憧れと後悔「はぁっ!」
ほんの少し早く目が覚め、朝食に向かうまで散歩しようかなと中庭へ足を向けた晶は、ふと立ち止まった。勢いよく何かを振り下ろす音と、気迫の込められた声は、早朝の寒さなどものともせずに繰り返される。
(この声は…カイン?)
中央の国の騎士として、そして賢者の魔法使いとして、晶の手を真っ先に取った男。
立ち去るのも忍びなく、声のする方へと足を向けると、予想通り、カインが居た。
(うわぁ、これはモテる…)
薄着のランニングシャツのような物を着ていて寒々しく感じるはずなのに、肌を伝う汗がそれを否定する。晶は剣術のことは、からきしだ。けれども彼の動きが、剣を向ける先が、立ち姿全てが、晶の目を引きつけて止まない。
武術の事は全く分からないけれど、こうして日々続けている鍛錬が、彼の強さの源なのだと実感する。
パキンッと、晶の足元から音がした。
(あっ。)
「誰だ?」
落ちていた小枝を踏んづけたらしい。晶からすればほんの僅かな物音でも、カインに聞こえないはずがなかった。せっかくの鍛錬を邪魔してしまった申し訳なさやらで、晶は恐る恐る声を掛ける。
「ご、ごめんなさい、カイン。邪魔するつもりじゃなかったんですけど…。」
「その声は、賢者様か?待ってくれ。」
カインは木に掛けてあったタオルで手早く汗を拭くと、晶を探しながら手を伸ばす。晶も慌ててその手に触れると、ようやく色違いの瞳が晶と重なった。
「おはよう、晶。今日は早起きだな。」
「なんだか目が覚めてしまって。朝食まで散歩しようかなと思って来たんですけど、カインの声が聞こえたんです。思わず見惚れてしまいました。」
「そんなに大した事はしてないさ。これくらい、騎士団の連中なら全員できるだろうしな。」
「俺は剣を持つことすらできないので、それを自由自在に扱っているカインは十分すごいですよ。」
「ありがとう。あんたに褒められるのは、嬉しいよ。」
晶の賞賛の言葉に、カインは素直に喜んでいた。邪気のない朗らかな笑みが、心地よい。卑下する事も謙遜する事もなく、かと言って過信する事もない。彼が団長として率いていた姿を見る事はもう出来ないだろうけど、それでもその姿を一目見たいと晶は思う。
「やっぱり、筋力と体力が足りないのかな…。俺も頑張らないと。」
「あんたはそのままで十分さ。前に出られたら、それこそ俺達の仕事がなくなる。」
「でも、いざという時に、せめて自分の身は守れるようにしないとなぁって、ここ最近思うようになったんですよね。」
賢者という役割は、この世界において重要な意味を持つ。だからと言って、必ずしも丁重に扱われるとは限らない。戦う事が出来ない以上、せめて魔法使いの皆の足を引っ張らないようにしなければならない。
真剣な顔で思い悩む晶を見てカインが、ぽんとその肩に手を置いた。
「俺としては、素直に守られていて欲しいんだがな。簡単な護身術で良ければ、教えようか?」
「ほんとですか!?」
「一つふたつ身に付いていても、損はないだろしな。俺も良い気分転換になるよ。」
「ありがとうございます、カイン!」
さっそく明日から、また同じ時間で護身術の訓練を開始することになった。騎士団長直伝の訓練にどこまで着いていけるか分からないが、それでも晶は胸を高鳴らせる。
そのまま食堂へ向かいながら、どんな練習メニューにするか、何を準備するかを二人で事細かに話し合った。
♢
「さて、これから訓練を始めるわけだが。」
「はい、先生!」
「よしてくれよ、ただの練習だ。」
照れたように頬を掻くカインに、晶が勢いよく返事をする。動きやすい服をと考えていたのだが、生憎手持ちにはなかったため、カインの予備の練習着を借りた。練習着はそれぞれ各国の特色合わせて作られているため、今この時だけは、まるで自分が中央の国の生徒になったような気分だ。
先生役は、もちろんカインである。
「訓練の前に、まずは教えておく事がある。いいか、晶。俺が教えるのは、あくまで"護身術"だ。決して、敵に向かって戦いに行く為のものじゃない。晶が、晶を守る為に、使ってほしい。」
「大丈夫ですよ。無鉄砲に、誰彼構わず向かっていくような事はしません。」
