報われない努力(あなたという人) 狡噛を忘れられたらと思ったことは数え切れない。彼を愛さなかったら、きっと俺はもう少し上手くやれたんじゃないだろうか? 上司からもたらされる見合いの写真を断ることもなく、執行官たちの立場を思って腹芸をすることもなく、狡噛が少しでも自由に動けるよう青柳に彼を託すこともなかった。でも、彼は俺の手を離れて、遠い所へ行ってしまった。行方は知れない。シビュラの範疇外ということくらいしか俺には分からず、俺の上司となった常森が知るのもそれくらいだった。監視官の強力な権限があってもそれなのだから、きっと今頃は自由に野良犬として生きているのだろう。
狡噛を忘れられたら、そう思って学生時代から撮り溜めていた写真のメモリーを消そうとしたことは数知れない。けれど俺はみっともなくそれに縋ってしまい、記憶の中で薄れつつある彼の声や、肌や、熱を思い出そうと努力するのだった。でも駄目だ、それも最近は駄目になってきてしまった。彼はどんな声だった? 俺を抱いた日の肌はどんなふうだった? あの瞬間に感じた熱はどんなものだった? 思い出そうとしても、それはいつも中途半端で終わる。まるで、彼がもうこの世には存在しないかのように。
「宜野座さん、おはようございます」
「あなたは……また徹夜か。今はいいが俺の歳になったら身体に堪えるぞ」
朝早くテラスに寄りかかってコーヒーを飲む常森とそんなやりとりをして、俺も買っておいたコーヒーを取り出した。最近重大な事件が続いている。眠れないのは仕方がない。俺が彼女みたいになっていた時は、狡噛が無理矢理寝かしつけてくれたなと思い出し、俺は少し笑ってしまった。
「宜野座さん、笑ったでしょう。そんなに酷いですかこのクマ……」
「いや、思い出し笑いだよ」
俺はそんなふうに笑って、日本でいつものように生きてゆく。狡噛に捨てられたことはまだ苦しくて受け止められないが、そろそろ歩き出さなきゃいけないのだろう。あいつだって、当時の判断が最適だったと言うだろうから。だから俺もそれに順応しなくちゃならない。
「宜野座さん?」
何も言わない俺に、常守が言う。俺は返事もせずコーヒーを飲み干す。もう明るい空の下にはきっと狡噛がいるのに、俺たちはそれで繋がるだけで出会うことはない。