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    下町小劇場・芳流

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    POIPOI 41

    大昔の俺屍小説。
    この話はここで終わり。
    3に合わせて直すべきところを直してなかったので、急いで修正しました。
    終盤でひとことだけ出てくる「輝夜」とは、明梨の母です。

    #俺の屍を越えてゆけ
    goBeyondMyCorpse.

    「鬼鏡」 疫神4
     目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのはいつも同じ景色だった。
     どこまでも続く、途切れることのない漆黒の帳(とばり)。時折浮かぶ、漁火(いさりび)のような鬼の炎。そこに漂う、醜悪な餓鬼、狐、天狗。
     だが、春日の前に動くものの姿は、もはや何一つなかった。
     憔悴しきった両腕から大筒が滑り落ちそうになり、姿勢を崩した春日は、そのまま膝を付いた。荒い息が、唇からこぼれる。膝と手が付いた大地の感触は、いやに柔らかかった。
    「・・・終わりだ・・・。」
     春日は、荒い息と共に吐き捨てた。大筒は、撃ちつくしていた。もう、どこからも鬼が上がってこないことを、彼は知っていた。
     だが、その期待を裏切り、彼が膝を突く大地が揺れた。具足に覆われた彼の足を、白い何かが絡め取った。
     女の手だった。
     血の気の失せた白い指が、春日の足に縋りついた。彼の視界に、緑の風が揺れた。若草色の瞳が、恨めしげに彼を見上げた。
     その唇がゆっくりと動く。春日は、その動きから今際(いまわ)の際の言葉を読んだ。
     しかし、春日は無言で彼女の視界を大筒で覆った。機械的な動きで弾を込め、ためらいもなく引き金を引く。鈍い音と共に、彼女の顔半分が、血飛沫と共に吹き飛んだ。
     力を失くした肢体を、春日は力任せに蹴り飛ばした。
    「終わりだ。」
     再び、春日は呟いた。
     いままさに、彼はすべての鬼の屍の上に降り立った。堆く積まれた死骸の山は、絡み合った手や足の隙間から青や緑の髪をのぞかせていた。
     動くものの姿はもうない。足元に詰まれた屍の山も動きはしない。
     だが、血の中に潜む子鬼だけは、いつもと変わらず彼に囁く。
    ―ここだ。
    ―ここだ。
    ―ここにおるぞ。
    「・・・ああ、そうだな・・・。まだいたな・・・。」
     春日は、忌々しげに己の内の声に応えた。
    「これで終わりだ。」
     言葉と共に、春日は口を開いた。あらゆる鬼を屠ってきた『火神招来』が、初めて彼に矛先を向ける。春日は、口腔に苦い鉄の味を感じていた。
     やがて。
     最期の銃声が鈍く響いた。


     銃声と共に、春日ははっとその両目を開いた。
     開いた瞳に映る景色はいつもと変わりない。整然とした調度が壁際に並べられており、部屋を仕切る几張(きちょう)は揺らぐ気配もなく、その向こうの襖も硬く閉じられたままになっていた。
     闇はいずこかに消え去っていた。鬼の屍も、どこにもなかった。
     すべては夢、幻のこと。
    「・・・またか・・・。」
     春日は身を起こしながら呟いた。
     このところ、眠りの中で落ちる世界はいつも同じだった。身の内に潜む鬼に食い破られることもなく、夢の中で、いつも彼はあらゆる鬼の屍の上に立ち尽くしていた。
     見る夢が変わった。
     それが現すものは、何か。
     突然、春日は胸に無形の杭を打ち込まれた。
     起き抜けの体が、激しい胸痛を彼に訴えかけた。あばらの奥がきしむように痛い。春日は胸を押さえたまま、布団の上に倒れ伏した。
     だが、彼の肉体はそのくらいで彼を許しはしなかった。
     喉の底が塞がる違和感を覚え、春日は大きく咳き込んだ。激しく吐き出される咳は、彼に息もつかせない。呼吸するたびに、胸の中で木枯らしが吹き荒れるのを春日は感じていた。
     ひゅうひゅう、ひゅうひゅうと、骨の向こうで声がする。
     戸外では晩秋の風が戸を叩き、春日の悲鳴をかき消していた。冷たさを増す風は、確実な冬の足音を伝えていた。
     もう、秋は深まっていた。
     彼の身の内にも、木枯らしが吹く。喉の奥が、ひゅうひゅうと悲鳴を上げる。
     そう・・・もう秋(とき)なのだ。


     九条家では、半月もすれば子供は歩き出し、話し出す。二ヶ月目ともなれば、初陣に出なければならないこの家にあって、幼少時代は驚くほど短かった。
     しかし、ここ数ヶ月、入れ替わり立ち代り赤子の来訪を迎えていたせいもあり、明梨はなんだかいつまでも成長しない赤ん坊を育てている気分になっていた。当主だから、と連続で幼子の訓練を任されていたせいもある。
     だが、もちろん、そんなことは気のせいである。すでに、子供たちは揃って遊びまわるようなくらいにまで成長していた。
     洸介(こうすけ)は、父によく似た業火の髪をしていた。緋の瞳を持っていた。一族の誰もが、赤子の彼の向こうに春日の姿を思い浮かべる。その面は、大概が苦渋に満ちていた。
     しかし、その洸介の手を、いつも波流(はる)が引いていた。吹雪の娘ながら、波流もまた花のような紅の髪をしていた。初めて見た自分よりも小さな子供が、自分と同じ髪の色をしていたことがよほど嬉しかったのだろう。一月違いということもあり、この赤い髪の幼子二人は仲が良かった。
