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    ogata

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    ES設立四年目、Edenが星奏館を退寮することになった春。
    ファンの間で、茨がアイドル活動を休止するという噂がたち……
    というところからはじまる、シリアスめ+ほのぼのジュン茨。

    通販(フロマージュ)
    https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=2396082

    #ジュン茨
    junThorn
    ##ジュン茨

    Burn into Memory「はい、というわけで候補の部屋をこちらからご確認ください。おすすめは、このあたりですかね」
    間取り図を指差しながら、七種茨が手元のタブレット上の書類をスワイプした。

    ESアイドルの独身男性寮である星奏館には、多くのアイドルたちが同じ屋根の下で暮らしている。星奏館はアイドルの卵の生活支援や、未熟な彼らを保護し育成する目的を備えた施設となっている。

    ESが設立して四年目の春、多くの新人が入ってくるこのタイミングで、はじめての寮生の入れ替えがあり、真っ先に入れ替え対象となったビッグ3と呼ばれる人気ユニットが寮を出るというタイミングで、Edenのメンバーも星奏館を退寮することになった。

    「……この部屋は、ESからも近いね」
    「思ったよりも、選択肢があるね」

    高層のマンションはなく、全十室ほどの分譲マンションが選択肢のほとんどだ。

    「まあ、自分の手元にあった投資用の不動産の中から、コズプロで借り上げる形にするのも良いかと思いまして。食費や消耗品費等も管理費とすれば、みなさんが仕事に集中していただける環境になるかと」

    茨が、部屋が決まりましたら契約書をお渡ししますよ、と言えば、候補地の地図と茨を交互に眺めていた日和が疑わしげな目を茨に向けた。

    「茨、また何か企んでいるの?」
    「いえいえ、殿下。ESに所属しているとはいえ、それぞれの事務所がアイドルに対して独自の管理方法をとる中、自分が上層部とアイドルとの間に入っているコズプロは、随分アイドルファーストの環境でありますよ。こちらのマンションはほとんど新築の上、最良のサービスも受けられます。まあ、多少割高にはなりますが、現在のEdenには、セキュリティに関しても安心できる環境が必要でしょう」
    「綺麗なマンションっすねえ。オレ、こんなに広い部屋だとなんか落ち着かなさそうっす」
    「閣下や殿下の使い勝手に合わせて選定致しましたのでね。ジュンだけ狭い方がいいなら、別のを探してあげます」
    「オレだけ違うマンションってことっすか?」
    「低層階であればシングル用の部屋もありますね。まあジュンは放っておいても時間を守りますし、体調管理もできますので、別のマンションになったとしても心配はしませんが」

    珍しく褒められたような気がしたジュンは、茨がそう言うならと満更でもなさそうだったが、日和が「だまされちゃダメ! ジュンくんも一緒じゃないとダメ!」と嗜めた。

    「……私、一人暮らしは初めてだ」

     わいわいと話し合っている中、部屋の間取り図を眺めながら、凪砂はうっそりと微笑している。その表情からは「わくわく」という文字が読み取れた。

    「そうだ、凪砂くんと一緒に住むのも楽しそうだよね。凪砂くん、ぼくと一緒に住む?」
    「……日和くんと?」

    訪ねてから、ぱあっと凪砂の表情が輝いた。
    口数の多くない凪砂の喜怒哀楽は、わかりにくくはあるものの、長く側にいる日和や茨はもちろん、メンバーの中では一番凪砂とのやりとりが少ないジュンにも、今は凪砂がとても楽しそうに見えた。

    「閣下に一人暮らしはまだ早いのではないかという危惧がありましたが、段階的にそのような形をとられるのなら安心ですな」
    「……私、日和くんと一緒に住みたいな」
    「でもねえ、ぼくら皆成人してるんだし、社会勉強として一人暮らしをしてみるのも悪くないと思うんだよね。ぼくも、寮生活が長かったから、一人暮らしはしたことがないし」
    「……そう……」

    しょんぼりしそうになった凪砂を励ますように、日和が続ける。

    「お隣に住めば良いね! そうしたら、一緒にご飯を食べることもできるし、夜は一緒に眠ることもできるね」
    「せっかく一人暮らしするんですし、一緒に寝る必要はないんじゃないっすかねえ?」

    まあ別に止めませんけど、とジュンと茨は間取り図を眺めながら適当な受け応えをした。

    「そうだ。ジュンくんも隣に住んで、ご飯を作ってもらえばいいね! 茨もそのお隣に住めば便利だね!」
    「……みんな隣同士だったら、また寮みたいで楽しくなるね」
    「オレらはお手伝いさんっすかぁ? まあ、たまにならいいっすけど」
    「まあ、家賃や管理費も引き落としになりますし、寮と大差ないと思いますね。大部屋から個室への移動と捉えてもらってよいでしょう」

    結局、多忙なユニットメンバーがまとまって暮らしている方がマネジメントしやすいということもあり、事務所やプロデューサーらの意向から、結局メンバーは同じマンションにいくつかの部屋を借りて住む、ということになった。


    *****



    久しぶりのオフの朝、ジュンは自転車置き場の前を陣取り、タイヤに空気を入れていた。
    今日は天気も良さそうだし少し遠くまで行くのもいいかと、朝からあちこちをメンテナンスした。愛車の洗車は、日頃のストレスが解消される。
    全身ピカピカに磨き上げてサドルに跨ったところで、ポケットの中のスマートフォンが震える。日和からの呼び出し音が、無情に鳴っていた。

    「おひいさん? なんですかあ? オレ、これからちょっと出掛けるつもりなんすけど」

    特に予定があるわけではないが、久しぶりのオフを気ままに愛車を走らせるべく、ささやかな抵抗を試みる。しかし健闘虚しく、その返答は綺麗に無視された。

    「ジュンくんジュンくん! この記事のこと、茨から何か聞いた?」

    日和がホールハンズで送ってきた画像は、雑誌の表紙のようだった。はっきりと見るためにスマホの画面を拡大したところで「えっ」と声が出た。

    「なんですか、これ……?」
    「ぼく、今から事務所に行くつもりなんだけど。ジュンくんも来られる?」




    日和は新しいもの好きだが、大衆向けの娯楽雑誌に興味はない。だからいつもは気にも留めない。だが、通い始めたばかりの皮膚科の会計時、ふと目に入った表紙に、よく知る名前が書かれていた。

