美術館を歩く 夏至は過ぎたが、夏の本番はこれからだ。夕の入り口だと、まだまだ空は明るい。最寄りの駅から目的地である美術館は、徒歩3分だと書いてあった。俺と七朗の足であれば、そう乖離があるはずはない。だが、この暑さだ。体感では、もう10分以上歩いているように思える。
顎を伝う汗を、ハンカチで拭った。ハンディーファンで顎下を煽るが、その風の生ぬるさが怨めしい。横を見上げると、灰色のフードを汗で濃い灰色に変色させた七朗が、真っ直ぐと目を輝かせていた。
宝箱を目指す探検家の目だ。
そこまで楽しみにしてくれるなら、誘い甲斐もあったというものだ。たかだか一枚千円のチケットだが、俺から奢られることを嫌がる彼のために、ツテを頼って招待券を手に入れてよかった。今度、古村に寿司でも奢ってやるか。
美術館は小さな森林の横にあるため、近づくにつれ蝉の鳴き声が大きくなってきた。シザーハンズがカットしたような木のクマが、森の入り口を案内してくれている。勿論、絵本作家である七朗のテンションは上がり、スマホで写真をパシャパシャと撮りだした。
可愛い可愛いと興奮している声の主が勿論一番可愛らしく、密かにスマホでムービー撮影をする。
「待たせてごめんね」
そんなセリフをカラフルなキリンの前、水色とピンクの亀、スチームパンク的な巨大トンボの前でも聞きながら、木陰のおかげで幾ばくか涼しい森の中をゆったりと歩いて行く。
「嘘だろう……」
ゴールの美術館入り口は、長い長い階段の上だった。オレンジ色が強くなった日差しと、コンクリートの照り返し。絶望の声を漏らすと、七朗は生意気なことを言ってきた。
「運動不足なんじゃない?」
「?」
毎日机に向かっている絵本作家様には言われたくない。
一歩踏み出し、腹を括る。半分くらい上がったところで、両膝に両手をついた。鼻を伝った汗が、コンクリートを汚していく。
「毎日、ジムでトレーニングしてるんだぞ?」
「クーラーの効いたジムで、でしょ? 仕事も基本室内だし、体が暑さに慣れてないんだよ」
七朗も汗をかいてはいるが、俺ほどのダメージはないようだ。マスクをしているくせに。さすがに蒸れるのか、フードは外した。いつもなら風にフワリと揺れる髪も、今は額にぴったりと張り付いている。
「ほら。背中押してあげるから」
「やめろ! 背中も汗かいてるっ」
「気にしない、気にしない」
階段の下から、両肩をぐいぐい押された。悔しいが、存外楽に残りを登れてしまった。
受付を目指して自動ドアを開けると、冷たい風が頭皮を撫でていった。
「天国だな」
黒いワイシャツの襟から、服の中へハンディーファンを向ける。クーラーの風が、身体中を癒していく。
「そうだね」
受付にも勿論人はいるし、客もチラホラと存在している。七朗は周りへの視線から逃れるように、フードを被り直した。
「ん」
そんな彼に、ハンディーファンを手渡した。
「ありがとう」
情けなさそうに眉を下げた微笑みで、素直に受け取ってくれた。フードの中に注がれる小さくても確かに涼しい風に、少し安堵の息を吐く。熱中症なられたら、敵わんからな。
しばらく涼んだところで、ようやく受付に向かった。こういった客は今の季節多いのだろう。咎められることもなく、招待券は受け取ってもらえた。
「行こう」
弾んだ声で、受け取ったばかりのパンフレットを持って進んで行く。
彼の好きな絵。彼の好きな植物。それがテーマになった美術展だ。夏休みの虫取り少年のような足取りに、俺の口角も自然とゆるんだ。
涼しい。そして、薄暗い。まるでこの会場全体が、先ほど通ってきた森のようだ。
七朗は、一枚一枚の絵画を飲み込むように見始めた。まさに植物図鑑である絵、光を燦々と浴びて伸び伸びと生きる雑草、枯れ朽ちていく一瞬をとらえられた花。時折顎をさすりながら、彼は真剣にその絵画たちと、その向こうにいる作者たちの生命と向き合っていた。
芸術を喰らう彼の横顔を、俺もこの目で喰らっていく。
知らず知らずに、唾を飲み込んでいた。この渇望を潤すために。
順番通りに見て回っていると、一枚の油絵に辿り着いた。
深い緑の中にいる二羽の黒鳥は、チラシになっていた絵だろう。鍋島家に生まれ、音楽以外の芸術にも触れて生きてきた。それが、音楽をより豊かな音色にしてくれるからだ。
この絵画は、俺の琴線に触れた。
草葉に囲まれたこの二羽の鳥は、互いの場所が見えているのだろうか。見えていて、あえて近寄らないのか。それとも、会おうと思えば会える位置にいるのに、見えない場所に踏み出す勇気がないが故に、出逢えていないのか。
互いに距離を測りながら、求愛をしているのかもしれない。他者には2人は離れているように見せて、その実、俺たちには聞こえない声で愛を叫びあっているのかもしれない。
ああ、きっとそうだ。