     明梨としては、子供たちを見つけやすくて助かるというものだ。今日も、波流がお姉さん風を吹かせ、洸介を隣に座らせて、覚えたばかりの古今集を読み聞かせている。あどけない声が響いていた。
    「やまと歌は、ひとの心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」
     もう何度目かの読み合わせなのだろうか。波流の後に続き、洸介も同じ文を諳(そら)んじた。
    「やまとうたは、ひとの心を、たねとして、よろづの、ことのはと、ぞ、なれり、ける。」
     幾分たどたどしいものの、一言違わぬ暗唱に、波流は満足げに肯いた。
    「そうそう。じゃ、次ね。
    世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、見る物聞く物につけて、いひ出だせるなり。」
    「よの中、にあるひと、ことわざ、しげき・・・。」
     今度は先程よりも長文なためか、なかなか後に続けない。波流はもう一度、同じ文を読んで聞かせた。
    「も一回ね。よく聞いてね。
    ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、見る物聞く物につけて、いひ出だせるなり。」
    「波流・・・。」
     遠慮がちに、背後から少女の名が呼ばれた。波流は、古今集を開いたまま振り返った。苦笑した明梨が、困ったようにいくつもの巻物を抱えていた。
    「あの・・・波流さあ・・・俺、こいつに術教えたいんだけど・・・。」
     明梨はためらいがちに洸介を指差した。あまりにも波流が熱心なのだ。水を指すのも心苦しい。しかし、初陣を迎える前にやらなければならないことは山ほどあった。
     明梨の言葉に、洸介はぱっと顔を明るくした。少年にとっては、じっと座っているのは耐え難いのだ。
    「あかりさま、この前のつづき?」
    「おう。火術の続きな。お前、覚え良いから、もうすぐで全部だぞ。」
    「へへへ、火のじゅつ、すきなんだよね。」
     褒められて嬉しいのか、洸介は照れたようにはにかんだ。
     しかし、一方の波流は不満だ。せっかく、自分が読み書きを教えていたのに。明梨に洸介を取られてしまった。波流は、ひどく淋しげな瞳を洸介に向けた。
    「洸(こう)ちゃん・・・。」
     洸介は、明るい笑みを浮かべ、波流の手をとった。彼はそのまま明梨に向き直った。
    「あかりさま、はるもいい?」
    「あったりまえだろ。」
    「じゃあ、じゃあさあ、さき、にわ出てるね。はる、行こう。」
    「うん。」
     ようやく、波流も笑顔になった。洸介は、波流の手を握ったまま、廊下に飛び出した。
     そのときだった。
     板張りの廊下を駆けていくはずの、洸介の足音が止まった。波流の喉が、小さく悲鳴を上げた。
     不思議に思った明梨の目に飛び込んできたのは、洸介と同じ、紅蓮の髪。春日がそこに立っていた。
    「とうさん・・・。」
     洸介が小さく呼びかけた。彼にとっては、片手で数えるほどしかない父親との邂逅だった。
     だが返事はなかった。紅の瞳が、弄るような視線を子供たちに投げかけていた。竦み上がった波流が、洸介の袖をぎゅっと握った。
     明梨は座敷から立ち上がり、子供たちと春日の間に割って入った。
    「ちょうどいい、兄貴。これからこいつらに術、教えるんだ。兄貴も手伝ってくれよ。洸介にいろいろ教えることあるだろ。こいつ、すごいぞ。めちゃくちゃ覚えいいんだから。」
     洸介も半月前とは異なり、歩き出し話し始めた。赤子のうちは手持ち無沙汰な男親も、子供が一人前に喋りだすと興味を持ってくれるという。洸介は、春日の実の息子なのだ。一縷の期待に明梨は賭けた。
    「とうさん、おれね・・・。」
    「・・・ふん。」
     だが、懸命に父に語りかけた息子の言葉は、氷の視線にかき消された。春日は洸介を一瞥したかと思うと、そのまま踵を返した。
     遂に、春日は息子に一言も言葉をかけはしなかった。
     父の背中を、洸介は無言で見送っていた。一瞬邂逅した赤い瞳と、風にそよぐ業火の髪だけが、それでも彼が父なのだと告げていた。
     黙ったままの洸介の頭を、明梨は軽く撫でた。思えば、まともに視線を合わせたのも、これが初めてなのだ。父に顧みられなかった息子に、慰めの言葉など思いつかなかった。
     洸介は、父の消えた廊下の向こうに目をやりながら、ぽつりと明梨に呟きかけた。
    「あかりさま・・・とうさん、どういう人すき?」
     春日が好意を持っている相手など、この世にひとりもいないことを明梨は知っている。だが、残酷すぎる答えを返すには、洸介はまだ幼すぎた。
     明梨は懸命に記憶の糸をたどった。明梨の脳裏に焼きついた、ただ一度だけの春日の姿が彼女に微笑みかけた。
     明梨は洸介の頭に手をやったまま、背をかがめた。幼い少年の頭が、すぐ目の前になった。
    「・・・強い奴・・・かな?」
    「そっか。」
     にいっと白い歯を見せ、ひどく嬉しげに洸介は笑った。そこにはまだ、先に賭けた期待があった。


     同じ髪、同じ肌、同じ瞳だ。
     初めて真正面から見据えた己の分身は、まさしく自分の血を濃厚に受け継いでいた。だが、同じ赤い瞳から発せられる揺るぎのない視線は、春日がもっとも憎む女の顔を思い起こさせた。まさに、子供は彼女の息子であった。
     春日の耳の奥には、いまも昼子の声がこびりついていた。
    ―・・・売春婦か・・・!天界の女王がとんだ女だな!
