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    ◆ 山吹

    墓場

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    ◆ 山吹

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    原作が進み過ぎたので書くことをやめたあいばくの供養。一応最後までなんとなく話は決まってるんだけどあんまりに原作とかけ離れてしまうのでおしまいです。

    #相爆
    phaseExplosion

    ▼さよなら僕の半生、ホタルのひかり

    「今日会えなくなった」
    目覚ましよりもはやくに鳴り響いた電話に出れば、電話口の相手はろくな挨拶もなしにそう言った。相澤は起き抜けで未だぼやける思考を頭を振ることでなんとか覚醒させて、カレンダーアプリに登録されていた爆豪の予定を思い返した。遠方への出張は入っていなかったはずだし、事務所に泊まりがけになるような仕事もないと言っていたような気がする。
    基本的に爆豪は予定が決まったときに相澤に報告をする。職業柄か、染み付いた学生時代の習慣か、爆豪は少しのことでも相澤にはきちんと報告をくれていた。
    カレンダーアプリでシフトの共有はしているけれど、それとは別にこの日は遅番だとか、宿直になったとか、急に休みになったとか、この日は予定があるから会えないとか、そんな事務的な連絡から、今日はなにを食べた、パトロール中こんなことがあった、というような生活の些細なこともメッセージアプリを介して逐一連絡してくれる。
    「仕事か?」
    もしかしたら急に事務所の飲み会が入ったのかもしれないが、おそらく違うだろう。その場合は「会えなくなった」ではなく「飲み会がはいった」と言う気がする。そうとなると今日の爆豪のドタキャンは何かのっぴきならない用事ということになる。仕事でも遊びでもない、爆豪が無視できない、急な用事なんてひとつしか無かった。
    「クソデク」
    苦虫を噛み潰したような声で返された用事の内容は相澤の予想を裏切らない。
    「なんとなくわかった。気をつけてな」
    「消太さんも」
    爆豪が通話を切る。五分にも満たない通話時間を表示する画面を見ながら相澤はため息を吐いた。
    緑谷関係の急な用事で予定が変更になることは少なくない。爆豪は緑谷のことを蛇蝎のごとく嫌ってはいるけれど、緑谷に関することはひとつも無視することができないようだった。相澤は爆豪と緑谷の関係についてはもう傍観している。拗らせていた学生時代とはすこしばかり形が変わったものの、第三者にはわからない空気感は顕在だった。爆豪と付き合うようになって数年が経った現在も相澤は緑谷から爆豪を取り上げることが出来ないでいたし、爆豪を緑谷のもとに行かせないようにすることも出来ないでいる。
    爆豪も緑谷も、学生時代に幾多の苦難を乗り越えたとはいえ、ヒーローとしてはまだ駆け出しだ。事件現場は危険と隣り合わせだし、パトロールや警備の仕事もヒーローの仕事の一環とはいえ、緑谷や爆豪のような戦えるヒーローはどうしても命懸けの仕事のほうが多く割り振られる。いくら経験を積んだところで危険が薄まるわけでも、怪我の頻度が減るわけでもない。経験値と安全がきれいに比例してくれないのがヒーローという仕事だった。
    敵との相性もあるし、怪我なんて日常茶飯事くらいに思っておかないと務まらない。当然、爆豪も怪我をして帰ってくることはある。とはいっても三日も休めば現場復帰できるような怪我ばかりで今のところ病院で寝泊りしないといけないような大怪我はない。
    相澤は数ヶ月のことを思い返す。
    その日、爆豪は非番を言い渡されていた。
    足の骨にヒビが入ったとかで、治癒個性を受けて完治はしているものの大事をとって二日の休みということだった。ヒーローは気を抜けば働きすぎてしまうような人間ばかりなので、なにかの時に無理やり休むくらいが丁度よく、爆豪も理解しているのか相澤の家に転がり込んで、おとなしくテレビを見ていた。
    相澤が出勤の準備を済ませて家を出ようとしたときに、爆豪のスマートフォンが鳴った。爆豪はスマートフォンに手を伸ばして画面を確認したかと思えば、たちまち鬼の形相へと表情を変え、部屋の隅に置かれていた自身のメッセンジャーバッグを引っ掴むと、相澤を押し退ける勢いで家から飛び出して行った。呆気に取られる相澤を他所に遠くで玄関扉の閉まる音がする。
    その後、夜になっても次の日になっても、爆豪が相澤の家に戻ってくることはなかった。
    「浮気とかは疑わねぇんだ?」
    なんの音沙汰もなく連絡も繋がらなかった爆豪が、いきなり相澤の家に訪ねてきたかと思えば、開口一番にそう言った。爆豪が飛び出して行った日から二週間は経っていた。
    「あんな形相で家を飛び出しておいて、浮気を疑えっていうのも無理な話だろ」
    「…………それもそうか」
    爆豪はずいぶんと疲れた様子でソファーに腰を下ろした。膝に肘をついて項垂れないようにと額を手のひらで支える姿は、相澤の家を飛び出していったときより落ち着いているように見えたが、それでもどこか機嫌が悪い。
    「一応聞くが、どこ行ってたんだ」
    「…………クソデクんとこ」
    なるほど、と声には出さずに納得する。緑谷のところに行っていたのなら爆豪が荒れる理由も理解できなくはない。しかし、緑谷のところに行く理由はわからなくて相澤は首を傾げた。
    「なんでだ」
    「あのバカ、両手折って帰ってきやがった」
    なるほど、とまた声には出さずに心の中だけで呟くものの、爆豪が緑谷のところに飛んでいかなくてはいけない理由にはなっていないような気がした。爆豪だってその日、というよりは前日だけれど、足の骨にヒビをこさえて帰ってきていたし、ヒーローに怪我は付き物だ。しないでいようと思って防げるものでもない。それに、緑谷が怪我したことは爆豪にはなんの関係もないはずだ。相澤は腕を組み、傾げた首を逆方向へと傾ける。爆豪と緑谷について考えてもわからないことのほうが多い。わからないのなら聞いた方がはやい。
    「それで、なんでお前が飛んでいくんだ」
    「そういうもんなんだよ」
    間髪入れずにため息のような声で爆豪が言った。続けて「行きたくて行ってんじゃねぇよ」と吐き捨てる。じゃあ行かなければいい、というようにはいかないのだろうな、と相澤は三度目の納得を得て、それ以上聞くのは止めにした。


    「なァんで付き合ってんの」
    爆豪と付き合ってから山田にはもう何度も同じことを聞かれていた。付き合うことになったと報告したときも、緑谷が怪我をしたからと爆豪が相澤との予定をキャンセルしたために爆豪と行く予定だった飯屋に山田を誘ったときも、それだけじゃない、事あるごとに山田は相澤に「なんで爆豪と付き合ってんの」と口にする。それとセットで必ず「はやく別れろよ」とも言った。
    どちらも大事な話をするときの声で言うので、相澤は真っ向から取り合うのは不利だと判断して、いつも適当にはぐらかす。最初の追求さえ切り抜ければ、山田は呆れた表情はするものの話を切り上げてくれる。相澤にとって山田はいい親友だ。気遣ってくれていることなんてずっと知っている。心配だから爆豪との関係に口を出してくるし、心配だからかつてアンダーグラウンドを駆けていた相澤をしつこく教師に誘い続けた。
    まさか教師にと誘った先にこんなことが待ち受けてるなんて思わなかったんだろう。当然、相澤だって爆豪と付き合うなど夢にも思わなかった。
    その日、相澤ははじめて山田から投げられるお決まりの文句を受け止めた。山田とよく来る大衆居酒屋は逆さにしたビールケースに座布団を括りつけた座り心地の悪い椅子が並ぶような店だ。
    雑な雰囲気の店ではあるがメシはうまい。ビールを瓶で四本、焼き鳥の盛り合わせを塩とタレで一つずつ、枝豆とキムチ、たこわさ、明太チーズオムレツにからあげと定番のメニューで埋め尽くされた狭いテーブルに頬杖をつく。
    「なんでだろうな。最初は慈善活動だったんだよ」
    何度もはぐらかされていた話題に乗った相澤に、山田はあんぐりと口を開けた。目を何度か瞬かせたが、すぐに胡乱な表情に切り替えて相澤を睨みつける。
    「めずらしいじゃねぇか。なんの心境の変化だよ」
    「なんで付き合いはじめたのか知りたいんだろ」
    「知りたくはねぇけど、別れさせる理由探しみてぇなもんで」
    明け透けな山田に苦笑を漏らせば、気に触ったのか眉間に皺をよせるので、機嫌をとるように山田のグラスにビールをついだ。泡の立つビールに素直に口を寄せる山田は悪いヤツではないのだ。
    「おまえはなんでそう爆豪と別れさせようとするんだ」
    「……一緒にいたら傷つくのはお前だろ。爆豪が緑谷ばっか構うのはいい。でもそれにお前が付き合う必要はねぇよ。緑谷はさあ、もう手に負えないとこまでいっちまってる。ほとんどスケープゴートじゃねぇか。それに今は俺らの教え子ですらない、同業のヒーローだ。この際、爆豪はともかくお前まで地獄に道連れになることなんてないだろ」
    山田が一息で言い切って額に手をあてる。別れろ、別れろとは再三言われていたけれど、山田の心情を聞くのは初めてだった。ビールの泡を舐めながら焼き鳥に手を伸ばせば手の甲を叩かれた。真剣に聞けとでも言いたげな山田に肩をすくめて、たこわさの小鉢を引き寄せる。山田は恨めしげな顔をして話を続けた。
    「白雲も、香山さんもいなくなって、お前までいなくなんの、俺はイヤだぜ。アイツら二人よりも、俺はお前が大事だよ。長く生きてほしいし、幸せになってほしい。教師に誘ったのだって賞金首みてぇな真似をやめさせたかっただけだ。白雲が死んでからいつ死んでもいいみたいなツラして危険な仕事ばっかり取ってくのが怖かったから誘ったんだ。爆豪と付き合わせるためじゃねぇ」
    「心配かけて悪かったな」
    「そんで、別れんのかよ」
    「別れないよ」
    「Damn it」
    こんなに正直に話してやったのに、と山田がテーブルの下で相澤の足の脛を蹴り上げた。痛みに呻いてもお構いなしで、相澤が食べるはずだった焼き鳥を手にとりかぶりついている。
    「お前の気持ちはありがたいと思うよ。生きなきゃいけないって執着が出たのも、きっとお前のおかげだ」
    「じゃあ俺の気持ちを汲めよ」
    「……今にも死にそうなヤツがいたら、助けるだろ。お前も」
    「はぁ? そりゃヒーローじゃなくてもそうすべきだ」
    「だから、付き合ってるし、別れないんだよ」
    山田が片眉を釣り上げた。首を傾げた拍子に金色の髪がさらさらと肩から落ちていく。肉を食べ終えて残った串を取り皿の端に置いて、相澤の真似でもするかのように頬杖をついた。
    「俺ァ、相澤を爆豪から引き離すことが相澤の人命救助に繋がると踏んで、散々別れろって言ってんだよ」
    「爆豪が卒業前に職員室にきたんだ」
    聞けよ、とぼやく山田がまたテーブルの下で相澤の足を蹴り上げようとするのを交わして、ついでにさっき食べ損ねた焼き鳥を山田の近くの皿から奪う。あっ、と声を上げる山田にキムチの小鉢を渡してやれば「いらねぇよ」と断られたので変わりに瓶ビールを一本渡してやった。
    「いつも自信満々で不遜な爆豪が、顔を真っ青にして、話がしたいって訪ねてきた。進路に不安でもあるのかと思って、進路室の鍵をとって、爆豪と一緒に進路室に行ったのに、爆豪はなかなか口を開かなくて、ソファーに腰を下ろしたまま、なんにも言わないんだ。めずらしく俯いてた。顔が見えなくて、何度か声をかけたけど、聞こえてないみたいだった」
    焼き鳥を食べながら、当時のことを思い出す。暦のうえでは春なのにいまだに冬を引きずっているような日だった。
    職員室を訪ねてきた爆豪は顔色が悪く、おまけに歯切れも悪かった。いつも打てば響くような、竹を割ったような男なのに、まるで別人のようだった。今でこそ、あの時の爆豪は憔悴しきっていたのだとわかるけれど、そのときの相澤にはわからなかった。ただ、様子がいつもと違うな、とそれだけを思っていた。進路室に移動してからも爆豪は大人しかった。放課後だったことも幸いして、時間には余裕があった。職員会議もなければ、心操と指導の約束があったわけでもない。タイミングがよかった。爆豪が口を開かないままに数分が過ぎた。相澤が気にかけて何度か声をかけても俯いた顔があがる気配はなかったから、仕方がなく爆豪が話す気になるまで待つことにした。陽が傾くにつれて進路室の温度が下がっていく。肌に感じる空気がひやりとしている気がして、暖房をつけようと立ち上がりかけたときにようやく爆豪が口を開いた。
    「せんせい」
    相澤が爆豪を見れば、先ほどと変わらず俯いたままの姿があった。浮かせた腰を下ろして「どうした」と声をかければまた黙り込む。しかし沈黙は長くは続かなかった。爆豪がゆっくりと俯けていた頭をもたげる。相澤をあかい瞳が見つめている。ゆらゆらと揺れていて、夕日が水面に溶けるような瞳だった。泣いているのかと思ったけれど、そうでもないらしい。爆豪はまた「先生」と言った。さっきよりもしっかりとした声だった。
    「俺の人生にアンタがほしい」
    あんまりにも切実な声だったから、思わず相澤は爆豪の顔をまじまじと見つめてしまった。
    「これから先、きっと俺はアンタを必要としてしまう」
    瞬きをする。言葉を探すために時間が必要だった。部屋の空気が下がっていて、ブルリと身震いをする。寒くないか、と聞きかけて、爆豪に言われた言葉をはぐらかすみたいになりそうで飲み込んだ。かわりに冷えた腕をさする。爆豪はそんな相澤から片時も視線をそらさなかった。みっともなく狼狽えた自分が爆豪の瞳に映っていて、無性に逃げ出したくなった。なにかを言おうとして口を開くのに、なんにも言葉が出てこなかった。相澤が言葉を探しているあいだにも時間は過ぎていく。しばらくの沈黙のあと爆豪がゆっくりと息を吐いた。身体中の空気をすべて吐き出すような、長く重い溜息だった。爆豪が口を開く、なにかを言おうとする爆豪に、相澤もまた慌てて声を出した。
    「俺じゃないといけないのか」
    「……やっぱいい、なかったことにしろ」
    「いいや、ダメだ。言ったことには責任を持て」
    相澤が強い言葉で返せば、爆豪は目に見えて狼狽えた。きっと爆豪は今どんな顔をしているかわかっていないのだろう。相澤がはぐらかせば、爆豪の手を取らなければ、爆豪の言葉に頷かなければ、死んでしまいそうな顔をしているなんて、ちっとも気がついちゃいないのだ。さすがに失恋で死ぬような男ではないと知ってはいるけれど、この時だけは「そんなことあるはずがない」と笑い飛ばすのは憚られた。
    自慢じゃないが、相澤はそれなりに死線を潜り抜けてきている。死の際に立つ人間の危うさを知っているし、後ろを振り返れば死神が立っているんじゃないかと感じるような背筋が凍る思いだって何度も経験していた。
    爆豪の背後に死神が見えたと言って、納得するヤツはどれだけいるだろう。もう戻らない人間をたくさん見てきたから、なんとなく解ってしまった。今この瞬間、選択を間違えれば爆豪は戻らない。解ってしまった以上は助けてしまう。手が届くなら伸ばしてしまう。相澤はヒーローだから。
    そりゃあ死神も見えるだろうと山田が吐き捨てた。手にしたビール瓶の中身をグラスに注ぐこともせず、瓶に直接口をつけて飲んでいる。
    「緑谷と爆豪の二人を見てりゃわかる。不吉な組み合わせだってな。連れたって地獄に行く準備をしてるようなもんじゃねぇか。それで、残るのはお人好しのお前だけだ。お前はまた人の死を見送って傷つく羽目になる」
    「ずいぶん恨みがましい口振りだな」
    「俺はお前に死んでほしくないのと同じぐらい、誰かの死を背負ってほしくもねぇ」
    山田がビール瓶を煽る。知らぬ間に飲み干していたようで、肩を竦めて空になった瓶を振るので、栓を抜いていないビール瓶を渡してやった。山田はすぐに栓を抜いて瓶の縁に口をつける。荒い飲み方をするなと注意すれば、今日だけだ、と返ってきた。
    「お前が爆豪と別れねぇって言うから、やけ酒してんだろ」
    「そうは言うけどな、俺が爆豪と別れてアイツが死んだら、お前責任取れるのか」
    「失恋なんかで死ぬガキかよ」
    「……俺もそう思うよ」
    俺だってそう思った。
    でも本当に、死にそうだったんだ。
    たとえこの先、爆豪が緑谷とどこかで死んでしまったとしても、相澤からしたら遅いか早いかの話でしかない。あのとき爆豪の手を取らなければ、今に至るまでもなく爆豪は死んでいた。肉体か精神かはわからないけれど、相澤の目にはたしかに爆豪の背後に死神が見えた。そしてその死神は今も爆豪の近くにいて、ときおり姿を見せにくる。


