【前編】若肋さんと谷裂くんが一緒にお仕事する話【未完】 今朝は天気が良いからと、野外鍛錬場へ出てからものの一時間のことである。
「……何事だ」
谷裂は館の正面に掴まれた大小様々な木箱を前に立ち尽くした。木箱の山は長身の谷裂が見上げて、さらに天辺が館の二階に届くほどにうず高く積み上がっている。横幅も館の門扉ほどに広がっていて玄関を隠してしまっていた。粗大ゴミの大量投棄、というわけではない。木箱にはどれも札や縄で封がされて閻魔庁の焼印まで施されている。不法投棄よりも始末が悪い代物だ。
まさか誰もこの事態に気付いていないのだろうか。不穏な静けさを肌に感じながら怪しい木箱の山を回り込む。山の向こう側に、ふたつの影が見えた。
静かなのは発見者が動じていないからだ。異常事態を前にやけに朗らかな会話が聞こえてくる。
「管理長、久々にあの方からプレゼントが届きましたよ」
「ああ。礼に脱色剤か脱毛剤を贈ってやろうと思う」
「椿油の容器に移し換えるとより一層喜んでもらえるかと」
「相変わらずやつを喜ばせるのが得意だな」
「光栄です」
内容はともかくとして。肋角と災藤が表情も和やかに木箱の山を見上げている。ふたりが異常事態を前に他愛ない会話する時こそ心中穏やかでないことは、あの平腹でさえも知ることだ。
「今日は田噛と平腹が残っていたな。庭に穴を掘らせるか」
「駄目だよ。またそんな横着をして。前回土が悪くなって花壇を枯らしたのを忘れた?」
「埋めても問題ない物を選別する。残りは蔵行きだ」
「蔵も前回の分でいっぱいになっていたような」
「……整頓するか……」
「これで一日が終わってしまうね」
これにて本日の予定は御破算。ふたりはついにため息をついて眉根を寄せた。
「おはようございます」
やりとりが途切れたことを頃合いと見て、谷裂は木箱の脇から進み出た。木箱の山がこの上司たちを煩わせる問題とあって、訊きたいことはそれこそ山程あったがまずは朝の挨拶だ。
「谷裂か、おはよう」
「お疲れ様。午前のメニューはおしまい?」
「はい。ところで、この事態は……」
「これ? これはね、肋角へのプレゼント」
災藤が気軽に木箱をぺしぺしと叩く。その横で肋角はなにか言いたげだったが、煙管を吸うことですべて胸の内に押し込んだ。
上司の口ぶりから察した通り、木箱の山は迷惑千万の権化だった。災藤が木箱を叩く手に段々と力を込めながら説明するに、中身はすべて不要なガラクタのようだ。すっかり忘れ去られていた死蔵品やら、使わないが処分もできない法具やら、そして所々に見える霊符が封ずるろくでもない呪具やら。つまりは閻魔庁に置いておきたくない品々すべてだ。嫌味なまでにでかでかと施された焼印が返品不可と突きつけている。
「それがどうして肋角さんに?」
「管理長だからね」
役職にまさかガラクタの管理の意味まで含まれていないだろうに、災藤は木箱と叩いたときと同じ調子で肋角の腕をぺしぺし叩いた。肋角は煩わしげに災藤の手を避けたが否定はしない。目の前のプレゼントへの対処も含めてすべてが面倒だといった表情だ。
「いつまでもこのままにはしておけないから、片付けないとね」
「お手伝いします」
本日の谷裂の予定は、午後に下層の巡回視察の任があったが午前中は内勤だ。それも急ぎの仕事はない。片付けなどの雑用なら上司よりも谷裂が引き受けるべきだ。それに。
「どうする? 肋角」
「……まあ、前回から時間が経っているし、今なら蔵に近付いても問題ないだろう」
上司たちは谷裂の言葉に考える素振りを見せたが、木箱の山を見上げて申し出を受け入れる。
肋角と災藤の会話の中にあった、蔵という場所。館の裏庭から奥へ進んだ森の中にそれはあるという。獄徒たちは昔からあそこには近付くなと言われていた。幼少の時分に探検と称して森に入ろうとする者がいれば、背後からぬっと現れた肋角に捕まり叱りつけられたものだ。一体なにがあるのか謎だったが、どうやら今までに送られてきたガラクタが詰め込まれているらしい。片付けという口実で今まで禁止されていた場所に立ち入れるのならば、谷裂の好奇心も疼く。