    ーなんとでも、お好きなように。
     言語の限りを尽くした春日の侮蔑にも、彼女はまるでひるむことはなかった。
    ―交神なんてもんを考えついたのも、貴様が男と睦むためか。
     耐え難い辱めの言葉に返されたのは、意外な秘密の暴露だった。
    ―交神・・・そうですね。お話しておいてもいいかもしれません。交神でなければならないのです。
    ―なんだと・・・?
    ―『あの子』を止めることは、同じ『朱点童子』にしか出来ないんですから。
     昼子は語った。
     朱点童子とは、そもそも人の名ではない。特定の個人を指す言葉ではなかった。
     生まれてはならない神と人の交わりの中で産み落とされた子。その朱(あか)い血の交わった一点を指し、恐怖をこめて天は子を『朱点童子』と呼ぶのだ。
    ―神と人との間に生まれた子、そのすべてを指し、朱点童子と呼ぶんです。・・・あなた方のような。
    ―俺も朱点というわけか。傑作だな。
    ―ええ・・・。でも、それは私も同じです。
     いぶかしむ春日をよそに、昼子は語った。天界を統べる女王、最大の秘密。
    ―私も、神と人の間に生まれた者ですから。
     このとき、春日は知った。太照天昼子もまた、『朱点童子』であることを。


     庭に吹き荒ぶ風が冷たさを増し、鮮やかに色づいた紅の木の葉を大地に散らしていった。
    短い時を生き急ぐ吹雪の目にも、秋の深まりははっきりと映っていた。長元四年(一〇三一年)神無月も、つつがなく暮れようとしていた。
     だがもう、彼女に冬は来ない。深けゆく秋と共に、如実に衰えてゆく己の体を吹雪は感じていた。
    不満はなかった。子をなすことが出来、最後の二ヶ月を娘と共に過ごすことが出来た。この家では、親子が共に過ごす時を持てるほうが幸福なのだ。恨むべくもない。
     もし、心残りがあるとすれば、それは・・・。
     しかし、吹雪の思考はそこで打ち切られた。廊下から飛んできた子供の大声が、彼女の耳を貫いた。
    「吹雪さまーっ!!」
     息せき切って飛び込んできたのは、洸介だった。思ったとおり、彼女の愛娘も、ひょっこり彼の背後に姿を現した。
     洸介は、落ち着きなく座敷の中を見回し吹雪に尋ねた。
    「あれ?明梨さまは?」
    「イツ花と共に出かけたぞ。買い出しであろう。どうしたのだ。」
     吹雪の問いに、洸介は得意げに胸を張った。
    「見て見て、俺、『七天爆』覚えた!!」
     『七天爆』は、火系最高の術である。初陣前、それも当歳ならぬ当月の幼子が覚えられるものではない。そういえば、明梨が洸介は覚えがいいと言っていたが、予想以上であったようだ。さしもの吹雪も驚嘆の声を上げた。
    「ほお・・・それは見事だな。」
    「見ててよ、ちゃんとできるから!」
     いまにも『七天爆』の術を唱えかねない洸介を、吹雪は軽く嗜めた。ここは屋敷の中だ。
    「やるのは良いが、洸介、ここは座敷だ。いただけぬぞ。」
    「洸(こう)ちゃん、お庭に出ようよ。」
    「へへへ、ごめん。」
     波流にもそれとなく注意され、洸介は軽く詫びた。悪びれた様子もないが、落ち込んだ様子もない。まさしく洸介は、天真爛漫であった。
    「しかし、火術はもう極めたか。初陣前だというに。火術が得意は、父譲りだな。」
     不意に飛び出した『父』の一言に、洸介はぴくりと耳を傾けた。遠慮がちに、だが少し照れながら、洸介は吹雪を見上げた。
    「父さん・・・父さんも、褒めてくれるかな?」
    「・・・そうだな。先に庭に出ておれ。春日も呼んで参ろう。」
    「うん!」
     頬を紅潮させて、洸介は肯いた。そのまま、子供たちは転がるように庭に出て行った。
     吹雪はすっかり重くなった体を押し、ゆっくりと腰を上げた。最近では何をするにも時間がかかる。だが、このときばかりは、春日の部屋への緩やかな歩みが、彼女に考える時間を与えてくれていた。
     正直、春日が洸介の成長に興味を持つとは思えなかった。洸介は懸命に父を追いかけてはいるものの、春日はそれを気にもかけない。だがそれでも、一度くらいは父としての務めを果たしてくれても良いではないか。もはやどれほどの時が父子(おやこ)の間に残されているのか、定かではないのだ。
     吹雪は切り出し文句を考えながら、春日の部屋の襖を開けた。
    「春日?春日、おるか?」
     いつも人気に欠ける彼の部屋に、今日は何者かの気配があった。春日に違いない。吹雪は一声かけ、部屋を仕切る几張(きちょう)に手をかけた。