    爆豪と恋人関係に収まるにあたって相澤には気になることがあった。爆豪が相澤に告白したとき口にした言葉は、好きだとか、付き合って欲しいではなく「人生に必要」という言葉だ。
    好意と呼ぶのも違和感のある告白を受けたのはいいけれど、果たしてその言葉には性欲が含まれているのだろうか。
    もしも爆豪が相澤とセックスをする気がないのなら相澤は別のところで処理をしないといけなくなってくる。爆豪より大人だろうが枯れているわけでもなし、人並みに欲もある。爆豪にその気もないのに強要するつもりは毛頭ないが、爆豪にすこしでもその気があるのなら一人で処理をするのではなく爆豪と発散したい。それがダメなら風俗に行くことは許されるのがが知りたい。一人で処理するよりも誰かと体温を分け合いながらコトに及んだほうが気持ちいいことを相澤は知っている。爆豪が相澤とセックスをするつもりでいるのに勝手に爆豪にその気は無いと決めつけて外で発散するのは不貞行為になってしまうだろうし、爆豪を傷つけ、裏切ることにもなるだろう。それはすこし避けたかった。
    爆豪がどういうつもりをしているのか確認したい。けれどさすがの相澤も、つい最近まで教え子だった子どもに自分とセックスする気があるのかと聞くのは気が引けた。とはいえ問題を先送りにしたところで面倒ごとが増えるくらいなら、さっさと爆豪に意思確認をしたほうがいいことも理解していた。
    相澤は重たい髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。こんなことで悩んでいるなんて誰にも知られたくないなと思う。どんなシチュエーションで、どんな顔をして「セックスする気があるか」なんて聞けばいいのかが相澤にはまるでわからなかった。うまい切り出し方は無いものかと考えても見たけれどちっとも思い浮かばない。どんな切り出し方をしても滑稽になることは避けられそうになかった。だいたい男同士で下世話な話をするのに最適なシチュエーションなんてあるわけがない。だんだんと面倒になってきて溜息を落とす。考えるだけ無駄なように思えてきて、もう次に会ったときにでも聞けばいいかと考えるのはやめにした。
    そんな「次」は意外にもすぐにやってきた。
    爆豪からメシでもどうか、とメッセージが入っていたのだ。
    しかし、生憎と仕事が立て込んでいて、すぐに時間が作れそうになかった。爆豪にはそのままの事情を打ち込んで返信すると、一分と待たずに「俺も一緒」と送られてくる。じゃあ会う暇なんかないじゃないか、と眉間に皺をよせて返事に頭を悩ませていれば、相澤からの返事を待たずに爆豪から追加のメッセージが入る。
    『何時でもいい。真夜中でも。どっかで時間こじ開けろ。話したいことあんだよ』
    『じゃあ、今日の十二時』
    『昼の?』
    『夜の』
    『二十四時って言えや。了解』
    書類仕事に、事務仕事、授業準備に、警察への連絡、校長に渡す報告書、やらないといけないことを考えるとどうしても日付が変わるギリギリまで時間が作れそうになかったので夜中の十二時を提案した。どうせそんな時間から会ったところでまともに話す時間もとれないのだから、お互い落ち着いたころに予定を組み直すことになると思っていたのに、相澤の予想を裏切ってそのまま深夜に爆豪と会うことになった。これは何がなんでも仕事を終わらせないといけない。
    本当に今日会うのか、とメッセージを打ちかけてやめた。スマートフォンをポケットに捩じ込んで、常備している目薬のキャップをひねった。
    なんとか仕事を終わらせたのが二十三時も半ばを過ぎた頃で、スマートフォンには爆豪からの着信が一件とメッセージが一件はいっていた。メッセージアプリを立ち上げれば位置情報が表示されているほかにメッセージはない。送られてきた位置情報をタップして地図アプリに切り替えれば、ピンは雄英に一番近いファミリーレストランを示していた。
    地図アプリを閉じて着信履歴の画面を開く。一番上にある不在着信から爆豪にコールすれば、ツーコールと待たずに繋がった。
    「もしもし」
    「いま仕事が終わった。ファミレスに向かえばいいか」
    「おー。もう先に入ってる」
    「わかった、すぐ行く」
    短い会話を済ませて通話を終えると、相澤は爆豪の待つファミレスへと急いだ。あまり待たせるのもかわいそうだった。
    爆豪が指定したレストランは明け方四時まで営業している洋食チェーン店だった。近くの建物の灯りが軒並み消えているせいで、道路の隅でレストランだけが光っている。扉を押してなかに入れば、ピンポンと間抜けな音が相澤を出迎えた。レジカウンターの奥から猫背ぎみの店員が姿を見せる。相澤が店員の口が開くよりも先に待ち人がいることを伝えれば、ぼんやりと考えるような素振りを見せたあとに小さく「ああ」と呟いて相澤を店の奥へと誘導した。
    「遅くなった」
    「んや、無理言ったンは俺だ」
    「飯は」
    「まだ。あんたは」
    「……俺もまだだな」
    四人がけのボックス席に収まる爆豪の向かいに腰を下ろしながら言えば、爆豪が相澤の前にメニュー表を広げて置いてくれた。俺ァもう決めてるから、と言うので参考に聞かせてもらえばロースかつ定食と返ってくる。相澤はメニューを閉じて端に避けると呼び鈴を鳴らした。
    「メニュー見てねぇだろ」
    「考えるのが面倒だ。お前と同じでいい」
    相澤の返しが不満だったのか爆豪の眉間に皺が寄った。猫背の店員が「お決まりですか」とやって来る。
    「ロースかつ定食とドリンクバーをふたつ」
    爆豪が相澤の分も合わせて頼む。ちゃっかりドリンクバーもつけていたけれど、同じでいいと言ったのは相澤なので口を挟むことはしなかった。
    店員が机のうえにあったメニューを抱えてキッチンの奥へと消えていくのを見るとはなしに見送る。深夜のバーや居酒屋ならまだしも、深夜のファミリーレストランは相澤にとってあまり馴染みのない場所だった。雄英が寮完備になってから真也に学外をうろつくことが減ったというのもあるけれど、仮に深夜に学外で飯を食べることになったとしてもファミリーレストランは選ばないだろう。
    広い店内にはまばらにではあるが、相澤たち以外の姿もあった。その誰もが他に客などいないとでもいうように無関心で、店内を見回しているのは相澤くらいのものだった。
    「なにキョロキョロしてんだよ」
    呆れたような声に引っ張られるように視線をやれば、爆豪が声のとおりに呆れた表情をしていた。初めて来るわけでもあるまいし、と言いながら腰を浮かせる爆豪にわずかに首を傾げれば、飲み物を取りに行くのだという。
    「適当に持ってくるからアンタは座ってろ」
    「悪い」
    「なんでもいいんだろ」
    落ち着きのない相澤を見かねてか爆豪が相澤の分も持ってきてくれるというので甘えることにした。爆豪は慣れた足取りで店の一角にあるドリンクコーナーに向かうと、たいして時間もかけずに二人分のお茶とコーヒーをトレイに乗せて戻ってきた。
    「話はメシのあとのほうがいいか」
    「俺は今でもいいよ」
    「……いや、見てもらいてェモンもあるし」
    「じゃあ、あとにしよう」
    爆豪が首を縦に振った。かと思えば、ちらりと腕にまいた時計を見て、バツの悪そうな表情を浮かべる。
    「いまさらだけど、明日仕事は?」
    「午前はなにもないよ。朝礼に出たら午後までは空きだ。午後から二限授業があるけど、まあ仮眠くらいはできる」
    「ならいい」
    相澤の言葉をきいて、わずかに頬を緩めた爆豪を見る。信頼されてると思う。大事にされているとも思う。少なくとも無茶苦茶な時間を指定しても二つ返事で了承してくれるくらいには。こんな時間を指定した相手の明日の予定を気にするくらいには。しかし、それが恋愛や性欲が絡むものなのかまでは当然読み取ることができないでいた。それこそ、指定された場所がファミレスなんかじゃなくてラブホテルなら悩むこともなかった。
    相澤が爆豪の表情を窺っていれば、なにをじろじろ見ていると言わんばかりに顔を顰められる。なんでもないよと言えば怪訝な顔で相澤を見る。目と目が合って赤面するだとか、じっと見つめられて居心地が悪そうにするとか、そんな様子があるわけでもない。
    そもそも爆豪は相澤に「好き」ではなく「必要」と言ったのだ。恋や愛ではないのかもしれない。わからないことを考え続けるのは非合理的だった。目の前に答えを持つ相手がいるのなら、単刀直入に聞いた方がはやい。たとえどんなに気が進まなくても。
    相澤が心持ち多めに酸素を吸い込むとゆっくりと吐きだした。
    「爆豪、実は俺もお前に話がある」
    おまえ、おれとセックスする気はあるのか。
    そう切り出そうとしたとき、お待たせしました、とダラけた声が降ってくる。視線をあげれば、店員が両手にトレイを持って立っていた。
    「ロースかつ定食です」
    気だるそうな声とは裏腹に慣れた動作で大きなトレイを爆豪と相澤の前に整えると、伝票を置いて去っていく。
    爆豪が店員を見送ることもせずに箸を割った。備え付けのソースをすり鉢にいれてから相澤の近くに置く。出鼻をくじかれた相澤も、先ほどとは色の違う息を吐き出しながら箸を手にとった。
    サクサクと音を立ててカツを食べる爆豪がおもむろに「それで」と言う。すぐに理解ができずに「なにが」と返せば、爆豪の右眉が跳ねた。
    「あんたも話があんだろ」
    言いながら爆豪が付け合せのキャベツを頬張る。反応を窺うように視線を投げられて、相澤はちょっと迷ってから口に運びかけたカツを皿のうえに戻した。
    「ああ、それなんだが」
    「なに」
    箸を置いた相澤とは違い、爆豪の箸は止まらない。カツを食べている相手に話してもいいものなのか悩んだけれど、今からシモの話をするから箸を置けと言うのもバカらしく思えて、爆豪のことは気にせず話を切り出すことにした。
    「お前、俺とセックスする気はあるのか」
    相澤の問いかけに爆豪は摘んでいたカツを落とした。あ、と落ちたカツを追った視線は、けれどすぐに相澤へと向けられる。
    「は?」
    なにも摘んでいない箸を構えたままポカンと口をあけた表情はあどけない。いつもはキツい目尻が丸く形をかえた。
    「一応、恋人関係なんだろ」
    「……してぇの?」
    随分とゆっくりとした口調だった。爆豪が箸を置いて相澤に向き直る。食べながらでいいよと言えば、この話題で?と眉を顰められた。爆豪がわずかに顎をしゃくって相澤に話の続きを促すので、素直に促されてやることにした。
    「お前はしたくないのか」
    「……あんまそういう欲はねェし、アンタが俺とどうこうする気だとは思ってなかった。というか俺じゃなくてアンタはどうなんだよ」
    「したいか、と聞かれたら明確には答えられないけど、お前で抜けたからできると思う。性欲は人並みにあるし、お前が望まないのなら他で発散するしかなくなる」
    「ヤれねぇなら別れるってことか?」
    「いや、プロに任せる。それをお前が嫌がらないかって確認でもある。俺とセックスする気があるのか、セックスしないとしたら俺が外で遊んでもいいのか」
    「別に外で女とヤってこようが、男とハメてこようが怒ったりしねぇよ」
    「……お前は俺とする気はないのか?」
    「考えたこと、ねぇな」
    「そうか」
    「……ちょっと考えてみる」
    無理はしなくていい、という言葉は飲み込んだ。爆豪が自分とセックスができるかどうか考えてみるというのが可笑しくて、どんな答えを出すのかが気になった。パシパシと目を瞬かせたあと、爆豪は箸をとって食事を再開した。相澤が爆豪に聞きたかったことは最低限聞けたので、話を掘り下げることはせずに爆豪に倣って箸を手にとった。
    すっかり食べ終えて皿も下げてもらったあと、爆豪は一度席を立ってコーヒーを煎れに行った。ご丁寧に相澤の分まで持ってきてくれたので有り難く受け取れば爆豪は小さく頷いた。
    「それで、お前の話は」
    さっきとは逆で相澤が問いかければ、爆豪は傍らの封筒を机のうえに置いた。薄い灰色の封筒には不動産屋の名前が印字されていた。
    「独立でもするのか」
    爆豪はいずれ自分の事務所を持つだろうと思っていたので、相澤は一つの疑問も持たずにそう口にしたのだけれど、相澤の予想は外れたらしく、爆豪から「ちげぇ」と返ってくる。
    「中見ろ。あんたにも関係あることだから」
    「……俺にも?」
    相澤には不動産屋の世話になる予定などなかったし、関係がある話と言われたところで思い浮かぶ用事もない。わずかに首を傾げながらも爆豪に言われたとおりに封筒を手に取り、なかの紙を取り出した。
    「マンション?」
    入っていたのはマンションの見取り図が数十枚。
    「そ、マンション。雄英にも近いし、俺ンとこも通える」
    「なんで?」
    「一緒に住もうと思って」
    「誰と」
    「あんたと」
    沈黙が落ちる。相澤もちょっとこの展開は予想していなかった。これから相澤と爆豪が一緒に暮らすより、爆豪が独立すると言われたほうがよほど相澤のなかで想像に容易い展開だった。
    手元の書類を見る。どれも間取りは広く、各々自室を持っても二部屋は余る広さの物件ばかりだった。
    「借りるのか」
    「いや、買う予定」
    書類には月割の金額が大きく書かれていたから賃貸かと思ったけれど違ったらしい。爆豪が「裏面」というので紙の束を引っくり返せば、購入希望者向けの情報が書かれていた。
    「出来るだけはやく住み始めたいから建設中のとこから選ぶ気はねぇんだけど、新築がいいなら考える」
    「住むのは決定事項なのか?」
    「……嫌か?」
    「嫌とかでは、ただ急な話だったから」
    「それもそうか」
    どこか納得した声で爆豪が呟く。ソファーに深くかけ直してゆっくりと長い息を吐き出した。
    「恋人なんだろ」
    「そうだな」
    「恋人ってのは、一緒にいるもんなんだろ」
    「本当にそれが理由か?」
    「あんたが必要だって、言っただろ」
    「たしかに言われたな」
    そういうことだ、と爆豪が言った。駆け引きをする気はないと口にしながら疲れた表情見せる。コーヒーカップに伸ばした手が途中で落ちてテーブルのうえに所在なさげに投げ出された。
    「いないんじゃ、ないのと一緒じゃねぇか」
    「一理ある」
    手に持っていた紙の束を封筒にしまう。爆豪が選んできた物件は何件もあった。それこそ紙が束になるくらいの量だ。封筒は爆豪に返さず、相澤が預かることにした。
    「寝不足の頭で判断することじゃないからな、持ち帰るよ」
    投げ出されたままの爆豪の手の、人さし指が小さく動いて、ゆっくりと折り曲がり、中指、薬指と順番に握りこまれていくのを眺める。
    「前向きに検討するよ」
    「……わかった」
    ついに五本の指がグ、とすべて握り込まれたかと思えば、ゆるやかに解かれていく。そうしてまるで投げ出されてなんていませんよといったふうにコーヒーカップの持ち手に触れて、爆豪の口元に事も無げにカップを運んでみせた。



