なんでもない接触だ。掌同士が重なるなど、これまでに幾度となくあった。それでも、こんなにもタイミングか重なったことは……おそらくなかったように思う。鼓動の脈打つ音が耳の裏側から強く聞こえてくる。これが彼に伝わってしまわないかが心配だ。この手の温度を期待のものだと悟られてしまわないかも。何もかもが不安の種として残り、期待の起因として浮かび上がる。イライは隣を振り向けなかった。これで、あの色違いの赤と黒の目と出会ってしまえば、自分がどうなってしまうか解らないと思ったのだ。今ですら、耳まで熱くなっているのに。
「イライ」
膠着が続いていたイライの思考に、声が飛び込んでくる。近頃耳に馴染んできた声だ。認識する度に、体温を上昇させる声。熱かった耳の皮膚がさらに熱を上げるのを自覚するのと同時、折り重なった掌にも熱を感じ、イライは思わず息を飲む。手の股に彼の指が差し入れられ、掌に指先が回って、握り込まれる。たまたま重なったと言い逃れの出来ない触れ合い。最早愛撫のようですらある手の様だ。
「イライ」
心臓の音が大きい。熱の巡る音すら聞こえるような知覚の中で、その声だけが明確に聞こえる。自らの名前がこんなにも熱情に塗れて構成されることを、どうやって今までに予想できたろう? 愛おしい声が熱をもって、自分の名を呼んでいる。その声が酷く近くに聞こえて、イライはゆっくりと、怯えるように、期待するように、隣を振り返る。思った以上に近くで赤と黒の虹彩が自分を見つめていて、また息を飲んだ。
互いの眼差しが重なり合う。手は握り込まれたまま離されない。テレビはついているのに、ここには互いの息遣いさえ聞こえるような静けさがある。イライは瞬きもせずに、恋人を見つめていた。愛おしい人を、その特異な虹彩を。まるで美しい宝物だとでもいうように、ずっと。
「っ、わ、ぁ」
くしゃ。と、乾いた音がする。視界がかくりと下がり、眼前からあれほど見詰めていた虹彩が失われる。音の発生源は自分の頭部で間違いない。というのも、これが髪を掻き乱される音だとイライは正しく認識できていた。彼と付き合うようになって不定期に与えられる愛撫のひとつだ。年下の恋人だからか、ナワーブは時折イライの頭を撫ぜる。今回は髪を搔き乱すような、少し荒々しい撫で方だ。
緊迫さえしていた空気から一転、間抜けた声を零してしまうほどの現状に、イライはきょとりと間抜けな目をしてナワーブを見る。今一度であった色違いの双眸はにんまりと微笑んで、次いで唇に口づけが落とされた。ちゅ。と、わざとリップ音が立てられるキスだ。ついばむような、可愛くて仕方ない子供に与えられるような軽いキス。その後、髪を整えるように優しく撫でて、手が離れていく。頭を撫でていた手だけでない。今の今までイライの手の甲を握り込んでいた手すら、すげなく。
「ケーキ、買ってきたんだ。そろそろ食おう」
一度、二度と瞬く。薄く色の白い皮膚が上下し、間抜けに丸まった瞳に僅かばかりの水分を与えた。それだから、イライの目は正しく映していた。隣に座るナワーブが腰を上げ、キッチンへと歩き去っていく様を。現状を。
「…………」
体温が緩慢と下がっていく。平熱へと落ちていく肌に触れる華美な下着があまりにチャチで、恥ずかしいものに思えて、イライはひとり俯いた。
(今日もダメだった)