避けられぬ同伴(導入部分) 身を起こし伸び一つ。垂れ耳が揺れて、窓から差し込む正午過ぎの陽射しに艶を映す。
給仕服の襟元を整えて、よし、と小さく呟いてバケツと掃除用具を持ち上げる。
緩やかに犬の尾を揺らし、廊下の方へ歩き出す。
ようやく掃除を終えそうなところだ。
半日と少しが経って広い屋敷の掃除に目途がつき、緩く息を吐き出す。
給仕服は少しも汚してはいない。
細心の注意を払っているのは、就任初日のある事が原因でもあるが。
思い起こさないように、首を左右に振る。
「あとは二階の書斎と、それと……」
ほとんどの掃除を終えて残りの個所を思い返す。
ふる、と尾が揺れて、僅か肩が撥ねる。
昼食を終えて暫くが経つ。冷たい牛乳にスープに、水分は多く摂っていた。
先にトイレに行っておこう。
掃除用具を持ち直して尾を翻す。
直線の廊下の端にある扉へと向かおうとして所で、背後の方、エントランスホールの方で玄関扉が開く音。
「リテル、来客の準備をしろ」
続く大理石を踏み鳴らす靴の音。
「ご主人様、おかえりなさ、あ、っえ、っと!はい!」
この洋館の主人たるレド様だ。
細身ながらも筋肉質な体を持ち、白蒼の髪、黒銀の体毛の上に整った衣服を纏う、鮮やかな青い瞳の狼獣人の男。
ローグハイツ家次期当主だ。
屋敷に戻っての開口一番のご主人様の言葉にお出迎えの言葉を言い逃す。
垂れた両耳が、はた、と揺れて、掃除道具を持たない右手が握って、開いて。
トイレに行っておきたい、と思うくらいには、膀胱に溜まったものがある。
少し背伸びするようにもエントランス側を見てから、ご主人様を伺う。
「い、今すぐですか?その」
「今すぐだ、紅茶はノアレスト産のヴェルディーニを」
有無言わさぬ様子だった。
閉じた口を再度開き、また閉じて。
紅茶の保管場所は当然分かるが、銘柄の配置までは覚えきれてはいない。
早急にと言うのなら探す時間は必要になる。湯を沸かす時間の間に探して見付ければ丁度良い頃合いになるだろうか。
どちらにしても余裕を差し込む機会は多くなさそうであった。
少し悩ましくも、口を開いて。
「っあ、あの、……すこし、」
「待たせている。さっさと掛かれ」
「っ、は、はいっ!」
言葉に突き出されるように廊下を歩き出す。
トイレの扉が視界に入るが、振り切るように角を曲がり見えなくなる。
紅茶を出し終えたら、出し終えたら。
そう思いを留めて、準備を始めた。
----------------------------------------
「では、ごゆっくりと」
「お前は残れ」
「へ、……?」
応接室のテーブルに二人分の紅茶を用意しその場を一礼し離れようとした所でだった。
ご主人様の対面に応接椅子に座る白の体毛の兎獣人が口を開き、背凭れに掛かりながらも軽く笑う。
「衒示的消費の誇示かい?いやはや、ローグハイツ家のレドの旦那もなかなか」
「重要な決定もあるだろう。取引を学ぶ機会にもなり、証人にもなる。それに」
ぱ、と手を開いて冗句の様に言う客人に、ご主人様は座り直し、言葉を改めてというように紡ぐ。
「誇示との言葉、それが通らないというのはローグハイツ家の財政事情を知る貴方なら分かるものだと思いますがね。レザック」
レザックと呼ばれた兎の獣人の男はくつくつと笑って長耳を伸ばし、金の前髪を雑に整えて。
「中・上流階級として生きてきたローグハイツ家には指導者、自由業者、作曲家、法律家と、生産手段……階級闘争と無縁な生き方をしていたと思ったんだがね、先代が死去してから手札を失い過ぎじゃァないのか?非筋肉労働の熟練職から、非筋肉労働職に移る……つまり、下層中流階級から転げるのは時間の問題かもしれない、君も」
「話に移ろう。王宮剣術指南書の話と、剣術指導の件で合っているな?」
ご主人様が客人であるレザックの言葉を遮り促す。
もう遣り取りは始まっている。当然のように退室の機会を失って、口を挟む余地もなく立ち尽くす。
空いた両手がどう置きどころも無かったが、慌ただしく前に組んで待機の姿勢を取る。
足を揃えて立つ姿勢は慣れているものの、明確に下腹部に落ち着かない感覚が残っている。
トイレに行きそびれた。
あとどのくらい掛かるのだろう。
「もちろん、ローグハイツ家にはそれしか残っていないかもしれないからね。僅かなリソースを最大限に広げるのが私の仕事サ。ところで、全く知らないという様子の使用人ちゃんがいるが、レドの旦那、何も教えちゃいないのかい?」
つ、と視線を向けられて思わず背筋が伸びる。ぶるり、と尾が思わず震えた。
何の話をしていたっけ、さっき剣術がって、ご主人様が。
何も言えず考える様子が続いてしまい、はっ、として口を開いたところでご主人様が浅く手で制す。
「だから置いている」
ご主人様はこちらに目線を向けぬままに、そう言葉を客人に向けた。
ナスティル公国の辺境、没落しかけているローグハイツ家の成り立ちは表面上な所しか知るところにない。
使用人にも様々な役職はあり、役職に関係なく知らなくてよいものは教えられてはいない。
尤も、様々な役職の分担が出来るほどの裕福さはローグハイツ家のには無いものであるが。
つまり、今後必要な知識、になるかもしれない、ということ。
ご主人様も何も意図無く聞かせる為に残したわけでは、ないはずだ。
生唾を飲み込む。
それは、いったい、どれくらいの時間が。
どれくらいの時間が掛かるものなのか。
「旦那ァ、ま、いいさ。それじゃブランを広げようか」
右手を握る左手に僅か力が篭る。
多分、大丈夫な筈、だと思う。もし、もしダメでも、話のキリの良いところで席を外させてもらおう。
この機会で粗相はしない。
絶対に、粗相だけは。
下腹部のもどかしい感覚は、消えることはない。
それどころか、これから強くなっていくだろう。
それでも、絶対に、この機会を台無しにはしない。
絶対に。