    「その雑誌を持って帰るわけにはいかないから、帰りにコンビニに寄って、同じ週刊誌を買ってみたんだよね。プリティじゃないものにお金を使うのは嫌だったけれど、仕方ないね」
    「おひいさんが、そういう下世話な記事を気にするの、珍しいっすよね」
    「そうなんだよね。こういう雑誌は嫌いだね! だけど、最近ファンの間で流れているっていう噂のことが、ちょっと気になっていてね」

    これまでにEdenが大きなニュースに掲載される時には、大抵、事前にメンバーに報告されていた。茨やスタッフに止められることなく放置、もしくは気づかれていないというのは、かなり異例と言える。

    「まあ、ジュンくんは今日まで知らなかったみたいだね。最近、ジュンくんは茨と仲が良さそうだったから、聞いてみたんだけど」
    「えっ……? 別に、普通じゃないっすか」
    「ふーん。そうなの?」

    そうは見えなかったのだけど、と含みをもたせた日和の返答に、ジュンは思わず唾を飲み込んだ。日和の勘は鋭いので、バレたらバレた時だと思っているものの、今のところまだ、何とか隠し通せていると信じていた。
    ジュンと茨は、ある時から、時々二人になれる時間を探して『キスの練習』をしている。

    二人が初めてキスをしたのは、もう二年も前のことだ。
    どうしてもと頼んだのはジュンからだった。キスシーンのある映画の出演を控えて、未だファーストキスを迎えたことのなかったジュンが、同い年のユニットメンバー、同じくキスは未経験だという茨に、どうか練習相手になってほしいと頼んだのだ。今考えると、冷静だったとは言い難いだろう。また、その依頼を悩みながらも受け入れた茨が、その日たまたま睡眠不足だったことも、その後の二人の関係を明後日の方角へ転がした原因だったのかもしれない。
     当初は、間違いなく互いにとって仕事、言うなればレッスンの一貫だったのだが、あれから二年もこの風変わりな『キスの練習』が続いている。
     だから、もしこの記事にいくらかの真実が含まれているとしたら、と思うとジュンは少なからず動揺した。

    「……でもオレ、本当に茨からは何も聞いてなくて」

    話す機会なら幾らでもあっただろうに、こんな噂の話についての話も、茨からはまったくなかった。その間にも『練習』で会うことはあったはずなのに。

    「茨や凪砂くんにも聞こうと思ったんだけど、電話が繋がらなかったんだよね。時間があったら事務所に寄ってねって、ホールハンズでメッセージだけは送ったんだけど」

    浮かない顔のまま、二人はES前で落ち合い、事務所に向かうことにした。


    「茨、ちょっといい?」
    「殿下、ジュン。今日はオフのはずでは? 少々お待ちいただいても構いませんか」

    休みにも関わらずEveの二人が事務所に来たということは、あの記事に気づいたということだろう、と茨は内心、溜息を吐いた。
    遠からず相談するつもりではあり、むしろ相談しないわけにはいかない重大事案だったが、日和にその言い訳は通用しないだろう。
    まして、ジュンにこの話をどう切り出すべきか、茨はまだ答えを出せていなかったのだった。二人で会うたびに、話だけでもしておくかとは、何度も思ったはずだったのだが。
    まだ本当とも嘘ともとれない程度の流言を、日和が目に留めて口を出してくるのは珍しい。

    「実は、閣下も先ほどいらっしゃいまして」
    「あ、本当だ。ナギ先輩も着いてたんですね」
    「うん。日和くんにメッセージをもらったから」 

    いつもの打ち合わせなら事務所内のミーティングで事足りるのだが、内容が内容なので、既に集まっていたEdenのメンバー全員で、ミーティングルームを借りて移動することになった。


    ——七種茨、アイドル活動休止、引退へ?

    ゴシップ渦巻く週刊誌は、センセーショナルな見出しに彩られていた。
    日和が鞄から雑誌を取り出しながら、溜息混じりに口火を切る。

    「ネットで、茨がアイドルを辞めるみたい、という噂が流れてるみたいだね」
    「ええ。その話は存じております」

    茨は、手にしていた何冊かの雑誌と、タブレットに保存された書類を開きながら応じた。
    Eveの二人が来る前から、資料として手にしていたらしい。

    「今年に入ってから、自分が少し露出を減らしているとの噂が流れ、情報通のファンから不安が広がってしまったようです」

    もともとAdamはテレビや配信などの映像媒体への露出は控えめだったから、噂は噂にすぎなかった。ただ、もろもろの企画が同時進行していたので、茨個人での仕事が減っていたことは否めない。

    「凪砂くん一人の仕事はあるのに、茨一人の仕事は減っているように見えていたかもね。とはいえ、茨は事業やプロデュース業もあるから、ずっと忙しなかったけれど」
    「確かに、最近会議とかミーティングとか、アイドル活動や企画以外の仕事が増えて、忙しそうでしたよねぇ」
    「……ひとりで事務所に残っている日も増えていたよね。ちゃんと眠れているのかな?」

    茨はこの質問に「寝ておりますとも!」と返した。実際、立っていても眠れるのは茨の特技のうちだ。

    「そうは言っても、新曲のレッスンには参加してたし、そこまで気にしてなかったんですけど……言われてみたら、確かに少なかったかもしれないっすね」
    「まあ、噂は噂、と言い切れたらよかったのですが」

    ここから先の話は、大変長くなってしまうのですが、と前置きして、茨は続けた。

    「ESが発足してから、日本のアイドル業界は、世界進出への足がかりを作るための土台づくりをしておりました。これまでユニット単位、個人単位での海外における活動はありましたが、来年度からは一層、海外での活動を増やしていくことになっているのは、ご存知の通りです。その一環で、他国のES支部と協力しあっていくことになりました」

