「恋心というにはあまりにも」 彼が死んだと聞いた。彼が殺されたと聞いた。それを伝えてきたその人は、いつもと違って表情が抜け落ちていた。きっと、私も同じような顔をしているのだろう。そう思った。
「傑は、僕が殺した」
「……そう」
どこか上の空な返事になった。そっか、死んじゃったのか。なんて、軽く受け止められるような想いを抱いていたわけではない。けれど、どこか腑に落ちたような感覚がしていた。この不毛な恋心の行き着く先は、私か彼の死——これしかないだろうと心のどこかでは理解していたから。
好きだった彼が、離反という選択をした時点である程度の覚悟はしていた。覚悟はしていたとはいえ、辛かった。
きっと、夏油は私の気持ちを知っていた。酷い人だと思う。最後のあの日、突き放してくれればこの恋心も捨てられただろうに、それを彼は許さなかった。中途半端な優しさは、かえって人を傷つける。初めてこれを理解した瞬間だった。
手酷い言葉をかけて離反してくれればよかった。百鬼夜行の宣言をしに高専に来た時だってそう。高専に通っていた頃と同じような笑みを浮かべてわざわざ視線を向けてきて。せっかく忘れようとしていた恋心は簡単に蘇って、今でも胸が締め付けられるような想いをしている。なんで、叶わない恋をしないといけないの。呪術師と呪詛師から、生者と死者という立場に変わって、絶望的な恋心は、もう叶わぬ恋となってしまった。
そんなに私を振り回して何がしたかったの、と聞く相手はもういない。自分も面倒な相手を好きになったものだと思いながらも、この恋心は消せないことを1番よく自分が知っている。
「……僕はさ、傑のことをどう思えばいいのか、分からないんだよね」
五条の声が駄々っ広い高専の廊下に静かに響いた。白の包帯で眼だけではなく、表情も隠されているように彼からは表情や感情というものを何一つ読み取れなかった。
僕さぁ、と続けた彼は、百鬼夜行で彼女を喪っていた。訃報を五条が知らされたのは全てが終わった後。——主犯である夏油を殺し、今回の件の被害を報告されてようやく初めて知ったのだろう。憔悴している様子は見えない。けれど、いつもの笑みもなく、何の感情もない。ただその事実が五条の擦り減った心を表面化しているのだろう。そう感じた。
「君が好きな男がいなければ僕の彼女は死ななかっただろうし。僕が……俺が、新宿で殺していればよかったのかもね」
はは、と力なく飾りの笑いを五条が吐き出す。こんな懺悔、誰が聞いても苦しいだけだ。なんの言葉も返せずに、五条がぽつぽつと零す吐露に耳を貸し、そしてその言葉に締め付けられるような圧搾感をもたらされる。苦しい、哀しい、会いたい。そんな陳腐な言葉たちじゃ表せられないような感情を五条も私も抱えている。
「けど、傑は最期笑ってたんだよ。僕が言ったとはいえ、笑ってて。まじで、なんなのアイツ……ほんっとに、何なの……」
その時、2人とも知らなかったのだろう。五条の彼女が死んでいることなんて。知っていたら、知っていても、そうやって笑ってたのかな。なんて。考え始めたらキリがない。それにこんな思考、哀しくなるだけだ。
「……ねぇ、僕のこと恨んでる?」
——君の好きな男を殺した僕を。
試すような、伺うような、五条の視線を感じた。
恨んでいる……のだろうか。それは、少し違う気がした。結局この恋は、どちらかの死を持ってしか終わらなかったわけだし、不毛な恋に蹴りをつけてくれたのは事実だ。けれど、好いていた人の死をすんなりと受け入れられるほど私はイカれていないし、きっと五条もそういう意味ではイカれた人間ではない。
「恨むとか、恨まないとか、そういう話じゃないでしょ」
「……」
「だんまり? まあいいけどさ。だってそうじゃん。誰も悪くないよ、きっと。夏油は夏油なりに呪霊のない世界を作ろうとしただけ。立場的に私たちは夏油を殺さなきゃいけないし。恨むも何もない。……こんな言い方したら五条の彼女に申し訳ないね。ごめん」
「いや、いい。アイツが、弱かっただけ」
