【刀×医パロ(🍯🌰)】㉒折紙付鍵を回す音を聞きながらドアを開ける。入った部屋の中が暗闇で沈んでいる。
この仕事をしていると月に何度かこんな夜がある。今夜は伽羅ちゃんが当直だ。
ここに引っ越す時、広さも立地も一番いいのはカード式の鍵がついている別の部屋だった。部屋の条件を何も言わなかった伽羅ちゃんが、差し込む鍵がいいと言ったのでここの部屋にしたのだ。カード式の部屋を鍵に変えることもできたけど、彼がこの部屋を気に入ったので今はここに住んでいる。
伽羅ちゃんが一緒にいる時はドアを大きく開けると先にするりと入っていき、僕が後から帰る日はひたひたと玄関まで静かに歩いてきて迎えてくれる。
そんな日々をどれくらい繰り返してきただろう。僕はもう何年も前から伽羅ちゃんと月に数回、すれ違いの生活をしているけれど、まだこの独りの夜を始めるのには少し勇気がいる。
帰ってまっすぐキッチンに向かった。先にレンジで作り置きの解凍を始める。その間に着替えてパソコンと携帯の充電をして、ほぼキッチンで立ったまま食事を済ませた。終わったら手短にシャワーに入る。
パソコンで雑務をする合間に、22時を過ぎたあたりで伽羅ちゃんにおやすみとLINEを送る。すぐにスタンプだけ返ってきたので、そのまま作業を続けた。このあとの深い時間に連絡が来るのは鶴さんくらいだ。
仕事の合間に、今度伽羅ちゃんがいる時に晩ご飯は何を作ろうか、駅前のケーキ屋さんに寄って帰るのはいつにしようか、考える。
一緒に見たい録画番組、飲みたいお酒、話したい長谷部くんのうっかりエピソード…考えることは伽羅ちゃんのことばかりだ。
スマホを閉じて5分ほどで、携帯が鳴った。鶴さんか、たまにくる長谷部くんかと思って画面を見たら、久々にその名前を僕の端末で見る相手だった。
「加州くんかい?」
「燭台切さん、おはようー!じゃなくて、そっちはこんばんは?今電話大丈夫ですか?」
変わらない加州くんの声だ。伽羅ちゃんが入局するタイミングで加州くんは留学したので、ここ数年はほとんどメッセージだけのやりとりになっている。
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?伽羅ちゃんつかまらなかった?今日は当直なんだ。あと…10時間後くらいには明けると思うけど」
僕が掛け時計を見ながら話すと、加州くんはそうではないと返事をした。
「今日は燭台切さんと話がしたかったの!」
加州くんの話は伽羅ちゃんから時たま耳にしていたけど、共有している研究の進捗とか現地の医療事情とか仕事の内容ばかりだったから、現地の友人や生活、住んでいるところなどを初めて話した。
「ご飯は、まーずーいー。ご褒美メシがなくてつらいです。でもお酒は美味しいかな!男みたいな女が1人いてさ、最近はずっとその子にネイルしてもらってるんです。あ、でも今ビデオチャットじゃないから見せられないか」
「今度伽羅ちゃんと話す時に見せてよ。加州くんが楽しそうで良かった。ご飯が恋しくなったらたまには日本に帰ってきてね」
加州くんの元気な声で気持ちが明るくなる。彼と伽羅ちゃんは僕が妬くくらい仲がいい。こんな親友が伽羅ちゃんにいて本当に良かったと思う。
「さて、ここから本題。燭台切さん、大倶利伽羅にプロポーズする気、ある?」
加州くんからの急な提起にびっくりして、思わず、どうしたの?と質問で返してしまう。
「大倶利伽羅、なんでか知らないけど、今はもう諦めちゃってる感じだよ」
「え…そうなのかい?」
「うーん、何故か最近、すんごい自信無くしてる。喧嘩でもしたんですか?」
加州くんの言葉は全くしっくりこなかった。伽羅ちゃんが僕のプロポーズを避けているように思えていたから。
「伽羅ちゃんは…もしかしたら僕と結婚したくないのかも。この間も指輪見たくてお店行ったけど、興味なさそうだったし…」
今度は加州くんが大声でびっくりしている。
「いや、それはない。燭台切さん、あいつが溺愛なの分かるでしょ」
「そうでもないよ。僕ね、結構前に伽羅ちゃんから一度指輪をもらってるんだけど、それも忘れちゃってたから、なんか違うのかもなぁと思って、今少し悩んでるところ」
「え!?それいつ?」
「指輪もらった時かい?伽羅ちゃんと君が5年生だったかな。クリクラ始まって少しくらいだったから」