    ││翌日、教員室で退寮届けを書いていると、隣から山田が覗き込んできた。
    「お前、授業は?」
    聞けば来週エクトプラズムが遠方に出るため授業時間を振り替えることになったらしい。だから今は空き、と返す山田の手にはラジオの台本が握られていた。
    「なに書いてんだよ」
    「機密資料」
    「嘘言えよ、こんなとこで機密資料書くヤツがいるワケねぇ」
    正論だ。実際に相澤が書いているのは機密資料でもなんでもない、ただの退寮届けだ。しかし相澤にとっては山田に知られたくない資料でもあったから、ある意味では機密資料といっても間違いではなかった。証拠に、山田は相澤の手によって空白が埋められていく紙をじろじろと眺めたあと、露骨に嫌そうな顔をする。
    「前住んでたところに戻んのか?」
    「いや、爆豪と一緒に住む」
    べつに正直に話す必要はなかったけれど、隠していてもすぐバレる。爆豪との関係において相談できる相手は山田しかいないし、そうでなくても寮を出て爆豪と暮らすようになれば生活に変化が生まれるだろうし、それに気が付かない男でもない。
    「いつ出ンのよ」
    「まだ決めていない。住む家も未定だが、準備だけはしておこうと思って。日付をいれるだけにしておけば楽だろう」
    「相澤が持ちかけたのか?」
    「いいや、爆豪だよ。いくつかの物件情報と一緒に話があった。まだ返事はしてないけど受けるつもりでいる」
    物件情報にはまだ目を通しきれていないものの、どこかは選ぶつもりでいる。
    雄英の寮に入寮することになってからも、以前住んでいたマンションは維持したままだったが、そこも引き払う予定だ。
    爆豪が一緒に住むことを提案してきたのは、爆豪なりに恋人らしい事とは何か、と考えた末の答えなのかもしれないが、おそらく一番の理由は、生活のなかに相澤の存在を必要としてくれたからだと踏んでいた。話を持ちかけてきたときの爆豪は、いくら真夜中だったとはいえ随分とくたびれて見えた。相澤の気の所為ではなく、誰の目から見ても疲れて見えたに違いない。
    爆豪と会っていなかった数日のうちに、相澤には知らされていない出来事があったのだろう。それこそ、爆豪が見るからに憔悴してしまうなにかが。
    相澤が爆豪と恋人になったのは爆豪に必要とされたからだ。せっかく爆豪の手を取る決心をしたのだから、爆豪が憔悴するようなことがあったときに傍にいてやりたい。相澤が知らないあいだに爆豪が死んでしまうようでは決心した甲斐がない。
    相澤とて爆豪と恋人になることについて迷いがなかったわけではない。咄嗟に掴んだ手ではあったけれど、掴んでから何回も悩んで、それでも爆豪の手を握り続けている。ただ放しそびれたわけじゃなく、相澤の意思で爆豪と恋人で居続けている。
    それに、一緒に住めば、長く同じ時間を同じ空間で過ごせば、爆豪が相澤には言わないことや、爆豪を疲れさせてしまうものが解るんじゃないかと思った。それが「なに」か解りさえすれば、もっと容易く爆豪を生きやすくしてやれるかもしれない。
    退寮日の欄のみを残して書類を書き終えた山田がフン、と鼻を鳴らす。
    「相変わらず爆豪のこと繊細に扱ってんのな」
    「おまえも相変わらず爆豪に突っかかるよな」
    山田は台本を手に持っているだけで、ちっとも読みすすめている様子はなかった。相澤が書き終えた書類をクリアファイルに収めるまでをじっとりとした視線で見届けるばかりだ。
    「その台本、いつのだ」
    「明日の夜」
    「ってことは今日の夜じゃあないんだな」
    書類を片し終わった相澤はノートパソコンを立ち上げながら山田に聞いた。山田はわずかに瞠目してみせるも、まあ、と曖昧に返事をかえす。
    「じゃあ、今晩は俺と飲みだ」
    げぇ、と山田が潰れた声を出す。まァた相談ごとかよ、とうんざりした様子で言う。山田が相澤を飲みに誘うことはままあれど、相澤が山田を飲みに誘うことはあまりない。誘うとしたら山田に話したいことがあるときだけだ。たとえば、爆豪との事とか。
    「奢るよ」
    「当たり前だろ、相談料にゃ安いぜ」
    そう言って山田はようやく手にした台本の表紙をめくり始めた。相澤もパソコンのパスワードを入力する。仕事を夜に持ち越せない分、できるだけ片付けておかなくてはいけなかった。



    いつもの大衆居酒屋で山田がレモンサワーを煽っていた。のれんを潜るまで嫌だ嫌だとダダをこねていたけれど、いざ店に入ればメニューも見ずにレモンサワーと唐揚げを店員に頼むのだからつくづく調子のいい男だった。
    レモンサワーを半分ほど干すと、ジョッキから手を離さずに相澤にむかって指をさしてくる。
    「どうせ一緒に住むって話だろ」
    投げ捨てるような言葉は聞かなかったことにして「人を指差すな」と形だけ注意する。ビールを一息でジョッキの底まで飲み干すと、店員を呼んで追加で生ビールを頼んだ。ついでに瓶も四本。店員が元気な声で復唱するのを聞き流し、厨房に戻っていくのを確認してから口を開く。
    「それもあるけど、おまえ、男とヤったことあるか」
    相澤の問いかけが予想外だったのか、山田の手からジョッキが離れていきそうになるのを寸でのところで相澤が防いだ。しっかりしろよと言えば、誰のせいだよと返ってくる。
    「ンなもんあるわけねーだろ。俺は女としか付き合ったことねぇよ」
    「だよなあ。俺も今まで女とばっかりだったから勝手がわかってないんだよ」
    肩を竦める相澤に山田が苦いものを食べたような顔をする。かと思えば残ったレモンサワーを一気に飲み干して席を立った。
    「帰る」
    「まあまあ。唐揚げがくるぞ」
    「いらねぇよ。ンな話聞きながら食うもんじゃねぇ」
    今にも店を出ていこうとする山田の前に困惑した様子の店員がタイミングよく唐揚げを持ってきた。空いた手には瓶ビールが二本。相澤が「適当に置いてもらって大丈夫です」といえば、店員は「唐揚げとお先に瓶ビール二本です」とマニュアル通りに告げていく。あとの二本もすぐに持ってくると言う店員に会釈をして、相澤は山田のあいたジョッキにビールを注いでやった。
    「混ぜるなよ」
    「店員さんを困らせちゃダメだろ」
    「その前におまえは俺を困らせてんだよ」
    眉を顰めながらも山田は立ち上がったばかりの椅子に腰を下ろした。まともな返事なんざしてやらねぇからな、とジョッキに手を伸ばす山田に相澤は苦笑する。この男は相澤に甘い甘いと言うくせに自分だって十分に甘い。絆されやすさでいえばきっと同じくらいだと勝手に思っている。
    知らぬところで相澤に甘いと思われている男は「それで?」と話を促した。割り箸を渡してやれば素直に受け取って箸を割る。許可もなく唐揚げにレモンを搾るので机の下で足を蹴りあげたところで店員が生ジョッキと追加の瓶ビールを持ってきた。相澤が先程渡しそびれた空ジョッキを店員に渡し、ついでにいくつかつまみも頼む。変わらず元気に注文を復唱する声を聞きながら、山田になにから話そう、と考えていた。
    相澤はさして恋愛経験が豊富なわけではない。体の付き合いがある関係を誰かと持ったことはあるが、相手のことが好きでそういう関係になったことは少なかったように思う。
    ある程度の年齢になれば恋愛なんて成り行きだ。本当に好きでどうしようもなくて恋仲になることのほうが珍しいとさえ思っている。嫌いな相手じゃなければ、大抵のことはどうにかできる。
    山田に言わせれば、そんなことだから長く続かないとのことらしいが、当の山田だって相手のことが好きで好きで付き合うことになった、といった話は聞いたことがないのでお互い様だ。
    そして、これは想像でしかないけれど、おそらく爆豪もさして恋愛経験は多くないんじゃないかと思っている。
    相澤は爆豪のことを十五歳から今の今まで途絶えることなく見続けているが、爆豪が誰かと付き合っていた様子はなかったように思う。出掛けるときも切島や上鳴や瀬呂とばかりだったし、時間があれば自主練習がしたいと言ってグラウンドの使用名簿に名前を書きに職員室に顔を出していた。きっと誰かと付き合う時間なんてなかっただろう。
    そんな爆豪が相澤を求めてきたとき、相澤は一瞬「思春期特有の恋愛感情との錯覚」だと思った。爆豪のなかの何かしらの感情を爆豪が「恋」だと勘違いしているんじゃないか。しかし、そんな考えは爆豪の様子を見て霧散した。爆豪の表情や仕草は恋に浮かれた人間とは正反対の切実さを孕んでいた。病床に伏せる誰かの手を握るような心地で、相澤は爆豪の手をとった。
    正直なところ、今となっては「恋」と勘違いされていたほうがよほど楽だったと言い切れる。爆豪は相澤に恋してなんかいない。好きなのかどうかさえ怪しい。だからこその「人生に必要だ」という言葉選びだったのだろう。
    「人生に必要な相手と一緒に住みたい」は理解ができる。だが、果たして爆豪は人生に必要なだけの相手とセックスはできるんだろうか。
    恋もまともにしたことが無さそうな男にセックスを持ちかけることは搾取することにならないだろうか。爆豪に「俺とセックスができるか」なんて聞かない方が良かったんじゃないか。
    しかしながら、爆豪ではない相手と遊ぶのも爆豪を裏切るようなことになりかねないし、結局は本人に相談するほかなかったのも事実だ。もしも爆豪が相澤とできないというのなら、またその時にほかの案を考えるしかない。
    相澤が爆豪とのやり取りを思い返していれば、うんざりとした声で山田が「それで」と話を促してくる。
    「お前、爆豪とヤれんのかよ」
    というかヤりてぇの? と唐揚げを箸でつまみながら言う。爆豪もそうだったけれど、どうして二言目には「ヤりたいのか」と聞かれるのだろう。相澤は眉間に皺を寄せた。
    「そりゃあ、人並みにはヤりたいし、ヤるのに相手は関係ないだろ」
    「ヤリ方云々は置いておくにしてもよォ、教え子の男だぜ? 勃つのかよ」
    「勃つよ」
    明け透けな物言いに、相澤もまた明け透けに返す。事実でもあるし、誤魔化したところで話が進まない。相澤は手近なビール瓶を手にとってジョッキに注いだ。泡が多めになるように高い位置から注げば、山田が泡ばっかりじゃねぇかとボヤく。どうせ飲むのは相澤なので気にせずジョッキに口をつければ、山田はわざとらしいため息を吐いた。
    「お前って昔っからそういうとこあるよな」
    「泡が多い方がうまいだろ」
    「そっちじゃねぇよ。爆豪のハナシ。いくら新鮮さとか、目新しさに目移りしたって言っても、なにもそんな面倒くさいヤツにいく気が知れねえよ」
    「爆豪は完全にイレギュラーだ。昔っからってほどじゃない」
    「相手を選ばねェのは昔っからだろ。懐かれたらホイホイ付き合いやがって。そのおかげでろくな女はいなかった」
    山田の恨み言のような苦言に相澤は首を傾げた。相澤としては懐かれたからという理由で付き合ったことはないつもりだったが山田から見れば違ったらしい。山田がジョッキのなかのビールを飲み干して乱暴つテーブルに置く。鈍い音を気にした素振りも見せないで相澤を睨みつけた。
    「別に、昔の女を掘り返す気はねぇよ。勝手にカード使われて口座空にされた話も、お前が長期任務で家開けてるうちにお前の家でヤってた女も、お前の浮気を疑って風呂場で自殺しかけた女も、もう全員過去の話だ。責めやしねぇさ」
    「……爆豪はどれも当てはまらないだろ。お前が怒る理由はないはずだ」
    たしかに言われてみれば過去の付き合いは良くなかったかもしれない。一人ずつの話はそこまで大層なものではなくても並べてみると山田が顔を顰めるのも仕方がない。どことなくバツが悪くなって相澤は視線を逸らしながら、話も逸らすことにした。爆豪は稼ぎもあるから相澤の稼ぎに依存することはないだろうし、爆豪がほかの誰かに目移りして浮気するとは考え難い。家主の居ぬ間にヤってた話にいたっては相澤がほかの女とヤることを提案されている。山田が懸念する要素はないはずだ。しかし、山田の表情は険しいままだった。
    「ヤれねぇのに一緒に住みてぇ。お前がいるのに優先はできねぇって、そんなヤツと付き合ってんのが理解できねぇ。オマケに暴君だ。親友がこんなに反対してんのに別れるって選択肢もでねぇ。惚れっぽいんだよ、おまえ」
    「惚れっぽいのか。俺は爆豪のことが好きなのか」
    相澤は目を瞬かせて山田を見る。自分が惚れっぽいかはさておき、爆豪に惚れているかどうかなんて考えたこともなかった。
    「反対されても別れねぇくらいには好きなんじゃねぇの」
    拗ねた口調で言われて苦笑する。一番のダチの山田が言うならそうなんだろうな、と機嫌を取れば山田はようやく眉間の皺を薄くして、かわりに眉尻を下げる。空のジョッキにビールを注いでやる。四本すべてが空になってしまったので手をあげて店員を呼んだ。気がついた店員が近寄ってきたところで「瓶を四本」と叫べば、大きな声で「瓶四本ですねー!」と叫び返した店員が、すぐに両手に瓶ビールを四本持ってやってくる。山田が店員から瓶ビールを受け取って空瓶を机の端に寄せた。店員は伝票を手に取って追加注文を書き込んだあと、テーブルを目にしてつまみが来ていないことに気がついたのか慌てた様子で厨房に引っ込んでいく。
    「お待たせしました、すみません!」
    「大丈夫、ゆっくり飲んでるから」
    一分と間を開けずに店員が戻ってきて、テーブルにつまみを置いていく。刺身、天ぷら、漬物、さつまあげと並べたあと、高菜チャーハンはもう少し待ってくださいと頭を下げるので、相澤はまた、大丈夫と返してゆるく手を振った。
    「……反対してるやつにこんな相談するなよ」
    店員が去ったあとに山田がボヤいた。
    「俺にはおまえしかいないんだよ」
    「俺しかいねぇってんなら爆豪のこと切れよ」
    「惚れてるらしいから無理だな。お前が言ったんだろ」
    山田の取り皿に冷めた唐揚げを入れてやる。ご機嫌取りだ。山田は相澤の思惑などお見通しのはずなのに、素直に相澤が寄越した唐揚げを箸でつまんだ。
    「くそ、変なのとばっかり付き合いやがって」
    山田の頭がどんどんと下を向く。セットされていない髪が机のうえに垂れ下がる。さつまあげの皿に髪が落ちそうで、慌てて引き寄せる。ついでに一つ摘んで口の中に入れれば、気がついた山田が恨めしそうに相澤を見た。しかし長くは続かず、呆れたような溜息を落とすと箸を握りなおして漬物をつつき始めた。
    頼んだつまみもほとんど平らげてしまったのでメニューを開く。とんぺい焼き頼んでいいか、と聞けば好きにしろと返ってくる。相澤は山田の言葉に甘えることにして、とんぺい焼きと、それからホッケの塩焼きも頼むことにした。メニューを閉じれば山田と目が合う。
    「やっぱりお前もなにか頼むか?」
    「ちげぇよ。なあ、俺、お前の葬式には出たくねぇよ」
    相澤が差し出したメニューを受け取って、開くこともなくメニュー立てに戻した山田が重苦しい声で言う。相澤からすれば随分と急な話に聞こえたけれど、山田にとってはずっと考えていたことなのかもしれない。少なくとも、山田が相澤にしつこく教師になるよう誘いかけていた理由の一つではあった。爆豪と付き合うことは、山田にとって相澤が死に一歩近づくようなことなのだろう。
    申し訳ない気持ちがないわけではない。しかし、相澤は爆豪を見捨てることもきっと出来やしないのだ。
    「香典返しはお前の好きなものにしてもらえるように遺書に書いておくよ」
    冗談めかして言う。
    「いらねぇよ」
    当然、切り捨てるような返事がかえってきて小さく笑ってしまう。目ざとい山田の目尻が心なしか鋭くなったので、相澤は誤魔化すように店員を呼んだ。
    やってきた店員にとんぺい焼きとホッケの塩焼きを頼む。山田が横から角煮とフライドポテトを頼んだ。
    「爆豪とセックスなあ。全ッ然想像できねぇ」
    一頻り爆豪との関係について反対し終えて気が済んだのか、山田が頬杖を付きながら言う。アイツ、ガキの印象しかねぇもん、と続く言葉に爆豪の姿を思い浮かべた。学生のころに比べて、あまり背は伸びなかったが、身体は見違えるほどガッシリとして、遠目に見ても子どもには見えなくなった。顎のラインも余計な肉が落ち、すっきりとした印象になったと思う。首を傾げたところで、相澤はハッとして山田を睨みつけた。
    「いや、待て、お前が爆豪でそんな想像をするな」
    「相澤は爆豪でえろい想像できんのねェ」
    「うるせぇぞ」
    先ほどまで散々文句をつけていたくせに、すっかり揶揄う姿勢をとる山田に舌を打つ。こうなると少し面倒くさい。
    「すっかり好きになってんじゃねぇか」
    山田が笑いを含んだ声で言う。
    「お前が言わなきゃ気がつかなかったよ」
    「そういや高菜チャーハン来てねぇな」
    「それも、言われてはじめて気がついた」