そう言った五条は、俯いて、ゆっくりとした動きで頭を下げていく。避けようと思えば簡単に避けられるその動きを、私は避けられなかった。誰かに、縋らないとやってられない日だってある。それはたとえ、五条悟だとしても。……それに五条が来なければ私が縋っていただろうから。
「……五条、」
「今は、黙ってて」
そう言った五条は、私の肩に顔をうずめて、動きを止める。静まり返った高専の廊下は冬の厳しい寒さだけではない、物哀しさを感じさせる。この場所は、私たちには冷たすぎる。五条の指が震えているのは、きっと寒さのせいではない。私が、ぽっかりと何かを喪ったように満たされない隙間を感じているのも、きっと寒さのせいではなかった。
五条と密着しているにもかかわらず暖まるような感覚はない。募っていくのは虚しさ、哀しみ、やるせなさ、怒り、虚無感。それらは酷く私から熱を奪っていって、きっとそれは五条に対しても同じだった。
涙は、出なかった。その程度の存在だったんだ、と自嘲する。少し遅れて、ただ現実を受け止めたくないだけだと気付いて、ようやく行き場のない感情たちの存在を認めることが出来た。
一度零れることを知った涙は止まることを知らないかのように流れ出す。目の縁から溢れ出したその雫は、何の抵抗も受けずに頬を滑っていく。消化しきれなかった恋心が、雫となって零れていくような感覚がした。世界が色褪せて、どこか遠くから自分を俯瞰しているような、なんだか自分が自分でないような感覚がしていた。ようやく受け入れた夏油の死は、だいぶ私に動揺をもたらしていたらしい。自分が自分でないような感覚に陥るのは初めてのことだった。
五条の震える指が、何かを確かめるように私の後頭部に触れて、力がこもる。頬を滑っていた雫は、抱き寄せられて真っ黒な五条の服に吸われていく。五条の力は、段々と強くなっていて、指の震えは大きくなって、閉じ込めてもう一生離さないとでも言うかのように抱き締められる。大方、彼女に重ね合わせているのだろう。その力を感じながら、私は心に出来た隙間を埋めるかのように五条の温もりに浸っていた。
***
「……」
家に帰ると、玄関には一回りも二回りも大きな靴が並んでいた。いつも、彼はそうだ。何も連絡を入れずに突然此処に来る。もし私が出張に出ていたらどうしていたのか。いつも彼がここに来るときは、酷く憔悴した顔で私を迎え入れる。
「おかえり」
隠すことなくたっぷりと疲れを滲ませた声が聞こえた。ただいま、と返そうとして、それをやめる。彼が望んでいるのは“私”ではないことを知っているから。
「はやく、お風呂入っといで」
疲れにまみれた声に僅かに甘さが含まれていることを今回も感じながら私は言われるがままにシャワーを浴びに向かう。適当に済ませて、髪の毛を濡らしたままリビングに戻ると、彼に腕を引かれて彼の脚と脚の間に座らせる。優しい手つきで髪の毛の水分を拭き取られるがままにされて、ドライヤーもなされるがままになって、そして、2人で寝室に向かう。
何かをするわけでもなく、私は五条とともに同じベッドに潜り込む。五条とこんなどうしようもない歪んだ関係になってから広くなったベッドは、1人の時には寂しさを募らせるものだけれど、慣れてしまえばなんてことない。——ベッドの広さに慣れたのか、1人の寂しさに慣れたのか、は定かではないけれど。
作り物の暖かさに身を委ねて、想い想いに一時的な癒しを得るこの時間は、虚しくもあるけれど今となっては無くてはならないものにまでなってしまった。
じんわりと広がる温もりと、疲れに誘われる眠気に目を閉じ、微睡みに浸っていた時だった。
「——、」
小さな子供が泣くような、掠れた弱々しい声で亡くなった彼女を呼ぶ声が聞こえた。私も、五条も、百鬼夜行のあの夜から時は止まったままで、その時計の針は動き出すことはない。
「……」
同じ方向を向いて、互いの表情が見えることはない。私たちが抱いた感情は、恋心というにはあまりにも寂寥感に溢れていた。私は、感じることに疲れた心に蓋をするかのように目を閉じる。自分の頬を伝う涙にも、冷たく湿っていく背中からも、目を閉じて。