声だけで僕に食らいつきそうな加州くんを落ち着かせて、また雑談に脱線していく。
僕はその裏の意識で、曖昧にしていたこの記憶を、自分の中で静かに思い出し始めた。
*****
伽羅ちゃんが5年生になって半年過ぎた頃から、彼には実習の他にも選択科目や衛生ゼミと課題が立て込んで、平日だけでなく週末も大学に通い、夜まで勉強する生活を続けていた。
彼の勉強相手は大抵加州くんで、何日も続けて夜も外食してから帰ってくることが頻繁に起こるようになり、僕はそれに気持ちのすれ違いを感じるようになっていた。
ある晩、遅くに帰ってきた伽羅ちゃんを寝ないで待っていて、すごい剣幕で今まで溜まっていたものをぶつけたことがある。
伽羅ちゃんはとても困っていて、そんなつもりはないし今が佳境だからもう少しだけ待っていてほしい、と言われた。
それでも僕はどうしても気持ちの整理がつかなくて、数日後、もう嫌だとついに言ってしまった。
伽羅ちゃんは謝ることも好きにしろと突き放すこともしなかった。
代わりに綺麗な箱に入った美味しそうなチョコを出して、これで機嫌直せ、と言った。
その時僕は相当堪えてて、もう何をされてもダメな時期になってて、どうせこれも加州くんと買ってきたんでしょ、と怒って、目を背けた。
伽羅ちゃんは箱を開け、包み紙を剥がしてチョコを出すと、
「いいから食え」
と言って、半分齧ったチョコを僕にキスして口の中に突っ込んだ。
僕がもう吐き出すのを諦めてチョコを口に入れると、まだ睨んでいる僕を一瞥して、それから包み紙を綺麗に広げ始めた。
広げた包み紙は正方形で、伽羅ちゃんはいくつかまっすぐ折り目をつけたあと、慣れた手つきで折り紙を始めた。
そして、完成したハートの飾りがついた折り紙の指輪を、僕の左手をとって、薬指に通したんだ。
「あんたの気持ちは分かる…でも俺にはあんたしかいないのも、もう分かるだろう。
光忠、頼むから機嫌直せ。…愛してる」
僕は伽羅ちゃんにそのままキスをした。チョコレートの味が甘くてちょっとお酒の味がして、その濃度が口の中にずっと残って幸せだった。
「これ、くれるの?」
僕が折り紙の指輪を見ていると、伽羅ちゃんが急に照れて
「要らないなら捨てろ」
と言うので、僕は右手で守るようにしてその指輪を包んだ。
「要る!捨てないよ、こんなに大事だもの。ありがとう伽羅ちゃん」
今までお腹をもやもやさせていた苛立ちや不安が一気に吹き飛んだ。
僕は伽羅ちゃんから指輪をもらえたんだ。お金じゃ買えない、僕だけのための。
*****
恥ずかしくて加州くんにもこの話はできなかった。
伽羅ちゃんには思い出してほしいけれど、自分から彼にあの時の話をする気持ちには、まだなれない。
「今、もう別れようとか結婚するのをやめようとか、そういう気持ちになっている訳じゃないんだ。ちょっと僕が拗ねてるだけだと思う。心配しないで。落ち着いたら、もう一度ちゃんと考える。
ありがとう加州くん」
僕は丁寧にお礼を言って、自分だけの回顧も終えて穏やかな気持ちだった。
なのに加州くんからは不意の一撃を食らった。
「燭台切さん、本気?それじゃ大倶利伽羅、今度はほんとに逃げるよ」
「加州くん…?」
声しか聞こえなくても、加州くんがこちらを睨みつけている空気が伝わる。
「ねえ、大倶利伽羅を外聞なくボクの物だって見せつけまくって寵愛する燭台切光忠はどこにいったの?もう死んだわけ?要らなくなってんのはそっちなんじゃないの?
あのさあ、あいつが生きててごめんなさいみたいな顔してすぐ逃げるの知ってるでしょ。つかまえとかないでダメにしてるの奥さんの方なんじゃないの?
俺もう水族館行けないからね。今度はちゃんと自分でやってよ!
大倶利伽羅は燭台切さんじゃないとダメなの!それくらいわかっててよ!」
一気に捲し立てれたあとの沈黙。
僕は勇気を出して一言返した。
「加州くん、僕のことほんとに奥さんって呼んでるんだね…」
「……あ!」
途端にいつもの声に戻った加州くんがおかしくて、思わず声をあげて笑ってしまった。
「情けないことを聞かせてしまってごめんね。そうだね、伽羅ちゃんに振り向いてもらえるように、格好よくプロポーズ決めなくちゃね」
「ほんとあまり長引かせないでどーにかしてくださいね!
