俺たちの正月年が明けて二回目の昼が来た。
今年の正月は例年よりもずっと陰鬱で辛気臭くて、世間ではやれ終末だやれ救済だといった言葉が人々の間で飛び交っている。なんだか気味の悪いカルト宗教なんかも流行しているらしく、ただでさえポイ捨てが多い街中には不気味なチラシがあちらこちらに貼られていた。普段なら日が暮れるまで友人と遊ぶなり一人でぶらつくなりするのだが、気温のせいだけではないうすら寒さに耐えかねて早々に寮へと戻ってきてしまった。
「……自己責任、か」
扉に手を掛けたまま一歩立ち止まる。絶対に避けられないという滅びに立ち向かう決心をしたのは僕達特別課外活動部で、「逃げない」と最終的な決断を下したのは他でもない僕自身だ。まさか日常までもがこんな風に侵されてしまうだなんて予想もしなかったけれど、これが「滅び」が近づいている証だというのなら、僕達はこれを乗り越えていかないといけない。今朝も早くから「初売りに行ってくる」と意気揚々と出かけて行った女性陣を思うと、リーダーの自分が弱気になっていてはいけないと叱咤されるような気分だ。
それでも、すっかり変わってしまった街に一人きりでいるのは心細かった。仲間達は僕を強いと言ってくれるし頼ってもくれるけれど、一人ぼっちの僕はこんなにも弱い。異様なまでの口下手は自分でも自覚しているが、いつかちゃんとお礼を言わなければならないと思う。皆のおかげで自分は強くなれていると。
「おい、そこで何してる」
――!?
突然後ろから声を掛けられ、驚きのあまり仰け反ってしまった。階段から落ちないようゆっくり振り返ると、そこにいたのは半分呆れたような顔の真田先輩だった。ランニングから戻ったところなのか、一月の寒さの中だというのに若干汗ばんでいる。
「全く、扉の前でずっと動かないから何事かと思ったぞ。入るなら早くしてくれ」
先輩に急かされ慌てて扉を開ける。冬の冷気に晒された重厚な扉は少し重たく、ギイィと鳴る音が辺りに響いた。
「うおっ、寒!早く閉めろ!」
ただいまを言うよりも先に順平のやかましい声が飛んできた。ラウンジは空調のおかげで暖かい空気が充満しており、すっかり冷え切っていた頬が温度差で少しひりひりするのを感じる。真田先輩が扉を閉めて外気が完全に遮断されると、外の寒さが嘘みたいに思えた。
「あっ、おかえりなさい!」
「ただいま」
順平とは違って律儀におかえりを言ってくれたのは天田だ。真田先輩も僕に続いてただいまと返事をする。同じく挨拶をしてくれたのか、はたまたなんとなく流れに乗っかっただけなのか、コロマルも元気よくワンと吠えた。
「そうだ。あの、よかったら食べます?これ」
奥のテーブルに座っていた天田がカゴを両手に抱えて駆け寄ってきた。中に入っているのは大量のミカン。どれも大ぶりで綺麗な橙色をしていて、きっと異様に酸っぱいものなんかは無いんだろうなと思う。先輩と揃ってカゴを覗き込んでいると、天田が説明を付け加えた。
「さっき街を散歩してたらおばあさんに貰ったんです。親戚から送られてきたけど食べきれないから、って。箱ごと貰っちゃったから運ぶの大変だったけど、嬉しいですよね。こういうの」
「だな」
天田の話に真田先輩が賛同する。僕は陰気なところしか見えていなかったのに、天田は街に残された明るいところを拾い上げたみたいだ。おまけにミカンまで貰って。僕はなんだか嬉しくなって、思わず頬が緩んだ。僕の笑顔は他人からは全然わからないらしいが。
「なら、一つ貰おうかな。先輩はどうします?」
「俺は先にシャワーを浴びてくる。お前達は先に食っててくれ」
そう言って自室へ向かった先輩の分の席を空けて、僕達はテーブルを囲んだ。カゴから取り出したミカンは見た目通りにずっしりと重たい。ヘタのあたりに指を差し込んで皮を剥くと、爽やかな香りがふわっと立ち込めた。
「おっ、なかなかイケるなこれ」
一足先に味わったらしい順平は、口をモゴモゴさせながら感想を呟いている。一房目がまだ口の中にあるのに二房目を分け始めている辺り、実際美味しいのだろう。僕も取り分けた一房の目立つ筋を少し剥がしてから口に放り込んだ。
「本当だ。甘すぎないしちょうどいいね」
だろ?となぜか順平が我が物顔で頷いている。貰ってきたのは天田だろうが。呆れた目で順平を見ていると、これは伝わったらしく「なんだよ」とちょっと拗ねた返事をされた。
「天田はどうよ?さっきから黙ってっけど、小学生的にはもちっと甘い方が良かったか?」
「子供扱いしないでくださいよ!……白いの取ってたから、まだ食べてないだけです」
順平に揶揄われてご立腹の天田の手元を見ると、律儀に細かい筋まで取り除かれたミカンが握られていた。剥かれた皮の上では筋が山を形成している。
「おいおい、その筋に栄養があるんだぜ?俺っちみたくちゃんと食べなきゃでっかくなれないぜ」