「では、お願いしようかな。これは手分けしないと日が暮れてしまいそう」
「谷裂は先に蔵の整理を頼む。前回雑多に物を詰め込んでしまってな。整頓すればまだいくらか入るだろう」
「承知しました」
肋角が懐から取り出した鍵を、谷裂は両手で恭しく受け取った。それは根付などの類もなく酸化して真っ黒になっていた。はたして役目を果たせるのか疑わしい程に朽ちている。肋角の手ずからであればこそ丁寧に扱っているが、お役御免も同然の代物に見えた。
肋角と災藤に頭を下げて、谷裂は庭を回り込んで蔵を目指した。ふたりはこれから木箱の中身を地中に埋める物と蔵にしまう物とで選別するという。蔵にひとつでも多く物が入るよう整頓して広げなければならない。
「たにざき~」
間延びした呼び声に足を止める。食堂の窓から木舌が身を乗り出して手を振っている。寄ってやると室内には斬島と佐疫の姿もあった。斬島は汁椀をすすっており、佐疫は空の器を前に手を合わせたところだ。
今日は木舌は単独で、斬島と佐疫はふたりで外での任務を宛がわれていた。朝食をすませればすぐにでも出立するのだろう。
木舌が窓から顔を出していたのは、館の正面玄関の様子を窺っていたためだった。やってきた谷裂に木箱の山を指差しながら問う。
「今朝 気が付いたらそこにあったけど、なんだいアレ」
「閻魔庁から送られて来た物だそうだ」
「ああ、処分に困ってるものか。最近来ないと思ったらあんなに溜め込んで」
木舌はもう一度身を乗り出して山を見ると苦笑した。ふたりの会話が気になったのか、木舌の隣から佐疫もひょこりと顔を出す。
「おはよう、谷裂。なんだか大変なことになってるね」
「ああ。肋角さんと災藤さんも今日はアレに付きっきりだ」
続いて斬島が顔を出し、窓枠に肘をつく木舌の頭に顎を乗せた。
「お前はどこへ行くんだ?」
「蔵の整理だ。アレをしまう場所を確保せねばならん」
蔵という単語に、全員そろって館の裏手に目を向けた。ここから見えるわけではないが、館を回り込めば森の奥に立ち寄ることを禁止された蔵がある。斬島の表情にはちょっとした好奇心が窺えた。任務がなければ一緒に行くと言い出したかもしれない。
「片付けるのに手が足りん。早々に任務を終わらせて戻って来い」
「どうだろう、おれは手際が良いほうじゃないから」
こくりと頷く斬島の下で、木舌はかわすようなことを言って笑っている。のらりくらりとしているが、木舌は毎度抜かりなく仕事を片付けて、余裕があれば肋角や災藤に次の指示を仰ぐ。たまに下手を打たなければ誰よりも要領が良いのはこの男だ。それなのに口では謙遜の過ぎたことを言うから、これまた毎度谷裂の気に障る。
「気を付けてね」
谷裂が木舌に物申そうとしている空気を察してか、佐疫は斬島ごと木舌を食堂の中へと押し込んだ。
「ああ、お前たちもな」
イスがいくつか倒れる音がしたが、佐疫の笑顔に送り出されたのだから関わらないことにして。谷裂は窓枠から離れて裏庭を目指す。早朝、野外鍛錬場へ向かう谷裂に、おにぎりを持たせてくれたキリカに礼を言いそびれたのは心残りではあったが。
館の裏手に回り込んだところで、地面でなにかがもぞもぞと動いていた。それは一定のリズムで土を吐き出している……のではなく、しゃがみ込んで黙々と土を掘り返している。汗を拭って顔を上げたところで、平腹と谷裂の目が合った。
「よっ! 谷裂じゃん」
平腹が手をぶんと振って、スコップに乗っていた土が周囲に飛び散る。
意味があろうとなかろうと平腹が穴を掘っているのはいつものことだが、今日は命じられてのことだろう。閻魔庁から送られたガラクタを埋める穴を掘っていると訊かずとも知れた。やけに姿勢が低いのは手に馴染んだ得物を使っていないためだった。シャベルが縮んで可愛らしくなって、丸みのある小さなスコップが平腹の手に握られている。