あと、あいつにメッセージせめて既読にしろって言っておいて!もーぜんっぶ無視なの!むかつく!」
連絡不精な伽羅ちゃんの代わりに謝って、加州くんとの電話を切った。
そういえば、彼はこのあと仕事かな。向こうの朝早い時間から、よく電話くれたなぁ。
伽羅ちゃんの親友に余計な心配をかけてしまったことに今更ながら心が痛む。
僕は多分、伽羅ちゃんと長い時間を過ごして、それがあまりに当たり前に幸せだったから、僕がどうにかしなくてもずっと続くと思いこんでいたんだ。
それじゃだめだってどうして気づかなかったんだろう。プロポーズだって何度も、『このプロジェクトが終われば』『この山を越えれば』と自分の中で伸ばし伸ばしにして、決心しなかったのは自分が弱いだけだったからじゃないか。
僕まだ未熟で君にふさわしくない、という理由はただの言い訳だ。僕は今の全力で君を欲しがりたい。
クローゼットを開けて、ガーメントバッグにしまったままのスーツをドアの外側に出す。クリーニングしてあるワイシャツとネクタイを開けてハンガーに架けて久々に空気に触させる。
翌朝、早番の時間にロッカー室で着替えをしていると、明け前に着替えにきた伽羅ちゃんと遭遇した。
「おはよう、伽羅ちゃん。申し送りもうできた?」
僕が声を掛けると、少し疲れた感じでああ、とだけ返事をする。
「夜もオペはあったのかい?」
「2件きた。すぐ済んだし1人は今日、転科する。大したことない」
「そっか」
僕は伽羅ちゃんをつかまえて思いっきり抱きしめた。
「伽羅ちゃん、お疲れ様。おうちでいっぱい休んでね。気をつけて帰るんだよ」
僕が手を離すと、下から見上げてきた伽羅ちゃんが、光忠、と呼ぶのでどうしたのかと思ったけれど
「…なんでもない」
と言って、ロッカー室を出ていく。
僕は日勤の後そのまま当直の日で、伽羅ちゃんは明けで夕方までオフの後、遅番の夜勤帯でSCU付のシフトだった。伽羅ちゃんは更にその翌日、午後だけオペがある。
僕は当直の時は割と余裕があるので、日勤が終わってからも少しナースステーションに残り、1時間ほどしてから当直室へ向かう。
医局で鍵を借りたのにドアが開いていて、変だなと思いながら中の電気を点けると、もうスクラブに着替えている伽羅ちゃんが脇のソファに座って待っていた。
「伽羅ちゃん、どうしたの?まだ出勤の時間じゃないよね?」
僕が少し驚きながら荷物を置いたり白衣を脱いだりしていると、伽羅ちゃんがポケットからお菓子の包み紙を出して、それを解いて半分齧る。
あ、あの時のチョコだ…
「光忠、これで機嫌直せ」
伽羅ちゃんが口に入れたチョコごとキスしてくる。記憶していたよりもずっと甘くて重い味だった。伽羅ちゃんが中でなかなか離してくれない。
やっと口が離れると、伽羅ちゃんはもうブラインドで途中まで折り進んでいる紙を手際良く最後まで綺麗に作っていく。
「思い出したんだね」
「長谷部が医局にこれ置いてて思い出した。…あんた、こんなのあげたもののうちに入れるな」
伽羅ちゃんが残り半分のチョコも食べながら手先で器用に折って曲線を出していった。
「だって、僕にとっては特別なもので…」
「折り紙なんか誰にでもやれるだろ」
「それじゃあ君は誰にだって指輪をあげられるって言うのかい!?」
ちょっと躍起になった僕の左手を取ると、伽羅ちゃんは俯き加減のまま、
「俺にはあんたしかいないのが、もう分かってるだろう。
光忠、機嫌直せ。…愛してる」
と言って、薬指に指輪を嵌めてくれた。
そして小さな声で、忘れてて悪かった、と言って、僕の左手の上に手を乗せた。
「ありがとう。2回目も嬉しいな…」
僕たちはまだチョコの味が残ったキスをする。伽羅ちゃんの柔らかくてふわふわの髪の毛を右手で掬う。絡まった舌が気持ち良くてなかなか離れられない。
やっと唇が離れると、伽羅ちゃんが僕の左手に触れながら
「こんなんじゃなくて、ちゃんと買ってやる」
と言ったので、僕はその手をつかんでぐっと顔を近づけた。
「だめ。僕が買う。急いで買ってくるから、気が変わらないうちに受け取って」
「…は?」
「伽羅ちゃんにもう一度プロポーズさせてって言ってるの」
伽羅ちゃんは困惑の顔で僕を見ている。その顔で見られるのが怖くて、君が僕から離れていくのが怖くて、今まで言えなかった。
だけど加州くんのおかげで解ったんだ。伽羅ちゃんは逃げたくないからその顔で助けてって僕に言ってるんだ。
「伽羅ちゃんは僕のこと嫌い?プロポーズしてほしくない?」
「…受ける、資格がない」
俯いて僕の手から抜けたがっている伽羅ちゃんをソファの角に押し付けて閉じ籠める。
「そんなの聞いてあげない。絶対離してあげないから。
伽羅ちゃん明日の午後、オペ1件?」
「…1件」
「オーケー。午前中なるべく仮眠とってね。終わったら連絡するからすぐ来て。長谷部くんに捕まらないように全力で逃げてくるんだよ。約束して」
伽羅ちゃんは暫く押し黙ったあと、長い溜息をついて、小さく頷いてくれたので、僕も手を離した。
「うん、ありがとう。伽羅ちゃんそろそろ時間だね。来てくれてありがとう。指輪、大事にするね」
僕がぎゅっと抱きつくと、伽羅ちゃんも抱き返してくれる。
僕はスクラブとインナーに隠れた大きな龍の在る処に頬を寄せる。
伽羅ちゃん、きっと幸せにするよ。
今度こそちゃんと君に、僕の全部を伝える。
〈了〉