    現在のアイドル業界ではESが台頭しているが、それはあくまで日本国内のみの話だ。
    海外支部に所属する者の中には、SNSや動画サイトで頭角を表している者も一部にはいるが、ほとんどはそこまでに至っていない。

    「アメリカでも、現地のアイドルが所属するということ?」
    「そういうことです。そこで、経営とプロデュース、アイドルという過程を経験している者として、コズプロから海外派遣を打診されました」
    「えっ? 茨、海外に行くんですか?」

    思いのほか大きな声が出てしまい、ジュンは他の三人の視線を集めてしまった。

    「そう、アメリカなんですけどね。で、ここからが本日の本題です。先ほど殿下からお見せいただいた記事の記者は、おそらくコズプロの上層部から情報提供を受けております。ですから、自分が止める間もなく記事が世に出てしまいました」
    「……茨も当初は反発したから、強硬手段を打たれた」
    「えっ、凪砂くん、知ってたの?」

    次に叫んだのは日和だった。凪砂が知っていたということは、予想外だったらしい。

    「私は、この話を少し前に聞いていたんだ」
    「閣下には最もご不便をお掛けすることになりますのでね。同じくご負担をかけるEveのお二人へのご相談は、近いうちにするつもりだったのですが、結局、後戻りしづらくなってからになってしまいました。申し訳ありません」

    謝りながらも努めて冷静な茨の声を耳にしながら、何かを考える間もなく、ジュンの胸の内に、ゆらりと炎が揺れた。慌てて手元の書類を見ながら、湧き上がってくる感情をどうにか落ち着かせることを試みる。

    「閣下のお世話については多少の不安はありますが、数年かけて育ったスタッフもおりますし、この春からは殿下やジュンも同じ屋根の下にいてくださいます。我らの契約は、一時的に内容を更改させていただくことになりました」

    「……本当は、私も止めたかったけれど。でも、茨が行くと決めたなら、私は応援するよ」

    凪砂の表情からは一定の納得を感じられた。おそらく、茨は言葉を尽くして状況を説明したのだろう。説明能力の高い茨が、知性の高い凪砂を説得するのは、それほど困難ではなかったのかもしれない。
    また、判断力に優れた日和は、ジュンに電話してきた時より随分落ち着いているところを見るに、ある程度腑に落ちる説明を得られたと考えているように見えた。
    ジュン一人だけが取り残されている、という感覚は、一体いつぶりだろう。
    かつて仕事でひどいスランプを感じた時、支え、立ち上がる力をくれたのは、ほかでもない茨だった。あの時から、いやきっともっと前から、ジュンは茨が自分を支えてくれていたことを感じていた。 

    「オレは、納得できません」 

    静まり返った室内で、全員がジュンを振り返る。ジュンはその視線から目を背けるように少し俯き、口元を引き結んだ。

    「茨は優秀だから、経営やプロデュースに関われるってだけで代わりになる人なんかいないのかもしれないっすけど、EdenやAdamの茨だっていなきゃ困るでしょうよ。上の奴らにそんな都合よく茨を使われたくありません」

    感情を抑えようとして、声が震えてしまっている。初舞台で緊張している時ですら、こんなことはなかったのに。

    「茨が納得して決めたことだったら頑張ります。だけど茨は本当に良いんですか?」
    「ジュンくん……」

    日和の気遣わしげな視線がジュンにはますます辛かった。
    けれどジュンは、自分が本当に言いたいのはこんなことじゃない、という気持ちでいっぱいだった。たどたどしく茨やユニットを思う言葉を吐きながら、きっともっとエゴに満ちた、勝手な感情が心の内に渦巻いている。それをどう表現すればいいのかわからない。

    「まあ、そうですね。納得しているとは言い難い。納得させたというだけであります」

    茨は手元の雑誌をバサっと放り、感情を必死で抑えているジュンを見据えた。
    こちらは芯から凍えるような冷徹な声だった。普段の声が大きくてよく通るだけに、その静かな怒りが一層強く伝わってくる。

    「Edenの海外への移籍はいずれ考えられますが、今自分がEdenのプロデュースから抜けるなんて、青天の霹靂もいいところですよ。ですがファンの方々から見れば不安をあおるであろうこの記事も、内容自体は自分に好意的な筆致で書かれているため、一般的には自分の能力が認められているように感じられる記事です。ESからの依頼を受けた、コズプロ上層部の息がかかった記事であるという証左でしょう。しかも、この記事が世に出てしまった以上、派遣を断るほう難しくなってしまった」

    まったくいつもいつも余計なことを、と吐き捨てられるのは珍しいことで、たった今まで怒っていたはずのジュンですら、茨の言葉に目を瞠った。

    「自分ばかりが上の好きなように、と言いましたね、ジュン。自分ばかりではなく、世に存在する、あまねく上席は部下を好きなように使うものなんですよ」

    無言のまま凪砂を見返す茨は、ほんの少しだけ手が震えている。ジュンの目には、それが茨の怒りを物語っているように思えた。

    「……茨。その言い方では、ジュンに茨の真意が伝わらないんじゃないかな。茨は、ジュンに怒っているわけではないでしょう」

    そう問われても、茨の無言は覆らない。

    「……ね。私の言っていることがわからないほど愚かじゃないよね、茨」

    凪砂は表情を崩さなかった。けれど、言葉の端にいくらかの遺憾を含ませて、声には小さな叱咤と情愛を乗せている。茨は、その表情を見ないまま、窓の外へと目を逸らした。

    「まあまあ、二人とも」

    珍しく間に入った日和が、ジュンの側に立って苦笑する。

    「管理する側には、集団を円滑に運営する責任が伴うんだよね。茨も組織の一員であるという自覚があるから、上には逆らわないし、下のことは、こき使うんだね」

    身もフタもない説明ののち、まあ、最近は茨もそこまで酷くはなくなったかね、というフォローが入る。
    すると、茨の隣で二人を見守っていた凪砂が、急に「ふふっ」と言った。
    俯いていたジュン、天井を仰いでいた茨が、それぞれに凪砂に視線をやると、凪砂は確かに笑っているのだった。