「シャベルはどうした」
「あー、あれ使うとまた掘り過ぎちまうからさ。どうしよーって言ったら災藤さんが貸してくれた! 庭いじり用だって。いいだろ!」
なんの自慢か理解できないが、平腹は満面の笑みでスコップを掲げて見せた。園芸用にしては素材も形もあまりに安っぽい。どう見ても子どもの砂場遊び用のスコップだ。黄色というのがまた園児帽の色を思い起こさせる。
からかわれているんじゃないだろうか……とは言わないでおく。そんな道具でも平腹はすでにくるぶしまで埋まる程度の穴を掘っていた。わざわざやる気を削ぐことはない。ああ、頑張れと声をかけてやると、平腹はおうと返事をして黙々と穴掘りを再開した。
「お前はなにをしている」
問題はやる気の欠片も見られない者だ。
頭上を見やると傍らの大木が枝葉を広げている。太い枝に腰掛けている田噛がちょうどあくびをしたところだった。口を一度 真一文字に結んでから、あれだけ大口を開けられるというのにぼそぼそと答える。
「馬鹿にされてるのも気付かねー馬鹿が、やり過ぎないよう見張ってる」
「下でも見張れるだろう」
「木の後ろ回ってみろ。馬鹿はなに使っても馬鹿やるから馬鹿なんだ」
言われたとおり太い幹を回り込んで見やると、そこには若木程度なら植樹できそうな穴があった。掘ったというより爆砕したような断面と波状に広がる土から見るに、一撃で開けた穴だろう。道具に関係なく馬鹿力を発揮する平腹はさることながら、この衝撃で壊れなかったスコップも侮れない。さすが災藤が平腹のために誂えた物といったところか。
「下にいたら危ないだろ」
「ちょこまか避けるのは得意だろう」
「最初から安全地帯にいるほうが賢い」
相変わらずああ言えばこう言う。金棒で幹を叩いて落としてやろうかと考えていると、実行するより先に谷裂の目の前になにかが落ちて来た。
「あの怪しい蔵に行くんだろ。ついでにそれ持ってけ」
拾い上げたそれは両手で抱える程度の麻袋だった。経年と、引き摺られるような衝撃でも受けたのかささくれだって所々穴が開いており、かろうじて袋の形を維持している。
「なんだ、これは」
「前に埋めた分だろ。穴から吹っ飛んで枝に引っ掛かってた」
始めからさぼる気で木登りしたのではないなら評価できるが。木の枝に引っ掛かった物を取るという役目を終えても田噛に下りる様子はなく、それどころか幹に背中を預けて目を閉じた。
「そこで暇しているなら、お前も蔵へ来たらどうだ」
「暇じゃねーよ。見張りだって言っただろ」
「目を瞑ったままでか」
「ああ、馬鹿とは付き合いが長いもんでね」
律儀に答えてくるところがまた小憎たらしい。帽子を目深に被り俯いて腕を組む田噛に、谷裂は苛立ちを紛らわすためにため息をついた。どう見ても昼寝の体勢だが、田噛なら平腹の頓珍漢な行動にも目ざとく気付いて抑制するだろう。
「気をつけろよ」
谷裂の靴底が土をにじる音を聞いて、田噛はもう一言落としてきた。蔵に向けて踏み出そうとしていた足を止め、再び田噛を見上げる。
「佐疫も言っていたが、どういう意味だ」
たかが蔵掃除だ。近付くことを禁じられていた場所だが、今回は肋角の許可を得ている。佐疫の言葉は、物を動かすときに怪我をしないようにという程度に受け取っていた。だが、あの田噛が睡魔を押しのけてまでかけた言葉とあっては気になった。
「あの蔵、どうせロクなもんじゃないぞ」
それきり、今度こそ田噛は口を噤んだ。平腹が放る土が谷裂の足元まで近付いている。ブーツに引っかけられる前に谷裂はその場を離れた。
「確かに、ロクな場所ではないな」
館の裏庭から五十メートルほど離れた森の奥に、その蔵はひっそりと建っている。谷裂は預かった麻袋を下ろして、田噛の言葉に遅れて同意した。
初めて間近で見る蔵は、森の中にぽっかり空いた空間に立つ真っ黒な平屋だった。雨曝しで絡みつく植物の蔓すら腐りかけ、一面苔に覆われているが、隙間から見える木目から昔は森に溶け込む木造小屋だったとわかる。改築や増築を重ねたらしく、凸凹と不格好なそれを見上げているとぐらりと平衡感覚を見失う。蔵全体が傾いでいるせいだ。もしくは、僅かに感じられる瘴気に当てられたか。
