君色クリームソーダ、僕色レモネード「お疲れ〜♡」
担任教師は帷の外で、呑気に棒付きキャンディーをしゃぶっていた。空は茜色で、恵が中に入ってから過ぎた時間の長さを思い知らせる。足元の影は立っているその男のそれを想像させる長さだ。
仏頂面で歩いてくる生徒を見つけると、長い体をのっそりと伸ばした。
「無傷なのは偉いね」
恵は撫でようと伸ばされた手を軽く払う。
「ま、二級だったので」
「当然でしょ」
日曜の夕方の学校には人の気配が無い。少年サッカーチームの練習が終わるのを待って帳を下ろしたのだ。春先の長くなった昼が名残惜し気に西の空に張り付いているが、東の空からはゆっくりと夜が這い上がって来る。
「アンタついてくる必要、なかったと思いますよ」
「自信あるねぇ。一応恵も入学したばっかりだしねえ」
五条が歩きだしたので恵は後に続く。補助監督の車を待つかと思ったが、南東京市からは高専は近いのでそのまま電車で帰る気らしい。補助監督を一人早く帰らせてやれる。わかりにくい五条の優しさだ。
アーケードのかかった夕暮れの商店街は買い物客で賑わっている。総菜屋のおでんの出汁の匂いや焼き鳥の香ばしい香りが漂っていて食欲をそそる。
「ねぇ、純喫茶って、良くない?」
五条は今時珍しい「純喫茶」と書かれている古びた看板を見つけ立ち止まった。年代ものらしく、紫紺地に白抜きで書かれているのだろうが、文字の色はかすれてほとんど灰色になっていた。
「いや別に。どちらかって言うと何か食べたいんですけど」
「おなかも空いちゃったしね、ここにしよ」
いつもどおり恵の意見なども聞くことはなく、五条はドアを開けて頭を下げながら低いドアを潜る。からからんとベルが鳴る。看板に見た通り、昔ながらの喫茶店のようだ。五条は小洒落た店にも行くが、意外にこういう古い店も好きだ。ダークブラウンを基調とした喫茶店の中はティファニーランプ風の照明が控えめで、ひっそりとした空気が漂っている。
「お好きなところにどうぞ」
カウンターの中にいた年配の女性が言った。悟が奥まったボックスシートに長い脚を折りたたむように座れば、恵はそっと向かいに座る。
先ほどとは違う、若いウェイトレスがいらっしゃいませ、と水とおしぼりが置いた。濃い紫色のエプロンには「純喫茶 ブルームーン」なんてロゴが染め抜かれている。机はところどころ剥げているが、メニュー表は新しくて、ジュジュスタだの、ジュックトックだののアカウントが可愛らしくデコられている。
「このお店って、古いんでですよね?」
ちぐはぐな雰囲気に戸惑って思わず尋ねる。
「店自体は古いんですけど、今年私が継いだんです。お食事のメニューなんかは先代のおじいちゃんのものが多いんですけど、飲み物は映えそうなものをいれているので」
「そうなんですね」
「見て、恵ぃ! 青いレモネードだってェ! ちょっとコレ飲んでよ」
五条は相変わらず人の話を聞いていない。
「いや、俺はコーヒーで」
「そう言わないの。とりあえず、クリームソーダとブルーレモネードで。食事はナポリタンとオムライス、あとチキン南蛮も! あ、喉乾いちゃってるからさ、飲み物先に頂戴」
「はい。少々も待ちください」
「五条先生!」
「もうたのんじゃったもん」
「モンって……」
俺はため息をついた。昔からこの人は話を聞かないのだ。メモを持った店員さんは困った顔をしている。恵はそれでお願いしますと添えて、ぎろりと五条を睨んだ。今日みたいな暑くて汗をかいた五月の夕方に、は爽やかなレモネードもいいかもしれない。コーヒーは食後に頼もう。
すぐに出されたクリームソーダは昔ながらの緑色のメロンソーダにアイスクリームと桜桃が乗っている。五条はこれ混ぜるとおいしいよね?なんて言いながら、長いパフェスプーンでアイスクリームを掬っている。食前に甘いものを食べる心境が分からないとため息をつきながら、恵はブルーレモネードをストローで啜った。意外にも甘さは控えめでレモンの酸味がきりっと効いていておいしい。
「それ、甘い?」
「俺には、まあ」
「味見したい」
恵はそっとグラスを五条の前に押し出した。五条は目を丸くして、ガムシロップを入れようとしたので、とっさにグラスを奪い返す。
「だってすっぱい!」
「レモネードですからね」
「もっと甘いかと思ったのに」
「俺にはちょうどいいですよ」
「ね、これ飲む?」
「甘いから……あ、アイスだけ一口ください」
今日、外暑かったんでと口をパカリと開く。
「おいしいとこ食べるじゃん」
そう言って笑いながらアイスと氷をスプーンにのせて恵の口の中に押し込む。アイスと一緒に入ってきた冷たい飲み物用の小さな氷をガリリと噛む。
「コーヒーフロートにしてあげればよかったね」
「これでいいです。レモンって疲労に効くらしいし」
「なあに? あれくらいで疲れたの」
「雑魚ですいません」
「可愛くないのぉ」
ガリガリガリガリ
五条は苛立たし気に何個もいっぺんに氷を噛んだ。中途半端な時間の喫茶店はもう客もまばらだ。奥の方で中年の男が一人、新聞を読んでいるくらい。
「……」
「反論しないの?」
「しても無駄でしょ」
レモネードなのに青いのは、食用の蒼い色素のせいらしい。映えを狙ってみました、とウェイトレスではなく、店主の女性が笑っていた。
「なんか、大人っぽすぎ。また不良ボコってよ」
「意味わかんね」
五条は笑った。
「ナポリタンってさ、純喫茶に似合うよね」
「昔ながらの喫茶店、って感じですね」
昭和って奴だ。銀のステンレスの皿に乗せられたナポリタンは、ベーコンと玉ねぎ、ピーマンとパプリカが入っている。それを見て恵はオムライスを選び、ナポリタンを五条に押し付けた。どちらもケチャップの甘酸っぱさがうま味と一体になって舌に夏の味が残った。
「チキン南蛮かトルコライスで悩んだけど、タルタルソースは旨いね。これきっと手作りだ」
津美紀と三人で始めって言った商店街の端っこの古い喫茶店を思い出した。緊張して固まっていた二人に対して、五条が誰より子供じみた味を喜んでいた。
「そうですね。懐かしい味です」
祓除のあとはやはり食が進む。チキン南蛮の衣のパリパリとした食感が、タルタルソースの甘みを引き立てていた。
「懐かしいね。うん」
五条も同じことを考えているのかもしれなかった。古い商店街の、古い喫茶店。
「また三人で食べに行こうね」
「……はい」
津美紀はまだ夢の中。
ずぞ、と音を立てたレモネードのグラスの底に、五条の瞳のような丸い蒼が残っていた。