この地獄めぐりの旅は緩急が激しい。
しばらく何もなくバスに、波に揺られるかと思えば、今日のようにたった24時間という箱の中によく入ったものだと思うほど出来事の詰め込まれる時もある。
くたくたの体を作業机の前にある椅子へと投げだしたのは間違いだったかもしれない。どうにも気持ち悪くてタスクの報告書をいくつか書く前にシャワーを浴びてしまいたかったけれど、錘でも入ったかのように尻が重く億劫で、痛む肩を庇いながらコートひとつ脱ぐのにも苦労するのが目に見えていた。
囚人達と違って私の服は戻せないから困ったものだ。幸いというべきかイシュメールの銛は鋭く尖れていたためにコートの切り口は綺麗なもので、今回の枝に至るまでの道のりを思えばしばらくは繕い着続けるのが妥当だろう。
脱いで、シャワーを浴びて、報告書を書き服を直して。やることだけは山積みだ。
ぐったり背もたれに身を預けてさてどうしたものかと半ば投げやりに考えていれば、コンコン、と規則正しいノックの音。
「管理人様」
<ムルソー?>
時計の音だけで許可を示せばドアが開き、礼儀正しい挨拶と共に先ほど業務を終え別れたばかりの男が近づいてくる。
ぴたりと椅子の前で立ち止まりこちらを見下ろす緑の目からは何の感情も読み取れない。
一応のところ気持ちの通いあった仲であって、彼が夜に部屋を訪れるのもいつものことだけれども今日は明らかに様子が違う。
<どうしたの、なんだか荷物が多いね>
「必要な物品を持参しました」
ワックスで固められた髪もそのまま、部屋に戻り着替えてからすぐにやってきたのだろう。通常であれば彼は自室で入浴とガントレットの手入れ、それとトレーニングのような多少の日課を終えてからこのストライプの上着に白いスラックスの姿で訪れる。
戸惑いながらも問えばムルソーはすぐに持っていた洗濯カゴを置き、上着と同じ柄をした首元のネクタイに指をかけするりと引き抜いた。
<わ、ちょ……!>
異常の理由もわからないまま、どうしてか早々とこの恋人が脱ぎ始めてさえいることに頭の処理が追いつかない。
<どうして脱いでるの!? それに今日は随分と早く来るし。まだ私何も済んでないんだけど>
「入浴の介助が必要かと思いまして」
<あ……>
指し示された自らの肩に視線をやれば破けたシャツの下に血の滲んだ包帯が覗いていて、無意識に見るのを避けていたのだと自覚した。
「傷の処置は済んでいるが、可能な限り早く清潔にした上で包帯を巻き直す必要があります」
近づけられた大きな手が赤いネクタイをそっと持ち上げ、双眸のエメラルドはただ黙って私の許可を待っていた。
<……うん。お願いして、いい?>
「はい」
正直介助の申し出はありがたい。
深い怪我をしているのだから避けるべきだとわかっていたが、一日中裏路地の血と埃に塗れた以上体を拭くだけで済ませたくはなかった。
黒のシャツを隔て密着した背中越しにムルソーの鼓動が伝わってきそうだと思ったけれど、どうやらそれも分厚い胸板に阻まれているらしい。
一通り洗う間バスタオルで保護してくれていた傷があらわになり、大きな指の腹が繊細に周囲の肌を拭い清めていった。
<いたた……>
「! 申し訳ありません」
<いやいや、染みずに洗う方が無理だよね。ごめん>
滑る手つきは丁寧で、念入りに血や汚れを洗い流していく。裸の恋人を抱きしめている状況にも関わらず他意を感じさせないそれが唯一最後だけ、何かを確かめるようにツツ、と縫合の上と銀鎖をなぞっていった。
手を離して終了を告げる男へ向き直り、濡れた右腕を使ってその髪へとお湯を塗ってやればエメラルドが丸くなる。
<風邪ひいちゃうよ。君のことも洗ってしまおう>
「管理人様の傷の処置が優先されます」
<その私の提案だよ>
「……わかりました」
良い子だとくしゃくしゃ髪を撫でてやれば丸かった目は細まり、身をかがめてその頭が差し出される。ちょっとした揶揄いも兼ね、既にはりついてしまっていたシャツごと遠慮なくシャワーをあびせかけると彼は小さく声を洩らした。