肋角から預かった鍵を錠前に差し込み、戸を開ける。途端に押し込まれていた黴と埃のにおいが広がった。久々に陽光に照らされた蔵の中で、漂う埃と蜘蛛の巣が白く輝いている。聞いていたとおり、木箱や麻袋が雑多に詰め込まれている。適当な釘打ちで組み建てられた棚もまた傾いているが、ぎっちりと隙間なく詰められたガラクタが支えとなって倒壊を免れていた。前回『プレゼント』が送られてきたときに詰め込めるだけ詰め込んだのだろう。しかし整頓して並び替えれば、まだまだ物が入りそうだ。
蔵は外観から受けた印象よりも奥行があるようで、天井から奥に向けて濃い闇が続いていた。瘴気はそこから地を這うように漏れ出ている。思い出したのは山のように積まれた木箱の一部に張られていた霊符だ。奥に行くほど、ガラクタよりも呪具が占める割合のほうが多いのかもしれない。
この蔵自体がある種の呪場になっている。
ともあれ、奥に行かなければ危険な場所ではないだろう。錆びた蝶番のおかげで扉が開いたまま固定されるのを確認して、谷裂は蔵の中へ踏み入った。陽光が届く範囲だけでも十分作業できそうだ。
まずは足場を確保しなければならない。一度手前にあるガラクタを外に出してしまおうと、谷裂は屈んで木箱の底に手を伸ばす。
突然地面が揺れて、箱に触れずに床に手をつく。揺れと同時に地響きのような音も聞こえた。田噛と平腹がいた方角からだ。
「またやりすぎたのか、あいつは……」
田噛の見張りとやらも、結局役に立っていないではないか。呆れて呟いて、ふと暗がりが広がっていることに気付く。今の衝撃で扉が閉まろうとしている。金具の軋む音が響くほどに視界が狭まってきており、辺り一面真っ暗になる前に扉へと向かう。
すでに視界の半分が闇に包まれていたため、左側から迫る物体に気付くのが遅れた。
側頭部に衝撃が走り、視界は一瞬白んだあと奈落に落ちるかのように黒く塗りつぶされた。
覚醒に向けて徐々に感覚が戻って来ると、真っ先にあったのはこそばゆさだった。細いものが頬にちくちくと当たっている。土の青草のにおいが鼻孔をくすぐり、無意識に発した自分の呻き声が鼓膜を震わせた。
「う……」
倒れ込んだときに口に含んでしまったのか、奥歯で砂を噛む。
砂と土と、草。
それらを叩いて上体を跳ね起こす。完全な覚醒よりも先に身体が動いた。
辺りを警戒し、見回し、ようやく思考が追いついて谷裂は周囲に脅威がないと認めた。しかし思考が働くようになると新たに疑問が生じる。
蔵の中にいたはずが野外に放り出されている。原始的な本能が警鐘を鳴らしたのは、真っ先にその違和感に気付いたからだ。
谷裂と同じく地面に転がっていた金棒を拾い上げ、立ち上がる。周囲には木々が連なっており、谷裂が立つ場所は森の中の開けた草地のようだった。これだけ開けた場所ならば、特務室の館くらいは建てられそうだ。居住区として開拓中の土地なのかもしれない。現に草むらの向こう、少し離れた場所には平屋らしき屋根が見えていた。
目を覚ましてすぐに頭を動かし過ぎてしまった。左側頭部にあった疼きが鈍い痛みに変化する。この場所に来る前、つまり気を失う前の記憶はそこに衝撃を受けたところで途切れていた。
「誰かいるのか?」
ふいに、背後の草むらから呼びかけられた。こう開けた場所では身を隠せる場所がない。それに、頭部に残る痛みは襲撃の可能性を示唆していた。
訳のわからない状況だが、幸い、得物は手にしている。
谷裂は咄嗟に声の方向へ金棒を投げつけた。草むらがざわめいていただけで相手の姿を視認していなかったが、打撲音と悲鳴が手応えとして返って来る。茂みの向こうからはさらに重いものがふたつ、地面に倒れる音がした。
