「ナワーブな、アイツ好きな人いるらしいぜ」
グラスの中の氷が傾けられてガラガラ音を鳴らす。
失恋の音だった。
「知らなかった?」
イライ・クラークは沈黙した。それは思案の音でもあったし、悲しみの仕草でもあった。頭は冷静に現実を受け止めようとして、胸の裏側から鳴る鼓動がそれを尽く阻んだ。イライの煩雑とした内情の滲む顔に気づいまのだろう。眼前でビールを傾けた友人ことエリスが、人の良さげな顔の眉尻を下げて、人好きのする顔をしてイライを伺っている。この優しい友人に心配をかけるべきではないのか、はたまた甘えてしまうべきか。イライはたっぷり数秒悩んで前者を取った。帰来の善良さと、恋の独善が生んだ判断だった。赤い血の滴るこの傷を誰にも触られたくなかった。
「皆知らないんじゃないかな。あまりそういう話は聞かない人だから」
だから期待した。安心していた。時折少しだけ見つめては心を満たした。兵役を経た無骨な手の指先に見惚れて、森のように静かで美しい瞳に息を呑んだ。それら全てを内密に、それでいて踊るような心地で行った。楽しく、嬉しく、悲しく、落ち着かない、めくるめく素晴らしい日々。それが悲しさに塗れるなんて想像もしなかった。
大好きだった。
今も大好きなのに。
「どんな人?」
グラスを傾ける。カルーアミルクを失恋の味にしながら無理やり微笑む。
「知りたいな」
微笑みはさておき、出した言葉は事実だ。彼の好きな人を、自分の恋の日々を刺殺した相手を知りたいと思った。まるで仇を知りたがる無謀な願いだ。同時に、ひっきりなしに動悸する鼓動は知りたくないと叫んでいた。もう何も知りたくない。あの盗み見ていた目がどんな風に笑うのか、触れるときにはどんな指付きをするのか、眠るときに足は絡ませるのか、それとも抱き寄せるのか。キスをするときの顔は。どんなキスをするの? 全部が知りたかった。でも今は、もう何も知りたくない。
「それがなぁ」骨でも噛んだのだろうか。片眉を歪めてエリスは言う「わかんなくて」
「わからない?」
イライも同じように眉を歪める。血を流す心を更に串刺しにするイライの目論見は外れ、曖昧な答えばかりが残されている。聞き返す言葉に、エリスはビールのジョッキを重々しくゴトリと置いて続けた。
「好きな奴がいるってだけ教えてもらったんだ。前に。でもどんな人なのかって聞くとはぐらかされてよ」
なにそれ。どうして。イライは、そういった言葉を紡ごうとした。しかし募りきった感情が喉を塞ぎ、呼吸を薄くしていた為に声なんて出せたものではなかった。指が震えるのを誤魔化すためにグラスを傾ける。まろやかな甘さが舌に乗る。
「でも心底好きだって笑ってたんだよなぁ」
ごつ。と、硝子のグラスが机に落っこちるように置かれたことに、それが自分の手による音であることに、全てに気付けなかった。唇を噛みしめる代わりに声を閉ざし、目を瞑り切る代わりそっと伏せる。瞬くと、酷く熱い目の奥から涙なんてものが零れ落ちそうで、イライは何も出来なかった。ただ黙る他なかった。これじゃあ恨むことも目指すことも出来ない。夢見ることすら許されない。
味蕾に残る味がただただ何度も口の中で反響している。
カルーアミルクなんて頼まなければよかった。
ずっと痛いのに、ずっと甘いままだ。