    「閣下?」
    「……あっ、ごめん。私、空気を読めていなかったかな」
    「いいえ、いいんですけど……」
    「あの、一体何がそんなに面白いんですか?」

    真剣な話をしていたと思っていた二人は、ますます混乱してしまう。

    「……あのね。私、あの時のことを思い出して」

    思い出してにっこりと笑っている凪砂の言葉を受けて、日和が続ける。

    「ショコラフェス、だよね。ジュンくんと茨が、言い合いになったことがあった」
    「あ……」

    ジュンと茨はそこで、はた、と互いの顔を見つめ合う。そしてジュンの顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。

    「……二人は真剣に話していたのに、本当にごめんね」
    「ちょ、ちょっと二人とも、こんな大事な時に、そんな昔のこと思い出さないでくださいよ!」
    「そんなに昔でもないね。たかだか二年だね」

    そういう問題ではない、と言いたいけれど、二人が楽しそうなので、羞恥心がどんどん高まっていく。
    ジュンはESが設立された初年度のショコラフェスのとき、茨を怒らせたと勘違いして、何週間も茨と話ができなかったことがあった。だが、実際のところ、茨は早々に気持ちを切り替えていて、別にずっと怒っていたわけではなかったのだった。
    ジュンと茨が初めて『キスの練習』をしたのはショコラフェスよりも少し前だったこともあり、茨のことを殊更意識していたせいか、ジュンはその時のことをよく覚えていた。あの行き違いの後で、二人の距離が急速に縮まったからだ。

    「……ジュンは、茨の意志が踏み躙られようとする時に怒るんだ、と思った記憶があったんだ。普段はとても温厚なのにね」
    「ジュンくんは優しいからね。それにジュンくんと茨は、最近とっても仲良しだしね!」

    ジュンが揶揄われている間、なんだか振り上げた拳をどこに降ろしていいかわからなくなった茨は、赤く染まったジュンの頬を眺めていた。すると「あんたもそんなジロジロ見ないでくださいよぉ」と、顔を両手で覆うものだから、うっかり吹き出してしまう。
    そうだった、と茨は思う。
    ジュンはそんな風に、茨が飲み込もうとした怒りに待ったをかけて、代わりに怒ってしまうところがあった。
    改めて、顔を覆ったまま俯いてしまったジュンのつむじを見つめていると、不思議と先ほどまでのささくれた心が癒されるようだった。

    「ジュンくんの気持ちもわかるし、ぼくも四人でEdenだと思ってるから、本当は嫌なんだけれど」

    ひとしきり笑った後で、日和が穏やかに告げる。

    「だけど、茨。きみがもし、その逆境に打ち勝っても成し遂げようというものがあるのなら、ぼくたちはその意志を応援するね」

    茨のことだから、失敗してもただでは起きないだろうしね、と。
    茨を励ます日和というのはレアどころかシークレットみたいなもので、愛に溢れたその存在の尊さを改めて思い知らされてしまう。

    「身に余るお言葉感謝します、殿下。それと、ジュン」
    「……はい」
    「あなたには、このミーティングの後で改めて説明します。それで構いませんか」
    「え、はい……でもあんた、忙しいんじゃないですか」
    「今日は本来オフですのでね。皆さんにもご心配やご足労をおかけして申し訳ありません。ついでに閣下と殿下には、お見せしたいものがありますので、すぐに送りますね」

    その場で茨がメールで配布したのは、Edenの年間演出プランだった。

    「本当は、皆さんに納得いただいたら、お見せするつもりだったのですが。完全なものではありませんが、今お渡ししているのは骨子の部分のみになりますので、後日わかりやすいプランをホールハンズにて共有します」
    「一年分の演出プラン……?」
    「自分がESから依頼を受けているのは一年ですので、ざっくり方向性を考えておきました。細かいところは現場に任せますが、戦略は先の先まで考えておきたいので」

    その間にESNYを軌道に乗せて戻ってまいります、と言った茨の声からは、もう怒りの感情が抜けていた。
    プロデュースは、基本的に茨の立てた年間プランをもとに、P機関や「プロデューサー」、茨がこれまでに育てたスタッフに委任する。Adamは凪砂のソロ活動が主となり、Edenとしては三人での活動をメインにするプランとなっていた。

    「ざっくりって言ったけど、結構しっかり決まってますよねこれ」
    「アメリカ行きの打診があってから作ったの?」
    「いえ、これは元々、ある程度作ってあったものを、三人でのパフォーマンス用に変更しました。まあせっかくの機会ですので、皆さんも自分以外のプロデューサーとの仕事を楽しまれてはいかがでしょうか?」

    鷹揚な台詞を舌にのせつつ、茨はこれ以上ないくらいの苦虫を噛み潰した顔をしている。

    「その間、自分も自分なりに研鑽を積んでまいります。なんといっても、世界のエンタテインメントが集まる場所でありますからね」
    「……なんだか楽しそうだね」
    「ESNYとのパイプができれば、Edenの海外での活動もやりやすくなりますし、アブソリュートの結果にも期待が持てるようになるでしょう。何事も備えが大切ですから」

    なんでも食い散らかしてやる、とでも言いたげな顔で、茨が不敵に笑う。
    ジュンの脳裏には、出会った頃に茨が繰り返していた言葉がこだましていた。



    いくつかのスケジュールと必要事項を共有してミーティングが終わり、ランチをして帰るという上の二人と、ESを出て話すことになった下二人で別れることになった。
    ジュンは日和に、茨は凪砂に、それぞれに「がんばってね」と声を掛けられるも、ふたりは「?はい」と応えた。


    「まったく手のかかる子たちだね」
    「……本当に、愛すべきかわいい子たちだ」
    「やっと茨が動いたみたいだけどね。こんなことでもない限り、変わらないだろうから」
    「今回は、うまくいくといいね」