「もちろん、あんたが所構わず喧嘩を売るような真似はしないと思ってるよ。そうじゃなくて、力を覚えると、出来なかった事が出来るようになる。例えば今のあんたは、敵に捕まったらどうする?」
突然投げかけられた問いに、晶は首を傾げる。
「抵抗せず、大人しくしてると思います。」
「それが正解だ。もちろん、状況によるだろうけどな。じゃあ俺が晶に、縄の抜け方、武器の調達の仕方、敵を気絶させる方法を教えたら?」
そこで一旦、カインは言葉を切る。
左右の異なる色彩が、まっすぐ晶を捉えていた。
「あんたはきっと、大人しく待つことはしない。縄を抜け、武器を調達し、敵を気絶させようとする。それが成功すればもちろん良いが、失敗したら悲惨な結末が待っている。俺はそんな事になるくらいなら、教えない方がマシだと思う。」
「…カインの言いたい事は、何となく分かりました。」
力の使い方を、間違えるなという事だろう。彼は本当に、晶の事を考えて言ってくれている。
中途半端な付け焼き刃で、敵に立ち向かうのは、愚の骨頂だ。下手に逆らう方が、痛い目を見る。
勇気と無謀は紙一重、とはよく言ったものだ。
「絶対に無茶をしない、無理をしないと言ってくれ。あんたに何かあったら、俺は死んでも死に切れない。」
真摯な言葉に、自然と頷いた。
それを見たカインは柔らかな笑みを浮かべたと思いきや、一転して空気が切り替わる。
「じゃあ、まずは関節の外し方からだ。」
「めちゃくちゃ実戦的じゃないですか。」
もっとこう、重心の動かし方とか、何だったら体力トレーニングから開始だと思っていた。
(ハードルが高すぎる。絶対に痛い。)
晶の不安と恐怖を如実に読み取ったのか、カインはさらに爽やかな笑みを向ける。
「大丈夫だ。俺は外されるの慣れてるから、遠慮なくやってくれ!」
「余計に嫌ですよ!?」
♢
訓練を始めてから、1ヶ月が経った。
当初は数分で体力が尽き、悲鳴を上げることもあったが、今では一通りの練習メニューをこなす事ができている。と言っても、あくまで基礎体力が向上しただけで、実戦には程遠い。
「…はぁ、はぁ。えい!」
「お、今のは良い。もう少し重心を下げて。」
晶がぜいぜい息を吐きながら、カインの腕を掴む。そのまま引こうとして、同時に足払いをかけた。
「…お!良いフェイントだぜ。」
だがもちろん、一般人の晶の脚力では、カインの足を払うことなんてできなかった。代わりにふわりと宙に浮いたかと思えば、くるりと晶の体は簡単に一回転して、地面に優しく下ろされた。
「俺とそんなに身長変わらないのに…」
「まぁ、鍛えてるからな。賢者様くらいの重さだったら、背負って魔法舎の周りを10周くらいできる。」
同じ男としてのプライドがちょっとだけ傷付きながらも、晶はそのまま芝生に身を投げ出した。こんなにも息が上がっている晶とは対照的に、カインは息一つ乱れていない。
朝陽が眩しく照らす中で、時折吹く風が心地よい。ふと気がつくと、とても美味しそうな匂いが漂っている。このまま昼寝したら気持ちいいだろうな、と疲労を訴える体を叱咤して、晶はカインに手を借りてゆっくり起きた。
「ありがとうございました、カイン。」
「お疲れ様、汗拭いて朝食に行こうぜ。」
「カインはこれから依頼ですよね。ちょっと手がかかりそうだとスノウとホワイトが言っていました。気をつけて下さいね。」
「もちろん、気を引き締めて行くさ。あんたも今日はどこか行くのか?」
「はい、ちょっと街に行こうかと。」
「……一人で?」
カインがふと、立ち止まった。晶もそれに釣られて、立ち止まる。
何か変な事を言っただろうか。今日は賢者としての仕事は、一応休みの予定だ。もちろん緊急の依頼や事案があれば、都度対応するつもりだが、今のところ落ち着いている。
疑問に思う晶を他所に、カインはどこか考え込むような表情を見せた。
「うーん、誰か一緒の方がいいんじゃないか?ほら、あんたを狙う輩だって、いないとも限らない。」
「あはは、大丈夫ですよ。明るいうちに行って帰ってきますし、ちょっと気分転換しようかなってだけなので。」