茂みの中に分け入ると、靴裏が目に入った。金棒による一撃を受けて、黒い服を着た男が大の字に倒れている。その服には見覚えがある。今では着る者がほとんどいない、古い型の獄卒の制服だ。
「……まずいな」
獄卒の、と気付いて谷裂は眉を顰めた。敵襲でもなんでもない、同僚だ。職務中だったのだろうか。もしくはこの土地がどこかの部署の敷地なのかもしれない。どちらにしろ面倒だ。見つかれば谷裂が強襲の咎を受けることになる。そして制服の一新に従わず未だ黒の制服を着る部署というのは、偏屈者が集まっていることが多い。
まあ、あの程度の攻撃を避けられないのなら鍛錬不足、自業自得だ。頭が割れているようだがそのうち目覚めるだろう。そう結論付けて、谷裂は金棒を手に踵を返した。
ここがどこなのかはまだわからないが、目に見える目標物は先にある平屋くらいしかない。これは頭を打ったことで見ている夢なのか、それとも何者かによって知らぬ土地に放り出されたのか。自身の置かれた状況を把握するには行動あるのみだ。気配を殺して、建物へと向かう。
平屋は近付いてみればどこにでもある木造小屋だった。窓も排煙口もないことから用途は居住ではないのだろう。あれが蔵や物置だとしたら近くに所有者の住居がありそうなものだが、見回してもやはり建物は小屋ひとつしかない。あえて隔離された空間だとしたら合点がいく。同時に、またろくでもない場所に来てしまったかと不審を抱いた。
パンッと硬質の物が砕ける音が響いて、谷裂は腰を落として小屋の影に身を潜めた。移動した側からこれではやはり油断ならない。壁に沿って音がした方向を目指す。
壁から僅かに顔を出して覗き込むと、小屋の正面にはこれまた黒い制服を着た男の後ろ姿があった。その足元には布に包まれた物体が落ちている。円形で胸に抱える程度の大きさのそれと、先に聞こえた音。谷裂の脳裏に丸型の鏡が思い浮かぶ。
男の周りにはその他にも様々な物が転がっている。錆びたナイフに折れた櫛、なにが入っているのかわからない頭陀袋に、どういうわけか靴べらまで。地面に無造作に放られたそれらは、総じてガラクタと言えた。
谷裂が認識した範囲にあるのは、伸びた獄卒と、木造の小屋と、ガラクタとそれに囲まれた男だけだ。これ以上隠れていたところで、自力で探れる情報には限界がある。腹を決めて、壁から離れた。足音を消すこともせずに、未だこちらに背中を向けている獄卒へと近付く。
声をかけようとした谷裂の呼吸を読んだのか、それよりに、男が振り向き声を発した。
「よう」
挨拶として軽く手を上げたのかと思ったが、違う。手には煙草を一本持っている。男は谷裂に一瞥くれて、それきり興味を失ったかのように俯いて煙草を咥えた。器用に片手でマッチに着火し、口元に寄せる。谷裂に向けられた瞳は、その火よりも深い赤だった。
マッチから煙草に火が移り、男は肺を膨らませる。紫煙を吐き出す横顔も、手に持っているのが煙管であるならば馴染み深いものだった。
「ろっか……」
肋角さん。
飛び出しかけた名前は、思いとどまって喉の奥に押し込んだ。赤い瞳も褐色の肌も谷裂が慕う肋角そのものだ。着ている制服が今朝も見たものであれば、迷わず名前を呼んでいた。しかし、鍛えられてはいるが体躯は谷裂が知る肋角よりも少しばかり細い。かつての獄卒たちが着ていた黒い制服を纏うためか、佇まいも相応に若く見えた。
獄卒はいくら年月を越えても歳をとらない。かといって若返ることもない。あらゆる意味で測り知れない上司だが、そこばかりは概念から逸脱していないはずだ。ならば、目の前の男が肋角であるはずがない。
「なんだ。呼ぶならちゃんと呼べ」
しかし目の前の男は、途切れたその名に応えた。
「名前を呼ぶと呪われるってのはデマだぞ」
煙草を咥えた口元は笑みらしき形になって、谷裂をからかう。
その表情を見せられては、疑いようがなくなってしまう。
「……肋角さん」
同一人物に違いないが、谷裂が上司として慕う肋角ではない。それでも呼び捨てにするのは憚られた。