どんなに深い森にいても、互いには聞こえる声があるのだろう。耳をすましてみても、木々の葉が擦れる音、蝉の鳴き声、憎たらしいほどの灼熱しか感じられないのに、2人は2人にしかわからない声で、くだらない冗談を言い合い、笑い、ときに喧嘩をしながら愛を紡ぎ合うのだ。
ふと視線を感じ見上げると、七朗が俺の右手を見ていた。どうやら無意識に、太ももを鍵盤にして俺は曲を奏でていたらしい。
「行ける?」
コソコソとした問いかけに、無言で頷く。次の部屋に向かい、また互いに絵を楽しみ、合図を送って次の部屋へ行く。
俺たちが美術館へ来ると、予定していた以上に時間が溶けてしまう。いい溶かし方ではあるが、腹は減る。
「あちゃー、もう時間だね」
重たそうな画集を軽そうに抱えながら、七朗はマスクを掻いた。
「致し方ないな」
6時半から、特別コンサートが企画されているのだ。本当は始まる前に軽食でもと思っていたが、夕食をガツンと食べることにしよう。
閉館後のロビーをコンサート会場に仕立てて、ピアノのソロリサイタルが行われる。そのツテで、招待券をもらえたのだ。パンフレット曰く、植物の展示に合わせて、今日の演目はシューマンやシベリウスの森や植物が題名についている曲らしい。
「君がいたら、変に緊張しないのかな?」
「どうだかな」
父は審査員になることが多いため、そこにいたら緊張するかもしれないが、音楽家は評価されることも仕事だ。それに、俺の顔と名前が合致する人間も少ないだろう。
白いドレスを着た女性が、ピアノの前に座る。最初に鍵盤から奏でられたのは、シューマンだった。ロマン主義の時代、詩や文豪の作品からインスピレーションを得て感情や想像を自由に羽ばたかせた時代。19世紀は鍵盤の数が増え、シューマンも同時代のリストやショパンと同じように、速弾きの気配がある。
ポポポテ ポポポテ ターンタタタタターン
森へ対する期待と希望、それから敬意と畏怖。目を瞑れば、先ほど歩んでいた絵画の森が思い出される。美術館だ。当然、音響はよくはない。だが、絵画に描かれた草木のざわめきや、土の匂いが香ってきそうな音がする。
「僕、この曲好きだな」
いきなり耳元で囁かれ、肩がびくついた。
彼が体を近づけたことも気がつかず、なんの心の準備もなく吐息がわかる距離で声を聞いたのだ。致し方ないだろう。
七朗が好きだと言ったのは、シベリウスの「樹の組曲」だった。フィンランドの大作曲家は、彼の地の伝説や民話をモチーフにして作曲した作品を残している。
ターンタラタッタラ ンチャンチャンチャンチャ
鍵盤から忙しなく繰り出される曲は、真っ白な大地で悪戯な雪の妖精が踊っているようだ。どんどんと降る雪は白樺と大地を一色に染め、なにもかもを包括し輝かせる。
あの北国は、七朗の好きなムーミンの祖国ではなかっただろうか。一緒に行けたら、どれだけ楽しいことだろう。
2人分の旅費くらい払えるが、受け取らないのが七朗だ。行きたいという欲が勝てば、3食パンの耳で暮らしだすだろう。なんとか、旅行に連れ出せないか……
いや、きっと旅行なんて口実で、ムーミンの映画をするならそれを観に行くだけでもいいのだ。
2人でいたいだけで。
拍手と共に演奏会は終わり、人の流れにそってとろとろと外へ出る。なんて暑さだ。夕だか夜だかあやふやな時間の空は完全に暗くなっているが、むせ返りそうな湿度は健在だった。
ぶり返した汗にハンディーファンを付けるが、なんということだろう。バッテリーが切れ、ゆるゆると羽が止まってしまった。
「はぁ〜。いい展示だった! 凄く勉強になったよ!!」
バッグの中に収まった画集を覗き込んでいる七朗の弾んだ声に、まぁ悔いはないなとハンディーファンをしまった。
「演奏も楽しかったなぁ。ああいうのもいいね!」
「悪くはなかったな」
「素直じゃないなぁ」
「俺が弾く」
「ん?」
なにを言われたのか理解できなかった七朗が、覗き込むように俺を見てきた。
「お前の絵が飾られたら、そこで俺が演奏してやるよ」
「ええ!?」
今思いついただけだが、いいアイディアにしか思えない。
「美術館で特設してもらえる絵本作家さんは確かにおるけど、超超超大御所だよ!」
「俺が決めた。あとは、お前が展示されるだけだ」
小さな個展でもいい。会場が狭すぎるようなら、ピアニカだって弾いてやる。
「天才ピアニスト鍋島啓護がコンサート開く美術展って、凄いプレッシャー!!」
「お前の才能は、分野は違えど俺と同等だろう」
ポンっと、手の甲で彼の分厚い胸板を叩いた。
「堂々としていろ、七朗。お前は、俺が惚れ込んだ男なのだから」
何度口説いても、慣れることなく顔を染める彼は、被っているフードをさらに下げてしまった。
きっと七朗は、俺の野望を叶え、渇望を潤してくれるだろう。
いつか、いや近い将来きっと――
「ほら、飯食べに行くぞ」
「もぉ〜」
「ビールでいいか?」
「うん!」
とりあえず今は、肉体的な欲を満たし、飢えを凌ごうじゃないな。