君の名を呼ぶ「レムナン」
何してるの、とラキオが続きを声に出す前にピピッという電子音とそれに焦ったような男の声とが室内に響いた。
「識別名・レムナン——登録完了シマシタ。今後、御用の際はレムナンと呼び掛けてクダサイ」
「あぁ~……」
なにやら困り声をあげているレムナンの後ろからラキオが作業部屋の中を覗き込むと、電子音の正体は見慣れない擬知体であった。そのフォルムや先程耳にした音声からして、それが新品ではなく誰かに所持されていたもしくは現在進行形で所持されている数世代前の旧式モデルであることは明白だ。
「どうしたんだいそれ。ジャンク品?」
「職場の倉庫を整理したら出てきて……。ラウドさんがまだ使えるなら欲しいって言うからメンテナンスの為に一度持ち帰ってきたんです」
ラウドというのはラキオやレムナンと革命を共にした組織の元メンバーだった。レムナンの現職場の同僚でもある。久々に聞くその名にあぁと懐かしい顔を思い出していたラキオの表情がすぐに厳しいものへと変わった。
「君、またいいように使われてないかい? ボランティアもほどほどにしなよ」
「対価ならちゃんともらってますよ。今度ランチをご馳走してくれるそうです」
「ランチ、ねぇ……。君はこの国で最も優秀で安上がりなメカニックだよ」
彼を皮肉るようにラキオは玉のかんばせに呆れの色を浮かべた。レムナンは警戒心が強い代わりに身内には甘い。
「それよりラキオさん、タイミング悪いですよ。どうして急に入ってきちゃうんですか」
「ノックならしたよ。無視した君が悪いンだろう」
信憑性の高いラキオの主張にレムナンは言い返すことができず、ぐ……と言葉を詰まらせた。一つのことに集中しているとまわりの音が耳に入らず、自分を呼びかける声にさえ気付かないまま結果的に無視してしまうというのはレムナンの悪癖だった。
「それは、僕が悪かったですけど……。ラキオさんが呼んだせいでこの子の名前、僕と同じになっちゃいましたよ」
複雑そうな顔で目の前を指すレムナンの指の先で、メンテナンスを終え長い眠りから目覚めたばかりの擬知体は意図せずして名付け親となったラキオの顔をじっと見つめている。デザイン自体は古臭いが、黒い液晶部分に表示された丸い二つの目が愛らしく見えなくもない。
「名前くらい変更すれば済む話だろう」
「セキュリティ対策で次に名前を変えられるのは一週間後です……」
「不便な仕様だね。それならラウドに引き渡すまで電源を落としておけばいいンじゃないの?」
「いえ、まだ不具合が残っているかもしれないですし。問題なければ来週渡す約束なので、今週いっぱいは試運転ということでうちで働いてもらおうと思っていたんです。けど……」
そこまで事情を聞いて、ようやくラキオはレムナンが——人間であり現在自分と恋人関係にある方のレムナンが、何をここまで困っているのかを察した。
「つまり君はこれから一週間、自分と同じ名前の存在と共に生活することに不便さを感じているというわけか」
「まぁどちらかといえば困るのは僕よりもラキオさんの方かもしれませんけど……」
「どうして?」
「だって用があるときに名前を呼ぶのは貴方のほうでしょう」
たしかに個人を識別する役割を担っている名前というものは自身の口から発する機会よりも、他人に呼ばれることの方が圧倒的に多くはあるだろう。だが、はたしてレムナンが心配するほど自分は彼の名前を呼ぶことがあるだろうか。ラキオは内心首を傾げつつも、やけに心配している相手を宥めるべく一つの提案をした。
「じゃあコレのいるうちは君のことは名前で呼ばないようにするよ」
「え? それはちょっと、嫌です」
「えぇ? 面倒くさいな……。まぁ、君も馬鹿じゃないンだから僕がどっちを呼んでいるかくらい文脈から判断できるだろう。ねぇレムナン」
