腐食の魔女3 白砂の国の港町。その住宅街の隅で夜にひっそりと看板を掲げる喫茶店がある。
営業日は満月から下限の月までの毎晩と雨の夜だけ。入口を開けるとショケースに数種類のケーキが並べられ、飲み物は紅茶とハーブティーのみ。コーヒーは眠れなくなるからと置いていない。
黒縁メガネをかけた緑髪の青年がマスターで穏やかに客を迎え入れる。オーダーを取る以外積極的に話しかけることはなく、食器や茶器を手入れして過ごしている。日替わりのケーキはどれも絶品でマスターが勧めるお茶と合わせれば、口の中に広がる甘みと一緒に疲労まで融けていきそうだ。仕事や学業に疲れた人たちがふらりとやってきては帰っていく、一本の蝋燭の上で揺らめくあかりのような店。マスターが魔法使いであることを知るのは、一握りの人魚たちのみである。
数百年暮らした住まいを引っ越して、白砂の国やってきたトレイは、モストロラウンジと契約してジャムやコンポートの納品をしている。支配人のアズールとジェイドの兄弟のフロイドは試食して太鼓判を押し、客の評価も上々らしい。
一度働き始めると空いた時間を持て余すもので、納品とレシピ開発だけでは物足りなくなったトレイは報酬を使って自分の店を開きたいと言った。アズールは真っ青な顔で数日事務所に引きこもり、山のような利害関係確認書類をトレイに差し出した。
『あなたが稼いだお金をどう使うかは自由です。しかし、モストロラウンジと利益相反を起こすようなことは絶対にしないでください……あなたの首を切りたくはないので』
あくまで暇つぶしの店だから商売の邪魔をするつもりはないと言ったのだが、アズールは口から墨を吐きそうな勢いでまくし立てていたし、フロイドは床で笑い転げていて、ジェイドは二人の目を盗んで賄いのリゾットにキノコを入れていた。
魔導書よりも分厚い契約書にサインをして開いた店は用地買収も店の建築、内装から普段仕入れる食材まで全てモストロラウンジが監修している。実質的にモストロラウンジの傘下のようなものだが、トレイの趣味の店なので利益はほとんど出ていない。
「こんにちは、トレイさん。今日の配達分です」
裏口からコンテナを運び入れるジェイドをトレイが迎え入れる。二つのフードコンテナをキッチンに運びこんだジェイドは納品書をトレイに差し出す。
「いつもありがとうな……前にも言ったがジェイドが届けに来なくていいんだぞ? 副支配人だから忙しいだろ」
日によって数はまちまちだが、ジェイドはかなり頻繁に納品にやってきている。どんな重い荷物でも一人で淡々と運んでくるので、近所のマダムが長身細身で怪力の『すらりマッチョさん』とあだ名を付けている。
「トレイさんの店に納品にくる権利をアズールからもぎ取ったのでお構いなく。従業員への福利厚生の一環と押し通しました」
頬を上気させ小さく微笑むジェイドをトレイは呆れ顔で見ていた。
「相変わらずだな」
初対面から食えない男だと思ったが、本当にどこまでもひねくれている。ジェイドはトレイの店に納品に来ると、勝手に紅茶を入れて世間話をしてから帰っていく。
トレイがジェイドを歓迎したことは一度もない。納品書にサインをしたら早々に帰ってくれて構わないのだが、歓迎されなくても勝手に居座るあたりがふてぶてしいと言うか、肝が太いと言うか。ジェイド・リーチという男は好奇心の権化のようなもので、物珍しい魔法使いの観察がすっかり気に入ったようなのだ。
「今日は珍しい茶葉が入ったので、一緒にいかがです?」
黄色の紅茶缶をトレイの前に差し出すと、ジェイドはティータイムの準備を始める。
「断ったところで勝手に淹れて飲むじゃないか」
トレイの店の食器の場所もキッチンもすべて把握している男はさっさとケトルをコンロにかけている。
「まったく……クッキーくらい出してやる」
「おやおや、今日はお優しいですね」
トレイは言ったことはないが、ジェイドが持ってくる茶葉にはずれはないのだ。だから店から追い出さないのだと自分に言い聞かせている。ジェイドに知られれば面白おかしく、丁寧な口調でつつき回って喜ぶに違いない。
