受け取り合うボクら古いビルの鉄製の重い扉を開けると、むわりと熱気の高い風にさらされる。
夕涼みという言葉が幻かのように暑い七月の東京。
赤い西日が長い影を作って、アスファルトの上でゆらゆらと揺れている。
さっきまで空調のきいたブックカフェでアルバイトをしていた黒子には、この熱気がひどく辛かった。
まるで鉄板の上で焼かれる肉にでもなった気分だ。
(バニラシェイクが飲みたいですね……)
冷たく滑らかなシェイクを飲み下す瞬間を思い出して、強い渇きを覚える。
帰宅ルートを変更して買い物に行こうかと考えていると、茜に染まったガードレールに腰を掛ける人物がいた。
「お疲れ様、黒子っち!」
ゆらゆらと沈む夕日のように輝く瞳が、黒子の姿を捉えて溶けた。
投げ出された足が長過ぎてそのスタイルの良さを表している。
「黄瀬君、どうしたんですか?」
今日はゼミで飲み会があると言っていた恋人が、迎えに来てくれるとは思っていなかった。
くしゃっと悪戯が成功したように笑って、黄瀬が黒子の両手を掴む。
「飲み会なくなったんスよ! だから黒子っち迎えにきた」
黒子よりも長い指を丁寧に絡ませて、ニコニコとこちらを見上げてくる。
その首筋に汗が伝うのを見て、慌ててハンカチを取り出した。
「ありがとうございます。結構待ちましたか? 店内で待っていてくれたら良かったのに」
タオル地の黄色いハンカチを首筋にあてると、嬉しそうに笑いながらもっととねだるように首を傾けられる。
そこへポンポンとハンカチを当てていくと、黄瀬もポケットから水色のハンカチを出して黒子の額の汗を優しく拭った。
「ありがと。黒子っちもおでこ汗かいてる。かわいい」
成人男性が汗をかくことの何がかわいいのか黒子には理解できないが、散々言われ過ぎて一々反応するのも面倒なのでスルーをする。
額をすべるハンカチから黄瀬の香水の匂いがして、黒子の目尻がとろりと下がった。
「30分も待ってないぐらいっスよ。それに黒子っち、前は店内入ると怒ったじゃないっスか」
「あれはキミが来すぎて目立ってしまったからです。キミ目当ての女性も多くなりすぎてしまいましたし……とにかく、今日みたいに暑い日は中で待っていてください」
黒子がバイトを始めた当初、黄瀬は毎回黒子のバイトが終わる1時間前に来店してコーヒーを飲んでいた。
そうしてバイトを終えた黒子を自宅まで送ることが多かった。
しかし、周りからは黒子があまり見えていないから、モデルのキセリョが一人で来るカフェとして口コミが広がり、黄瀬のファンが集まるようになってしまったのだ。
日に日に増えていくファンに、とうとう入店待ちの列が出来てしまったので、黄瀬にもう迎えに来ないでくれと伝えたのだ。
「やったっ! じゃあまた嬉しそうに本を並べる黒子っちが見れるんスね」
嬉しそうにニコニコと頬を緩める黄瀬にため息がもれる。
黒子は本が好きだという理由でブックカフェでのアルバイトを決めたが、影が薄すぎてカフェ店員にはあまり向いていなかった。
だから店内にある本の整理や補充、仕入れの選定などをメインに任されている。
黒子はその仕事が楽しくて堪らなかった。
どんな人がどの本を手に取るのかを観察するのも楽しいし、少しマニアックなハードカバーの本を入荷してそれが売れることも嬉しかった。
王道からマニアックなジャンルまで、客層や流行、常連の好みを考慮して選定し、集めた本を本棚へ入れる作業が好きなのだ。
まるで宝物を隠していくようで。
この宝物を、誰が見つけてどう手にとって、どんな風に愛されていくのか。
本の虫としては、過去に読んだ膨大なタイトルの中から選んだ本を誰かに気に入ってもらえるのも嬉しいのだ。
そしてそんなお気に入りの作業をしている黒子を見るのが好きだと黄瀬は言う。