    「春日、失礼いたすぞ。洸介がそなたにな・・・。」
     だが、吹雪の言葉はそこで止まった。彼女の手は、几張にかけられたまま凍りつき、喉は引きつった悲鳴を上げていた。ひゅうっと、吹き抜ける風のような声が、彼女の唇から漏れた。
     春日は人の気配に気付き、ゆっくりと振り返った。視界の中に吹雪の姿を認めると、僅かに口の端を上げた。
     そう、確かに春日は笑っていた。吹雪が初めて目の当たりにする笑顔だった。
    「また貴様か・・・。」
     春日の手の中で、かちゃりと鉄が擦れる音がした。大筒士特有の、黒い詰襟、紅の腕当てが、吹雪の視界に映った。
     春日の唇がゆっくりと動くのを、吹雪は身じろぎすることも出来ずにただ直視していた。それだけしか出来なかった。
    「貴様は運のない女だな。」
     そうして、春日はまた笑った。くくっと、口の中から笑みが漏れた。
    「俺と歳近く生まれ、ガキどもも同じような時に生まれ、体よく厄介者(オレ)の扱いを押し付けられたな。」
     ここが屋敷の中だということを忘れるくらい、春日の全身は戦装束に覆われていた。鋭利な殺気を身に纏っていた。
    「だが・・・。」
     吹雪の視界を、黒い鋼の塊が覆った。春日の唯一無二の盟友が、吹雪の前に突きつけられていた。
    「一番運がないのは、いま俺の目の前にいることだ!!」
     『火神招来』が火を噴いた。鈍い銃声が、屋敷の中に響き渡った。
     庭にいた洸介、波流の耳を銃声が駆け抜けた。たまたま屋敷に留まっていた剛が、異変に顔を青ざめさせた。
    「何だぁ!?何の音だ!!」
    「父さん!!」
     子供たちと剛が春日の部屋に飛び込んだのは、ほぼ同時だった。
     むっと、濃い血の匂いが鼻をついた。
    「きゃああっ!!お母さんっ!!」
     波流が悲鳴を上げた。
     畳に吸いきれない血が、にわかに池を作っていた。己の血だまりの上、鮮血に染まった吹雪が倒れ伏していた。
     母に駆け寄ろうとした波流の目に映ったのは、なおも煙を上げる大筒の銃口だった。引き金の先に、春日がいる。
    「逃げ・・・逃げよっ!!」
     辛うじて首だけを上げ、吹雪は悲鳴のように叫んだ。
     だが、誰の足も竦んでいた。動けない。
     目の前にいるのは、いったい誰だ。
     恍惚の笑みを浮かべ、鈍く光る大筒を携えている。全身を取り巻く殺気は、それだけで誰をも切り裂けそうだった。戦いなれた猛者であっても、これほどのものを戦場で目の当たりにすることは少ないであろう。
     まさしく、人の姿をした悪鬼。赤い髪の鬼が、目前に迫っていた。
     銃口が、剛を捕らえた。引くことは出来ない。引いたら撃たれる。剛の喉が、小さく悲鳴を上げた。
    「ひっ・・・。」
    「あの馬鹿が。二人も遺(のこ)しやがって。」
     ためらいもなく、春日は引き金を引いた。鈍い音と共に、大柄な剛の肉体が畳の上に倒れた。
    「いやあああっ!!」
     波流はもはや気を失いかけていた。彼女を庇うように、洸介が半身、前に乗り出した。『火神招来』と、洸介の視線が邂逅する。洸介は息を呑んだ。
     春日は指に力を込めた。
    そのとき。
    「逃げよっ!!」
     吹雪が叫んだ。残された力を振り絞り、吹雪は目の前の畳をめくり上げた。もうもうと、塵と埃が舞い上がる。一瞬だけ、春日の視界が塞がれた。春日は忌々しげに大筒の砲身で畳を打ち払った。
     顕わになった景色に、幼子の姿はなかった。春日は毒づいた。
    「逃げたか。・・・まあいい。ガキは後回しだ。」
     春日は、大筒の切っ先で吹雪の肉体を転がした。低い呻き声が、彼女の口から漏れた。
    「まずは貴様からだな。安心しろ、すぐに全員向かわせてやる。」
     胸に押し当てられた冷たい感触に、吹雪は己の終焉を感じていた。


     明梨とイツ花が揃って街中に出るのは珍しい。
     その珍しさのせいというべきか。明梨たちは討伐隊とたまたま大路で顔を合わせた。思いのほか早く目的を達成できたのだろうか、明梨の予想よりも数日早く、討伐隊は京に帰還していた。
    「おう、早かったな、時雨。」
     明梨は自ら命じた討伐隊長にねぎらいの言葉をかけた。
    「ああ・・・。」
     しかし、時雨は歯切れの悪い返事を返しただけだった。
     彼の背後からひょういと顔を出した風子が、いつもと同じ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
    「時雨さん、胸騒ぎがするって聞かなかったんだもんね!」