    *****


    ESでランチをするという仲良しの二人と別れ、ジュンは茨とともにESを後にした。
    外はまだ花冷えの季節で、晴れてはいるものの、まだまだ頬を切るような冷たい風が吹いている。スーツにトレンチコート姿の茨と、軽いパーカーのようなジャケット姿のジュンは、どこかちぐはぐな格好の二人組に見えていることだろう。少しだけ前を歩いていた茨が、振り返って言った。

    「ジュン、今日は、この間お話ししたマンションに案内しますよ」

    歩きながら「そっちに曲がってください」と茨が続ける。

    「カフェでする話でもありませんしね。そのマンションに、時々自分が使っていた部屋がありますので、そこで話しましょう」
    「それはいいんすけど。茨、いつからそんな隠れ家があったんすか」
    「まあ、つい最近ですよ。寮でできる仕事は限られていますからね。ほとんどの仕事は事務所でやることにしておりますが」

    同じユニットとして何年も共に過ごしたのに、まだこんなに知らないことがあるのだ。ジュンはもっと茨に近い存在だと思っていたのに、思うほど近くはなかったというだけのことが、やはり寂しい。
    毎日のように顔を合わせていてすらこうなのだ。一年も会えなくなったら、見えないところはきっともっと増える。会えない時間に、心はどれほど離れるのだろうか。
    通りかかったサンドイッチのチェーン店で、ジュンはローストビーフサンド、茨はエビとアボカドのサンドを、それにコーヒーをふたつ頼んでテイクアウトする。

    「一番近いんでこの店にしましたけど、サンドイッチでよかったですか?」
    「いいっすよ、オレは肉が食えればなんでも。それに茨、片手で食べられるもの好きでしょう」
    「仕事をしながらでも食べられるからよく食べるだけで、特別好きなわけでもないんですがね」
    「大体、栄養補助食品が好きなんて、味気ないにも程があるんですよ」

    ESのお膝元と言えるこの地には、必然的にファンも多い。足早に歩きながら、マンションへと向かった。
    未来の新居となる予定のマンションは、星奏館からもそれほど遠くはない、こじんまりとした分譲マンションだった。ESに通勤するなら非常に良い立地だが、入口が道に面していないからか人目につきにくく、ESアイドルの住まいとしては申し分のない場所である。
    入口には受付のような場所があったが、特に人はいないようだったが、扉の前には顔認証のシステムとなっていた。

    「まだ入居者がいないので、管理人もいないんですよね」
    「オレたちが住むとなったら、ここにも人を雇うんですか?」
    「ええ。保守も必要ですし、自分の知る管理会社から人を派遣します」

    話しながら、茨は階段を上がり始める。三階まであがったところで、階段から一番遠い角部屋の前に立った。茨がカメラの前に立ってマスクを外すと、ドアのキーが開く音がした。

    「どうぞ、あがってください。あまり掃除が行き届いているわけではないので、そこのスリッパを使ってくださいね」

    そう言った茨はスリッパも履かずに部屋の中へとあがりこんでいく。どうやらスリッパはひとつしかないらしく、本当に茨が一人で使っている隠れ家のようなものらしい。

    「別に気にしないっすけど、ありがとうございます」 

    掃除してないとはいっても、つい最近来たのだろうか、特に埃がたまっているでもなく、それなりに小綺麗な様子だった。

    「つい数日前に、プランを詰めるために来たところなんですよね」

    部屋は簡素ではあったが、ベッドにクローゼット、小さなデスクも置かれており、ワンルームとはいえそこそこの広さがあるので、このまま十分に住めそうな部屋だった。

    「自分は元々物も少ないので、住むのにもこのくらいで十分なんですよね」 
    「オレも、一人だとこのくらいのサイズ感のほうが落ち着くと思います。何部屋もあったら掃除が大変そうですし。あ、でもジム部屋を作れるのはいいのかなあ」
    「まあでも、ジュンは日和閣下の隣の部屋でいいと思いますよ。ついでにあの二人のお守りをお願いします」
    「いやいや。オレ一人では手に余りますって」

    茨にハンガーを手渡され、着ていたジャケットを掛ける。ソファはないので適当にベッドにでも座ってくださいと言われたが、さすがに服のままでは憚られるのでクッションの置いてある床の前に座ることにした。茨も荷物を置いてコートを脱ぐと、小さなローテーブルに買ってきたサンドイッチとコーヒーを広げた。

    「コーヒー冷めちゃいましたかねえ」
    「まだこの季節は冷えますからねえ。お湯を沸かして、後でお茶をいれなおしましょう」

    薄紙に包まれたサンドイッチをそれぞれ手に、軽く空腹を満たした。
    ジュンもオフだというのに随分疲れた気分で、少し甘味のあるパンに挟まれたローストビーフとレタス、たまねぎを頬張った。

    「それにしても、まさか雑誌に掲載されるとは思っていなかったですね」
    「引退っていうのは何なんですか? それも何か言われたりしたんですか?」
    「さすがにそれはありませんよ。雑誌側が引きの良い言葉を書いたにすぎないでしょう。まったく、名誉毀損であります」
    「アメリカって言ってましたけど、行く時期は決まっているんですか?」
    「九月頃ですかね。多分その前後から、行き来が増えるというイメージだと思います。休止とはいえアイドルであることには代わりないので、行き来は無料でできるのはありがたいですね」
    「九月……まだ先とはいえ、あっという間ですね」

    答えた茨は瞬足でサンドイッチをたいらげて、コーヒーで流し込み終わっていた。

    「そんで、食うの早いっすね相変わらず」
    「そうですか? ジュンはゆっくり食べてください。そのほうが消化にいいそうですから」
    「わかってるなら茨もそうしてくださいよ」
    「自分は、あまり落ち着いて食事をすることがありませんので。閣下と一緒のときは、ゆっくり食べないと怒られてしまうのですが」
    「おひいさんもそうっすよ。食事は会話しながら楽しむものだって。はじめは慣れなかったけど、オレもおひいさんに叩き込まれたクチです」
    「閣下も殿下に教えられたんでしょうね。貴族の食事とはそういうものなのでしょう」
    「なのに、茨は今も食うの早いっすよねえ」
    「外では人に合わせるようにしていますよ。ここは家なので」