ワクワクしながら本を並べる黒子が可愛くて、コーヒー何杯でも飲めると言われたときは流石に困惑した。
「キミ、ボクのこと好きすぎませんか?」
呆れながらそう聞いたらにっこりと笑った黄瀬が「好きすぎますね」なんて言うものだから、恥ずかしくなって後悔したのを覚えている。
「黒子っち腹ペコ?」
ガードレールから立ち上がり、頭一つ分高い位置から聞かれて「バニラシェイクの気分です」と即答した。
それに爆笑した黄瀬が「じゃあバーガーも買って帰ろう!」と手を繋ぐ。
丁寧に一本一本指を絡めた、いわゆる恋人繋ぎをして嬉しそうにその手をふる。
黄瀬は黒子との関係を隠していない。
大学に進んでもモデルの仕事は続けているが、インタビューなどでは「恋人がいます」と答えている。
わざわざ男同士とは言わないが、女性とも言わないため様々な憶測が飛び交っているようだ。
だから街でも堂々と手を繋いでくるし、デートもする。
黒子は単純にそういった行為を他人に見られるのが恥ずかしいから、逃げたり断ったりしてしまいがちだ。
でも今日の黄瀬の手は発熱しているのではないかと思うほど熱かった。
だから、カフェの冷房にずっとあたって少し体温が低かった黒子はその手を振りほどけなかった。
きっとこの暑さの中、外で黒子を待っていたからこんなに熱くなってしまったのだ。
黄瀬の手の高い熱がじんわりと黒子の手を温めて、二人の体温が混じっていく。
バスケがうまくて、イケメンで、モデルで、オシャレで、明るくて気さくで優しい。
そんな男がモテないはずがない。
モテ要素しかない恋人を持っても、黒子がそこまで不安にならないのは、黄瀬がきちんと想いを伝えてくれるからだ。
言葉でも行動でも、眼差しでも、黄瀬は『好き』を伝えてくれる。
だから黒子は安心していられる。
でも黄瀬はどうだろうと、不安になることもある。
黒子自身があまり想いを大っぴらにはしないから、黄瀬に伝わっていないんじゃないかと不安になるのだ。
大きくて、節が太くて、いつもあたたかい黄瀬の手。
この手に、こんな風に触れる日がくるなんて夢にも思っていなかった。
中学生の時、無邪気で天真爛漫な黄瀬に恋をした。
ここまで自分に素直に生きている人を他に知らなかったのだ。
自分の心に正直で、好きも嫌いもはっきりしている黄瀬が気持ち良かった。
そんな彼に少し特別扱いされることも、黒子の心を揺さぶった。
色々あってバスケへの情熱が冷めても、黄瀬への想いは消えなかった。
だから高校最後の大会の後で黄瀬に告白された時はとても驚いたし嬉しかった。
進路とか、互いの幸せだとか、たくさん悩んだけど、どうしても欲しくて頷いた。
そうして握った黄瀬の手は、とても大きくてあたたかかったのだ。
黄瀬は相変わらず心のままに、恋人に寄り添い甘やかす。
今だってハンバーガー3種にチキンナゲットにポテトにパイにシェイクに、黒子が好きなものを一口ずつ食べれるように黒子の好物ばかりを注文している。
受け取ったテイクアウトの袋は黒子の好きな匂いでいっぱいだった。
「持ちますよ」
「重いからいいっスよ」
「重いなら分けましょうよ」
両手に紙袋を持って歩く黄瀬に手を差し出しても、ニッコリと微笑むだけで終わった。
こうなると黄瀬は頑固で、全く荷物を渡してはくれないのだ。
「……ポテトのいい匂いがします」
「揚げたてだって!」
袋を覗き込めば黄瀬が中身を見せてくれる。
すんすんと鼻を鳴らして、黄瀬に体重を掛ければ「なんスか~」なんて笑った。
そんなやりとりが、楽しいのになんだか寂しい。
体格差がどうあれ、黄瀬には自分を頼ってほしいのだ。
「もう一回かぎたいです」
「え~そんなに?」