    深夜のファミレスで話をしたときから二週間が経っていた。
    相澤は非番だったが爆豪は夜勤の事務所待機だった。そうとは知らずに「話す時間を取れないか」と連絡してしまったけれど爆豪からは存外すぐに返事があった。あんまり事務所から離れられないがすこしなら抜けられるとのことだったので、爆豪が所属する事務所の近くにある喫茶店で話をすることにした。
    コーヒーカップがテーブルに二つ。シュガーポットを渡してやれば要らないと手を振られてしまい、相澤は素直にシュガーポットを元の位置に戻した。
    話がしたいと呼び出したのは相澤のほうだったので、先に話を切り出そうとしたのだけれど、そんな相澤を遮るように爆豪が相澤の名前を呼んだ。開きかけた口を閉じて爆豪を見れば、爆豪は相澤の視線に促されるように「考えてみたけど」と切り出した。
    「たぶん俺はセックスの優先順位が高くない。前にそういう欲があんまりねぇって言ったけど、処理してねーわけじゃなくて、とりあえず出せりゃいいと思ってる。メシで言えば、牛丼とか立ち食い蕎麦みてぇに、とりあえず食えりゃなんでも。さっさと終わりゃあより良い」
    「うん?」
    「別にファストフードでも。牛丼、かけそば、ハンバーガー、みてぇな。財布とスマホを机に置きゃあ、すぐにメシが出てくるみてーに、近くにティッシュ置いて軽く擦って出しておわり」
    「牛丼、かけそば、ハンバーガーか」
    オウムのように爆豪が言った言葉を復唱すれば、爆豪が「牛丼、かけそば、セックスでもいいけど」と唇のはしっこを持ち上げて目を細める。
    「まあ淡白だとそんなものなのかもな」
    意地悪な視線を無視して相澤が呟けば、途端に白けた空気を背負った爆豪が話を戻すように会話のあとを取った。
    「消太さんはマトモにヤりてぇんだっけ」
    「それなりに」
    「無理ではねェ。興味があんまりねーってだけだから消太さんに合わせる。逆にアンタは俺とできんの? 俺に気ィ使ってるだけならいらねーぜ。外で遊ぼうが怒ったりしねぇよ」
    「お前はそういうの嫌がると思ってた」
    「そういうのって」
    「他と遊ぶようなこと」
    爆豪が片眉を跳ね上げて難しい顔でコーヒーを啜る。カップを置いた指先を彷徨かせたかと思えば、爪先で硬いテーブルをはじく。わずかに言い淀む様子をみせるので首を傾げれば、爆豪は随分と重たそうに口を開いた。
    「……もしも一緒に住むようなことになって、家でヤったりとか、匂いとか持って帰って来られんのはちょっとヤダ。でも今は一緒に住んでねぇし」
    「一緒に住んでる相手がいるのに、外で女引っ掛けにいく男ってどうなんだ。仮に外で女作って、そっちのほうが楽だからって俺がお前を切ることは考えないのか?」
    爆豪の指がまたテーブルを弾いた。
    「それはダメだな」
    聞かせる気が無さそうな小さな声だったけれど相澤の耳にはしっかりと届いた。
    「俺はあちこち両立するような器用さはないぞ。どうせすぐに面倒が勝つ」
    「だろうな。つまり、俺がアンタとセックスできれば問題ねーわけだ。もちろんアンタが俺と出来ンならって話だけど」
    「心配はありがたいけど、俺はお前とできるよ」
    「へぇ」
    爆豪が意外と言わんばかりの相槌を打つ。どことなく気恥ずかしくなってコーヒーカップに手を伸ばした。そんな相澤を気にした様子もなく爆豪が続ける。
    「じゃあ、それで」
    あっけらかんとした様子の爆豪に意識していることを気取られないように努めて自然にコーヒーを飲む。できるだけゆっくりと一口分飲み込んで、なるべく鷹揚な仕草でカップをソーサーに戻した。そうして、これまた下心を爆豪に気取られないように、平坦な声で問いかける。
    「ちなみに、お前はどっちがいいとかあるのか」
    「なにが」
    「……上か下か」
    「そりゃアンタが選べばいいだろ。俺はどっちも同じぐれぇ興味ねーもん」
    欲をいえば相澤は抱く側に回りたい。けれど、今更になって元教え子を、一回りも下の男を、抱きたいと思っているのを告白するのが恥ずかしくなっていた。ズルいと思いつつも爆豪に判断を委ねれば、爆豪はやはり今までと変わらず、どうでもよさそうな調子で相澤に選択肢を突き返してくる。
    「付き合わせる以上、選択権があったほうがいいだろ」
    「これに関しては俺が主体で動くのは非合理ってか向いてねぇよ。ヤりてぇって気もねーのに先導できねぇ」
    「それもそうか。じゃあ、お前が下で」
    「ん。まあチンコ使いてぇって話だったもんな」
    明け透けな物言いに相澤が眉を顰めるのを他所に、爆豪はスマートフォンを取り出して、なにやら操作をしだす。仕事かと尋ねても曖昧な声が返ってくるだけだった。時計を見ればそんなに時間は経っていないが、事務所に戻らなければならないのなら相澤の話はまた別の日に時間をとったほうがいいかもしれない。しかし、爆豪がスマートフォンを弄っていたのは仕事関係ではなかったらしい。用事が済んだとばかりに手にしていたスマートフォンをテーブルに置くと。たいして恥じらう様子も見せずに「男同士ってケツ使うんだな」と溢す。どうやら同性同士のやり方を調べていたらしい。
    「女でも使うときはあるよ」
    「聞いてねぇわ」
    的外れなフォローをばっさりと切り捨てた爆豪の表情はなにかを考えているようだった。無理そうか? と口にしてから、爆豪には禁句だったかと背筋を冷やす。証拠に、爆豪の眉間に刻まれた皺が増えた。
    「なんとかなんだろ。結局は筋肉動作ならなんてことねぇ。一ヶ月寄越せ、鍛える」
    「……わかった」
    無理はしなくていいと言いかけてやめた。これ以上墓穴を掘る必要はない。
    「時間が大丈夫なら俺の話もいいか」
    「うん」
    「すぐに済む」
    そう言って、前回爆豪と会ったときに預かった封筒の中から一枚の紙を取り出してテーブルに置いた。
    「一緒に住むならここがいいと思うんだが」
    「……正気か」
    さっきまで眉間に深く刻まれていた皺が一本もなくなって、あどけない表情になる。いつもキュッとつり上がった目が丸く形をかえたせいで、より一層爆豪を幼く感じさせた。
    「お前が住みたいって言ったんだろ。一緒に」
    「言ったけど」
    「どうせなら引っ越すのも一ヶ月後にするか。イーブンな感じがするだろう」
    先に一緒に住んでしまって、爆豪が抱かれる準備をする日々を見守るのも悪くはないけれど、それだと相澤に得がありすぎる。そう言って笑ってやれば、あどけなさはすっかり形を潜め、入れ替わるように眉間の皺があらわれる。
    「趣味悪いなアンタ」
    「一ヶ月後が楽しみだな」
    唸るように吐き捨てられた声を笑っていなす。爆豪の身体が出来上がるにつれて、気持ちのほうも少しくらい相澤に合わせてくれたらいいのに、なんてことを考える。すっかり冷めたコーヒーを一口啜る。嫌味のない酸味だけが相澤の口のなかに残った。



    新居に足を踏み入れて一番にしたことはセックスだった。ソファーとダイニングテーブル、テーブルと揃いのチェアそれからベッドしか搬入されてない家で、ソファーに腰掛けてこれからの事を話すわけでもなく、寝室に押し込まれたベッドに爆豪を組み敷いた。爆豪も疑問を覚える様子もなく相澤の首に腕を回した。他人に話せば呆れられるかもしれないけれど、相澤と爆豪にとっては大事なことだった。掃除の分担や些細な生活のルールと同じ確認作業の一つだった。相澤は爆豪と暮らすことが可能だし、爆豪は相澤とセックスことが可能であると示す。岩山に登るときに足場を確かめるみたいに、相澤と爆豪は恋人という足場を探しては確かめる。崩れない場所をきちんと選び抜く必要があった。
    結果としてセックスは容易くはじまり、容易く終わった。ベッドのうえで色気もなくストレッチをしている爆豪に不快感はなかったかと相澤が尋ねれば、すこし考える素振りを見せたあと「問題ねぇ」と返ってきた。
    「もともと好きでも嫌いでもねぇし」
    「あっさりしてるな」
    嘘を言っていないことは、さっき抱いたからわかる。最中の様子を見ていたけれど、特別気持ちよさそうなわけではないものの、まったくの不快だとか、セックスが苦手だというような様子は見られなかった。
    「俺じゃなくて、アンタはどうだよ」
    爆豪が問いかけてくるので相澤もまたすこし考えるような素振りをみせたあと「可愛かったよ」と返せば、手加減なく肩を殴りつけられる。
    「しょうもねぇな。まあいい、シャワーして飯行くぞ」
    呆れたような声で言うと爆豪は一度大きく伸びをして素っ裸のまま寝室を出て行った。
    新居の近くの牛丼屋で大盛りの牛丼を食べながらふと相澤は気になったことを聞いてみた。
    「さっきのセックスは、牛丼、かけそば、ハンバーガーだったか?」
    爆豪にとってセックスは牛丼、かけそば、ハンバーガーのようなものと言っていたけれど、相澤とのセックスは今食べている牛丼と大差ないものだったのだろうか。爆豪は箸で米と牛肉を掬いあげて口に放り込む。もぐ、と咀嚼しては止まり、考える素振りを見せる。口のなかのものを胃に落としてから爆豪は小馬鹿にしたような表情で口を開いた。
    「牛丼よか長ェんじゃねーの」
    「もっと手短なほうがいいか」
    「べつにいい。合わせる」
    爆豪の返事に「それなら」と言いかけて口を継ぐんだ。どうせ合わせてくれるというのなら徐々に長くしていこう。嫌がられているわけではないようだし、相澤は作業のようにコトに及ぶより、ゆっくりと溶け合うほうが好きなのだ。今すぐとは言わないけれど、いつか爆豪も触れ合うことが好きになってくれたらいいと思ってしまう。ひとりでするより誰かとしたほうが気持ちがいいように、お互いが楽しんでコトに及ぶほうがより一層楽しめる。