    「!風子!」
    「なによお、本当のことじゃない。心配だったんでしょ?よかったねえ。」
     たちまち、時雨は頬を赤らめた。誰の何が心配だったのかなど、討伐隊内部ではもはや公然の秘密となっていたが、うかつに口に出来るはずがない。
    「?胸騒ぎ?別に何にもなかったぞ。」
     明梨は首を傾げた。何か時雨が不安に思うようなことがあっただろうか。明梨にはまるで身に覚えがなかった。
     時雨はまだ赤い顔をしたまま、だが、ほっと安堵の息をついた。
    「いや・・・杞憂ならいいんだ。」
     そのまま言葉を濁した時雨の肩に、何かが触れた。見ると風子が精一杯背を伸ばして、えらく不自然に彼の肩を叩いていた。時雨の面が苦く曇った。 
    「・・・何が言いたいんだ、風子。」
    「べーつにぃ。」
     意地の悪い風子の笑みが返ってきた。


     屋敷の門を潜ったとき、明梨はすぐさま異変に気付いた。はっと時雨と顔を見合わせる。彼も青ざめた面をしていた。
    「なに、この匂い・・・やだーっ、血ぃ?」
     いぶかしげに風子が呟いた。とたんに、明梨の中で何かが警鐘を鳴らした。
    「まさか・・・まさか兄貴!」
    「!待て、明梨!!」
     だが、明梨の耳に時雨の声は届いていなかった。脱兎の如く駆け出した明梨の背を追いつつ、時雨は風子を振り返った。
    「風子、明梨の槍を頼む!」
    「うん!」
    「イツ花は蔵から『大甘露』を!」
    「は、はいっ!」
     願わくば、その予感の当たらないように。
     思うことさえ虚しいと感じながらも、時雨は願わずにいられなかった。


     指にこめた春日の力を押しとどめたのは、悲痛な妹の叫び声だった。
    「兄貴ーッ!!」
     春日は眉を潜め、顔を上げた。開け放たれた襖の向こう、秋の陽の穏やかに降り注ぐ庭の中、息を切らせて明梨が駆け込んできていた。見慣れた緑の髪が、赤い秋の空に映えていた。
     明梨の瞳に映るのは、半分外れた襖、めくれ上がった畳。流れ出た濃い血が、地獄で見たのと同じ川を作り、そこに倒れ伏す体は二つ。若い少年と、老いた女と。透き通る氷のような青い髪が、赤黒く染まっていた。
     明梨は目を疑った。
     大筒を構えた戦装束の春日が、足元の吹雪に銃口を突きつけている。その一枚絵だけで、何があったのか、解りすぎるほど物語っていた。
     明梨は泣き声のような悲鳴を上げた。
    「吹雪!剛ッ!!」
     明梨は春日の銃口の前に躍り出た。
    「兄貴・・・!自分が何してんのか、解ってンのか!!」
    「・・・邪魔が入ったか。
    どけ。貴様は最後だ。」
    「どけるかッ!!兄貴こそ大筒を引け!」
    「丸腰でえらそうに。貴様から先に始末されたいか。」
    「くッ・・・兄貴・・・。」
     『火神招来』が明梨に顔を向けた。今にも牙を剥きかねない。
    「明梨さん!」
     そのとき、明梨の背で風子の声が響いた。明梨愛用の『千手の鉾』が宙を舞い、彼女の手元に届けられた。
     明梨は『千手の鉾』を構えた。春日が忌々しげに舌打ちした。
     明梨が春日を引き付ける最中、時雨は意識を集中させた。彼の得意とする、ひとつの術を唱える。
    「『卑弥呼』!」
     彼の周囲を水滴が増し、柔らかな水が傷を包む。遠目にも、吹雪と剛の傷口が塞がれていくのが感じられた。
    「邪魔をするな!」
     術の気配を感じ取り、春日は大筒の引き金を引いた。時雨の肩に、二の腕に熱が走る。
    「時雨さん!・・・きゃあっ!」
     駆けつけようとした風子の足元にも銃弾が跳ねた。
    「やめろ兄貴!兄貴の相手は俺だ!!」
     明梨は槍で春日を制した。血を吐くように、明梨は叫んだ。守らねばならぬ一族と制さねばならぬ春日との間で、明梨は引き裂かれんとしていた。
    「何でだ兄貴・・・なんでこんなことしたんだ!」
     だが、春日はにべもなく応えた。彼にとっては、ただ当然のことを口にしたに過ぎなかった。
    「『鬼』を滅ぼして何が悪い。」
    「なんだって・・・?」
     明梨は尋ね返した。春日は、自ら撃ちぬいた吹雪を、剛を指し『鬼』と言った。同じ一族であるはずなのに。
    「俺も貴様も、皆同じだ。この血の中に、幾千もの鬼が巣くっている。それを滅ぼして何が悪い!貴様も俺も、『鬼』の袋に過ぎんだろうが!」
    「・・・ずっと・・・そんな風に思ってたのか・・・?」
     明梨は呆然としたまま呟いた。
