欠片集めの行く末 どこか俯瞰して見ているような、不思議な人という印象だった。優しく大らかな人が多い南の国らしく、誰とでも手を取り合って話すことができる人。でも北の生まれらしく、ちょっとずれた倫理観も併せ持っていて――あの時握った手の冷たさは、まだ覚えている。
「考え事?賢者様。」
「…いいえ。この紅茶、美味しいなって。」
「それは良かった。ルチルが薦めてくれた甲斐があったな。」
満ちた月が、夜空を輝かんばかりに照らしている。日付の変わる間近、ひっそりと開かれた小さなお茶会。不定期に開催されていたそれは、いつの間にか満月の夜に固定されるようになった。大抵はフィガロが飲み物を用意してくれているが、たまに任務先などで見つけた茶葉などを晶が持参する事もある。
「実はこの紅茶、面白い効果があってね。」
「え?面白い効果?」
「そう。飲んだら目の前の人に愛の告白をする。」
「……。」
チク、タク、と秒針の刻む音が、妙に響いた。フィガロの言葉に動揺しなかったかと言うと嘘にはなるが、意外にも晶は落ち着いていた。相対するフィガロが、面白半分や冗談で揶揄うようには見えなかったからかもしれない。
いや、それは間違ってはいないが、正しくも無い。
晶は咄嗟に、こう考えてしまったのだ。
―フィガロがそんな、非合理的な事をするだろうか。
良くも悪くも、それほど短くない月日の関わりが、そうさせた。
晶をじっくり観察するかのように、榛色の瞳が瞬く。
自分は彼に、何を求められているのだろう。選択肢を誤ってはいけないような緊張感が、顔を覗かせる。
「……そうですか。」
結局口から出たのは、ただの相槌だった。カップを戻すと、ふう、と息を吐く。
「何だ、驚いてくれるかと思ったのに。」
「期待外れですみません。でもなんだか、あなたがそんな事をするかなって。」
「へぇ。賢者様は、俺の事分かってるような感じだね。」
「…いいえ。分かっているのは、あなたが俺に見せてもいいと思った部分だけですよ。そのくらいで分かったつもりになるなんて、そこまで傲慢じゃないつもりです。」
そう答えると、フィガロが愉快そうに笑った。
「そう?俺は嬉しいよ。それに、俺の事分かろうとしてくれる賢者様は、気になってる。」
「またそんなこと言って…。結局、愛の告白とやらは嘘ですか?」
「もちろん、嘘だよ。最近疲れてる賢者様に、肩の力を抜いてほしくて。」
そう答えたフィガロは、空いた晶のカップに再び紅茶を注いだ。ふわりと花の香を思わせるようなそれは、固まった空気を柔らかく解していくようだった。
「でも、賢者様の愛の告白を聞きたかったのは本当。」
「なら、おしゃべりローズを入れるのが正解でしたね。」
口に入れたら愛を囁かずにはいられないという、不思議な食べ物。フィガロの言葉を額面通りに受け取るならば、それを晶の紅茶に入れればいい。
晶の答えに、フィガロは軽快に笑って答える。
「あはは、確かに。でもそんな物の所為じゃなくて、君の言葉で、愛を知りたいと思ったのかな。」
「…愛、ですか?」
「そう、愛。」
晶よりもうんと長生きしていて経験豊富な彼が、唐突に尋ねたその内容に、晶が幾分眉を顰めてしまったのは致し方ないだろう。だがそれと同時に、納得もしていた。
彼はまだ、探し物をしている。
永遠にも等しかった時間の中で、彼は答えを探している。
(愛…って何だろう…。)
「賢者様にとって、愛ってどんなもの?」
うーん、と悩み始めた晶を見るフィガロは、どこか冷めた眼をしていた。