晶が頼めば、誰かしら一緒に行ってくれるだろうが、プライベートにわざわざ付き合わせるのも申し訳ない。そう考えて、晶はカインの提案を固辞した。
「…そうか。まぁ、暗くならないうちに帰ってきてくれよ。」
そう言ってぽん、と軽く晶の肩を叩いた時に、カインが何か呟いた気がした。
「ん?カイン、今何か…?」
「何でもないさ。ほら、着いたぞ。」
話しているうちに、食堂に辿り着く。焼きたてのパンに、熱々のスープ、彩り豊かなサラダと食欲をそそるには十分すぎるメニューに、晶達はいそいそとテーブルに向かった。
♢
そうしてカインと話したのが、つい数時間前の出来事で。
久しぶりの休日を楽しもうと街へ繰り出した晶は、すぐに一人で来た事を後悔した。
「おら、全員動くな!有金を出しやがれ!」
「ひっく、お母さん…!」
「きゃあ!」
小さな個人店が立ち並ぶとある雑貨屋に、不似合いの怒鳴り声が響く。続いて女の子の泣き叫ぶ声、女性の悲鳴も相まって、晶を含む店内にいた数名の客は何事かと振り向いた。
見るとレジ近くの店員に対して、やたらと体格の良い男が女の子を片手に抱き抱え、刃物をチラつかせている。
先程まで賑やかな談笑で満たされていた空間は、あっという間に騒然とした空気に包まれた。
「早くしろ!こいつがどうなってもいいのか!?」
「は、はい…!」
再び凄まれた店員は、慌ててレジの操作を始める。緊張か、恐怖のせいか、辿々しく見えるその動作は、男をさらに苛つかせる原因にもなったのだろう。男は近くの棚を乱暴に蹴り倒すと、店内をゆっくりと見渡した。
「チッ、さっさとしろよ…!ガキも騒ぐんじゃねぇ!」
「ひっ…!」
「お願い、その子を離して…!」
女の子は、まだ5歳にも満たないくらい幼い子だった。近くに母親と思われる女性が、男から奪い返そうとする。
男は躊躇いもなく、その女性の腹を蹴り飛ばした。
「なっ…!?」
「おい、大丈夫か!?」
晶は思わず、駆け寄った。晶だけでなく、店内にいた残りの数名の客が、女性を慌てて助け起こす。息はあるものの、意識がない。表面上損傷が無いとはいえ、内部への影響は不明だ。
元の世界では当たり前のように身近にあった連絡手段が、今は恋しい。タップ一つで救急車も警察も呼べるし、監視カメラで跡を追える。
だが現実は変わらず異世界のままであり、晶のそばには誰もいない。
あの女の子を救うには、どうしたら。
「動くなと言っただろう!見せしめに、何人か殺っておくか?」
「…待ってください。人質にするんだったら、俺にしてください。」
絞り出した声は、震えていた。頼れる人はいない。武器になるようなものもない。
八方塞がりとも言えるような状況で、晶は躊躇いなく身代わりの人質を名乗り出た。
男は震える晶を見て、優越感が増したのだろう。あるいは泣き叫ぶ女の子の扱いに、面倒さを感じたのかもしれない。
いずれにしろ、男は口笛を吹いて晶の申し出を歓迎した。
「はは、勇ましいな。おら、手をあげて大人しく来い。少しでも妙な動きを見せたら、ガキを切り裂く。いいな?」
「……はい。」
一歩、二歩と進む度に、まるで死刑囚にでもなったような気分に襲われる。実際に犯罪行為をしているのは、あの男なのに。
今の晶は無力だ。
「きました。女の子を離してください。」
「…ふん。ほら行け。」
「お、お母さん…!」
転びそうになりながらも、ようやく女の子は母親の元へと辿り着く。それを見届けようとするも、グイッと乱暴に首を掴まれ、晶は背中から倒れ込むようにして、床に叩きつけられた。
「がはッ…!」
「英雄にでもなったつもりか?偽善者ぶるのも大概にしろよ、良い子ちゃんが。」
冷たい刃が、ひたりと首筋に触れた。肌に食い込む感触が、嫌でも分かる。
本能的に、強い恐怖が晶を襲った。
『床に伏せられた時は、自分の両手を使って相手の腕を挟み込む』
ふとカインの護身術講座が、思い起こされた。
『組んだ両手を支点に、外側から相手の腕を挟むんだ』
あの時のカインは、晶の首に軽く触れるだけだったけど、奇しくも今の状況は既に履修済みだった。
落ち着いて、タイミングを間違えないように、慎重に。
「おい店員!金は…」
(…今だ!)