     己の運命を呪い、その身を憎み、誰一人として認めようとしなかった。肯定することもなかった。そのわけがここにある。
     彼にとっては、吹雪も明梨もなかった。ただ、同じように血の中に微小な鬼が巣食う『入れ物』。その意味しかなかった。
     同じ運命を分け合った一族ならば、認め合うことも出来たはずだ。その苦しみを分けることも出来たはずだ。しかし、春日はそのすべてを拒み続けたのだ。
    「俺の死に場所はただひとつ。すべての『鬼』の屍の上だ!」
    「ふざけるなあッ!!」
     明梨は憤りに身を焦がした。正面から春日を見据え、あらん限りの声を振り絞った。
     いつだって、手は差し伸べられていた。それを拒んだのは、春日自身ではなかったか。それを、いまさら血で濯(すす)ごうというのか。悲劇は彼にだけにあるのではない。
    「兄貴は自分がかわいいだけなんだよ!呪われてんのも同じ、戦わなきゃいけないのもみんな同じ。それなのに・・・。
    兄貴はただ自分がかわいそうなだけのかッ!?」
     憎むことなら、誰でも出来る。拒むことなら、いくらでも出来る。恨みと憎しみの裏にあるのは、そこから一歩も動けない弱い光の魂なのだ。それは強さではない。
     だが、明梨の最後の叫びも春日に届くことはなかった。春日は銃口を下げはしなかった。迷うこともなかった。血走った紅の瞳に宿るのは、ただ絶えることのない憎しみだけだった。
    「語るべき時はもう終わってんだ。いまはやるかやらないか、それだけだ。
    そこをどけ、『明梨』。貴様は最後にしてやる。」
     明梨は耳を疑った。春日の声が、確かに彼女を呼んだ。彼女だけの名で。
    「・・・兄貴・・・?俺の名前・・・覚えて・・・。」
     思えば、春日が誰かの名を呼ぶのはこれが初めてだった。春日は、人の顔など覚えない。人の名前も覚えない。けれど、その名を呼んだことは、彼の中に明梨が存在していることの確かな証だった。
     その声が、また明梨を揺さぶった。
    ―・・・兄貴・・・。
     思い出に眠る春日の笑顔が、鮮明に甦る。
    ―ふん、やるじゃねえか。
     褒め言葉と言い切れない褒め言葉が、耳の奥でこだまする。
    ―兄貴・・・。
     しかし、『千手の鉾』の突きつけた向こう、大筒の引き金に手をかけた春日の面が殺気に歪んだ。
    ―兄貴・・・!
     明梨でなければ、春日は倒せない。ここで明梨が倒れれば、誰が一族を守るというのだ。
     泣き出しそうな顔のまま、明梨は叫んだ。千手の鉾を握る手に力がこもった。
    「うああああっ!!」
     春日が大筒の引き金を引いた。
     刹那。
     轟音が響いた。
     溢れる火薬の匂いが、一面に立ち込めた。
     明梨の目が、驚愕に見開かれた。
     時雨が息を呑んだ。
     風子が悲鳴を上げた。
     そして、春日の瞳が明梨と同じ色に染まった。
     右腕に抱えた大筒が、悲痛に叫んだ。腹が焼けるように痛い。一瞬にして明梨の姿が遠ざかり、春日は背中に激痛を感じた。襖を突き破り、後方の壁に彼は吹き飛ばされていた。
     何が・・・何が起こった。
     春日は視線を巡らそうとした。
     だが動かない。
     それでも大筒を探し、抱えようとした。
     しかし、右腕はだらりと垂れ下がったまま、ぴくりともしなかった。焦げた肉の匂いがする。それに混じって、むっとする火薬の匂いが鼻をついた。
     彼の右腕は、砲身から垂直に火を噴いた大筒を抱え込んでいた。
    「・・・暴発・・・?」
     驚愕に震える明梨の声が、かすかに彼の耳に届いた。
     吹き上がった爆風は、春日の腹を抉り、彼を壁に叩きつけた。焼け焦げた傷口からはとめどなく血が溢れ、抑えることもかなわない。 春日は急速に忍び寄る死神の足音を聞いていた。
     最後の最後で、『火神招来』は彼を裏切ったのだ。
     それは何故か。
    「明梨さまぁっ!!」
     そのとき、春日の視界にひとりの娘が飛び込んだ。ありったけの『大甘露』を抱え、泣きそうになりながら駆けつけてきた少女。
     その栗毛の髪が、琥珀の瞳が、春日の脳裏に、ひとりの女の姿を甦らせた。記憶の中で、彼女の唇が緩やかに動いた。
    ―私も同じです。
    ―私も『朱点童子』ですから。
     そのとき、彼の中で、すべての点が一本のもとに繋がった。
    「・・・そうか・・・そういうことか。」
     血走った瞳が、栗毛の髪の娘を捉えた。琥珀の瞳が、その中に映った。
    「何もかも貴様の仕業って訳か!