浴槽に腰掛け、濡れた服を部屋へと放り投げてからきっと毎日彼の部屋で行われる通りに定められた入浴の手順をこなしていくムルソーを温まって金に輝く指輪越しに眺める。
男性的で引き締まった美しい肢体。私の体と違って、私というものをその胸に繋がった可能性の鎖でしか刻むことのできない、傷つく度跡形もなく修復される肉体。
浮かんだ『もしも』に首を振った。それは傲慢、我儘などというものだ。
<わぷっ>
満ちた湯気のように揺蕩う思考のうち、急に頭の外側へ勢いのある温かな水流が跳ね返る軽やかな衝撃で我にかえる。
「……身体を温めようと思ったのですが」
視線を蛇口へやって捻ったものだからどうやら手元が狂ったらしい。或いはわざと、悪戯の仕返しだったのか。
<わひゃあっ!>
大きなバスタオルに包まれたと思えば抱きあげられて抵抗も虚しく運ばれる。
ベッドに降ろされ体が沈み、少しして服を着たムルソーが私の着替えや薬を手に戻ってくる。
傷ついていない方の肩へ甘えた大型犬のように埋められた顔はただじっと何かを待ち、耐えているようだった。
「……痛みますか」
<うん。でも君のおかげで少しは楽になったよ>
生憎前回のような手はもう使えない。K社の生命水は適合の条件を満たさなければ肉体を崩壊させるリスクがあり、このままでは確実に死ぬというほどの怪我を負った状況でもない限り無断での使用を禁止されてしまっていた。
出港前、メフィストフェレスの中でウーティスが傷を縫合してくれる間、私が動かないようにと座椅子のような固定役にされていたムルソーは膝掛けにした上着の下でずっと手を握っていてくれたのだ。
<ありがとうね>
襟足をくすぐるとすり寄せられた顔が名残惜しそうに離れ、縫い目の上に柔らかな唇が触れる。軟膏をすくいとった指は動かず、ただ付け根で入れ物をトントンと叩いていた。
<何か気になるところがあった?>
「…………いえ」
問いかけると少しして返るのは否定の言葉。明らかに何もないことはないだろうと見つめれば彼はようやく重たそうな口を開く。
「あなたのこの傷も……恐らくは治癒と共に継がれるでしょう」
<うん、そうだろうね>
人らしからぬ黒の体に、傷が治る度増えていく金。
「……他の者の色が差し込まれるかもしれないと思うと、どうにも……苦しい」
ムルソーの刻まれた左腕の銀鎖を彼の親指の腹が撫でていく。
イシュメールの銛に付着していた他者の血が、私の継ぎ目に悪さを、彼以外のものを刻んでしまうのではないかと。
<…………君、結構可愛いところがあるな?>
そんなことを言っている場合ではと咎めるような顰められたやや下がり眉の視線。理屈から外れたヤキモチを持て余してしまう、存外幼い私の恋人。
<大丈夫、これまでも武器で小傷のついたことはあるけど……全部金継ぎになったはずだよ。君を除いて>
だけど。
目の前の微かに戦慄く顎をそっと両手で包み、美しい緑を覗きこむ。
<念のため、上書きしてくれたら……嬉しいな>
どうせしばらく船の旅だ。
報告書もコートも全部、知ーらない。
明日の移動時間に放り投げてしまえばいい。
今はこの恋人と、これからより困難になるであろう船旅への願掛けを優先したかった。
とんとん、と指で叩いた傷はただ縫われただけでまだ塞がっていない。それに私はまだパンツすら履いてなくって、お誘いには十分だと思う。
「傷口を化膿させる恐れがある」
<君の鎖をもらう対価にちょうどいいリスクだね>
「……あなたの身体に負担をかけるべきではない」
<このままだと私、傷が痛くて眠れないかも。寝かしつけてくれたら助かるんだけどなあ>
「…………ッ!」
また丸く見開かれた目が潤み、何かを噛み締めるような言葉にならない声の末。
秘めた肉食の獣みたいな口が開き、肉厚で色の良い舌が躊躇いがちに向けられるのが見えて、ぎゅうと抱きしめ体を預けた。