    茨は立ち上がると、自分の分のごみをまとめてゴミ箱に捨て、キッチンでお湯を沸かし始めた。

    「ジュン、紅茶は飲みますか?」
    「ああ、ありがとうございます。オレは何でも」
    「いただいた茶葉があるので、ついでに淹れますね」

    電子ポットの湯はあっという間に沸いた。適当なマグカップにティーバッグを放り込んで、ざっと湯を注ぎ込む。

    「まあ、自分はあまりティータイムとは縁がないんで、皆さん気を遣ってティーバッグをくださることが多いんですけど。じめ……紫之氏に会うと、おいしいお茶を淹れてくれます。はい、どうぞ」
    「あ、どうも。あの人、可愛いっすよね」
    「……ふむ、そうですね。自分も、彼のことは好きです」
    「え?」

    茨がアイドルを褒めることはさほど珍しくもないが、誰かを好きだというのを、ジュンは初めて聞いたような気がした。
    「なんというか、友人としてというか、アイドルとして、ですかね。尊敬もしていますよ」
    「へえ、そうなんですか。茨にそこまで言わせるって、すごい人っすねえ」

    不自然に思われない程度の速度で返答するのが、ジュンにとっては精一杯だった。
    幸いにして、茨はジュンの毒にも薬にもならない返答に慣れている。突然の焦燥でジュンの手に汗が滲んできたことなど、気づくはずもない。

    「でもジュン、『可愛い』なんて珍しいですね。紫之氏のような方がお好きでしたか?」
    「あ、いや、その。仕事でご一緒しましたけど、あのユニットの人は全員可愛いですから。特に紫乃さんはなんというか、特に女の子みたいですよね」
    「声も可愛らしいですし、しぐさに品がありますからね。それでいて英智猊下などとも懇意にしているというのですから、なかなかのやり手であります」

    そう言って、何か思い出すように茨は微笑む。
    「茨は、ああいう子が可愛いと思うんですか?」
    「ああ、そうですね。可愛いと思いますよ。というか大多数がそう思うのではないですか。彼はそれを売りにしているアイドルなのですから」
    「そうなんですけどね。紫之さんのことよく褒めてるんで、茨の好みのタイプなのかなって」
    「好み」

    キョトン、というのはこういう顔のことを言うのだろう。眼鏡の奥で、大きな瞳をさらに大きく開いて、茨はジュンを見つめた。その表情が妙にあどけなくて、朝から語気を荒げて言い合った時とは別人のように気が抜けている。

    「取引先と会食などで『好みのタイプ』を聞かれたら、紫之氏の名前を出すことはありますね。わかりやすいですし、かといって、あそこまで可愛いに特化した男性アイドルもそう多くはありません。女性芸能人の名前をあげるのは、リスクが高いですしね」
    「ああ、なるほど……」
    「あと、ジュンですかね。閣下や殿下でもいいですが、あんなに唯一無二の人々をタイプとあげるのもおかしいですし」

    ジュンの心臓がドクンと跳ねる。こんなに単純でいいのかと思うほどに、簡単に舞い上がってしまう。

    「お、オレ? なんで?」
    「ジュンならまあ、誰に迷惑をかけることもないし、自分の回答として適当なのではないかと。あ、名前を出されるの嫌でした?」
    「いえ、茨がいいなら良いんですけど」
     「これはこれで需要があるんですよ。実際、会食などは、取引先の方で自分やEdenのファンの方が来られることもありますし『愛★スタ』などのゲームのファンの方もいますから」

     ジュンはそのゲームのタイトルを聞いて、以前に説明を受けた【BL営業】について思い出し、そんな需要があることを改めて認識した。

    「茨って、ほんといろんな仕事をしてるんですねえ」
    「そうですよ。自分、事業経営もしておりますし、管理職でもありますので、一応営業先では言動に気を遣うわけです」

     まったく、と茨は温かい紅茶を啜った。
     ジュンにとっては自分の名前を出されて、今は嬉しさばかりが勝ってしまう。

    「まあ、そんなことはいいんですけどね。そろそろ本題に入らないと、日が暮れてしまいますよ」
    「ああいえ、もちろん聞いて帰ります。けど、なんでオレだけ呼んだんすか。別に、あの場で話してくれても」
    「それはわかるでしょう。ジュンだけ物分かりが悪かったからです」
    「いや、ナギ先輩とおひいさんが物分かりよすぎなんです。もっと怒ってもよくないですか」
    「ああ、いえ。閣下にも初めは怒られたんです。珍しく」
    「えっ、そうなんですか」
    「まあ、怒られたというかね」

    凪砂は茨の意志を蔑ろにされたことに憤っている様子だったが、茨がしばらく考えて出した答えを聞いて、茨の意見を尊重すると言われたのだった。

    「あと、ジュンはあんなに怒ると思ってなかったですね、正直なところ」
    「茨って、基本的にオレのこと舐めてますよね」
    「まあ、それはそうなんですけど。ジュンも随分自分のこと舐めてますし」

    見合って目が合うと、急に顔が近づいてきて、茨はジュンの唇をぺろりと舐めた。驚いて目を見開くと、茨は悪戯が成功した葵兄弟のような表情である。

    「へっ……?」
     『キスの練習』と言っても、初回にジュンが頼んだ時以外は、いつもジュンが誘うようにキスをして、茨がそれに応えてくれるだけだったので、茨からキスをされることはこれまでなかったのだ。

    「あー……びっくりした。物理で舐められた」
    「二人になると突然キスだのハグだのしてくるくせに、こちらがやると驚かれるのは何なんですか?」
    「それはそうなんですけど。だって、茨がこんなことしてくるの初めてじゃないですか?」
    「おかげさまで慣れたといいますか。お互いもう、いつキスシーンがきても大丈夫ですね」