    忘れてたよ、貴様も『朱点童子』だってことをなあ!!」
     眼鏡の向こうの瞳が力なく揺らいだ。イツ花は懸命に首を振った。
    「ち、違います、春日さま!私・・・!」
     だが、その声が春日に届くことはなかった。
     春日は指先から、体が冷えていくのを感じた。肉体からあふれ出た、幾千もの小鬼が、彼の上で踊り狂っていた。
    「・・・詰めが甘かったか・・・。」
     春日は小さく呟いた。叫ぶだけの力は残っていなかった。
     子を残し、血は続き、そして俺だけが世を去る。なにもかも、あの女の思い通りというわけか。お好きなようにといったあの女と俺とでは、仕組んだ筋書きの覚悟の重さが違うということか。
     春日は自嘲気味に呟いた。あらん限りの皮肉を込めて。
    「・・・ふん・・・朱点(キサマ)には本当にいろいろなことを教わったな・・・。・・・勝つために、何をすべきか・・・どれほどのものを・・・捨てねば・・ならないのか・・・な・・・。」
     それきり、春日の首は大きく傾(かし)いだ。
     二度と動くことはなかった。
     明梨の膝が力を失くし、彼女は呆然とした面持ちのまま床の上に座り込んだ。上半身だけが、辛うじて己の得物に支えられていた。
     若草色の瞳に映るのは、半壊した屋敷の壁と、そこにもたれかかる暗い影。微動だにしない様が、彼の確実な死を伝えていた。
    「何で・・・。暴発なんて・・・。」
     春日が片時もその手から離さなかった『火神招来』に、誰かが細工を出来るはずがない。かといって、いまこの場に天界からの気配は何も感じられなかった。
     庭からは、崩れた壁から秋の風が吹き込んでくる。襖が外れ、畳もめくれ上がった座敷の中は、そこかしこに埃や塵が散乱していた。
     ふと、明梨は膝に軽い感触を感じた。風に吹かれたそれは、爪先ほどの小さな小石だった。明梨は手を伸ばした。
    「馬鹿だ・・・兄貴・・・。」
     たった一個の小石が、運命の歯車を狂わせた。
     きつく唇を噛んだまま、明梨は小石を投げ捨てた。思いの外遠くに跳んだそれは、噴煙を上げる鉄(くろがね)にぶつかり、こつんと小さな音を立てた。
     弱弱しい呻き声が、明梨を現実に戻した。
    「・・・う・・・明梨・・・。」
     明梨ははっとして吹雪に駆け寄った。隣りでは、時雨が懸命に同じ術をかけ続けていた。いかに得意とはいえ、集中力を要する高位の術の連続で、さすがに時雨の面にも疲労の色が見えていた。
    「吹雪ッ!」
     かろうじて、吹雪の唇が小さく動いた。彼女の声は、一人の男を呼んでいた。
    「・・・明梨・・・。春日はいかがした・・・。」
    「兄貴・・・兄貴は・・・。」
     明梨の声は、それ以上続かなかった。だが、揺らいだその面が、起こった出来事を明確に吹雪に伝えていた。
    「・・・そうか・・・死んだのだな・・・。」
     明梨は無言で頷いた。
    「ならば良い・・・。春日は私が連れてゆこう・・・。」
    「!何言ってるんだ、吹雪!諦めちゃダメだ!!」
    「良いのだ、明梨・・・。私はもう長くはない・・・初めから解っていたのだ・・・。」
     たとえ春日に撃たれなくとも、来月を迎えられないことを吹雪は知っていた。思えば、一歳と八ヶ月。通常の家で二十九年に相当する月日は、長く生きられた方だった。
    「だから良い・・・春日も共に連れてゆこう・・・。天界にはやらぬ・・・。」
     繰り返される同じ言葉に、明梨はその裏に隠された思いを垣間見た。ここで問うのは不謹慎かもしれない。しかし、どこかで明梨は期待していた。自分と同じように春日に好意を抱いてくれた誰かがいることを。
    「吹雪・・・もしかして兄貴のこと・・・。」
     ためらいがちな明梨の問いに、吹雪は笑みで応えた。穏やかな微笑だった。そして、苦しい息の下、吹雪の唇が緩やかに動いた。それは、「是」と語るはずだった。
    「・・・憎んでおった・・・。」
    「・・・え?」
     穏やかな笑みのまま、吹雪は語った。それは聞き間違いではないかと思うくらい、優しい音色の調べだった。
