どうしたらいいかわからないほかほかと湯気の立つココアを飲んで、ミラージュはほう、と息を吐いた。喉を通って胃に落ちる熱が冷え切った体を内から温めてくれる。今日ばかりはいつものコーヒーより、体があたたかいココアを欲していた。
今日のゲームはワールズエッジで、最終安置はエピセンターだった。残り三部隊の激戦で、銃声と爆発物が飛び交う雪原を駆け回って、全身雪まみれになった。おかげでセットした髪は崩れ、ブーツの中まで濡れる始末。ドロップシップの個人スペースにヘアセット用のドライヤーを置いていたのはさすが俺様というか。濡れた髪をセットし直しつつ、衣装の湿った部分をざっと乾かして、手袋とブーツは早々に脱いで干してしまう。体から湿った感触を取り去って、あとはココアを飲みながら停泊所に着くのを待つばかり。
共有スペースでは同じく雪にまみれた女性レジェンドたちがブラッドハウンドが狩の時に使用するというストーブを囲んで暖を取っている。船内は空調が効いているとはいえ、それはあくまで乗組員にとっての適温であり、雪にまみれて体の芯まで冷えた人間にとっての適温ではない。女性は体を冷やしちゃダメだって言うしな、と思ったところで、そういえば最終安置には自分以外にもうひとり、男性レジェンドがいたことを思い出した。
「おーい、おっさん。おっさんもストーブで温まらないのか?」
個人スペースでドローンを拭いているクリプトの髪は湿ったままのようだ。特徴的な髪型がいつもよりしんなりとしていて大人しい。ミラージュの声掛けに首を横に振ると長い右前髪が一房頬に張り付いた。
「平気だ。それにもう満席だろう。」
「レディーファーストはご立派だが、痩せ我慢はよくないぜ?」
「痩せ我慢なんてしていない。」
確かに本来一人用のストーブは小さく、恩恵に与れる人数は既にギリギリだろう。しかし自分より先にドローンのメンテナンスとは。いくら雪にまみれて心配とはいえ、まあまあな濡れ鼠のくせに強情なことで。今日のゲームの最後もコイツとやり合ってるうちに漁夫られて終わったんだったか。つい張り合ってしまうのはよくないとこだと学んだばかりなのに、なんだかんだ意地になってしまう。
「せめてタオルドライくらいちゃんとしろよ。ドローンもいいけどこのままだとお前が風邪引いちまう。手が離せないとか言うならこのミラージュ様が代わりに…」
「触るな!慣れているから平気だ。」
まるで威嚇する猫のように。クリプトの首に申し訳程度に引っかかっているタオルに伸ばした手をパシリと叩かれる。一瞬触れた氷のように冷たい手はすぐドローンのメンテナンスに戻ってしまった。パラダイスラウンジに飲みに来てくれるようになってから、少しだけ彼に近付けたような気がしていたのだが、気安く触れることはまだ許されてないらしい。
「わかったわかった!癇癪持ちのじいさんめ。」
押してダメなら引いてみろ。両手を上げて降参のポーズを取る。飲んでいたココアもなくなったことだし、ここは一旦撤退しよう。毛を逆立てる猫の恐ろしい視線から逃げるように、ミラージュは空になったマグカップを手にそそくさと給湯室に向かった。
ドロップシップの隅にある給湯室。誰もいないそこは静まりかえっていて、ゲーム中の寒さが戻ってくるような気がしてミラージュはぶるりと体を震わせた。やっと温まった体がまた冷えちまう。そうひとりごちて誰もいないことをいいことに贅沢にお湯を使ってカップを洗いながら、ミラージュはそういえばと思い出す。
クリプトが言っていた、慣れている、とは、一体何に慣れているというのだろう。寒いこと、濡れること、はたまたその両方か。どちらにせよ随分なことに慣れているようで。以前ゲーム中に、走ることには慣れている、と言っていたのを聞いた時は、ド田舎育ちで野山を駆け回って育ったのか、それとも学生時代は運動部で毎日のように走り込んでいたのか、なんて能天気な想像をしたものだが。
