五年目の同窓会灯りを避けて暗闇を踏み、足音を忍ばせて歩く。なるべく目立たぬよう、誰の目にも留まらぬように。
深夜のガルグ=マク大修道院は静けさに包まれている。昼間の授業や訓練で疲れ果てた生徒たちを、星々が見守っている。無論、夢の中にいる者たちばかりではない。勉強熱心なことに図書室でなにやら本を探している者もいれば、まだ槍を握り、自らを律するかのように鍛錬に打ち込む者もいる。寝台で物思いに耽り、眠りにつけぬ者もいるだろう。そのどれにも当てはまらぬ自分は、やはり異物なのだろうな。と、ユーリスは唇の端をちょっとだけ持ち上げた。人には人の事情がある。他者のそれに首を突っ込むつもりは毛頭ないのだが、厄介なことに学級が同じだというだけでユーリスに関わってこようとする人間もいる。いやそもそも、物好きなことに自分を地上の学級にスカウトした『担任教師』がそうだった。
「先生、そこにいるんだろ?」
「……」
コツ、とわざと足音を立てて立ち止まると、ユーリスは平素と変わらぬ調子で声をかけた。夜闇の中に、言葉が妙に響く。ユーリスのよく通る声だから、特に響いて聞こえるのだろうか。そう考えながら、ベレトは静かに姿を現わした。曲がり角で、ユーリスのことを待っていたのだ。すぐそこにアビスへの入り口があるこの場所なら、必ず彼が通りかかると見越して。
「あんたの気配、なんとなく分かるようになってきたよ」
ユーリスの軽口に、ベレトは腕を組んで見せると、少しだけ首を横に振る。
「ユーリス……消灯時間はとうに過ぎている」
「分かってるって。……まさか、俺様に罰則を受けさせる気じゃねえよな?」
草むしりや武具の手入れなんかをさせられるのは御免だ。ユーリスはさも困ったような顔をして、両手を後ろに回す。
「見逃してくれよ、先生……どうしても外せねえ用事だったんだ」
「きみの事情は分かっているつもりだ。だが……」
だが、なんだというのだろう。確かに先日、ベレトがユーリスの仲間たちを救ってくれたことは事実だ。仲間たちを引きつれて敵対組織に殴り込み、ユーリスの持ち物を盗んだ裏切り者に制裁を下す。そう聞いたベレトは、あろうことかその手伝いを買って出た。こんな稼業をしていて、不安でなかったことなど一度もない。しかしユーリスは、その日戦場において初めて、安心して背中を預けられる相手を見つけた。
後ろにベレトがいる。ユーリスを守り、仲間の命まで拾ってくれている。悪党同士の抗争に現れた手練れの傭兵は、見事に指揮を執り、敵を屠った。ベレトが剣を振るう姿を見ただけで、腰を抜かして逃げ出した奴もいたらしい。ユーリスは、後に自分の部下たちがその時の様子を面白おかしく語る様子を見て豪快に笑った。
信頼、とまではいかないが、担任教師の腕は信用できるものらしい。そう感じたユーリスは、ちょっとした昔話を聞かせる程度にはベレトに気を許していた。だが、と最初の話に戻る。ユーリスに言わせれば、それはそれ、これはこれだ。自分がいつどこに行くのも自由だし、ベレトや校則にそれを制限されるされるのも御免だった。教会の人間を殺めている自分が命まで取られなかったのは、地下で大人しくしていることが条件だったが……地下にユーリスの助けを必要としている人々がいなければ、自分はいつ出て行っても良いのだ。
地上の学級にスカウトされたことで、図に乗っている。そんな風にユーリスの動向に目を光らせている司祭たちがいることも承知している。そいつらがベレトに何か忠告しているらしいことも。
「俺様は……」
「だが、心配させるのはやめてほしい」
言い返そうとして、ユーリスは紅の乗った唇を薄く開いたまま目を瞬かせた。心配がなんだって?
「きみは夕食も食べずに出て行った。アビスの門番も、ずっときみを見かけていない」
「ああ……授業の後、そのまま出かけたからな……?」
「灰狼学級の生徒たちも、今日は何も聞かされていないと言っていた。……もしもこのままきみが帰らなかったら、自分はどこを探したら良い?」
「……」
どこを探せるはずもなかった。ユーリスは偽名だし、もはやローベ伯爵の養子でもない。生徒名簿から辿ろうにも、生い立ちだってでっち上げだし、本当の故郷の話を知るのはごく一握りの、昔からつるんでいる部下たちだけだ。
「心配させるのは、やめてほしい」
「……分かった、分かったよ……先生」
いつも表情に乏しいくせに、どうしてこんな時だけ悲し気な顔が上手いのだろうか。ユーリスは溜息を吐くと、バツが悪そうに髪を弄る。
「次から……誰かに行き先を知らせとくからさ」
「そうしてくれ」
「あんたが俺を気にかけてくれてるってことは分かったが……それで、俺に何か用だったのか?」
「実は、級長が千年祭の日の話をしていて……」
それを聞いて、ユーリスは紅い唇を曲げて笑って見せた。
「五年後にどうのこうのってやつか……どうせまだ先のことだろ」
「詳しくは明日話そう。きみはもう寝た方が良い」
「はい、はい……」
ユーリスの疲れた様子に、ベレトはそこで話を切った。アビスへの隠し通路へ消えていく背中に、「おやすみ」と声をかける。
「おやすみ、先生」
暗く、カビ臭い道はユーリスを心底ほっとさせた。五年後の千年祭の日、その頃ユーリスはどこで何をしているだろう。そして、ベレトがそれを知る術をもつことは恐らくない。
士官学校の卒業と共にアビスを出て、故郷に戻るのも良いと思う。新しい名前と身分を手に入れるために、どこぞの貴族に取り入るのも手だ。禁制品の闇取引が軌道に乗れば、それも続けて……
いいやそれとも……
それとももしも、ユーリス=ルクレールが本当の『自分』として、ベレトと肩を並べている未来があったとしたら――
共に戦い、笑い合える仲間として、ベレトの隣を歩き続ける未来が――
(……あるわけねえか、そんなこと……)
湿った地下の空気に包まれて、ユーリスは地下への階段を降り続けて行った。
「おっと先生、久しぶりだな。俺様がいるのはそんなに意外か? つれねえなあ……」
ベレトは、自分の姿を上から下まで見つめるユーリスを見て、胸が温かくなる。彼が彼らしく成長しているということが嬉しかった。そして、自分のことを気にかけて、『わざわざすっ飛んで』来てくれたということも。
「きみに会えて嬉しいよ、ユーリス。……来てくれて、ありがとう」
「……お、おう。自分から振っておいてあれだが、そう真っ直ぐに言われちまうと照れるな……」
ユーリスの頬が微かに赤くなる。本当に、もう一度会えて良かった。思い描いていた同窓会とは違ってしまったが、ベレトは灰狼学級中央に立つ大人びたユーリスを見て、新たな日々の幕開けを感じていた。
終わり