    初めは二人ともおっかなびっくりだったのだが、何度も繰り返しているうちに、茨はジュンと二人きりになると、じゃれついてくる飼い犬をあしらうかのような、慈愛深い顔を見せるようになった。
    ジュンのほうはというと、もしかしたらもう、初めてキスしたあの日から、ずっと茨に恋をしているのかもしれない。
    許されているから続けているけれど、おそらくこれは茨に「どうして」と聞いたら終わってしまう関係だ。茨にとってジュンは、親愛のおける相手ではあっても、仕事以上にはなれない。だから、ずっと『キスの練習』止まりになってしまうのだ。

    「もう、今は自分が一時的にEdenを抜けることになったとしても、それほど心配はしていないんです。正直なところ、それで御三方に置いていかれるのはキツくもありますが。でも、自分のここまでの経歴と、Edenとして今後の展望を考えても、特に損はないと判断しました。あと、今日の日和殿下の反応を見るに、間違いなさそうだと」

    そう、真摯に話す茨は、いつもの「変な語尾で話すビジネスマン」というよりは、同い年の顔だった。なまじ色々できてしまうから忘れそうになるけれど、茨もジュンと同じく、たまには不安になることもある二十歳の青年なのだ。

    「茨の武器が強力になれば、Edenももっと強くなるみたいなことですね」
    「バトル漫画かゲームで想像してます? 本当にジュンはエンタメ脳ですね」
    「ともかく、そうちゃんと説明してもらうと、確かになと思いました。やっぱり茨はプレゼン上手なんすね」
    「まあ、それが仕事で、特技でもありますから」

    茨は不敵に笑って、ジュンの頭をわしゃわしゃと撫でる。素直に褒めたので、機嫌がよくなったらしい。まあいいか、と思って撫でられていると、急に撫でるのをやめて、茨はジュンの目を見て話し出した。

    「ねえ、ジュン」
    「はい」
    「今日は、セックスをしませんか」
    「はい。え?」

    無意識に答えてから、ジュンは思いっきり茨に向き直った。

    「は? あの、え? 茨?」
    「わざわざ部屋に呼んだのに、ジュンが全然手を出して来ないので」
    「え、あの、いや、それはいいですけど、だめですよ!」
    「何を言ってるんです?」

    心底不思議という顔で、茨が首を傾げる。この野郎、完全に演技してやがる、とジュンは心の中で悪態をついた。

    「あの、そういうのは、ちゃんとお付き合いしてる人とするものじゃないですか」
    「あ、ジュンはやっぱり、キスなら特定のパートナー以外の相手としてもいいと思っていたんですね」
    「や、すみません、遊びとかはなしです」
    「自分は、遊びでキスしてもセックスしても、別にいいと思うんですけどねえ」
    「茨はそうでしょうけど、オレは好きな人とするものだと思ってますよ」

    茨がそういう貞操観念だからこそ、ここまで踏み込んでこられたということはある。茨を好きなのかも、と思ってからは、ジュンなりに頑張ってアピールしてみたり、できる範囲で押したり引いたりを試してみたこともある。
    しかし、茨がジュンの努力に応えてくれることはなく、かといってキスを拒否されることもなかった。茨には恋愛モードが搭載されていないのかもしれないと気づくまで、ただいたずらに二人で『キスの練習』ばかりを積み重ねてしまったのだった。

    「茨は、オレ以外にもキスとか、……セックスとか、する相手がいるんですか?」
    「いるように見えますか?」
    「見えないこともないです」

     いたって真面目に応えたのに、茨は笑顔のままジュンの頬をつねって引っ張った。

    「いるわけないでしょう。自分のどこにそんな時間があると思うんです?」
    「いだだだだ、ごめんなふぁい」

    涙目のジュンから手を離すと、茨は「はー……」と大きなため息をつきながら、ベッドを背にもたれかかった。

    「ジュンは自分のこと、好きじゃないんですね」
    「そ、そんなことないですよ。好きですよ」
    「取ってつけたような言葉は結構です」

     半分冗談なのだろうが、そんな口調に反して眉の間のシワが深い。

    「あの、なんで急に、セックスしようなんて言い出したんですか」
    「……まだ日本を出るのはもう少し先になりますけど、これから忙しくなります。ジュンと二人で話せる機会も、少なくなりますから。派遣の話を聞いた時、ジュンにも話さないとな、と思ったんですが、言えずに今日まで来てしまいましたね」

     茨の話を聞きながらゆっくりと咀嚼して飲み込む。

    「え? あの、茨。聞き間違いじゃないですよね。なんて言いました?」

     茨ににじりよって、そのまま床に押し倒した。そのまま間近に顔をくっつけて叫んだら、今度は鼻先を摘まれた。

    「うるさいです」
    「ずんばぜん」

     茨は顔を横に背けて「自分だって、言いにくいことくらいあるんですよ」と、聞き逃しそうな声でこぼした。
     ジュンは、聞くなら今しかない、という思いを込めて、茨に全力でのしかかった。

    「言い忘れたっていうニュアンスじゃなかったですよね」

     茨は「それは」と言ったものの、少し言い淀んで押し黙った。

    「ねえ、教えてください。なんでオレには言いにくかったんですか?」
    「だって、こんな風になってしまうじゃないですか」

     大人しく押し倒されたまま、茨は大きな瞳でジュンを見上げている。

    「こんな風って?」
    「だから……その、閣下や殿下は、心配はしてくださいますが、ジュンのように感情的にはなりません。精神が成熟しておられるのでね。でも、ジュンはきっと悲しむのではないかと」

    確かに、ジュンが初めに話を聞いた時に感じたのは、悲しみだったのかもしれない。それは表面化する時に怒りに取って代わられる。

    「すみません。オレ、ガキっぽいし、自分ばっかりなもんで」
    「いえ。あれがあったから、結果として自分を納得させることができた気がします。ジュンがいなかったら、自分もあんな醜態をさらさずに済んだかもしれませんが、自分より悲しんでいるジュンがいてくれて、なんというか」

    救われたというんですかね、と茨は目を逸らした。それを聞いたジュンの顔が自然と緩む。
    茨に、好きな人に「救われた」と言われるなら、どんな苦労でもできそうな気がする。そう思ったら、ジュンの口からぽろりとこぼれた。