男の目が晶から逸れた一瞬の隙を狙って、晶は思いっきり男の両腕を外側から挟んだ。刃物が少し肌に食い込んだような気がするけれど、不思議と痛みは感じない。むしろそんな事はどうでも良い。
絶好のチャンスを、逃す訳にはいかなかった。
突然反撃に出た晶に、男は一瞬反応が遅れた。
『自分の膝を立てて、相手のバランスを崩したら』
優しいカインの声で、講義の内容が思い出される。こんなにも早く役立てる事になるとは、お互い思っていなかっただろう。
晶に馬乗りになっていた男は、お手本のように体勢を崩した。
『そのまま横向けて逃げ出すんだ』
寝返りを打つようにして、晶は男の身を投げ出した。ドシン、と意外にも重量ある音を響かせ、男は床に転がる。
(や、やった…!)
決して倒したわけではない。それでも達成感に満ち溢れるのは、仕方ない。だからそれが、晶の油断に繋がった。
「て、てめぇ…!」
「ひっ…!」
男の目には、憤怒の感情が表れていた。
弱者と見做していた相手に、コケにされた事。それが男のささやかなプライドを、逆撫でしたのだ。
床に落ちた刃物を拾い、男は完全に晶を獲物として捉える。店内にいる人達は、あまりの恐怖に誰も動けない。
いくらなんでも刃物を振り回す相手に、素手で渡り合うことなんてできない。
(ここまでか…)
恐怖と諦めが支配した、その瞬間。
「晶…!」
聞きたかった優しい声が、晶を呼んだ。
それは何度も聞いた、温かい声で。
振り向いた時には既に、カインは晶を背後に庇っていた。
「晶、どこに誰が何人いるか教えてくれ。」
厄災の影響で、触れるまで他者を認識できない彼にとって、今の状況は不利だ。小声で囁くカインに対し、晶も不安や動揺を押し殺して教える。
「カインの真正面、壁掛け時計の真下に男が一人です。」
晶の情報を聞くや否や、カインは大きく剣を振り被った。狭い店内で振り回すには圧倒的に不利な武器であるけれど、目的はそれではない。
剣に動揺した男は慌てて数歩、横にずれる。
その足音から、距離や場所を予測したカインは、思いっきり男の身体を突き飛ばした。
「ほら、来いよ。俺が相手をしてやるからさ。」
そこからは、まさしくカインの独壇場だった。所詮は古悪党の域を出ない男は、実践経験の豊富なカインに適うはずもない。
あっという間に制圧したかと思うと、狙いすましたかのように衛兵達がなだれ込んできた。
「カ、カイン、どうして…?」
「まぁ、待ってくれ。その前に。」
そっと晶の首筋に触れた彼は、その端正な顔を歪ませる。それを見て、晶はようやく怪我を思い出した。
男を投げ飛ばした時には無我夢中だったせいか、気付かなかった。むしろ今の今まで忘れていた。
「大した怪我じゃないですよ。このくらい、皆さんが普段しているのに比べれば。それよりカインに教えてもらったおかげで…」
「大した怪我だ。痛みも傷も、無かった事になんてできないんだ。頼むから、慣れないでくれ。」
触れられた所から、じんわりと痛みが広がる。
カインの言葉を聞いて、晶はようやく気付いた。
自分の軽率な行動が、カインにこんな顔をさせたのだと。護身術を教えてもらって、それが役に立って、舞い上がっていたのだと。
「…今では、あんたに教えた事を後悔してる。」
皆を守るために、ただひたすら鍛錬しているカインに、晶は憧れていた。
その隣に並ぶことはできなくとも、同じ時間を共有できることが嬉しかった。
けれどもうその時間は、二度とないのだろう。
苦痛に苛まれるカインを前にして、晶はただ、立ち竦んでいた。