    爆豪と暮らして気がついたことだが、爆豪は存外忙しい。仕事が忙しいのは相澤も大差ないのだけれど、爆豪は仕事以外の用事でも忙しない。よく家を空けるし、夕飯を外で済ませてくることも多く、日付が変わっても帰ってこない日もしばしばあった。どうやら飯を食べない日もあるらしく、ゼリーくらいは食べておけと言えば、次の日には冷蔵庫のなかにゼリー飲料のストックが増えていた。
    もう少し自己管理ができるヤツだと思っていたと遠まわしに注意をすれば、顔を歪めただけでなにも言い返してはこなかった。そんな爆豪の様子に失敗したと思っても、言ったことがなかったことになるわけもない。爆豪は冷蔵庫の中からゼリー飲料を取り出すと、らしからぬ小さな声で「今日は帰るのが遅くなる」とだけ言って家を出て行った。
    セックスは、この家に越してきた初日以降、一度もしていない。タイミングが合わないこともあるし、爆豪が疲れているのに付き合わせるのは申し訳ないという気持ちもある。仕事ではないのは知っている。でも爆豪の様子から遊びに行っているわけでもなさそうだった。相澤はなぜ爆豪が忙しくしているのかを知らないでいた。あまり詮索するのも良くないだろうと思っていたから敢えて聞くことはしないでいたが、一緒に暮らして一ヶ月もすればさすがに気になってきて、相澤は初めて「遅くなる」という爆豪の帰りを待つことにした。
    書類仕事を片していれば気付いたときには二十一時を過ぎていた。爆豪はまだ帰ってきておらず連絡もない。持ち帰った仕事はすべて終えてしまい、暇になった相澤は動画サイトを立ち上げ、動物が戯れる動画を流した。
    自動再生で次から次へ猫が遊ぶ動画を眺めていれば、玄関から錠の落ちる音がした。時計を見れば朝方と言ってもいい時間だった。遅くなるとは聞いていたが、日付はとうに変わっている。リビングに姿を見せた爆豪は相変わらず疲れた様子だった。のたのたと普段じゃ考えられない足取りで部屋に入ってきて、相澤の姿を見つけると間の抜けた声をあげる。まさか相澤が起きていて、爆豪の帰りを待っているとは思わなかったのだろう。
    あんた、なんで、と譫言のように溢す爆豪に、随分と遅かったな、といえば目に見えて狼狽えた。
    「飯は」
    「まだ」
    「なにか食えるか」
    どこか幼さを彷彿とさせる爆豪の腕を引いてソファーに座らせる。素麺でも茹でるからといえば爆豪は頷いてみせた。
    あたたかい素麺をすする爆豪を相澤は頬杖をついて眺めていた。疲れているとは思っていたけれど、それ以上に窶れたように見える。
    「痩せたんじゃないか」
    相澤の意思に反して漏れ出た言葉に爆豪はバツの悪そうにしてみせる。以前、自己管理ができていないと相澤が遠回しな注意をしたこともあったから後ろめたいのかもしれない。相澤が慌てて「責めているわけじゃないよ」といえば、すこしだけ頬の強張りが解けた。
    「病院、通い詰めだったから」
    そう言ってまた素麺を啜りはじめる爆豪に相澤は首を傾げた。一緒に住んでいるわりには同じ時間を過ごしていないとはいえ、さすがに怪我をして帰ってきていたら気がつかないわけがない。しかし、ここ最近で爆豪が大きな怪我をした様子はなかった。仮に大怪我でなくたって、雄英を卒業したヒーローがどこかで活躍したり、病院の世話になったりすれば自然と職員室で話題になるし、本人でなくたって関わりのある事務所に何かがあっても同じように話題にあがる。機密性の高い職業ではあるものの、有事の際にあいた穴を埋めるのもまたヒーローだからこそ、大きな声で言わないだけでみんな少なからず同業者のことは把握している。相澤の記憶にある限り、爆豪と仲のいいヤツらや、爆豪の所属する事務所になにかがあった話はなかったはずだ。それでも万が一、もしかしたらということもあるので、相澤は傾げた首をそのままに「怪我でもしたのか」と尋ねた。すると爆豪は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて「俺じゃねぇ」と言った。爆豪の表情には既視感があった。昔、教師と生徒だったころに何度となくみた表情だった。
    「また緑谷か」
    つい口をついて出た名前だったけれど、爆豪は否定しなかった。箸を持つ手が徐々に降りていく。
    「怪我の内容は」
    「あのクソ、着地失敗して両足折りやがった」
    「命に別状はないんだな」
    「……いまのところは、そこまでじゃねぇ、と思う」
    めずらしく歯切れが悪い。握られていた箸はすでに手から離れ、中途半端な状態で丼に刺さっている。爆豪の手はだらりと力なく机のうえに投げ出されていた。
    「アイツ、このままだと足から崩れていく。腕じゃなくて足に切り替えたときは、まだワン・フォー・オールだけだったけど、今は浮遊と発勁も並行して使ってる。いくらコントロールがゴミじゃなくなったとはいえ、足への負担が多すぎる。轟だって個性が二つったって、一つの部位に一つの個性だ。足ひとつに三つの個性は抱えすぎる。擦り切れるのは時間の問題だ。現に今回だってなかなか治らんかった。……デク、日に日に入院が長くなってる」
    堰を切ったように話し出す爆豪に目を瞬かせる。吐き出すような声はどこまでも切実な響きを持っていた。自然と下がっていた頭を勢いよく持ち上げた爆豪がハッとした様子で相澤を見つめた。焦点のあっていなかった瞳が相澤にしっかりと合わさったかと思えば、どんどんと頬が色を失くす。
    「先生、アイツの個性のこと、どこまで知ってる?」
    カタン、と音をたてて丼に刺さった箸が落ちた。ゆっくりと瞬きを繰り返す爆豪の肌が可哀想なくらいに青ざめていく。相澤は爆豪の言葉には返事をしないまま、机のうえに転がった箸をとって丼のうえに置いた。
    「先に食べてしまいなさい。話はあとでいいから」
    爆豪は俯いたのか頷いたのか曖昧な動きをみせたあと、鈍い動きで箸をとり素麺を啜りはじめる。
    やがて汁まですっかり飲み干した爆豪が言ったことは「忘れてほしい」だった。
    「俺はアンタがどこまで知ってんのか知らねぇけど、重要なのはそこじゃねえ。巻き込む気はない。寄りかかるつもりもない。さっきのことは忘れろ」
    「随分勝手な話だな。なんでお前がそこまで緑谷を気にかけるんだ。幼馴染かもしれんが、仲がいいわけでもないだろう」
    「……」
    爆豪は答えない。相澤が深くため息を吐けば怯えるように肩が揺れた。それなのにあかい瞳はいやにギラついていて、まるで傷を負った獣のようだった。
    「お前が望んだ俺との生活よりも優先されるものなのか」
    「我儘を言ってる自覚はある。付き合わせてる自覚もある。セックスに関しては、言ってくれたらちゃんと応じる」
    「そうじゃない、そんなことが言いたいんじゃない」
    ずるい言い回しは爆豪には悪手でしかないと口にしてから気がついた。爆豪はわずかに強ばらせていた頬を弛緩させると、一度ゆっくりと瞼を下ろす。一秒、二秒と数えられそうな沈黙のあと、閉じた瞼を開いて相澤を見つめた。
    「……不便ならこの際、女連れ込んでもいいから」
    見限ったんだろうか。覚悟をしたのかもしれないし、諦めたのかもしれないし、割り切ったのかもしれない。たった二秒のあいだに、爆豪は擬似的な暗闇のなかで勝手に結論をだしてしまう。その結論は相澤の意思を必要とせず、また相澤の願うかたちとはあんまりにかけ離れていた。
    「ちがう。爆豪、ちがうんだ。セックスなんかしなくたって一緒に寝よう。飯くらいは一緒にとろうって、そういう話がしたかったんだよ」
    一緒に住む代わりにセックスを強請ったわけじゃない。セックスは義務でも責任でもない。そのはずだったのに、相澤がずるいやり方で爆豪を責めてしまった。爆豪も良くも悪くもなんでも背負い込むせいで、何故かどうしようもない方向に話が拗れてしまう。セックスにまで責任をもって欲しいなんて相澤はこれっぽっちも思っていない。
    「……努力はする」
    だから、そんな責任を果たすとでもいうような返事だって、相澤は求めてなんかいない。
    相澤はもう爆豪のことが好きだと思う。大事にしてやれたらいいなと思っているし、同じ時間を過ごせたらいいと思っている。出来たら爆豪も同じようなことを思ってくれたらいいなと、そう思っている。それだけのことが伝わらない。そればかりか爆豪を傷つけて、いらないものまで背負わせた。相澤は爆豪が背負っている何かを分けて欲しかっただけのはずだった。


    相澤のスマートフォンの連絡先は、わりと細かくカテゴリーで分けられている。合理性を重視するスタンスは、傍から見ると面倒臭がりと捉えられるらしく、几帳面なところを見せると驚かれたりするのだが、連絡先の細かなカテゴリー分けもその一つだった。ヒーローのみならず、教師もやっていると連絡先が増えていく。教え子たちはヒーローとして活躍していくし、チームアップを組めば組むほど同業者の連絡先は増えるし、教師だって新任の教師が入ればやはり連絡先は増える。多少消えていくものはあるが、それでもやはり減るよりも増える方がはやいのだ。呼び出したい連絡先をすぐに見つけるときにカテゴリーで分けておいた方が便利だからそうしている。
    同業者、教え子、保護者、教師、それから家族。
    爆豪と一緒に住み始めてから、何人かの連絡先のカテゴリーが変わった。その他に分類されていた爆豪の連絡先と、保護者に分類していた爆豪の実家を、自分の実家の番号しか登録されていなかった「家族」のカテゴリーに移した。それから同業者に分類していた緑谷の連絡先も「家族」のカテゴリーに突っ込んである。
    相澤にとって「家族」のカテゴリーは言い換えれば緊急連絡先だった。爆豪や自分になにかあったときに優先的に連絡をいれる人たちのなかに、相澤は緑谷もいれていた。
    緑谷と爆豪の関係は特殊ではあるが、よくわからないと投げ出すのも癪なので、相澤のなかでは兄弟のようなものだろう、と思うことにした。幼馴染で、小さい頃から一緒に過ごしていて、小中高どころか今だって同じ道を歩いている。
    兄弟のようなものだ。だから、爆豪は緑谷になにかあるたびに、怒ったような傷ついたような顔をして、この家を飛び出していく。相澤のなかでは「そういうこと」にしている。