    「ねえ茨。オレ、やっぱりあんたが好きみたいです」

    茨がジュンの存在を認めてくれたことが、ジュンにとっては何より嬉しかった。
    決死というほどの覚悟はないが、それなりに長年温めてきた想いを打ち明けたジュンに、茨はやっぱり辛辣であった。

    「趣味が悪いと言わざるを得ませんね。ジュンは童貞だから、初めてキスした自分のことをつい追いかけてるんじゃないですか」

    それがそう間違いでもなくて、ぐうの音も出ない。出ないところを何とかひねりだして、答えを探す。

    「そ、そうかもしれませんけど、オレにとっては、茨だけがそういう相手なんです」
    「ご愁傷様です。例えば、それは今のままの関係ではだめですか? 好きだという気持ちひとつで、いろいろなものが崩壊するかもしれないという自覚はありますか? ある日突然すべてを失っても、笑って舞台に立てますか?」

    立板に水で流れてくる濁流に飲み込まれながら、ジュンは息も絶え絶えで言葉を紡ぐ。

    「アイドルだから愛することを我慢しろなんて、おかしいじゃないですか。アイドルは愛することと、愛されることが仕事なんですよ」
    「はあ……漣ジュン、巴日和の申し子すぎませんか」
    「そりゃ、あの人の側で育ったので仕方ないでしょうよ。だから、茨がダメだって言っても、オレは諦めませんし、我慢もしません。会えなくてもちゃんと好きでいますし、待ってるんで、安心してください」 

    犬か、調子に乗るな、と悪態をつきながらも、笑いながらジュンの頭をわしゃわしゃ掻き回してしまうあたり、どうやら結構嬉しかったようだ。それがジュンにとっても嬉しくて、軽くキスをしてから起き上がり、茨をよいしょと姫抱っこで持ち上げた。

    「うわっ」
    「暴れないでくださいねえ」

    そのまま、そっとベッドに下ろして、上から押し倒すように覆いかぶさる。

    「ねえ、茨。もし茨が、オレのこと好きになったら言ってくださいね。それまでちゃんと待ってますんで。アメリカで美男美女に誘われても、軽々しく乗っちゃダメですからね」

    額と額がくっつく距離で、茨を瞳に焼き付ける。

    「もし、茨がオレのこと、ちゃんと好きになってくれたら、その時はセックスしましょう?」
    「……でしょう」
    「え?」

     なんですか? と問い直したジュンに、茨はジュンの耳元で言い直した。

    「好きでもない相手と、何年も『キスの練習』なんか続けるわけないでしょう」

     その返答を聞いて、ジュンは満面の笑みで茨を抱きしめた。






    *****


    「……Hello」

    訝しげな返答が返ってきて、ジュンは一瞬、言葉に詰まった。

    「あ、すんません、ええと、茨ですか? オレですけど」
    「……どちらのオレさんですか」

    音量を落とし、やや掠れた声が、今の今まで眠っていたことと、この通話で無理やり起こされたことを告げている。

    「あ、あの、オレ、漣です。寝てました?」

     ジュンの耳元に、フッと鼻で笑う気配が届いた。

    「寝ておりましたよ。何の用です」
    「いえ、緊急事態とか、急用とかではないんですけど」
    「なら、休日に起こされたことへの苦情は、正当な主張ですよね?」
    「うわあ、すんません。茨と話すなら朝の方がいいと思ったんです。あんた、また朝まで仕事してたんすか?」
    「いえ、仕事ではないんですが。昨晩は休前日でしたので、少々遅くまでアルコールを」
    「えっ? 仕事じゃないのに飲みとか行くんですか? 茨が」
    「知人と食事の機会くらいはあります」
    「知人と、食事……?」
    「……そんなに疑問を覚えるところじゃないでしょう。何が不思議なんですか」

    茨の返答に、ジュンは自分がわかりやすく絶句していたことに気づく。
    茨はよく喋る。いくつもの言語に堪能で、社会情勢にも明るい。本人にその気さえあれば、世界中に友達ができるのだろう。
    けれど、茨の交友関係が極めて狭いのは、彼を知る者にとって周知の事実だ、とジュンは思っていた。しかし、今はそうではないのかもしれない。

    「……茨、アメリカで友達ができたんですか? よかったですねえ」

    素直に喜ばしい気持ちと、その茨の側にいるのが自分ではないという事実は、久しぶりに茨と話せるという喜びに、少しだけ水を差した。
    ジュンの軽口を揶揄と取ったのか、茨は不満げに答える。

    「珍しいこともあるものです。Eveのスケジュールは把握しておりますが、ジュンも近頃は忙しかったはずでしょう」
    「オレより、茨の方が忙しいでしょうが」
    「まあ、確かに暇ではありませんよ。で、本当に何の用だったんです?」

     少し会わないうちに、茨は随分落ち着いた話し方をするようになった気がした。

    「そうそう。来月、オフがあるじゃないですか」
    「ああ、殿下の家庭のご都合ということで、随分前から空けておりましたね。ジュンもしばらく休みなしでしたから、ゆっくりしてください」
    「確かその頃、茨も一度戻ってくるって聞いたんで」
    「そうですね、数日ですが戻れる予定です」

    言いながら、電話越しにゴソゴソと衣擦れの音がして、茨がベッドから起き上がったのであろうことがわかった。
    ジュンもソファから立ち上がり、キッチンに移動して通話をスピーカーに変え、コーヒーを入れる準備を始めた。
    「戻ってくるなら、オレの部屋に来ませんか? 少しは荷物が増えてますけど……あの時のままですし」

    あれから結局、家具を移動するのが面倒、という理由で茨にすすめられ、ジュンは茨の隠れ家にそのまま転居することにした。
    ジュン自身、たった一日、あの日を茨と共に過ごしたことで、この部屋から離れ難くなった。

    もしかしたら、茨は、はじめから全てお見通しだったのかもしれない。
    それでもいいと、ジュンは思う。
    春になれば、茨がこの部屋に戻ってくる。
    おそらくは、この部屋の天井と、ジュンの瞳の色を焼き付けたまま。

    「まあ、二人で寝るには少し狭いんですけどね」

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