離は、感情の距離のようにも感じられる。
「……晶」
少し考えてから名を呼べば、目を伏せ俯いていた晶がゆっくりと顔をあげ、そうしてすぐに手袋に包まれた手を伸ばしてきた。
「知りたいな……。忘れるほど昔のミスラのことも」
「憶えてることと、思い出せることならいくらでも話しますよ」
喜びそうなことも嫌がりそうなことも、晶が知りたいと言うなら応えたい。……賢者が、自分にとってそんな風に思える相手と成りうるなんて思いもしなかった。指先だけ繋いだ手をぼんやりと見つめながら、ミスラは思う。
―この雪のひとひらくらいのぬくもりを、自分の心の在り処に閉じこめておきたい。そして、忘れてしまわないように凍らせて時を止めてしまいたい。
けれども、手放したくないが死なせたいわけじゃない。思い通りになる死体ならいくらでも用意できたって、晶の代わりはいないし、作ってみたところで別物だ。動かしてみても同じことで、自分の願望を写す鏡にしかならないだろう。
そんなものが欲しいのではないのだ。
ちょうど会話が途切れた頃合いに、降ってくる雪が大きくなってきたと晶が言ったので帰ることにした。目当てのものは見られなかったが、あれは気候と運が関わるから仕方がない。今度は双子に天気を訊いてから来るようにしようと思いながら、ミスラは岸へ向かって舟を漕ぐ。
とっくに離した指先にはもうぬくもりなど残っておらず、櫂を持つ手はただ外気によって余韻さえも冷やされていくばかりだった。けれども、そんなことはこの北の国では常である。なにも感じない。
「ミスラ、今日は連れてきてくれてありがとうございます」
「どういたしまして」
櫂を動かす音と水音の継ぎ目に晶がそう言った。人間が来るような場所ではないというのに二つ返事でついてきて、魔法で保護しているとはいえこの寒さに晒されていながら、それでも彼は至って正気で言っている。
そのうえ、西の魔法使いのような酔狂や、東の魔法使いのような義理堅さからでもない。正直、よく分からなかった。うなずいてくれたり話を聞いてくれたりすることに悪い気はしないが、それ以上のこととなると途端に分からなくなるのだ。
湖面に霧がたちこめる朝のようだと思った。何をすれば晴れるのか、近づけば見えるようになるのだろうかと思い巡らせて櫂を動かしていると、表情にでも出ていたのか晶が尋ねてきた。
「……どうしたんですか?」
「いえ。……」
桟橋まで戻るのを待ち、ミスラは晶へと目をやる。
ひとは、どこにいようとそのひとである。場所が、そのひとを別の何かに変えてしまうなどといったことは有り得ない。
たとえ、およそ似つかわしくないような場所にいたとしても―。この生命のにおいのしない場所でただ、晶の存在だけがあたたかかった。