    家には二色鍋がある。
    爆豪は辛いものが好きで、相澤はそこまででもないので、家で鍋を食べる時はもっぱら二色鍋を使う。
    片方は激辛チゲ、もう片方は豆乳がお決まりになっていた。夏に数回、冬にしょっちゅう。相澤と爆豪の食卓では鍋の登場回数はそこそこ多い。満足そうに「買ってよかった」と頬を緩める爆豪に釣られてか、相澤もこの鍋はなんだかとってもいい買い物をしたように思えて嫌いではなかった。
    そんな今日の晩ご飯も鍋の予定だった。爆豪が早上がりだというので、晩ご飯の支度は爆豪の予定だった。教員室で書類を片し、帰り支度をしているところに爆豪からの連絡が入る。なにやら帰りに野菜を追加で買ってこいとのことらしい。
    相澤は昨日のぞいた冷蔵庫の中身を思い返す。それなりに中身は詰まっていて、たしか冷蔵庫の掃除も兼ねて鍋にするという話だった。とても追加の具材が必要だったようには思えない。相澤は僅かに首をかしげながら、スマートフォンの画面をなぞり、爆豪に返信をする。なにを、どれだけ、冷蔵庫の中身じゃ足りなかったか。そのようなことを簡潔に文字にして送れば、爆豪からすぐに返事がきた。
    『クソデクが来る』
    聞いたことに対しての答えは一つもなかったけれど、知りたい情報ではあった。成人男性が一人増えるのなら、冷蔵庫の中身じゃ足りないことも理解できた。相澤は『了解』とだけ送ってスマートフォンを尻ポケットに捩じ込むと教員室を後にした。本当ならこのまま帰る予定だったけれど、スーパーに行かなくてはいけなくなった。緑谷絡みで予定が変わるのは、本当によくあることだった。
    家に帰ればすでに鍋の用意はされていて、あとは相澤が追加で買ってきた具材を切るだけのようだった。緑谷はまだ来ていないようで姿はない。
    「いつ来るんだ?」
    「知らね。連絡してみる」
    相澤からスーパーの袋を受け取ると爆豪はスマートフォンを片手に台所へと向かった。相澤は手でも洗ってくるかとその場をあとにした。
    リビングに戻れば、爆豪が白菜を切っているのが見えた。どこからかコール音が聞こえていて、よく見れば台所のカウンターに爆豪のスマートフォンが立てかけるように置かれている。スピーカーにしているらしく、コール音はそこから鳴っていた。いつからコールしているのかと聞けば、相澤が手を洗いに行ったときかららしい。留守番電話の設定をしてないんだな、なんてどうでもいいことを考えていれば、プツリ、とコール音が途切れて緑谷の声が響く。
    「……もしもし?」
    「ッセェいつまで待たせんだクソワンコールで出ろや」
    「わっ……ってなに、びっくりした」
    「メッセ見てねぇんか? 鍋ッつっとんだろ、はよ来い」
    「えっ、あれ間違いじゃなかったの 僕、相澤先生宛のメッセージが間違えてきてるんだと思ってた」
    「ハァ? ブロックしてんのに間違えるわけねーだろ!」
    「ブロックされてるのやめてよ!」
    「やめてよじゃねェんだよ! いいからはよ来い俺ァ明日も仕事なんだよ! 怪我したどっかの誰かと違ってよォ!」
    「電話口で怒鳴らないでよ!」
    「残ってる骨から折られてもいい骨五本ぐらい考えてから来いよ」
    爆豪はそう吐き捨てると、いまだなにかを訴える緑谷を無視して通話を終わらせた。ちょうど、相澤が買い足してきた野菜もすべて切り終えたらしい。もしかしたら野菜を切り終えたから会話を終わらせたのかもしれなかった。爆豪が口を挟むでもなく二人のやり取りを聞いていた相澤に向き直る。
    「もうすぐ来るって」
    「いや、とてもそんな会話には聞こえなかったが……」
    爆豪はスポンジを泡立てながら「それ机に持ってって」と野菜の盛られたザルと、肉が盛られた肉を顎で指すので、相澤は困惑を浮かべながらも爆豪の支持通り、ザルと皿を持ってダイニングテーブルへ移動した。
    洗い物を終えた爆豪が相澤のいるダイニングテーブルを通り過ぎ、奥にあるリビングスペースのソファーへと腰を下ろすと、手持無沙汰にスマートフォンを弄りだす。相澤はなんとなく、緑谷にどんなメッセージを送っていたのか聞いてみた。相澤に送るメッセージと勘違いするような内容だったと聞けば気になってしまうのは仕方がないだろう。尋ねられた爆豪はちらりとスマートフォンから視線を外すと「べつに」とつまらなさそうな声で言う。
    「ただ、鍋って送った」
    「それだけか?」
    「ん」
    爆豪がスマートフォンを操作して相澤に投げて寄越した。受け取ったスマートフォンの画面に表示されているのは見慣れたトークアプリだ。宛先は「クソ」としか表示されていないけれど、相手はおそらく緑谷だろう。前後のやり取りはなにもなく、爆豪が言ったように「鍋」というメッセージだけが残っていて既読はついているものの緑谷からの返事もない。
    相澤にはこのメッセージを見た緑谷が簡単に想像できた。きっと大いに戸惑ったことだろう。緑谷も大変だな、とは口にしないでおいた。どうせ緑谷が爆豪に振り回されているのと同じくらいに、爆豪も緑谷に振り回されている。もっと言えば相澤だって、二人には振り回されっぱなしだ。
    果たして、緑谷は二十分もせずにやって来た。
    チャイムの音を聞いて、爆豪がコンロの火をつけるので、相澤が緑谷を出迎えに行った。
     緑谷は左手にギプスを嵌めて首から包帯で吊り下げていた。恐々という様子で扉の前に立ち尽くしていたけれど、相澤を見た途端に息をついて頬の強張りを解いた。
    「お久しぶりです」
    「久しぶり、腕折ったのか」
    「ちょっと加減を間違えてしまって」
    怪我をしていないほうの手で頬を掻いて苦笑する緑谷に、爆豪がお待ちかねだと伝えれば緑谷が苦笑のままで固まった。
    緑谷を連れてリビングに戻ると爆豪が仁王立ちで待ち構えていた。
    「かっちゃん……」
    「正座」
    鬼のような剣幕に圧されてか、緑谷はたいした抵抗もせず素直にフローリングのうえに正座をする。しおしおと萎びれた植物のように見える緑谷はそれなりに反省しているように見えた。学生のころよりはうんとマシに思えるけれど、爆豪からしたらそういう問題でもないのだろう。
    「で? そのザマは?」
    「申し開きのしようもございません……」
    「なんで腕折っとんだ。それ内部損傷だろ」
    「ちょっと個性の加減間違えちゃって……」
    爆豪が空気を裂くような舌打ちを響かせる。緑谷に背を向けると食卓についた。相澤も爆豪の隣に腰を下ろす。普段、自分が使っている食器が置いてあったから、そこに座っただけなのだが緑谷が驚いた様子で見ていたので少し気恥ずかしくなった。まるで爆豪の隣は自分が座るものだと主張したみたいで恥ずかしい。
    「はよ食うぞ、座れ」
    顎をしゃくるようにして着席を促された緑谷が慌てて立ち上がり、向かいの席に腰を下ろした。
    鍋を食べているあいだ、緑谷は新品の服を泥だらけにして帰って来た子どものように滾々と爆豪に詰められていた。利き手しか使えない状態でも器用に食事をする緑谷は良くも悪くも怪我に慣れている。爆豪の気が休まらないわけだと思う。頻度は減ったものの、いまだに緑谷は当然のように怪我をする。二十代のころは今ほど怪我をしていなかったように思うが、三十路を過ぎて怪我が目立つようになっていた。
    「テメェの身体を過信すんな」
    豚バラ肉を鍋にいれながら爆豪が言う。仕草とは裏腹に切実な声だった。
    すっかり締めの雑炊まで食べ終えたあと、緑谷を家に帰すためにタクシーを呼ぶ。爆豪は貰い物の蜜柑や羊羹を緑谷に押し付けるつもりらしく、せっせと紙袋に詰め込んでいた。
    「片手で食えンだろ」
    「いや、腕がダメなだけで手は使えるんだよ」
    「腕死んでりゃ使えねぇのと変わんねーわ」
    「緑谷、タクシーすぐ来るらしい」
    「わ、ありがとうございます」
    「次はねぇかンな」
    「……ハイ」
    緑谷に持たせる荷物を詰め終えたらしい爆豪が悪態を吐くものの声は穏やかだった。鍋をつついているあいだ、ずっと緑谷に文句と罵声と説教を織り交ぜた皮肉を浴びせてそれなりに満足したのかもしれない。タクシーがすぐに来ると言ったからか慌てて立ち上がる緑谷に慌てなくていいと言う前に相澤のスマートフォンが振動する。
    「はやいな。緑谷、タクシーきたぞ」
    「とっとと帰れ」
    「呼んだの君だろ」
    「呼ばれるようなことしたのはテメェだろうが」
    「ほら、喧嘩するな」
    放っておくとすぐに喧嘩をはじめる二人のあいだに入れば、爆豪は舌打ちをしながらも大人しく口を閉じた。緑谷が爆豪から紙袋を受け取ろうとして断られている。いいからさっさと行けと緑谷を促す爆豪は、タクシーまで緑谷を送ってやるつもりらしい。相澤も緑谷を見送るために爆豪と連れたって部屋を出た。
    タクシーのテールランプが見えなくなるまで見届けて家のなかに戻ると、爆豪がソファーに腰掛けて相澤を手招きする。相澤はわずかに首をかしげながらも爆豪の隣に腰を下ろした。
    「どうした?」
    「消太さんから見て、今のデクはどうだった」
    「緑谷?」
    相澤が聞き返せば爆豪が頷いた。緑谷と言い合っていたときとは真逆の、どこか思いつめたような表情に、どうやら世間話の類ではなさそうだと判断して、先ほど別れたばかりの緑谷の様子を思い返す。腕の骨を折ったと聞いてはいたけれど、なぜ折ったかは聞かなかった。腕の怪我以外はとくに目立った損傷はなく、顔色も悪くなかったように思う。そこまで考えて、腕だけが折れるような場面などあるだろうかと疑問が湧いた。病院にかかるような怪我をするくらい苦戦したなら、腕以外も怪我がないのはすこし不自然だった。擦り傷とか、切り傷とか、打ち身とか、打撲とか、顔に疲れが滲んでいるとか、目に見える傷がないのは不自然だった。けれど緑谷は腕のほかに目立った怪我はなく、本当に腕だけが壊れていた。緑谷がまだ個性を扱いきれておらず、強すぎる個性に身体が追いついていなかったころは、個性を発動させた箇所だけを壊していた。切り傷や打撲ができるわけではなく、皮膚の下で筋肉が千切れ、骨が折れ、関節が不自然な方向に曲がって、はじめて外傷となるような怪我を何度もこさえていた。今の緑谷の怪我は、その頃の怪我とよく似ていた。
    「緑谷の怪我、敵から受けたもんじゃないのか」
    半ば確信を持った相澤の言葉に爆豪が首を縦に振る。
    「……個性は、使えば使うほど強くなる。年齢によって衰えていくこともあっけど、個性の劣化よりも肉体の劣化のほうがはやいことがほとんどで、それは個性を使うことにデメリットがあるからだ」
    「まあ、基本はそうだな」
    「俺もアンタも多かれ少なかれ肉体に負担をかけて個性を使ってっけど、アイツは、デクは他のヤツとは違う。個性が多い分、肉体にかかる負荷のほうが多い」
    相澤の記憶では緑谷は六つ個性を有しているはずだった。すべての個性を把握しているわけではないが、超パワーを皮切りに黒鞭と浮遊、危機感知の個性が発現したと教えられた。まだ緑谷も爆豪も学生のとき、日本の命運を分かつ戦いに緑谷を送り出す間際にオールマイトから説明を受けた。緑谷を受け持っていた相澤は当然反対した。個性の多さは生徒を敵地へ送り出していい理由にはならないと言った。しかし、相澤の主張は通らず、それはこの個性の使命なのだと押し切られて、相澤は奥歯を噛み締めるしかなかった。今だって緑谷は過去の実績から優先的に危険な場所へと送り込まれている。みんながヒーローデクなら大丈夫だと、緑谷の肩に平和をのせる。それはかつてのオールマイトが通ってきた道だった。緑谷が怪我をする頻度はたしかに増えていた、爆豪は緑谷が怪我をするたびに鬼の形相で家を飛び出していく。相澤はてっきりは単に危険な任務が多いからだと思っていた。不甲斐ないヒーローたちに変わって緑谷が平和を背負うから、人一倍怪我をするのだと思い込んでいた。しかし爆豪の様子を見る限り思い違いだったのかもしれない。
    爆豪の頭が重心に負けるように落ちていく。
    「デクの個性はもともと備わってたもんじゃねぇ。アイツの個性は肉体の衰えと比例して衰退していくもんじゃない。デクと個性は別々のもんだから、肉体が弱っても個性は弱まらない。アイツ、最近ガタがきてる。壊れやすくなってる」
    「それは、緑谷が個性の扱いを覚える前よりも悪くなってると思っていいのか」
    「なあ、せんせい」
    爆豪が懐かしい呼び方で相澤を呼んだ。垂れ下がった頭がゆっくりと持ち上がって爆豪の表情が見えるようになる。眉間に皺をよせて、瞳を歪ませて、泣く前の子どものような顔で相澤を見る。
    「先生から見て、アイツはどうだった。あとどれだけの時間、アイツはヒーローでいられる?」
    とつとつと落とされる声を止める言葉が見つからなかった。爆豪が相澤の腕を弱い力で掴む。握り締められた腕は服に皺が寄るくらいで、爆豪の指の感触はおろか、手のひらの温度すら伝えてこない。かろうじて爆豪の名前を口にするけれど、爆豪の陰りが晴れる様子はなかった。爆豪はもう涙を流していないだけで、ほとんど泣いているようなものだった。
    「場合によっちゃ、おれが……」
    切羽詰まった爆豪の声が途切れる。相澤に向けられていた視線が重たげに伏せられて、とうとう閉ざされてしまう。掴まれていた腕もいつの間にか離されていた。
    「いや、ちがう。なんでもない」
    ふるり、と一度頭を振って爆豪が腰をあげる。
    「鍋の買い出し助かった」
    今さらなことを口にして、食べ終わって散らかしたままのテーブルを片付けはじめる。
    「なにか手伝うよ」
    「……じゃあ、机拭いて」
    「他には」
    「終わったら風呂わかして」
    「わかった」
    緑谷と爆豪のあいだに横たわる秘密を一緒に背負ってほしいとは言わない。昔から頑なに相澤には絶対に背負わせない。


    爆豪が家を空けることはめずしくないが、今日は爆豪ではなく相澤が家を空けていた。白雲がこの世を去った季節だった。山田も相澤もそれなりに忙しくしているので命日当日とまではいかないが、近い日に予定を合わせて飲みに行くのが慣例になっていた。山田も相澤も吸わない煙草に火をつけて、テーブルにおいた灰皿に乗せておく。白雲だって煙草を吸ったことはなかったが、煙がでるものなんて煙草ぐらいしかないので、仕方がなく煙草を燻らせている。白雲の命日という名目ではじめてメシに行ったとき、煙草を持ってきたのは相澤だった。線香の変わりかと言う山田に、白い煙が欲しかったのだと言えば納得した表情を浮かべていた。アイツに似たなにかがその場に欲しかったのだ。それからというもの、白雲の命日を目的にしたメシのときは煙草を持っていくようになった。もう慣れたもので、居酒屋で席につくなり山田が店員に灰皿を頼む。相澤がすこし潰れた煙草の箱から一本抜き取って咥え、火をつける。ゆらゆらと煙がたつ煙草を運ばれてきた灰皿に丁寧に置く。
    名目は白雲の命日でも、結局は普通の飲みと変わらない。いつもはなんとなく触れないようにしている白雲の話も口にするというだけで、話題はほとんど近況報告だ。山田は酒の席になるといつも爆豪との生活について聞いてくる。付き合うことになったときひどく反対していたし、今もあまりよく思ってはいないようで、事あるごとにそろそろ別れ時じゃないかと口にするので、相澤はそのたびにその予定はないと否定する。
    「だってお前、何回予定ドタキャンされてんだよ。爆豪も緑谷も可愛い教え子だから、幸せになってほしいとは思う。でもオレはお前のほうに情があんだよ」
    「わかってるよ」
    「緑谷、もうオレらの手に負えないとこまでいってんじゃねぇか、爆豪もそれ追っかけてって、いつかお前の傷が増える」
    「そうかもな。緑谷を俺はどうにもしてやれなかった」
    山田と話しながら学生時代の二人を思い出す。入試のときから面倒そうなヤツらが来たと思っていたが、担任を受け持つことになって「面倒そう」では収まらない問題児ぶりに頭を痛めた回数は一度や二度ではなかった。緑谷は怪我ばかりだし、爆豪は緑谷に対しては過剰に反応するくせに、爆豪と緑谷だけの秘密が数え切れないくらいにあった。
    戦争のような敵との戦いのあとに、緑谷の個性がオールマイトから譲り受けたものだと知って、秋のはじめに爆豪と緑谷が喧嘩したときのことを思い出した。爆豪はきっと緑谷の個性のことを知っていたのだろう。幼馴染だから知らないはずがなかった。緑谷の個性の秘密が明かされて、相澤はようやく緑谷が怪我ばかりの理由も、爆豪が緑谷に過剰反応を示していた理由もわかった気がした。喧嘩のあとに二人揃って俯いて口を噤んだことも、全部納得がいった。
    今の爆豪と緑谷はその延長線にいた。おそらくだけれど、爆豪と緑谷はまだまだ二人だけの秘密を持っている。ちいさな身体に言えないことばかりを詰め込んで、二人だけで分かち合っている。山田はそんな二人がいつまで経っても気に入らないらしい。
    「爆豪は緑谷を優先すんなら相澤じゃなくて緑谷と一緒になればいいのによ」
    「別に、一緒になったからってなんでも話し合わないといけないわけじゃないだろ」
    「心の不倫だぜ」
    「そんなんじゃないよ。爆豪と緑谷は兄弟みたいなもんだ。家族が怪我したら病院に行くのは当然だし、緑谷が危険なところに飛び込んでいかなきゃいけないのは俺と、不甲斐ないヒーローたちのせいだ」
    緑谷のなかには個性が六つ備わっている。数年前に世界の命運をかけるような出来事があったときも、最終的には緑谷に任せる羽目になったことを、相澤は今でも後ろめたく思っている。そのときの爆豪の、悔しげに歪んだ顔だって相澤は鮮明に思い出すことができる。ほかのヒーローたちがもっと強ければ、例えオールマイトに力を譲り受けたとはいえ、それがワン・フォー・オールの使命とはいえ、緑谷ひとりに頼りきりになることはなかった。今のヒーロー社会は、あのときの緑谷の献身のうえにある。そのせいで、どうにも緑谷は危険な場所に宛てがわれてしまう。そんな緑谷を爆豪が気にかけるのは仕方がない。幼いころから共に育ってきたヤツが身を削っている現状を知らないふりなどできるはずがない。仮に山田が緑谷の立場だったら、相澤だって爆豪のように山田のことを気にかけた。
    「爆豪はあんまり考えてることを言わないからな。他にも理由というか、思うところはあるんだろうけど、墓に入ったあとだって教えてはもらえないだろうな」
    爆豪が緑谷を気にかけるのは幼馴染という関係性だけが理由ではないことなんて相澤にもわかる。それが「なに」かまでは未だにわかっていないけれど、これから先も爆豪からは教えてもらえないことだって相澤はわかっていた。
    先日、緑谷が家にきて一緒に鍋を囲んだあと、爆豪が零した弱音とも相談ともつかない話がずっと相澤の頭の奥に引っかかっていた。なにをしていてもあの時の話がチラついて仕方がない。うまい言葉を返してやれなかったし、きっと今同じ話をされてもなにも言えないで爆豪が寝室に向かうのを見送ることになるだろう。
    相澤は悩んでいた。爆豪に必要とされたから手をとったのに、爆豪のためになにかをしてやれている気がしない。なんで付き合っているのかが、相澤にもわからなくなっていた。
    「なんで爆豪と付き合ってんのお前」
    「必要とされたからだよ、慈善活動だ」
    「プロポーズ断られたくせに」
    「うるさい」
    面白くないと顔に張り付ける山田を無視して相澤は灰皿に火をつけたばかりの煙草を追加した。

