「大人になるのって、寂しいことだなぁ、奏汰」
爪先で石ころを転がして、千秋は言った。
少し後ろを歩く奏汰は、俯き加減のその後頭部を見る。
海辺のコンクリートの道は、夏の初めの濃い潮の香りをはらんだ風が吹いている。
崖を這う道路は、砂浜から少し高くなっている。海までは、ほんの数歩歩むだけだった。
その夕の海を見つめて、千秋は誰に語るともなくこぼす。
「守りたいものに、手が届かなくなる。助けたいものを、助けられなくなる。」
「そんな勝手な真似が、できなくなるんだ」
奏汰は、千秋の言葉を、何も言わずに聞いている。
陽が落ちた後の海は、呪いのように真っ黒に凪いでいた。
底は知れず、波のない水面は昏い鏡のようだ。
「子供のまんまでいられたら、子供のまんまで終われたら、良かったのになぁ」
奏汰の足が止まった。
じゃり、と砂浜からひっついてきた粒が、スニーカーの底と路面の間で音を立てる。
千秋の声は、自分を責めるようでもなく、いつのまにか背負うものを恨むでもなく、ただがらんとしていた。 どこか空虚で、嘲るような響きがあった。
二人の間に、濃くぬるい潮風が吹き抜けていく。
一歩でつまる距離なのに、二人の肩は並ばない。
目を見開いて立ちすくむ奏汰の表情は、張り詰めたテグスのようで、触れればたやすく切れてしまいそうだった。
頰に張り付いた前髪を除けることすら忘れて、ただ千秋の、黒と赤のトレーナーの背中を見つめる。
「……俺たちが」
振り返らない千秋の声に、突然湿ったものが混じる。肩が震えていた。
「俺たちが、夢見た先はここなのか?」
二人きりで歌ったステージ。
あの頃の、力ない自分がそれでも立ちあがった舞台。
背負おうと、いっしょに生きたいと願った未来。暖かかった手。
真っ暗な会場に、いやに暑く差したスポットライト。預けあった背中。投げかけられる罵声。
「守り育て、築いて来たものは」
報われた、と思った。
自分たちは、役目を果たしたと。
泣きながら、泥に汚れながら、それでも無駄じゃなかったと。
力強い拳に受け渡した命の色が、誇らしかった。
千秋は全部、昨日のことのように覚えている。
「その先が、これなのか?」
目元に腕を当てて、俯く鉄虎の表情が離れなかった。
食いしばられた歯から漏れる声にならない呻きがずっとずっと響いていた。
全てがどうにもならない過去へと、強引に巻き戻っていく。
自分が未来と一緒に奪い取った赤色が、今も手のひらにべっとりと付いているようで身震いする。
「守りたいものを、守れない……ッ」
喉の奥から絞り出された声は、酷くかすれた。
息もつけなくて、身体が丸まる。爪を食い込ませた握り拳に額が落ちる。
奏汰の視界に、苦しげな千秋の横顔が映る。
眉間に深く刻まれたしわか、表情に暗い影を作っていた。
彼のやるせなさを代弁するような影に、奏汰は言葉を発することができなくなる。
言葉を尽くして彼を守ってやりたかった。抱きしめてただわかってやりたい。わかっていたい。
でも、いまの奏汰は縫い止められたように動けなかった。
何を言おうと口を開けても、手を伸ばしても、余計に彼を苦しくするだけな気がして。
ただ寄り添うにも、何にしても陳腐で安い慰めになってしまいそうだった。
「あの時、あのまま」
突然、奏汰は世界に千秋しかいないかのような錯覚にとらわれる。
ぎゅっと引き絞られた視界には、俯いた、小さな小さな千秋の背中しか映らない。
はっ、と自分が吐いた荒い息が、いやに大きく聞こえた。
空気が喉につかえるようだ。地上で溺れるみたいに、呼吸が苦しくなっていく。
「あのまま終われたら……」
奏汰は、その先を言うな、と思った。
その先を言うな。千秋まで、ほかでも無い千秋が、そんな馬鹿なことを言うな、と思った。
「燃え尽きられていたら、幸せだったのかもな」
ようやく振り返った顔は、笑っていた。こぼれる前のしずくが、目尻でふるふると震えていた。
考えるよりも前に身体が動いていた。奏汰は、思いっきり、千秋の頬を張った。
パシッと、乾いた音が響く。千秋の首が叩かれた方へ大きく振れる。
千秋は子供のように目をまん丸にした。
「なんてことを……なんてことをいうんですか、ばかちあき!」
「なっ」
張られた頬をおさえて奏汰を見つめていた千秋が、ばかと切り捨てられ目をしぱたく。
反論は、奏汰の表情にたちまち形をなくし、吐息に溶けていった。
「ぼくには『いきてほしい』ってねがったくせに、あなたはそのままきえようとするんですか!」
自分が願ったのと同じように、自分も願われていると気づいてくれない。
千秋は、ちっとも気付いてくれないのだ。だから、自分を平気ですり潰そうとする。
奏汰がこんなに声を荒上げるのを見たことが無かった。
真っ赤になった目元は痛々しく、怒らせた肩や、握り込まれた拳が、千秋を芯から苦しくさせた。
いつもは南国の海を思わせる瞳孔の色が、いまは濃くなって椿の葉のように見える。
怒りと、悲しみが透けた瞳が揺れるのに千秋は息を飲む。
(ああ)
千秋は奏汰の方へ一歩戻った。奏汰は下を向く。
いつの間にか、ぽっかりと白い半月が頭上に浮かんでいた。
月に照らされない背中を抱きしめる。
海辺の夜は冷える。暖かい体温が腕から背中へ、背中から腕へと伝わっていく。
確かに体温は通じ合っているのに。それでも千秋は、奏汰は、震えていた。
(そんな顔をしないでほしい)