「ただいま戻りました」
支配人室のドアから入って来たジェイドが覚束ない足取りでソファに座った。糸が切れたようにだらしなく寝そべって深いため息を吐く。ジェイドの顔色を確認してアズールが帳面をめくる。
「まったく、納品の度に青くなったり赤くなったり騒がしいですよ」
「ミイラ取りがミイラになる、だっけ? 陸のことわざ覚えたんだよね」
フロイドはジェイドと反対側のソファに寝転がっている。投げ出した足をブラブラ揺らしているので時々アズールが使っているテーブルに当たるのだ。そもそもソファは座るもので寝る為に設置した訳ではないが、ゆったりと長めに作られているため、二メートル近い男も寝そべることが可能になってしまった。
「シンプルに自爆で良いのでは?」
「さんせー! っていうか、アズールがジェイドをお使いに出してからおかしくなっちゃんじゃない? やたら山に登りたがるしキノコ拾ってくるし、あげくウミガメ君に入れあげちゃってさあ」
「業務に差しさわりなければ構いませんよ……視界に入ると大変煩わしいですが、仕事をきっちりこなすせいで注意する隙がない」
人材スカウトに出した部下がなぜかスカウトした人間(正確には魔法使い)にべた惚れしてしまった。陸に上がる前から知る仲だが、ジェイドが恋愛に情熱を注いだ姿は見たことがない。思い付きと好奇心が渦潮のように荒れ狂っている男で好奇心を満たすための相手で遊ぶことはあっても、恋愛関係に持ち込もうとすることは珍しい。
「何ですか、二人とも。恋する人魚を邪険に扱って。応援しようという気持ちはないのですか?」
ジェイドはトレイにちょっかいを出して、突いて遊んだら離れるつもりだったのだ。ラウンジに招いて仕事をしていても、ちっとも飽きなくて素敵なおもちゃを見つけたと喜んでいたのに。トレイの内面をかき乱して、きゃらきゃら遊ぼうとしたら、ふと笑った時の顔だとか遠くを見つめてぼんやりする立ち姿を見てしまって。中身の色合いと歪な形を人間の形に押し込めているのがあまりに美しくて、欲しくなってしまった。
気が付いたらトレイを振り向かせるためマメに顔を出す、健気な人魚の出来上がりだ。
「するだけ無駄じゃん?」
「酷いです、シクシク」
「ジェイド、トレイさんの店の次回の納品リストを送ってください」
ジェイドは泣きまねしながらスマホでリストを送った。トレイの店からの帰り道に次回納品分のリストを完成させるほど仕事熱心なのは、なるべく早くトレイのところに行くためだ。私利私欲で全力稼働するジェイドは入れあげた相手に軽くあしらわれるばかり。
「しばらくうるさそうですね」
視界は特に影響を受けそうだ。アズールは帳面をしまって部屋を離れた。
* * *
丘と緩やかな川が流れる小さな村で魔法使いの卵を見つけた時、俺は久しぶりに浮かれていた。数百年、運がなければ千年に一度しか会えない同族の気配。俺は魔法使いとしては新入りで自分より若い魔法使いを見つけたのは初めてだった。
魔法使いの卵、リドルは妖精のチェンジリングだった。親と違う赤毛のせいで疎まれ、母親は村人から不貞を疑われて特にリドルに厳しく接していた。気まぐれで人間と取り替えられた子供だから両親どちらとも血が繋がっていない。なんの運命かリドルは魔法使いの素質を持っていた。ややこしい出自を持つが、真面目なあの子ならきっといい魔法使いになれる。両親に認め貰おうと勉強にはげみ、薬師の両親のために薬草集めや家事をこなすリドルを遠くから見守っていた。彼がどんなに努力しても両親は愛情を注いでやらない。涙をこらえて歯を食いしばり生きているリドルを励ましてやりたいと思った。
「初めまして赤毛の子」
「……あなたは?」
見上げる目はまっすぐで瞬きする度にかすかな魔力がふわりと漂う。目線を合わせる為に少し屈んで彼にカゴの中を見せた。
「俺はトレイ。旅をしながら薬を作っているんだ。ここらへんで良い薬草が取れると聞いたんだけど……知っているかな?」