「階級持ちでもないんだ。呼び捨てで構わない」
階級も役職も持たない、ただの獄卒。確かに、彼にもそんな時代があっただろう。
回り込んだ小屋の正面には、目の前の若い獄卒と同じく見覚えがあった。大きさは一回りも二回りも異なるが、これから増築を重ね、経年により壁の色が黒ずみ植物が絡みつけば、近付くなと言われていたあの蔵になると想像できた。そして、谷裂が先刻目を覚ました森の中に拓けた草地。あそこにいずれ特務室の館が建つことも、この異常事態の中では獄卒が若返ることよりも考え得ることだった。
旧世代の獄卒の制服。真新しい小屋に、まだなにもない空き地。そして、容姿だけなら谷裂と変わらない頃合いの肋角。今ある空間のすべてが、谷裂自身が時を遡ったのだと突きつけていた。
他者の口からそれを聞いたのなら、馬鹿げていると一蹴したことだろう。しかし一人過去に飛ばされた谷裂には現状を受け入れるしかない。どうしてこんなことになったのか。原因は、きっかけは、なんだったのか。
考える程に側頭部が疼く。
「制服を一新すると聞いていたが」
聞こえた声は先程よりも近く、谷裂は思わず後ずさった。気付けば肋角の顔が目の前にあり、谷裂の服装をしげしげと見下ろしている。
「新人から切り替えていくらしいな。着心地はどうだ?」
「は、まあ、悪くはない」
顔も声も肋角だが、やはり少しずつ異なる。間近で見ると谷裂が知る肋角よりも表情に年若さが際立った。声音は役職がないためかより近しいものに感じられて、つい敬語を忘れる。
状況を理解してみれば異分子は谷裂だった。黒の制服しかない時代に深い草色の制服は不自然だろうが、新しい制服を支給された新人、と結論づけてもらえるならわざわざ否定することはない。現に肋角はそれ以上谷裂という存在に言及しなかった。
「さて、そろそろ行くか」
「行くって、どこへ」
しかしそれは、現状に巻き込まれるということでもある。
「仕事に決まってる。俺のサポートで派遣されたんじゃないのか?」
「いや、俺は……偶然ここに居合わせただけだ」
まさか先々末々からやってきたとは言えない。言葉を濁すと、肋角は谷裂から視線をはずして独り言ちる。
「なんだ違うのか。遣いはなにをしてるんだか」
遣いと聞いて、谷裂は自分の表情が強張るのがわかった。心当たりは大いにある。数メートル後ろの草むらには頭が割れた獄卒が倒れている。
肋角は紫煙を吐き出しながら、唇から煙草を落として火を踏み消す。煙が立ち消えた頃にはまた新しい煙草が咥えられ、火が点された。黙考するときに嗜好品をいじるくせは若い頃からあったようだ。
低温の煙をゆっくりと吸い込んで、同じ時間をかけて吐き出してから、肋角は決を下した。
「ならお前でいい。行くぞ」
「待て、勝手を言うな」
それは谷裂にとっては想定外のことで即座に口を挟む。上官の言うことであればどんな任務でもこなす覚悟はある。肋角の命に間違いなどないが、目の前の彼では話が別だ。ここにいる肋角の予定が狂った責任が谷裂にあるとはいえ、本来自分が存在しない世界で獄卒の仕事に関わるなど賢明ではない。
「面倒事はさっさと終わらせたい。待ちぼうけってのも怠いしな」
「だからってなぜ俺が」
「俺が一人で動くとなにかと面倒なんだ。新人でも監視役がいれば文句はないだろう」
「俺とてここで下手に動くわけには」
「こんな所をうろついているくらいだから暇だろ、新人」
腕でも取る気か、肋角が手を伸ばしてくる。
その手から逃れるために一歩下がり、結果、捕まった。
『あ』
靴底の違和感と、バキッという音、そしてふたりの気の抜けた声が重なる。肋角は口を開けて、管理長である彼なら絶対に部下には見せないような顔で谷裂の足元を見ている。恐る恐る左足を上げて見れば、真っ二つに割れた靴べらの無惨な姿があった。
「えっと、すまん」
「あーあ、やっちまったな」
器物破損を素直に謝ったというのに、肋角は謝罪を受け入れるどころかおちょくるようにニヤリと笑った。押し問答の勝手な言い分といい、敬愛するあの人とは程遠いその表情といい、未来の上司であることも忘れて腹が立つ。