    山田に言われたように、実は相澤は一度爆豪にプロポーズをして振られている。
    老い先短くなってきた相澤と、ヒーローとして安定してきた爆豪。籍を入れるのなら今がいいタイミングなんじゃないかと思っての事だった。爆豪は相澤と別れるつもりはしていないだろうし、告白だって爆豪からだった。俺の人生にアンタが欲しい、なんて熱烈なラブコールは、聞きようによってはプロポーズのようなものだろう。だから相澤は爆豪にフラれる可能性なんてちっとも考えていなかった。
    夜景の見えるレストランとか、指輪とか、花束とか、そういうのはなんだか違う気がして、気恥ずかしいこともあって、相澤はなんてことのない、いつもどおりの夕飯を終えた食卓で爆豪にプロポーズをした。
    「籍をいれないか」
    「……は?」
    爆豪が相澤をまじまじと見てくる。まるでなにかを聞き間違えたんじゃないかというような表情をするので、相澤はもう一度、爆豪の目を見て、先ほどと同じ言葉を口にした。
    「籍をいれないか」
    爆豪がパチリと瞬きをした。なんで、とおそらく無意識だろう声が口から漏れる。
    「年齢的に、俺はいい歳だし、爆豪も駆け出しじゃなく中堅としてもっと慌ただしくなってくる。自分が爆豪ぐらいの歳のときのことを考えたら、今が一番時間的にも精神的にも余裕があるんじゃないかと思って」
    相澤が爆豪の漏らした言葉を拾って理由を述べれば、爆豪は変わらぬ表情で、瞳だけを瞬かせた。呆けているといってもいい様子の彼に呼びかければ、ハッとしたように肩を揺らして、相澤に視線を合わせてくる。
    「……まだ、そういうことは考えられない」
    爆豪からの返事はノーだった。
    相澤は驚いて、それでも「そうか」とだけ相槌を返した。フラれた相澤よりも爆豪のほうが落ち込んでいるように見えた。ぼんやりとした表情で、わずかに頭を下げる。俯いた姿勢になったせいで目元には前髪の影が落ちていた。ついさっきまで和やかな空気のなかで夕飯を共にしていたはずなのに、一転して重苦しい空気が二人のあいだに横たわっていた。
     爆豪にフラれてショックを受けたことは否定できないが、爆豪の随分と落ち込んだ様子が気にかかった。相澤と付き合う前に誰かと付き合っていて結婚の話題にトラウマがあるとか、家庭環境が複雑で結婚にいい印象がないとか、そういう話は聞いたことがなかったし、喜ばれはしなくても、落ち込まれるような話ではないはずだった。けれど、実際に爆豪は目に見えて気落ちしているようだったし、寝床に着くまでずっとなにかを考えているようだった。思い詰めているような雰囲気さえ纏わせている。
    まさかフラれるとは思わなかったし、まさか爆豪を困らせるなんて思わなかった。
     正直なところ、相澤には恋人として一緒にいることと、伴侶として一緒にいることの違いをあまり意識していたわけではない。ただ、どちらもが慌ただしくなる前にお互いの立場を固めておいたほうがいいかもしれないという漠然とした気持ちでの提案だった。一緒に住んで五年は経過していて、結婚のメリットである身内扱いや、緊急時の対応なんかは、特別縁故者として行使できるし、最悪ヒーローの権限を使えば一般人には乗り越えられない障壁も無くすことができる。ヒーローは死に近い職業だからこそ、病院や葬儀屋には融通が利くのだ。でもそんな力業を使わないでいられるならその方がいい、なんていうのはおそらくただの建前で、相澤が爆豪にプロポーズをしたのは、爆豪とこの先も一緒にいるという意思表示と決意だった。
     あいにくプロポーズは「今は考えられない」と断られてしまったけれど、もしかしたらヒーロー業に専念したいのかもしれないし、欲をいえばゆくゆくの選択肢にいれてもらえたらいいとは思っていたけれど、爆豪が望まないなら今のままでもいいと思っていた。あれだけ沈んだ表情を見てしまったあとだから、プロポーズの話を掘り返す気もなかった。
    なのに、まさか爆豪のほうから話を蒸し返してくるとは思わなかった。相澤が爆豪にプロポーズしてから二日後のことだった。夕飯を済ませて、あとはもう寝るだけの時間に、爆豪は相澤をソファーに座るように促した。言われるがままに腰を下ろせば、爆豪が隣に腰をおろす。
    「こないだの話だけど、アンタが嫌いとかではない」
    「……こないだ?」
    「籍を入れる、入れないの話」
    爆豪は正面を向いたまま話を続ける。相澤は爆豪の横顔を見ながら話を聞いていた。
    「俺と消太さんだけの話なら、どっちでも良かった。籍を入れようが、入れまいが。でも俺は、ここぞというときに消太さんの手を取れない」
    「それは、いつか別れるって話か」
    「俺からは別れない。でもなにかの岐路に立ったとき、今の俺はアンタじゃなくて、デクの手を取る。今のアイツは過渡期だ、ヒーローとしての瀬戸際だ。消太さんも、デクの個性が普通じゃないことは知ってると思う。でも俺はあの個性について、もっともっと知ってるし、デクのことも、デクのおばさんのことも、投げ出せないくらいに知ってんだよ」
    声を荒げるでもなく、まるで資料でも読むかのように平坦な声で爆豪が言う。ごっそりと感情が抜け落ちた横顔は元々肌が白いせいか青ざめて見えた。
    「言わなくてもよかったけど、言っておきたかった。消太さんをデクとのことに巻き込みたくないし、いつまでも縛り付けてちゃダメなこともわかる。いい歳だから身を固めたいっていうなら、アンタはいつでも俺を切っていい。もともとアンタに手を伸ばしたのが間違ってた」
    爆豪が手の甲を目元に押し付けて深い溜息を吐く。うなだれるように上体を倒したかと思えば、爆豪はそのまま立ち上がって寝室に消えていった。
    翌朝の爆豪はいつも通りだった。
    こんがりと焼いた食パンにマーガリンを塗りながら朝のニュースを見ていた。相澤が起きてきたことに気がつくと「はよ」と声をかけてくる。食パンをかじってコーヒーを啜る爆豪はいつもと違って返事がないことに気がついたのか、テレビから視線を剥がして相澤を見る。なにを突っ立っているんだとでもいうように眉間に皺をよせる爆豪に、相澤が「おはよう」と言えば、満足したように鼻を鳴らしてまたテレビへと向き直った。そんな爆豪の様子に今度は相澤の眉間に皺が寄る。今に始まったことではないとはいえ、爆豪はなんでも一人で抱え込んで、一人で考えて、一人で解決しようとする癖がある。初めて爆豪を見たときに比べれば随分と人に頼るのも人を使うのも慣れたように思えるが、肝心なことは他人に分ける気がないところは変わらなかった。
    「俺からも別れる気はないからな」
    不機嫌な声で吐き捨てれば、爆豪はまたもテレビから視線を外して相澤を見た。ぽかん、という音がしそうな表情が、じわじわとあかく染まっていく。手に持っていたトーストが皿の上に落ちる。「あ」という間抜けな声まで一緒に皿のうえに落とした爆豪に、相澤は先ほどの爆豪よろしく鼻を鳴らしてやった。




    考えることが多い。
    いつからか考えないといけないことがうんと増えている。
    幼い頃は考えないようにしていたことのほうが多かった。やりたいことだけを見据えて、目指すものを見失わないように走り続けていれば良かった。
    爆豪の人生が狂ったのは随分とはやかったように思う。まだ両手にも満たない歳のころに川に落ちたあの日から、爆豪の人生は少しずつ予定からズレていった。何度も元の道に戻ろうとするのに、まるで磁場が狂った山道を歩くように思ってもみない道に迷い込む。原因は解っていた。デクだ。
    ずっと爆豪の後ろを着いてきて、叩いても、ひどいことを言っても、ぴーぴーと泣くくせに離れていかなかった。なんにも出来ないくせに、たいした力もないくせに、なんにだって手を伸ばすところが、爆豪は幼いころからずっと理解ができなかった。
    普通は、そういうことは出来る範囲でやるものだ。出来るヤツがやることだ。自分が怪我をしてまで、自分が水に濡れてまで、自分が死にかけてまで、手を伸ばしてくる幼馴染が爆豪はずっとこわかった。
    どうにかして断ち切りたかった縁は、大人になった今も続いていた。爆豪だって本当はここまで面倒を見るつもりなどなかった。
    本当なら、デクはヒーローになんてなっていなかったはずだし、雄英には通えていなかったはずだし、そうなっていたなら、爆豪はデクと縁を切れていた。そのはずだった。
    高校入試を控えた時期に、爆豪は敵に襲われた。街を火の海にする勢いで抵抗する爆豪を他所にギャラリーは盛り上がりを見せていたけれど、ヒーローがやってくる気配は一向にない。
    息苦しさにもがきながら、揺れる視界のなかにデクを見つけたとき、爆豪は自分に纏わりつく敵によって感じた死の気配と、無個性のくせに立ち向かってくるデクとのどちらに恐怖を覚えたのかがわからなかった。今なら、あのとき畏怖を覚えたのはデクに対してなんじゃないかと言える。だって、考えないようにしていただけで、爆豪は川に落ちたあの日からずっと、自分を省みないデクがこわかった。
    結果として二人揃ってオールマイトに助けられたその日に、爆豪は本格的に先の見えない獣道に足を踏み入れたように思う。オールマイトは静岡を管轄としていない。デクが個性を得たのは、平和の象徴を継ぐことになったのは、その日が切っ掛けとしか考えられなかった。
    爆豪にはいくつかの責がある。
    誰に言われたわけでもない、ただ自分が背負わなくてはいけないと知っているから背負った責だ。
    自分の弱さを誤魔化し続けていたこと。それを理由にデクをずっと虐げていたこと。自分の弱さを誤魔化し続けた結果、憧れた人を終わりに導いてしまったこと。デクの悪癖を知っていたのに止められなかったこと。
    ││デクをヒーローにしてしまったこと。
    自分の弱さを誤魔化して、考えないように、見ないようにしていたことが、今を創りだす一歩目だった。
    本当は自分の弱さを知っていた、誤魔化さなければ、ヘドロ敵に襲われたときにもっと大人しく救助を待てた。そうしたらデクは飛び出してこなかったし、個性を持つことはなかった。自分の弱さから眼を逸らさなければ、無様に敵連合にさらわれることもなかったし、オールマイトを終わらせることもなかった。
    デクを虐げるのではなく、もっと違う関わり方をしていたら、デクは自分を蔑ろにしなかったかもしれない。自分のことを勘定にいれず、省みることもなく、危険に飛び込んでいくようなヤツにはならなかったかもしれない。
    そうしたら、デクはヒーローにはなれなかったかもしれない。
    知っていたのに、そのすべてから目を逸らし、考えないようにと逃げ続けた結果のすべてが爆豪の背に伸し掛っている。
    爆豪が勝手に背負った責は、暗闇のなかで実体のない何かをかき集めることに似ていた。
    誰がどれだけ知っているのかもわからなければ、誰になら話していいかもわからない。味方も敵もあってないようなものだった。
    デクが「味方になってくれる」という力は、爆豪の目には呪いのように見えた。ヒーローの文字が生贄に見えた。誰に指示を仰げばいいかも、なにを信じればいいのかもわからないまま、爆豪はただ思考して、最適解を探し続けるしかなかった。
    情報が足りない、手が足りない、確証が足りない。おそらく事情を知っている人が、けれど、もしかしたらなにも知らないかもしれないと思うと、話を持ちかけるにもリスクのほうが勝った。誰かの服の裾を掴みかけては、指を手の内側に握りこむことが増えた。そのたびに、これは自分の責なのだと言い聞かせた。最初から誰かに助けを求めていいものではなかった。
    高校も時期で言えば二年に進級するころに、大規模な討伐があった。戦争じみたそれは、おそらくヒーロー側の大敗で終わった。失ったものは数えるのも億劫なほどで、街はあちこちの建物が傾き、嵐が通ったあとのように荒れていた。市民が雄英に避難し、学生はパトロールに駆り出された。慌ただしい日々のなかで、デクの姿だけがなかった。
    オールマイトの個性を継ぐデクは、敵の目的の一つでもあったし、この戦いの鍵でもあった。だからデクは姿を消した。その頃にはもう爆豪のなかで信用できるものは殆ど皆無に等しかった。すべてのものを一度は疑ってかかった。デクの個性がオールマイトから譲り受けたものだと知った周りの反応を、爆豪はよくよく観察した。
    デクはずっと変わらない。
    自分のことを顧みず、蔑ろにして、自分が死にかけようが、頭っから地獄に飛び込んでいく。個性を持っても、持たなくても、あの男は「そう」なのだと爆豪は知っている。だってその悪癖を止められなかった責がある。そんな男を、どうにか死なないように引きとめ続けなくてはいけない。
    見方を変えれば死にたがりの男は、オールマイトの個性だけじゃなく、オールマイトのすべてを継いでいた。ならば、オールマイトを終わらせた爆豪が、デクのなかに残るオールマイトの意思を護らなくてはいけないのは当然だった。
    どうすればいい。考えることが多い。誰なら信じられる。考えることが多い。自分は今どこを歩けばいい。
    爆豪が相澤に手を伸ばしたのは衝動だった。縋りついたとも言えた。爆豪にとって、相澤は山を歩くコンパスであり、暗闇を照らすランタンだった。最初から「そう」だったわけではないし「そう」だと気がついたのは死柄木弔をはじめ、敵連合の一件が片付いて、ようやく思考に余裕が出たときだった。相も変わらず、信用のできる人間を探しまわるなかで、デクの怪我を、自己犠牲を良しとしない相澤に行き当たった。
    思い返せば、相澤はずっとデクの戦い方に難色を示していたような気がする。記憶は定かではないが、いい顔をしていなかったことだけは妙に覚えていた。
    それと同時に、爆豪はある夜を思い出す。爆豪が弱かったせいで拐われた夜だ。爆豪に敵の素質があったのではないかと宣う記者を前にして、相澤は「敵としての素質ではなくヒーローとしての理想の高さ」だと断言した。
    相澤の言葉は、見知らぬ場所で敵に囲まれた爆豪の翳る視界を眩しく照らし、情けなく強がる心を奮い立たせるには十分だった。
    世界中に疑われようとも、憐れまれようとも、一人の人間が、相澤が、爆豪はヒーローなのだと言い切ってくれた。それだけで爆豪はヒーローで居続けられたし、敵の甘言を迷いなく切り捨てられた。山を歩くコンパス。暗い足元を照らすランタン。
    そんな相澤の存在を、爆豪はこの先も必要とする気がした。
    薄々気がついていたけれど、相澤は甘い。シビアなふりをしているだけで、爆豪からすれば甘すぎる。きっと根がやさしいのだろう。そうでなければ、爆豪が伸ばした手を一も二もなく取るはずがない。
    卒業を控えた冬。爆豪は相澤を呼び出して、懺悔のような告白をした。自分の人生を、自分の責を、相澤にもひっ被せてしまった。
    雄英を卒業してからも、どうせデクは変わらない。
    オールマイトの意思を、希望を、個性を引き継いだデクは、第二の平和の象徴として世界を走り回るだろう。もちろん自身の犠牲は顧みることもなく。どれだけ自分を犠牲にするなと言ってもデクにはどうしたって伝わらない。本来なら身を守るためにある恐怖心がごっそりと抜け落ちている。そんなことでは、デクはすぐに死んでしまうだろう。爆豪はデクが道を間違えないように、黄泉の道へと迷い込まないように、デクを引き止め続けないといけない。
    だって爆豪には責がある。
    オールマイトを終わらせた責がある。デクをヒーローにした責がある。それは、オールマイトが遺したものを維持することでしか果たせない。