パラダイスラウンジで二人で過ごした夜然り、付き合う程に垣間見えるクリプトの生い立ちは、彼が秘密主義であることを差し引いてもなんだか触れることが躊躇われるような、そんな仄暗い気配がする。ワケあり者揃いのレジェンド達の中でもその気配の濃さはトップクラスだとミラージュの嗅覚がそう訴える。時に敵として、時に味方として、競い合うレジェンド同士は同僚であり、あくまでビジネスの関係だ。お互いの事情に立ち入るべきでないと頭ではわかっている。わかっているのだが。お節介焼きのミラージュの手はいつのまにか洗い終わったマグカップに再びココアパウダーを入れていた。
「…今度は何だ。」
「あー、そのー、なんだ?ミラージュ様特製ココアでご機嫌取りに。」
うるさいのがまた来た、と言わんばかりにクリプトは眉間に皺を寄せる。椅子を回して背を向けようとするその鼻先にすかさずココアを差し出しせば、甘い香りに眉間の皺が解ける。コイツ、意外と食べ物に弱いよな。
「特別にマシュマロも載せたんだ。溶けちまう前に飲んでくれよ。」
ダメ押しに特別感を漂わせれば、受け取ってくれる気になったようだ。ドローンを机に置いて伸ばされた手の、一瞬触れた冷たい指先を追ってマグカップごとその手を自分の手で包み込めば、クリプトはビクリと体を跳ねさせた。
「おい、手を離せ!」
「あったまってからな。」
クリプトの氷塊のような手がココアの熱とミラージュの手の温かさに挟まれてじわじわと解凍されていく。液体を手にしているから先程のように振り払えないのだろう、クリプトは目を伏せたまま大人しくしている。というより、固まっている?ミラージュは包み込んでいた手の親指ですり、とクリプトの手の甲を摩ってみた。熱を分け与えるような優しい動作に、目の前の睫毛がふるりと震えて視線が彷徨う。どうしたらいいかわからないといった顔だ。
慣れていない。身体的な接触に、この男は慣れていないのだ。一連の接触を通してミラージュは確信した。変なことには慣れているくせに、こんな些細な触れ合いには慣れていないだなんて。最初はただのお節介のつもりで動いた手だったが、彼のあまりに初心な反応につい、悪戯心が沸く。
「もういいだろう。そろそろ手を…」
「そうだな。このままだと飲めないもんな。」
パッと手を離せばすぐいつもの仏頂面に戻ってしまう。フンと顔を背けてココアを啜るその首から少し湿ったタオルを奪い取って。
「隙あり!」
目の前の湿った頭を雑に拭いてやれば、途端に苦情のオンパレードだ。おいやめろココアがこぼれるだろバカアホマヌケ等々。よしよしいつもの調子が戻ってきたな。全体の水分が取れたところで手付きを悪戯なものから丁寧なものに変えていけば、プロ顔負けのタオルドライに満足したのか、それともただ諦めただけか、クリプトはようやく体の力を抜いてくれた。唇は不満げに尖っているが。
「お前のせいでハゲたら…ミラージュ、お前を二度殺す。」
「えっ、クリプちゃんハゲてんの?!」
容赦のない拳が顔にめり込む。こういう身体的接触は大得意だよな、お前。慣れているべきことに慣れていなくて、慣れているべきでないことに慣れている。秘密主義の男の、秘密と秘密の隙間から垣間見える柔らかいところ。ツンとした態度はそこに触れさせないための殻のようなものなのかも知れない。顔に突き刺さったままの拳を掴んで両手で包み込んでやれば、ひくりと目の前の肩が震える。ああ、どうしよう、知りたいと思っていただけなのに、今度は触れたいと思ってしまった。
「ハゲるのは俺が先かも知れない…」
まるで懺悔のように握ったクリプトの拳に額を当ててミラージュは呟いた。