ラキオの呼びかけに男が反応する前に「お呼びデスカ」と彼のすぐそばから機械音声が流れる。電源を入れたのは自分のくせに変な対抗意識でも芽生えさせたのか、自分の四分の一ほどの背丈しかない新入りをジトリとした目つきでねめつけながら「今呼ばれたのは僕の方です……」と主張する様が滑稽で、ラキオは声をあげて笑った。
かくして、ふたりと一機の短い共同生活が始まったわけだが、先程のように先住者であるレムナンに対する呼び掛けに擬知体の方がいち早く反応し「お呼びデスカ!」とラキオの元に寄ってくる場面は一日に数度は発生した。それに対抗するためなのかなんなのか、そう離れた距離でもない室内だというのに、名を呼ばれるたび「はい!」と普段より大きな声で人間のレムナンまでもが呼びかけに対し機敏に反応するようになったのは、ラキオにとっても予想外の副次的効果であった。自分が「レムナン」とその名を声に出して呼ぶだけで、大の男と彼に整備された擬知体が競うようにして自分の元に駆け寄ってくるのだから、ラキオからしてみればおかしくて仕方がない。
あるときは擬知体を呼ぶ声に勢いあまったレムナンが反射的に返事をしてしまうことがあった。元気よく応答したはいいものの呼ばれたのは自分ではないとすぐに気が付いて気まずげにその場で佇んでいるレムナンを見て、少しの間きょとんとした後破顔したラキオは彼の手に分厚い紙の束を握らせた。
「おや、君がこの論文の要点抽出データ化作業を引き受けてくれるンだ? 君の専門外である考古学分野の文献な上に外星語で書かれた古文書だけど、はたして君に僕の助手が務められるのかな」
「僕の失敗に気付きながらからかわないでください……」
こういうときに限って、充電中でスリープモードに入っていた擬知体は同じ名を背負う男に助け舟を出してはくれないのだった。
そうした小さなハプニングはあったものの、一週間の共同生活のうち、もっともレムナンを悩ませた事件は擬知体を預かりだしてから六日目の晩に発生した。
「お呼びでショウカ?」
熱の籠った寝室にはいささか不釣り合いな機械音声に、ベッドの上で戯れていたふたりは顔を見合わせ、音の出所の方へと揃って目を向けた。寝室のドアの隙間から、人で例えるなら赤ん坊より少し小さいほどのサイズの小型擬知体が、黒い液晶に表示されたまん丸の瞳をきょとりと瞬いて部屋の中を覗いていた。
「ぅわーーーっ!?」
先に反応したのはレムナンの方だった。突然大きな声をあげたので、彼の下にいたラキオからはうるさいと抗議の蹴りがいれられたが、たいして威力もないため本人は気に留める様子もない。あわあわと手近なところに放り投げたままだったシャツでラキオの身体を覆い隠し、自分はとりあえず下着だけを身につけたレムナンは、入り口で指示を待っている擬知体を抱えてどこかに連れ去ってしまった。
対してひとり残されたラキオの方はといえば、彼の大声が震わせた鼓膜を労るように耳輪を撫でつつ、不機嫌を露わにして口を尖らせていた。ラキオにはレムナンがあんなに顔を赤くして慌てていた理由が理解できなかった。
ややして、のろのろとした歩みでレムナンが寝室へと戻ってきた。その背は彼の今の心情を表すかのようになだらかなカーブを描いている。
「擬知体は?」
「玄関に戻してきました……」
「ふぅん。さっきのは僕の声を感知して飛んできたのかな。だとすれば製造年が五十年以上前のレトロ家電のわりには性能がいいね。声色も発音も普段の呼び方とは随分違っただろうに」
冷静に状況を分析するラキオの声を聞いて、レムナンはますます恥じいるように身体を小さくして、そのままぽすんとベッド上に転がった。頭はちゃっかりラキオの膝の上に乗せられているあたり、彼も案外ちゃっかりしている。
「それで? 君はどうしてそんな風になってるわけ? 第三者の乱入で興が削がれた?」