*****
セーフハウスの一つに帰ると、小さな靴が一対並んでいた。よくもまあいくつかあるセーフハウスの中から僕が帰ってくるところが分かるよね、と彼女の思慮深さには舌を巻く。そういえばそろそろだったなと思いながら、静かにドアを閉めた。スマホを見ると、案の定端的に〈今日いく〉とだけメッセージが来ていた。既読はついてないにも関わらず、勝手に付き合ってもいない人の部屋に入って勝手に眠るなんてことをするのは彼女くらいだろう。僕が急に任務入っていたらどうするんだ。……まあ、入っていたことなんてないんだけど。それは彼女の限界のタイミングが繁忙期から少しズレているからだろう。繁忙期のあの感情の一つも見えない目の色を僕は知っている。蛆のように湧く呪霊を祓うのに感情なんて抱いている暇なんてない。いかにも彼女らしい。だからこそ繁忙期が終わって一通り落ち着くと自分の“渇き”を痛感するのだろう。そして、僕の元にふらりとただ眠りに来る。
彼女は、僕よりも強いことを知っている。僕みたいに誰かを身代わりにすることもなく、縋ることもなく、ただ眠りに来る。リビングや浴室はもう真っ暗になっていて、寝室からわずかにベッドライトの光が漏れているくらいだった。
熱いシャワーを浴びて、乱雑に髪の毛を拭く。適当な服を着込んで早足で、けれど足音を立てることのないように寝室に向かう。ブランケット一枚しか被らずに彼女は丸まって眠っていた。そして、薄く目を開く。僕の姿を視認して、再び目を閉じる。その姿は、どこか猫を飼っているような感覚に陥ることもある。——猫が傷の舐め合いをするのかどうかはさておき。
いつも特段寒がりでもない彼女は、僕の元に来る日に限って温もりを求めに来る。その割にブランケット一枚、という彼女は、ただの温もりだけではなくて、人肌を求めているようで。
僕が彼女の近くに腰掛けるとギシ、と静かにベッドのスプリングが軋む音が鳴る。小さく身動きした彼女は、またさらに丸まった。少しすると、薄く目を開いて、僕の方をそっと見つめる。その視線に催促されるがままに彼女の隣に横になる。満足げに目を閉じた彼女は数分経つ頃には小さな寝息を立てて眠っていた。少し体を起こしてもう一枚布団をかけて、暗がりでも分かるほどの隈を目の下に作ってきた彼女を見つめる。
「……お前も、大変だね」
これも一種の呪いなのかもしれない。そう思った。彼女は、傑から恋心を捨てることを赦されなかった。死者と生者。叶わない恋にもかかわらず、高専時代から拗らせてきた彼女の恋心は傑の死だけでは消えることはなかったようで、定期的に人の温もりを求めに僕の元に来る。
「——着込めば暖まるような寒さなら良かったのに」
いつの日か、そう漏らした彼女の言葉を思い出しながらさらりと彼女の髪の毛を梳く。残された僕たちは、大切なものを欠けてしまっていて、こんな可笑しな関係が今でも成立するほどには歪んでいた。こうでもしないと、歪んだ世界で歪まずに生きていられなかった。互いに、想い人を越す存在なんて現れやしない。死者を超える生者なんていない。死者との記憶は常に美しいものだけが残っていくから。
ふと、不思議に思った。彼女の中での美化された傑は、いつの傑なのか、と。そんなことを考え出したらキリがない。きっとコイツの中での傑は高専時代で止まっているだろうし、悪夢のように呪詛師になり隣に俺たちじゃない人を連れている傑を思い出すんだろーな。そして、心の隙間をこじ開けられて、隙間風に身を凍えさせた彼女は人肌を求めて僕の元に来る。
——僕が同じように彼女の元に縋りに行くように。
「厄介なもんだね」
こんなことになると知っていれば、きっと僕も彼女も誰かを好きになることはなかっただろう。好きにならないように一歩離れた位置で接していただろう。
けれど、僕たちは知ってしまったから。一生縛られて生きていく。僕たちが抱いた感情は、恋心というにはあまりにも呪いに近しい存在だった。愛という呪いに昇華することも出来ず、燻ったままの色褪せ始めた恋心を僕たちは捨てることも出来ずに抱いて眠る。互いの嘘の体温を与え合って。