    プロヒーローになってからもデクの怪我は絶えない。デクが弱いとか、敵が強いとかではなく、デクに任される仕事の危険性が高いせいで、必然的に怪我が増える。デクでなければ死んでいた、と公安が言う。デクは死なないから良いというものでもない。こんな怪我ばかりの日々を送っていれば、いつかあっさりと死んでしまう。かといってデクの仕事を爆豪が担うことも出来ないのは事実だった。爆豪は爆豪でやはりそれなりに危険性の高い仕事を割り振られている。黎明期の再来と言われる時代を耐え抜いた世代はデクに限らず仕事の難易度が高い。加えて、サポートではなくメインアタッカーを担えるヤツは、作戦の核に据えられがちだ。デクが危険な作戦の核であるように、爆豪もまた別の仕事では核を担うために、デクの負担を爆豪が代わることは難しい。結局、爆豪がデクにできることは、怪我をして帰ってきたデクを怒鳴りつけるくらいのものだった。
    デクは爆豪よりもうんと怪我が多い。戦い方が捨て身染みているというのもあるが、一番の原因はデクの身体が爆豪よりもうんと脆いせいだ。
    個性は強い力を発揮できるが、力が強ければ強いほど身体への負担も大きい。
    デクはもともと個性を持っていなかった。オールマイトから個性を譲り受けたばかりのころは、力の配分を間違えて言葉通り骨を砕いていた。身体がいきなりの個性についていけていなかった。今のデクはもともと個性を持たない身体に複数の個性が詰め込まれている。爆豪が知る限りではどれも大した個性ではなかったものの、小さい器に溢れる個性はどう考えたって許容範囲を超えていた。どうせ大したことがない個性でも身体への負荷は一丁前にあるのだろう。使えば使うほど自壊して、デクの身体はどんどんと脆くなっていった。
    デクが病院に罹るたびに爆豪が付き添っていた。あんまりにも頻度が多すぎて、デクの親だけでは対応しきれなかった。病院に罹るたびに親が泣くからといってデクが隠しはじめたのもある。病室でミイラのようになりながら「心配しないで」と親に電話をかけるデクは滑稽なものだった。両腕を折ったせいで電話を持つ事もできなければ指先を画面に滑らせることもできないデクに変わって端末を持ち、デクの耳元へと添えてやっている爆豪からしたら「呆れ」以外の感情が見つからない。
    「なにが心配しないで、だよ」
    「治るから大丈夫だよ」
    「俺ァ、怪我すんなっつってンだよ」
    完治したらブン殴るからな、と言えば、包帯で隠れたデクの表情が歪んだ。自業自得だと眉間に皺を寄せれば、デクが諦めたようにため息を吐く。
    「ところで、かっちゃんいつもよりラフというか、荷物少ない気がするんだけど、どこか出てたの?」
    「関係ねぇだろ。まあでもいろいろ足りねぇから一回戻る」
    「仕事は?」
    「非番」
    「じゃあお泊りだ」
    「きめぇ言い方すんな」
    デクの怪我の度合いにもよるけれど、爆豪はデクが病院に寝泊りするほどの怪我をしたときは大抵同じ病室に泊まり込んでいる。病院に泊まるほどの怪我というのは、一度や二度の治癒の個性では完治が見込めないほどの怪我であることがほとんどだ。今回のデクの怪我は両腕の骨折と聞いていたけれど、大方、足も折っていたのだろう。治癒個性を受けて足だけはひとまず治ったと見る方が良さそうだった。
    爆豪が病室に泊まるときはそれなりに大荷物だ。病室でもできるような事務仕事を持ち込むこともあれば、暇を潰せる本を持ち込むこともある。歯ブラシやタオルなどのトラベル用品に加えて、着替えだって必要になってくる。
    今の爆豪はメッセンジャーバッグ一つしか持っていなかった。さすがにそれでは泊まり込むことは出来ないので、一度病院を後にすることにした。

    相澤とは卒業後もコンスタントに会っている。爆豪が想像していたよりも相澤はマメな男だった。
    プロヒーローになってから、爆豪はそれなりに慌ただしい日々を過ごしていた。生活リズムがガラリと変わって慣れないなかで、息つく間もなく仕事が舞い込んでいく。敵連合の解体が終わり、ヒーローの地位が立て直されてきたとはいえ、かつての大敗を知る市民の目はやさしくなく、根強いヒーローアンチがいるのも事実だった。同じ「プロヒーロー」という場に立って、なおさらオールマイトの偉大さが身にしみた。平和の象徴という権威は大きかった。無条件の信頼、存在するだけで犯罪を抑制する力は、いまを活躍するヒーローの誰ひとりとして持ち得ない。当然、爆豪にもそんな力はない。知れば知るほど遠くなる憧れと、終わらせてしまったものの重さが爆豪の胸を重くした。
    かつてのオールマイトのような信頼を市民から取り戻すのは生半可なことではなく、そのためには一秒惜しまず、あちこちを駆け回る必要があった。
    オールマイトを終わらせた爆豪だけではなく、オールマイトを引き継いだデクも同じようなことを考えているようで、だからこそ怪我が絶えなかった。プロヒーローの仕事に加え、デクのブレーキ役も熟そうと思うと時間がどれだけあっても足りなかった。デクは自分の身体がどうなっているのかてんで理解しておらず、自分の身体を酷使すればするほど削れていることなど気がついていないようだった。あるいは、かつての爆豪のように考えないようにしているのかもしれない。
    そんな「どれだけあっても足りない時間」に隙間を縫うように相澤と会っていた。爆豪がヒーロー業務とデクとの話し合いに追われ、つい相澤のことが疎かになっていると、決まって相澤から連絡があった。時間が取れる日はあるか、飯に行く時間は取れるか、というようなお伺いが来て、はじめて相澤の存在を思い出す始末だった。相澤の忙しさは爆豪だって知っている。それなのに相澤は爆豪をこうして気にかけてくれている。時間がなかった。考えることもたくさんあった。一秒でもはやく足を動かし、手を伸ばして、オールマイトを失った穴を埋めたかったし、デクよりも多く数をこなして、デクの負担を奪いたかった。でも相澤だって時間がないなかで爆豪との時間を作ろうとしてくれていた。第一、相澤を必要としたのは爆豪だ。相澤が爆豪を必要としたわけではない。時間がないなんて言い訳でしかなかった。
    相澤は爆豪の顔を見るたびに安心したように息を吐いた。相澤自身気がついていないのかもしれない。ヒーローの仕事を頑張るのはいいけれど程々に、と口癖のように言う。お前たちは頑張りすぎる、と言われて爆豪が思うのは自分の力不足だった。
    相澤と会う予定を反故にすることもあった。一度や二度ではなかったし、ご飯や買い物だけでなく、ちょっとした旅行の予定も爆豪の都合で無くなることがあった。相澤は大人だ。爆豪よりも。だから突然約束をキャンセルしても「無理はしないように」とだけ言って爆豪を責めることはない。キャンセルの理由は言っていない。デクが怪我したから病院に泊まる、と言うのは、さすがの爆豪だって気が引ける。
    デクが怪我をした、個性の加減を間違えて暴発した、果ては最近疲れやすいのだと笑っていたけれど、デクの記憶に怪しい部分が出てきた。爆豪はデクになにかある度にデクを呼び出して個性の状況や、デクの状態を確認した。いつかの進路指導室で飽きるほど繰り返した会議のように。デクはいまだにノートを広げながら爆豪との話し合いに挑んでいた。デク自身、歴代継承者たちの個性を悪いようには考えておらず、また爆豪には信じがたいことではあるけれど、継承者たちと話もできるので信用があるという。知らないあいだに複数の個性が扱えるようになっていたことを思うと嘘ではないのかもしれないが、自分の個性の把握でさえ疎いヤツがごまんといて、もっと言えば歴代の継承者たちの時代なんて個性の研究もたいしたものではなく、さらに言えば赤の他人の個性を複数の所持するケースなどかつて無いに等しい。デクや継承者たちが思ってもみないような影響が出てもなんら不思議ではなかった。超パワーだけで骨が内部から折れ曲がったのだ。個性と個性が複合することによって、一つの個性だけでは発生しなかったデメリットが出てきてもおかしくない。現にデクは怪我をしやすくなったし、記憶が怪しい部分が出てきてしまっているのは事実だ。
    爆豪が「神経に問題は」と聞けば、デクは「継承者たちの個性を見る限り、神経に関わるものはない」と返す。爆豪が「四代目の個性は脳に影響のあるもんじゃないのか」と聞けば、デクは「そういう話は今のところ出ていない」と言う。会議はいつも平行線を辿り、様子見で決着がつく。そうしてデクはまた一ヶ月も置かずに怪我をする。
    これではいけないと思うまでにそう時間はかからなかった。
    相澤との約束を立て続けにキャンセルしないといけない日が続いたのだ。相澤は気にしなくていいとは言うけれど、相澤を突き合わせておいて、縛りつけておいて、不自由な思いをさせておいて、その全てを理解しながらも爆豪には相澤を手放せる気がしなかった。こんな宙ぶらりんな状態が続けば、今は相澤も「無理はしなくていい、気にしなくていい」と言ってくれてはいても、この先いつ関係を切ろうと言われてもおかしくなかった。
    なにか手を打たなければいけない。考えた結果、思いついたのは同棲だった。いま相澤は寮を拠点としているけれど、話を聞いている限り、退寮ができないわけでは無さそうだった。相澤はいまだにヒーローと教師の兼業を続けているけれど、義足と眼帯になってから、担任は外されたようで、夜間宿直もほとんどないらしい。爆豪も時間がないとは言いながらも家には帰っているし、帰る場所を同じにすれば、わざわざ会う時間をすり合わせる必要はなくなるんじゃないか。相澤には通勤の手間をかけさせることにはなるけれど、予定を振り続けるよりはマシなように思えた。
    そうと決まれば、さっそく爆豪は賃貸情報を検索しだす。しかし、すぐに思い直して、賃貸ではなく物件の購入に条件を変えて再度検索しなおした。賃貸はなにかと面倒くさい。仮に燃やされても敵襲があってもどうにかなる持ち家のほうがいい。
    雄英に通えて、爆豪の事務所からもそう遠くない物件を何件か見繕って資料の請求を済ませる。資料が家に届いたら、その中からまたいくつかを見繕って相澤に打診しようと考えながら、爆豪はスマートフォンをポケットにねじ込んだ。

    考えることがまた増えた。
    相澤に一緒に住むことを提案した日に、セックスをする気はあるかと尋ねられた。考えてもみなかった。そういえば、相澤は恋人で、恋人というのはそういうこともするのだと今更思い当たった。
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    ◆ 山吹

    MOURNING十傑アンソロにお誘い頂いたときにボツった書き出し部分。あいばくが全然付き合わないので付き合ってるところから始めちゃろ〜って書いたもののざわの自己紹介が恐ろしく長くなったのでやめた
    夜明けまで爆豪との付き合いは長くはないが関係は深い。今でこそ収まるところに納まってはいるものの、出会いはあまりいいものではなかった。

    出会いは今から3年も前に遡る。その頃、相澤の住む国では当地者が変わり治安が悪くなっている最中だった。城の近くは変わりないように見えても、城から離れ、国境に近付くほど犯罪が増えた。物盗はもちろんのこと、傷害事件も頻繁に起こり、最近では人身売買も行われているという噂がたつようになって、いよいよ黙って見過ごす訳には行かなくなった城のお偉方たちは相澤をリーダーに据えて街の外れに向かうように言付けた。相澤がリーダーに抜擢されたのは単純に相澤が一番国境近くの土地に詳しかったからだ。

    相澤は今でこそ傭兵として城勤めをしているが、昔は国境近く、言わば貧民街に住んでいた。貧しかったわけではなく仕事上都合が良かったのだ。その頃の相澤の仕事は賞金稼ぎだった。貧民街には太陽の下を歩けないようなことをしてきたヤツらがわんさといたので、相澤はそんなヤツらを捕まえて回っていた。友人であるマイクはいつも相澤のことを心配していて、顔を見るたびにシロに勤めろ、口利きなんかしなくたってお前が捕まえてきた賞金首たちの数を見りゃすぐに許可も下りる。いつか親友が知らないうちにどこかの路地裏でおっ死ぬんじゃないかって胃を痛めているオレの身にもなってくれ、と嘆願されたのは一度や二度ではなかった。相澤は決まって山田の誘いを断っていた。そんななかで相澤が一度だけ大きな怪我をした。相澤に恨みのある人間に後ろっから刺された。運良くマイクが相澤のもとを訪ねに来た時間とかち合って相澤を刺した男は捕まり、相澤は病院に搬送された。目が覚めたらマイクはおいおいと泣いていて、もうこんなことはいやだと言う。頼むから城に勤めてくれ、こんな死に場所を探すような方法じゃなくたっていい、やることは変わらないのにフリーでやっていく意味がどこにあるんだ。そう言われたからというわけではないが、あんまりにも泣く友人にさすがの相澤も申し訳なくなって首を縦に振った。その頃から相澤は城勤めとなり、勤務先に近い街中に居住区を移した。傭兵のヤツらはほとんどがずっと街中で生活を送ってきた者ばかりで、やれ物盗だ、傷害だ、果ては人身売買だと言われても、それがどこでどのように行われているかてんで想像できない様子だった。これではただの噂話で終わ
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