一応理由くらいは聞いてやろうと、人差し指に彼の癖毛を巻きつけながらラキオが尋ねると、レムナンはため息混じりに打ち明けた。
「それもありますけど……見られたことが恥ずかしくて……」
「はぁ? 擬知体だよ? しかも感情システム非搭載の旧式機械だ」
「分かってます、分かってますけど……! 擬知体に囲まれて幼少期を過ごした僕にとってはなんだかこう、複雑な感情が……」
はじめは理解できないと眉を顰めていたラキオも、レムナンが故郷の話を持ち出すとあぁと納得したような声をあげた。
「なるほど。たしかに君の家族や幼馴染はみんな人間ではなかったんだったね」
ラキオの声にレムナンは黙って頷いた。髪をいじられながら話しているうちに気持ちが落ち着いてきたらしく、顔の赤みはもう随分と引いていた。
「あの……仕切り直していいですか?」
「なんだ。やることはやるンだね? てっきり今夜はこのままお開きになるかと思っていたよ」
「そんな中途半端に放り出したりしませんよ。ただ……その、気をつけてくださいね」
「なにが?」
「思っていたよりセンサーが優秀みたいなので……その……」
「あぁ。さっきみたく僕が大きな声で君の名前を呼んだらまた擬知体が来てしまうって? いっそどの程度ならバレないのか試してみるかい?」
悪戯心がわいたらしいラキオが未だ自分の膝に頭を乗せたままでいる恋人の顔を覗き込む。蔦のように上から降りてきたグリーンアッシュの髪がレムナンの頬をくすぐった。
「どうだい? 楽しそうだろうレムナン」
「……もう。冗談はいい加減にして、集中してください」
唇同士が触れ合いそうな距離で声をひそめて囁き合う姿は睦み合う恋人同士のやりとりではあったが、同時に不思議と内緒話をする幼子のようにも見えた。
「失礼だな。僕はいつだって真剣だけど?」
「本気で提案してるとしたらもっと困るんですけど……」
身体を起こしたレムナンは自分の顔を覗き込んでいた悪戯な笑顔ごと恋人の身体をシーツへと縫い止めると、プレゼントのラッピングを剥がすようにして先ほど自分が羽織らせたシャツの内側に片手を潜らせた。
「ほら、早くおいでよ」
自分を組み敷くレムナンの腰を内腿でやわく挟みながら急かすラキオの口内で、舌が内側に巻かれる様子を察知したレムナンは、慌ててその動きを封じるように深く口を合わせた。レムナンの名前の頭文字になり損なった音は玄関まで届くこともなく、重なり合うふたつの身体のあわいで弾けてそのまま溶けていった。
一週間の動作テストに合格した擬知体が無事にレムナンの手から新しい持ち主の元へと旅立った後の住まいで、再びこの家唯一のレムナンへと戻った彼は夕飯に選んだチキンソテーを口へと運んでいた。メンテナンス代としてその日ご馳走になったランチが魚料理だったがゆえのメニューチョイスらしい。向かいの席ではラキオがミント水の入ったグラスを片手に彼の食事風景を眺めている。
「今日からはまた遠慮なくいつでも僕の名前呼んでくれて大丈夫ですからね」
「呼んでいい、じゃなくて、呼ばれたいンだろう君は。呼ぶなと言ったり呼べと言ったり、面倒な奴だな」
事実、ラキオに名前を呼ばれるたびに小さな幸福感で胸をじわりとあたたかくしているレムナンはその指摘に反論するのも躊躇われ、ただ誤魔化すようにへらりと笑うにとどめた。その顔を見て仕方がない奴といった風に小さなため息を溢したラキオは、頬杖をつきながら彼の目を見つめた。
「……僕の方でも今回のことで一つ気付いたことがあるンだけど」
「はい?」
綻んだ唇から楽しげな声がコロコロと言葉を紡ぎ出す。
「僕も君の名を呼ぶのは結構気に入ってるみたいだよ。知ってたかいレムナン」
食卓に響いた馴染みある響きに、その名の持ち主は相好を崩し、はいと嬉しそうに返事をした。