笑った黄瀬がまた広げてくれた袋に鼻を近付けて、クスクスと笑うその手から袋を奪った。
「あ、ちょっと!」
文句を言う黄瀬の手に自身の指をゆっくりと絡めて「手、繋ぎたいので」と告げる。
なにも言わなくなった黄瀬を見上げれば、その首筋まで真っ赤に染まっていた。
それを見て黒子の白い肌も赤く染まる。
もう付き合って数年経つのに、そんなに初々しい反応をされると黒子も照れてしまう。
(だって、こうしなきゃ荷物を持たせてくれないじゃないですか)
そう自分に言い訳をして、どちらのものかわからない手汗が滲む手をニギニギと握りこむ。
「マジそーゆーかわいいことほんとやめてー」
眉を歪めて懇願してくる黄瀬を無視して顔を背けた。
見られるのが恥ずかしいからと言って、恋人と手を繋ぎたいという欲求が黒子にないわけではないのだ。
結局手は離さないまま、黒子が一人暮らしをするアパートへ辿り着いた。
玄関ドアを開けて中に入るが、いつもは人感センサーでつく明かりがつかない。
不思議に思ってスイッチを探っていると、不意に横から顎をすくわれ唇を奪われる。
チュッと可愛いリップ音を立てて離れたそれが、何度も何度も黒子の唇を奪っていく。
その勢いにふはっと笑えば、緩んだ唇の間に舌が差し込まれた。
上顎や歯列を擽られ、トロトロと流し込まれた唾液を飲み下せば「ふふ」っと満足そうに黄瀬が笑う。
黒子の眉間や鼻筋の辺りに、黄瀬の長い睫毛がぱしぱしと当たって黄瀬が目を開いていることを伝えてくる。
黄瀬は「キス顔が見たいから」と口付けの時、大抵、薄目を開けている。
それに気付いた時はとにかく驚いて「恥ずかしいからやめてください」と伝えたこともあった。
それで一度はやめてくれたが、気付けばまた見つめられているから困ってしまう。
(だいたいこんな暗がりで、顔が見えるわけないのに)
抗議の為に胸を叩けば、ニコニコと黄瀬が顔を離した。
「電気ぐらいつけさせてください」
「だって会ってからずっとキスしたかったんスもん」
手動でつけた玄関のダウンライトに、上機嫌な黄瀬の顔が照らされる。
とろりと溶けたようなその笑顔が、黒子は大好きだ。
黄瀬に対する微々たる不満や呆れは、この笑顔を前に一瞬で流されてしまう。
この人がこんなに幸せそうならもういいかと、そんな気持ちになってしまうのだ。
サイズの違う靴を綺麗に並べて、手を洗いに洗面所へ移動する。
先に手を洗い始めた黒子の袖を、黄瀬が丁寧に捲ってくれた。
それに笑いながら後ろに立つ黄瀬の胸へ背中を預ければ「な~に~」なんて上機嫌で笑う。
つられて頬が緩んでしまうから、グリグリと後頭部を擦り付けることで誤魔化した。
なんでこんなに変わらずずっと好きなんだろう。
付き合ってから、穏やかで楽しくて優しい時間が絶えず流れている。
それはきっと、黄瀬が黒子を思いやってくれているから。
黒子が楽しいように、心地いいように、絶えず心を砕いていてくれる。
そしてそんな黄瀬の心遣いを感じる度に、どんどん好きが深くなっていく。
ありがたいことだなぁと、思う。
同時に少しこわくもあった。
この手を離されたら、自分で自分を保てるのか自信がない。
しっかりと手をすすいでから、綺麗なタオルで水気を拭いた。
そしてそのまま手洗いを終えた黄瀬の手も拭いてやれば、「ありがとう」とこめかみにキスをひとつ落とされる。
その溶けた琥珀色の瞳から、黄瀬が幸せそうなのが強く伝わってきた。
自分に向けられる純粋な好意に、こちらの瞳まで溶け出してしまいそうだ。
「黄瀬君って、好意を伝えるのが上手ですよね」
噛み締めたような声が出て、自分の言葉に驚いた。
黄瀬もビックリしたように目を大きくして瞬きしている。