長い月日の中で、色々な人と、その『唯一』が紡ぐ愛を見てきた。一つとして同じ展開や結末を辿るものはなかったけれど、他者の演じる愛を心から理解しきれているとは思えない。客観的に見て、こうすれば良いのに、ああすれば効率が良いのにと知識や経験ばかりが蓄積していく。
愛とは何かを犠牲にするもの、あるいは代償にするもの。優しく接すること、時には厳しくすること。その人だけが輝いて見えて、その人を失うと死にも等しい悲しみと辛さが生じること。
言葉で表すと、こんな感じだろうか。晶はどんな表現をするのだろう。
冷めたようでいて、どこか期待している部分もあった自分に多少驚いた。対面に座る晶をふと見ると、夜空色の瞳がフィガロを正面に捉えていた。
「フィガロ。」
「ん?」
人好きのするような笑みを浮かべて、フィガロは返事をする。晶はただ、じっとフィガロを見つめて口を開いた。
「月が、綺麗ですね。」
「……え?」
まるで大切な秘密を打ち明けるような、内緒話めいたそれは、すぐに宙へと溶けてしまった。驚きに固まったフィガロを見て、晶は可笑しそうに笑う。
「俺の故郷で、昔流行った愛の告白ですよ。さる著名人が異国の言葉をお洒落に訳したそうです。もっとも、これは俗説らしいですけど。」
「へぇ。確かに、この世界では絶対に表現されないような言葉だね。厄災そのものを、愛に見立てるなんて。」
「うーん…。愛に見立てているわけではないですが、結局のところ正解はないと思います。」
「人それぞれだから?」
先手を打つようなフィガロの問いかけに、晶はゆるりと首を振る。
「いいえ。多分誰もが誰かに、『好き』という欠片を持っているんじゃないでしょうか。親愛も友愛も、恋愛も含めて。それらの欠片を集めていって、初めて愛になる気がします。」
「つまりその欠片の集大成が、愛?」
「きっと。だから人によって欠片の量は違うし、欠片の形そのものが違います。レノックスがファウストを400年探した事も、オズがアーサーを育てた9年間も、比較できるものじゃないでしょう?」
晶自身が自分の言葉を咀嚼するかのように、ゆっくりと丁寧に紡いでいく。紅茶から立ち昇る湯気はとっくに消えていたが、カップに映る月は変わらずそこに在った。
「だからきっと、フィガロの中にも、たくさん欠片はあります。あなたが気づいていないだけで、実は溢れているのかも。」
「……そうかな。」
だったらどうして、自分はこんなにも満たされていないのだろうかとフィガロは言外に問う。例え晶の言う欠片を手にしていたとしても、それを満たすための器である心が、渇いて、飢えて、凍りついてしまったら。零した欠片に気づく事なく、ただ淡々と機械的に集めている姿は滑稽だ。
「すみません、俺にもまだ、よく分からないです。たった10年、20年生きただけの人間が、貴方に答えを出せるようなものじゃない。」
カップから離した晶の手が、そっとフィガロの頬に添えられる。温いそれは柔らかく、触れられた肌から熱が伝わった。薄っぺらい言葉で誤魔化すことも出来ただろうに、真面目な晶はそうしない。
―そこが、彼の良いところだけど。
いつでも、誰にでも誠実な賢者様。その彼が、今だけでもフィガロのために悩んで、フィガロだけを見てくれるこの時間。これもまた、『好き』の欠片だろうか。
「でも、フィガロがいつか、『好き』を集めて『愛』に育てられたらいいなと願っています。」
「そこは、君が一緒に見つけてくれる流れじゃないの?」
「俺もそうしたいですけど、約束はできませんから。不誠実なことは、言いたくないです。」
「あーあ。君って、優しいね。いっそ残酷なくらい。」
足を組み直し、いじけた様にフィガロが言うと、晶は予想通りに困った様な笑みを浮かべた。それがどこか、淡雪の様な儚さを思わせて――彼の存在がひと時のものであることを、どうしようもなく実感させた。