「貴様はさっきから俺をなんだと……」
今度は谷裂のほうから手を伸ばせば、肋角はおもしろがって後退した。それをムキになって追いかけて、突然、ガクンと膝が落ちる。
「うおっ、とっ」
つんのめって持ち直そうと試みるも虚しく、そのまま前のめりに転倒した。
「いっつ……なんだ」
素早く起き上がり足元を見回すが、段差や足を取られるような物などなにもない。靴べらを壊した直後ということもあって、ガラクタを踏まないよう注意していたのだ。それなのに、予め仕組まれていたかのように足を取られた。
「やっちまったな」という言葉に含みを感じて、楽しげな肋角を睨み付ける。手が届かない程度、おおよそ三歩分の距離を取って、煙草の灰を落としている。煙草の先がすいと周囲のガラクタを指さした。
「他の物まで壊すなよ。程度の差はあるが、どれも呪いを受けているから危ないぞ」
「なにを言って……なら、あの靴べらは?」
「飲み込みが早いな。あれは使った者の足を取る呪いの靴べら。使ったというか、踏んでたがな」
「そんな馬鹿げた呪いがあってたまるか!」
完全にからかわれている。となれば投げ飛ばして同じように地に転がしてやらねば気がすまない。間合いを詰め、胸倉を掴もうとしたところで、次に見えたのは谷裂を見下ろす木々の枝葉だ。
靴底を救い上げられて、尻餅をつく。勢いよく踏み出していたのにこんな転び方がある筈がない。物理を超えた不可抗力が働かない限りは。
「ほらな、きっかり三歩目でこける」
「くっ……!」
三歩目で、というのがこの呪いの法則のようだ。肋角はそれを知っていて間合いを計っていた。もはや咥えたまましゃべるたびにぴこぴこ動く煙草にすら馬鹿にされているようだ。
「解呪の道具はあるが、欲しいか?」
「よこせ!」
「じゃあ、俺について来る報酬としてやろう」
「こんな呪いを受けていては仕事にならんだろうが!」
「おてて繋いでやるよ」
「ふざけるな!」
声を荒げて威勢よく立ち上がったはいいが、三歩目で転ぶとわかればその場から迂闊に動けなくなる。歯噛みしていると、肋角のほうから近付いてきて谷裂の左手を引いた。
「待て、おいっ」
これまで谷裂の主張に聞く耳を持たなかった男が、今更制止を聞き入れるはずがない。引っ張られるまま三歩、四歩と歩を進める。六歩目で肋角は足を止め、谷裂も両足で土を踏みしめて立ち止まった。
転んでいない。ほんの少し前までは当たり前だったことのはずが不思議で、足元を見下ろす。
「……どういうことだ」
二度も不可抗力に転ばされて、馬鹿げていても呪いは呪いだと体感したばかりだ。それなのに肋角に触れているだけで、それが封じこまれた。
「体質」
肋角は谷裂の疑問を一言で片づける。彼の中にもそれ以上に説明する言葉がないのかもしれない。生まれつき足が速い者がそれに理由を求めないように、元々呪いの類が効かないのならその事実だけで十分だ。
周囲に散らばっているガラクタはすべて呪いを受けているという。小さな小屋の中にある物もきっとそうだ。小屋は物を収めるために増築を重ねて、いずれ蔵と呼ばれるようになる。呪いの類が一切効かないのならば、呪具が肋角の元に集められるのも道理だ。厄介な物品の管理にこれほど適した者はいまい。
「無効になるのは俺に触れている間だけだがな。試すか?」
「……結構だ」
呪いの効果も、彼の体質とやらも試す気にはなれず、ただ苛立つ。肋角の体質は自らに触れる呪いの効果を弾くだけだ。呪いを解かねば根本の解決にはならない。解呪の効果を持つ道具は希少価値が高く、金を積まねばまず手に入らないが、それを得るための条件はすでに突きつけられている。
「いるだけでいいからな。足を引っ張るなよ、新人」
肋角の分厚い手が、すっかり反抗心が萎えた谷裂の手を握り直す。
突如飛ばされた過去の獄都での、非公式で厄介な任務の始まりだ。