人に頼られたのは初めてだったのだろう。リドルは右手を差し出してはにかんだ。
「僕はリドルだよ。あっちで星の花が咲いているのを見た。花弁を干して砕くと熱さましの薬になるはずだ」
「ありがとう。リドルはとても物知りなんだな」
助かるよ、と握手をするとリドルは口をもぞもぞとさせた。今まで褒められたことも感謝されたこともないのだ。俺は薬草取りに来たリドルに話しかけて少しずつ距離を縮めた。そしてリドルが一度もお菓子を食べたことがないと知った。年に一度のお祭りで出されるエッグタルトもリンゴのパイもリドルは分けて貰えないという。
俺はリドルのためにイチゴのタルトを作った。
「ありがとう、トレイ。こんなごちそう生まれて初めてだ」
初めての甘いものにリドルは夢中になった。俺は紅茶のおかわりを出してリドルと沢山話をして、彼の寂しさを埋めようとした。気が付いた時には夕日が山に隠れてしまうところだった。
タルトのせいで門限に遅れたリドルは両親から家を追い出され、大声で泣き出した。張り裂けそうな悲しみと共に魔力が溢れ、取り替え子が魔法使いであることが妖精に知れ渡った。同族の魔法使いを大切にする妖精たちはリドルの扱いを知るや激怒して、人間たちの土地を呪い不毛の大地に変えた。
「僕はもう行くよ。短い間だったけど世話になったね」
廃墟になった家の前でリドルが泣きはらした目を細めた。チェンジリングの魔法使い。血のつながらない人間の両親。突然連れ戻しに来て村を滅ぼしてしまった妖精たち。あまりにも多くのことが一度に起こってリドルは溺れる寸前だっただろう。だけと彼は背筋を伸ばし、腫れぼったくなった目元をぬぐうと笑みを浮かべた。
「僕は妖精たちと国に帰らなければならない。人間と妖精の隔たりはあまりにも大きい……こんなことが起こらないように境界線を引いていくよ」
両手を地面に翳してリドルが目を閉じた。たちまち地面から茨が芽吹き一直線に広がっていく。枝を伸ばし葉を広げ、深紅の薔薇の花がいくつも咲き誇る。妖精郷との人間の領域を隔てる枯れずの赤い薔薇を生み出すと、リドルはトレイを振り返った。
「トレイ、イチゴのタルトをありがとう。僕が初めて食べた一番のごちそうをありがとう。迷惑でなければ時々こちら側からバラの様子をみてやってくれないか」
「リドル……俺は」
お前に感謝されるようなことは何もしていないんだ、ということは出来なかった。滅多に生まれない魔法使いが生まれたのが嬉しくて、早く仲良くなろうと勝手に行動したせいないんだ。俺はお前の複雑な事情を全て知っていたのに、少しずつ受け止められるよう導いてやらなければならなかったのに、自分ひとりで抱える寂しさに耐え切れなかった。
「お前の幸せを願っているよ」
すべてぶち壊してしまった立場で言える言葉じゃない。イチゴのタルトを渡さなければよかった、もっと早く家に帰るよう促していれば、リドルが大人になるまで会わなければよかった。
罪を犯したのは俺だ。
リドルが妖精郷に足を踏み出すと薔薇の枝が彼の姿をすっぽり覆い隠してしまう。残り火が燻る壊れた家と人間の死体を大輪を咲かせた薔薇たちが見下ろしていた。
* * *
「こんにちわぁ、お届けものでぇーす」
間延びした声と共にフロイドが台車を押してくる。ジェイドが来るときはなぜか担いでくる小麦の袋が三つ、台車の上に重ねられていた。
「……ジェイドじゃないのか」
扉を開けたトレイが少しだけ寂し気に見えたので、フロイドは屈んで目線を合わせる。
「フロイド?」
ジェイドと色の入れ替わった目がじっと自分を見つめている。
「ウミガメ君、ジェイドが来なくて寂しい?」
「いや、別に」
即答だった。フロイドは呼吸四つぶんトレイの顔を見つめて、感情が少しも振れていないのを確認した。
「ジェイドが顔を出さないのは珍しいから、あいつが何か企んでいるのかと」
寂しそうに見えたのは隠しそびれた猜疑心だったようだ。足しげく通う兄弟の成果はみじんも出ていない。