    「春日を誰よりも憎んでいた・・・。彬也様の名を汚し、輝夜(かぐや)様を傷つけ、明梨、そなたを苦しめた春日を、私は・・・許すことなど出来なかった・・・。」
     明梨の心が悲鳴を上げた。
     そんなはずはない。だって、いつだって吹雪は、春日の身を案じてくれていたではないか。明梨よりも先に、春日に手を伸ばしてくれたではないか。その裏にあるのが、憎しみのはずがない。
    「・・・なんでだよ!そんなはずないだろ!?あんなに兄貴のこと、気にして・・・。」
    「・・・そなたが、春日に傷つけられぬように・・・な・・・明梨・・・。」
     吹雪の長い指が、そっと明梨の頬に触れた。明るい夏の陽のような妹分は、ずっと吹雪の至宝だった。明梨が苦しむことのないように、傷つくことのないように、率先して兄妹の間に立った。
    「これ以上、春日をこの家には関わらせん。天界(うえ)にはやらん。氏神にもさせん。私が地獄まで、春日を連れてゆく・・・。」
    「ダメだ、吹雪!そんな気持ちのまま行っちゃダメだ!!」
    「心配いたすな、明梨。大事無い。」
     いつもどおりの口癖が、吹雪の唇からこぼれた。大事無い。そう語るのも、きっとこれが最後だ。
    「・・・私はな・・・生きていて良かったと思うたことの方が死にたいと思うたことよりも、たぶん二度くらいは多かったのだ・・・。だから、決して不幸ではなかったのだぞ・・・。」
     そなたのおかげだ、明梨。
     声にならない声で、吹雪はそう言った。そんな気がした。
    「・・・お母さん!!」
     薄れ行く意識の中で、最後に吹雪は娘の声を聞いた。
     助かっていたのだな、波流。安心したぞ。
     そうだな・・・これで三度だ・・・。生きていてよかったと思うたことの方が、多かったぞ・・・。
     不慮の事故であったにもかかわらず、吹雪の顔は安らかだった。
    「いやああ・・・っ!お母さん!お母さん!!」
     駆けつけた波流は、吹雪に取りすがり何度も彼女を呼んだ。その波流の手を、洸介はぎゅっと握り続けた。震えた懺悔が、幼い唇からこぼれた。
    「・・・ごめん、波流・・・。ごめん・・・吹雪さま・・・。」
     洸介は、何度も何度も呟いた。呪のように、祈りのように。だが、いくら詫びても、詫びきれるものではなかった。
    ―でも、その分、俺が波流を守るから・・・大事にするから・・・。だから吹雪さま・・・、・・・を許して・・・。
     吹雪に伝えたかった言葉はなんだったのか、洸介にも解らない。しかし、彼は波流の手を握ったまま、吹雪の亡骸に深く誓った。
     明梨の指の間から、二人の命がこぼれた。
     ひとりは、実の兄。
     そしてもうひとりは、姉のように自分を愛してくれた女(ひと)。
     明梨の手が、力なく愛槍を取り落とし、しかし拳は血が出るほどきつく握り締められていた。
    「・・・くそ・・・ッ!!」
     何が呪いだ。何が運命だ。
     明梨は何度も拳を畳に打ち付けた。吹雪の血を吸い、そこはどす黒く変色していた。何度も打ち付けるたびに、明梨の拳には細かい擦り傷がいくつも出来ていた。
    「よせ。明梨。」
     時雨が明梨の手を取った。徒(いたずら)に自分を傷つけるものではない。
     明梨は唇を噛み締めていた。深い緑の瞳が、時雨ではない、どこか遠くを見つめていた。
    「・・・終わりにしてやる・・・。」
     明梨は呟いた。
    「もうこんなこと、俺の手で終わりにしてやる!兄貴みたいな人は出さない。吹雪みたいな人も出さない。俺が最後の当主になる!」
     明梨の覚悟を聞いたまま、時雨は明梨の拳を両手で握った。答えるより先に、時雨は小さく呟いた。
    「『円子』」
     いくつもの細かい傷に彩られた彼女の手を、時雨の術がそっと癒した。それが返事だった。
     明梨の決意に、時雨は改めて深く頷いた。
    「承知した。」
     ここに、九条家の命運を賭けた最後の戦いが幕を開ける。
     そして、洸介と波流。二人の絆もここから始まった。
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