食事。いただきます。ご馳走様。千冬からする汗と少し甘めの香水が鼻をくすぐる。
匂いが麻薬のように身体中に巡り、夢の中にいるのうな錯覚に少しの心地良さと不安感が押し寄せた。
いつも通る廊下がやたら長く感じるのも、地に足が着いてるのか分からないこの感覚も全部千冬のせいだ。
千冬がリビングに入ってすぐに、俺の手を離し
「食事の前に、手洗ってきますね。
一虎くん座って待っててください。」
と足早に洗い場へ向かう。
俺は、言われるがまま椅子に浅く座りぼんやりと手首を見つめる。
握られた手首がカイロのように暖かくなっていて、反対の手で熱を冷ました。早く冷めろと手首に力を込めて握りしめる。この温もりがなくなっていくのが嫌だという自分に気づいた時には、手首に真っ赤な半月型の痕が残っていた。
気を紛らわせるように周りの音に耳を傾ける。
今まで不快に感じていた料理を作る音が、期待に胸を膨らませる軽快なリズムに変わる。オーブンからチーズが焦げた匂いが漂って、口の中を唾液が満たしていく。
目の前に並べられていく料理をボーッと見つめ、ハッとしたように「俺もやる」と言えば、
「座ってていいですよ」なんて優しく子供にいいつけるように返される。
子供のように扱われることの腹立たしさよりも、甘やかされている事実が疑問でしかたがない。
グラタンは綺麗に焼き目についたものを俺側に、黒く焦げているものを千冬側に並べ
「いただきます。」と千冬は静かに両手を合わせ食べ始める。
料理を変えようと手を伸ばそうとすれば、千冬は黒く焦げたグラタンを一口食べて
「これは俺のです。一虎くんのは目の前にあるじゃないですか。」
と一蹴されてしまう。
俺こそ、黒く焦げたグラタンを食べるべきなのに、千冬がなんでこんなに優しくするのか分からなくて睨みつけた。
見た目と反して大きく口を開け食べる姿は幼子のようだ。その割に、咀嚼音はとても静かで噛み締めるように一口ずつ飲み込む。
ほんのりと赤く色付く頬や唇に目が奪われる。
口元についたシチューが少し艶めかしくて、食い入るように見てしまう。
「俺の事見てないで、食事とってくださいね」
と半ば呆れたような照れたように千冬は揶揄った。
睨み付けいたはずが、いつの間にか見蕩れていた事に恥ずかしさが込み上げる。
小さく「いただきます」といい、目の前の食事を見つめた。
歪に切られた具材が、今の自分を表しているような気がして苦しい。それを見たくなくて、無理矢理口の中に詰め込む。
苦しさから涙がボロボロと零れ落ちる。
こんな滑稽な姿を見て揶揄るわけでも、心配するわけでもなく、
食事を続ける千冬の行動に少し安堵した。
「おかわり貰いますね」
「見た目に、反して、千冬よくたべんだ」
「あー、一虎君来るまでまともな飯食べてなかったんで、その反動ですかね」
少し歯切れが悪そうに千冬が笑って、綺麗に切られた具材を口に含む。
じゃあ、朝も俺が来てから作るようになったのか?なんで、
そんな言葉より先に出てきたのは憎まれ口だった。
「…散々言ってるけど朝飯いらねえよ。俺の美味しくもない飯食べてお替りするぐらい碌な食生活送ってなかったんだろ。」
「一虎君の作ったご飯は、毎回美味しいです。一昨日のハンバーグだって、昨日の肉じゃがだって、今日のシチューも全部美味しいですよ。
断られても、朝ごはんは作りたいから作ります。」
胸倉をつかむ勢いで言葉を並び建てられ、
「なんで、そこまでするんだよ。」
反論の言葉が空中に消えていく。