「よっ、余計なお世話ですよ!」
「順平は取るの面倒くさいだけでしょ……あ、こら、コロマルはダメ」
僕達が騒いでいるのが気になったのか、コロマルが興味津々といった顔でテーブルの上を見つめていた。動物は柑橘の匂いが苦手らしいと聞いたことがあるが平気なのだろうか。僕に制止されてしょんぼりしたコロマルは、クゥンと寂しそうに喉を鳴らした。そんな顔をされたら、なんとなく同情してしまう。
「……犬ってミカン食べていいのかな?」
「ダメじゃないですか?ミカン食べる犬なんて聞いたことないですし」
コロマルの誘惑に負けかけた僕の言葉は天田に一蹴されてしまった。流石だ。
「やっぱりダメだってさ」
「え、いんじゃね?植物だし」
「じゃあコロマルも食べていいの?」
「やめた方が良いですって。何かあったらどうするんですか」
「でも毒になるようなモンでもなくね?」
「つまり食べさせてもいいってこと?」
「なんでこういう時だけ順平さんに付くんですか……」
「お前らいつまでやるつもりなんだ」
僕達が取り留めのないやり取りでコロマルを一喜一憂させている間に真田先輩は二階から降りてきていたらしい。さっきの僕よりも何倍も呆れた目で僕達三人と一匹を見ている。
「いいかお前達。動物に変なことしたらシンジに怒られるぞ」
「そこなんですね……」
絶妙にズレた発言を天田に突っ込まれながら、先輩は開けておいた椅子に座る。革手袋を外してひょいとミカンを手に取ると、先輩は主に順平の方を見ながら僕達に問いかけた。
「ところで冬休みの課題はちゃんとやっているんだろうな?」
肝心の順平は気まずそうに目を逸らしている。こういう時に嘘が吐けないのは順平の長所だろう。
「僕は……まあ、それなりに」
正直宿題の存在すら忘れていたが、適当に誤魔化した。戦いを言い訳にする訳ではないが、こんな状況だとどうしても頭の端の方に追いやられてしまう。
「僕は順調ですよ。書初めさえ終わっちゃえばあとはもう楽勝です」
天田は偉いな、という先輩の返答には暗に僕と順平へのお咎めが込められている気がしてならない。今度順平と一緒に勉強会でもするか、なんて考える僕とは反対に、順平は少し上ずった声で話題を逸らそうと先輩に話しかけた。
「いや~……真田サンこそ受験生なのに平気なんすか?今って追い込みの時期なんじゃ……」
「問題ない」
あまりにきっぱりと言い切られてしまい、僕まで若干面食らってしまう。知らぬ間に口に入れていたらしいミカンを飲み込むと、先輩は改めて僕達の方を見据えた。
「要は今まで勉強してきたことの再確認だ。他の奴らより割ける時間は少ないが、蓄積した分で充分戦える」
平然と言ってのけた内容に、先輩がこうだから受験をあんまり深刻に捉えられないんだよなぁ、なんて思ってしまうのは責任転嫁かもしれない。しかし、それくらい僕達の先輩は二人とも頼もしくて、弱さを見せようとしない人たちなのは紛れもない事実だ。
「そっか。真田さん、もうすぐ卒業しちゃうんですね」
「ああ」
天田がふいに漏らした言葉に、先輩はしっかりした声で答える。
「そしたら次はお前たちが最上級生だ。お前もな、天田」
"次"。当たり前のようで、今の自分たちには随分重い言葉だ。自分たちが戦わなければ、勝たなければ、その先に未来はない。思いは同じだったのか、順平はうっす!と威勢良く返事をした。天田も、しっかりとした声ではい、と答える。コロマルも同じ気持ちなのだろう。ワンとひと鳴きしたその声は随分頼もしい。
「ッ僕は、」
決意表明のために発した声は、変に力が入ってしまったのか少し震えてしまった。みんなの目線が一斉にこちらを向く。
「……僕は、今年こそ明王杯で優勝したいし、文化祭だって参加したい。あと、休みの日にはまたみんなで映画に行ったり海に行ったりしよう。冬には、去年の分を取り返すくらいクリスマスを目一杯楽しんで、それから……」
話しているうちに纏まらなくなってきて、言葉が迷子になる。それを察したのか、順平が手を挙げて僕を制止した。
「お前の熱い気持ちは伝わったぜ。けど、普段あんま喋んねーから急にんな語ると口疲れんだろ?ったく大事なトコで締まんねーリーダーだな」
フォローになっているかは微妙だが、順平の笑顔からは「こんなところで終わらせる気はない」という闘志が感じられた。
「言葉にできないなら行動で示せばいい」
真田先輩からも、助言だか決意表明だかが飛んでくる。
「僕も、みなさんともっと一緒に色んなことがしたいです」
天田が明るい声で言う。
「……だから、勝ちましょうね。絶対」
天田の言葉に、皆が力強く頷く。コロマルも吠えるように鳴いてその想いに応える。やっぱり、僕は皆に支えられて今を生きている。きっともう何にも負けない。負けてたまるか。僕は改めて決意と闘志を胸にした。
窓の外では、夕焼けが僕達の想いに呼応するように眩しく燃えていた。