「ジェイドがどうしても外せない用事があったから代わりにお使いにきたの。配達はダルいけどジェイドがめっちゃ悔しがってたのは面白かったな。はい、重いからあとは自分でやってね」
三袋の小麦粉袋をキッチンまで運ぶとフロイドは勝手にカウンターの椅子を引いて座った。トレイが小麦粉袋に手をかざし、指を向けると袋がふわふわと浮かんで倉庫に向かった。
「疲れただろう、何か飲むか。あと昨日作ったプリンの残りがあるんだが食べるか?」
「ラッキー! プリンとウミガメくんおすすめのハーブティーがいい!」
「はいはい。ちょっと待ってくれ」
魔法でお茶の入った瓶を手元に引き寄せる。残り少ないカモミールティーの蓋を開けるとフロイドはむくれた声を上げる。
「それ、店で出してる残りものじゃん。俺はオキャクサマじゃねえの」
「お客様は営業時間内に金銭を払って飲食していく人だけだよ」
「ウミガメ君のケチ」
文句を言いながらフロイドは勝手にキッチンを漁ってプリンとスプーンを持ってきた。店のテーブル席に座ると勝手に食べ始める。
モストロラウンジの人魚達は個性的な者ばかりだ。トレイが会ったどの人間よりも自尊心が高く、気まぐれで、欲望を隠さない。
「……君たちは自分をしっかり持っているから安心して付き合うことが出来るよ」
トレイはフロイドの前にティーカップを置いた。
「はあ? 人間と一緒にすんなよ。イワシの群れみたいにうじゃうじゃして……そうやって陸の上で増えまくってるから人間の特長? なんだろうけど、人魚はそうじゃない」
「うん、そうだよな。人魚はそうじゃない」
ティーカップを持ってトレイが目を細める。人間の理を外れてしまった自分には、人間とは違う理を生きる彼らが心地よい。ぬるま湯に足を浸す幸せを感じながら、その幸せを恐れる自分がいる。穏やかな日々を過ごし真綿で首を絞める息苦しさはを感じるのは誂えたようにぴったりだった。
「ジェイドも早く面白いことを見つければいいのに」
身動き出なくなったつまらない男を突きまわすより楽しいことは沢山あるだろうに。
フロイドはカモミールティーを口に含んで細く息を吐き出した。
「あー……先は長そう」
ジェイドのアピールは一ミリも届いていない。一切好意として受け取られていない。初めこそ好奇心で手を出しただろうジェイドはトレイに惚れ抜いているのに、彼はご覧の有様だ。多分そこが良いのだろうけど、気が付いて貰えるまで何年かかるのか。
「うん? まあ寿命は長い方だな。人魚も人間と比べるとだいぶ長生きじゃないか?」
ジェイドやフロイドたちの寿命が長いおかげでこの店は長く続けられそうだ。容姿が変わらなくても、人魚だと言えば六十年ほどは気にせず怪しまれないだろう。
「うん、そうだね。……ま、俺関係ないし、いっか」
フロイドは見当違いのことを呟くトレイに何も言わなかった。
トレイの作ったプリンを食べてモストロラウンジに帰った。フロイドの報告にジェイドはわななきぐったりと椅子に座り込んだ。
「トレイさんの作ったプリンを食べたんですか! それにお茶まで淹れてもらうなんて……僕は一度も出して貰ったことがないのに」
「えー……残り物の処理手伝っただけだけど」
フロイドの気だるげな態度と口調がジェイドの嫉妬心に火をつけた。とりあえず脳震盪を狙おうとワインの瓶をかち割って武器にすると青筋を立てたフロイドが椅子を投げ飛ばす。そこから店内の端から端まで乱闘会場になるのは早かった。
「うるさいぞ! 外でやれ!!!」
破壊音を聞きつけたアズールは渾身の力で二人の人魚を外に投げ飛ばした。窓ガラスが派手に割れ、数メートルの高さに浮き上がった人魚達はきれいな放物線を描いて店の前の海に落ちて行った。オーシャンビューが売りのモストロラウンジが道路を挟んですぐに港が広がっているのだ。派手な水柱に散らばるガラス片。アズールは自分がしでかしたことに頭を抱えたが、すぐに切り替えてトレイに電話をかけた。稼いだ金には必要な仕事をしてもらうべきだ。
モストロラウンジは臨時休業になり、翌日にはまるで『魔法』のようにきれいになった店で営業を再開した。