♢
空を埋め尽くさんとばかりに大きな、満月の夜だった。星々は月の光に霞み、世紀の終末をも思わせる厄災の襲来。半数近い魔法使いが犠牲となった痛みを、苦しみを二度と味わうことのないよう、徹底的に対策と準備を練ってきた。
それが生かされたのか、あるいは去年だけが異常だったのか。限界を超えるぎりぎりまで、各々が力を出し切るその間際、ようやく忌々しい月の勢いが弱まった。そして徐々に、ゆっくりと天へとその身を浮かせ始める。
誰しもが、ほっとして、終わりを予期した。傷だらけで、泥だらけになりながらも掴んだ勝利に、笑顔を見せる。オズと手を繋いでいた晶も、緊張の滲んだ顔に笑顔を浮かべた。晶が怪我をしないよう、また四方八方に散った皆の救護ができるよう傍にいたフィガロも、ほんの少しだけ頬を緩める。
「皆さん、あともう少しで――」
そう言いかけた晶の背後で、ガチャリと扉が開いた。ミスラの空間魔法ではない、別の魔法。簡素で脆く、古い扉の奥は見えず、振り向いた晶は驚く間もなく引っ張りこまれた。
「賢者!」
繋がれたはずのオズの手は、バシンと何かに叩かれたように弾かれた。咄嗟のことに誰もが反応できず、立ち尽くす。
「賢者様‼︎」
フィガロだけが、振り払われたオズと入れ替わるようにして、晶の手を掴んだ。細くて柔らかな指は、力を込めると折れてしまいそうで加減が難しい。それでも絶対に離すわけにはいかないと、晶の身体ごと抱き寄せる。
結局は正体不明の力に適わず、二人して暗闇に堕ちていった。
♢
ほんの少しの浮遊感に体を強張らせるが、それよりも晶を包む温もりに気付いた。晶よりも少し低めな体温は、これでもかとばかりに強く抱き締めている。恐る恐る目を開くと、そこは何もない空間だった。あるのはただ、闇ばかり。
そんな中でも、不思議とフィガロの姿は見えた。陽の光も照明もないのに、まるで道標かのように。
榛色の瞳と視線が交わると、彼もまた困ったように苦笑した。
「とっさに着いてきちゃった。どこだろうね、ここ。」
「俺も突然引っ張られたので、全然分からないんですが…。」
「よく考えれば、オズを蹴っ飛ばして放り込めば良かったね。」
冗談めかしてそう言うが、彼の手が晶から離れることはない。
自惚れていいだろうか。迷子の彼に、答えを出せるだろうかと晶は思う。
「……フィガロ。俺はフィガロが来てくれて良かったです。」
「そう?優しいフィガロ先生なら、怪我しても治せるからね。」
「そうじゃなくて。」
丁寧に、染み渡るように、言葉を紡ぐ。彼が拾い損ねた、あるいは溢れてしまったものを掬い上げたいから。
「俺の『好き』も、ちゃんとフィガロの中に在ったんだなぁって実感できたので。」
そう告げると、フィガロはきょとんと動きを止めた。危機的状況にも関わらず、よりにもよって話すのが、いつかのお茶会の話の続き。
晶の示したそれを思い出し、ようやくフィガロは脱力したかのように笑った。
「あはは、君、今この状況でそれを言うの?」
「え、あ、確かに?」
あたふたと慌てる晶を見て、ようやく欠けたパズルのピースが嵌る音がした。凍ってしまった心の器はとうに溶けていて、あとは享受するだけだったのだ。
「ねぇ、賢者様。」
「はい?」
晶を抱きしめる腕の力が、さらに増す。その耳元に口を寄せると、微かな声でフィガロは尋ねた。
「これが『愛』なのか、君が決めてよ。」
選択肢を与えるようでいて、一つしか許さない。
閉ざされた世界で、誰に聞かせることもないそれは、ようやく愛を演じる当事者になれた褒美だった。