「いや、ボクも伝えたいとは思っているんですが、やはり少し恥ずかしくなってしまうので……」
段々と小さくなる声が情けなくて下を向けば、アハハっと笑った黄瀬に抱き締められた。
「んー、オレの『好き』をさ、黒子っちが喜んで受け取ってくれる間に沢山伝えておきたいんスよ」
少し苦い黄瀬の声に驚いて顔をあげた。
困ったように眉を少し下げた黄瀬が、わざと笑って伝えようとしているのを感じてどうしようもなく背中が騒ぐ。
「あんなに大好きだったバスケ急にやめちゃった時みたいに、急にオレからの『好き』が迷惑になることもあるかもしれないじゃん? だから、オレは好きって思ったらその時に言いたい。好きって言って受け止めて貰えたら嬉しくって、もっともっと黒子っちのこと好きになるしさ」
閉じられた薄い瞼に影を感じて、鳩尾をぎゅっと押されたように苦しくなった。
そんなことないと、口にしようとして失敗する。
中学生の頃、姿を消した自分を黄瀬がずっと探してくれていたのは知っていたから。
あの当時、青峰や自分の心変わりで振り回してしまったのは事実だ。
でもそれが、こんな風に黄瀬の中に深く食い込んでしまっていたとは、知らなかった。
「ボクが心変わりするなんて、考えたこともなかったです。ボクはもうずっとキミが好きだから」
己を守るシェルターのように閉じられた黄瀬の瞼にキスをする。
恐る恐る、ゆっくりと開けられた琥珀の瞳が、ゆらりゆらりと揺れている。
そんなことにまたぎゅっと切なくなって、ちゅっと唇へ口付けた。
きっと黄瀬の不安を吹き飛ばす、魔法のような一言はない。
その分時間を掛けて、信頼を勝ち取っていくしかないのだと思う。
「でもそうですね。ボクもキミが喜んで受け取ってくれる間に、たくさん伝えた方がいいのかもしれない」
キミが喜んでくれるうちに。
自分の想いをたくさん贈って、柔らかく笑ってくれるなら。
少しの恥ずかしさなんて、なんてことはない。
『大好き』がある日突然、しんどくなってしまう瞬間を二人は知っている。
でもだからこそ、この走る胸の音がまっすぐに鳴っているうちに伝え合うことの大切さも理解できる。
「好きです。黄瀬君。中学生の頃から、変わらずキミが、大好きです」
滑らかな頬へそっと手を添えると、黄瀬の大きな瞳に涙が滲む。
「うん」と。「ありがとう」と。
黄瀬が黒子からの好意を大切そうに受け取った。
そんな黄瀬が可愛くて、黒子は眉を下げて笑った。
「確かに未来の事はわかりませんが、明日も絶対にキミが好きです。多分、明後日も明明後日も、『明日も絶対キミが好き』だと想っています。そうやって、確かな想いを重ねていけたらと、思います」
金色の髪を撫でつけ微笑めば、黄瀬が黒子の瞳をじっと覗き込んだ。
黒子の瞳が好きだと黄瀬は言う。
黄瀬が黒子の瞳を覗き込んでいるとき、黒子も確かに黄瀬からの想いを感じている。
「好き、黒子っち。大好き」
愛を乞うように伝えられた想いを受け取って、「ボクもです」と抱き締めた。
あたたかい想いの循環が二人をどこまでも幸せにしていく。
『ぐぅ~~~』と甘い空気を裂くように黒子の腹の虫が鳴った。
あまりのタイミングにざっと頬や耳が熱を持つ。
その見事な音にくしゃりと皺を寄せて黄瀬が笑った。
「ねぇ~このタイミングは可愛い過ぎないっスか?」
「……お恥ずかしいです」
「ふふふ、バイト頑張ったんスもんね! はやく食べよう」
ぐっと身体を持ち上げられて、抱っこされたまま食卓へ移動する。
「わっ」と小さく声を上げて黄瀬の首へしがみついた黒子は、クスクスと笑いながら黄瀬の頬へキスをした。
カッコ悪いところだって、黄瀬が笑って受け止めてくれるからそんな自分も受け入れられる。
想いを預けて、受け取って。
明日も明後日も、たぶん絶対キミが好き。