The Diary(キスの話)「バレンタイデーのディナーどうしようか?」
ウキウキとした様子で愛しい人が言う。「楽しみです!」と書かれた顔が可愛らしくて堪らない。自分との時間をこんなに楽しみにしてくれている恋人が居てさぞお幸せだろう、と人は思うかもしれない。
だが、今、俺には一つだけ不満があった。そう、こんなに美人で(男だけど)性格が良くて(ちょっと天然過ぎるが)俺の事を愛してくれている恋人に、たった一つだけ。
「ローストチキンは年末年始に食ったしな…ラムはイースターに焼くだろ。ミートはどうだ?」
「いいね!」
「ステーキとローストビーフどちらが良いかな」「ソースどうしよう」とスマホでレシピを検索するイライの頭の中はディナーの事でいっぱいらしい。上背は立派なのに少食で、その癖食い意地は張っている。そこも可愛いのだが。
「まだ2週間も先だろ」
「あっという間だよ」
「チョコレート忘れないで」そう言って笑うイライに頬を寄せ、口と口が触れるか触れないかの際どい位置で「お前のワインも楽しみにしてる」と返す。チョコレートは俺が、ワインはイライが選び、お互いに贈り合って一緒に楽しむ予定だ。イライは「うん」と言いながら俺に頬擦りをし返した。
──これだ。これが俺の不満の種だ。いくら俺が誘うような言動を取っても、それが直接的に強請る行為でなければ、イライは自分からキスをしてこない。キスをしてこないというのは、それ以上も彼からは強請ってこないという事だ。手を握ったりハグをしたりはあっても、より恋人らしいお誘い、それこそティーンエイジャーレベルのお誘いすら一切ないのだ。
土曜日のモーニングティー──もうブランチの時間だが──のために鍋を火にかける。シナモンリーフ、ティムル、それと起床しきっていない頭のためにジンジャーは多めに。スパイスと湯がボコボコと騒ぎ始めた鍋に茶葉を加える。グツグツと煮出される鍋の中身と睨めっこしながら何かいい戦略はないものかと考える。
そもそも、何故イライは自分からキスすらしてくれないのか。キスが嫌い?それは無い。ひとたび合わせた口を開かせれば、積極的に舌を絡めてくる。セックス中だってあんなに物欲しげに見詰めてくる。……物欲しげに。
「……それだ……!」
こちらからしなければ向こうからしてくれるのでは?
右が詰まりゃあ左行け、だ。
自分から堪らず唇を寄せてくるイライを妄想して口角が上がるのを感じながら、火を落として鍋に砂糖を入れてかき混ぜる。
ウキウキと二人分のカーロチヤをベッドへ運んだ。
昨夜はしつこ過ぎたか、イライは起きてからも暫くダルそうだった。シャワーを浴びたあともぼーっとし、昼食を拵えている時も無口、食事後も本調子でない様だった。
俺はといえば、イライに接触しない事以外はいつも通りの土曜日を過ごしていた。が、流石にイライの様子がおかしく、駆け引きどころではないかもしれない。
もう夕方にもなる頃、どうかしたのか聞くために「イライ」と声をかけようとした時。
「今日は帰るね」
イライが不意に立ち上がりそう言った。
「え? 何でだよ?まだ土曜日なんだから泊まってけよ」
「……うーん……」
何だか元気が無いし歯切れも悪い。
「どうしたんだ?今日は元気無いようだが」
「何でもないよ。ただ何か…ダルいような?感じで」
「体調悪かったのか?」
「そういう訳でもないんだけど……」
「うーん……」とイライは困ったかのように首を傾げている。まるで自分の体調を自分で掴めていない様だ。
「なあ、具合が悪いなら尚更うちに居たらどうだ?それとも俺がお前の家に泊まるか?」
宥めるように額にキスをする。と、イライが目をパチクリさせた。
「……?」
「……?どうした?」
「……君、今日キスしてくれていない」
「は?」
いや、それは態とで戦略でだが。
イライの体調となんの関係が?
「……キスしてほしい?」
「うん」
何だかよく分からないまま、だが体調不良の恋人のお願いは聞いてあげたくて、今日は我慢していたキスを降らせる。頭、頬、項、肩、と触れて撫ぜて昨夜そうしたようにその肌触りを堪能する。
そうしていればイライの頬がみるみる薔薇色に染まっていった。
倦怠感からではなく、恍惚で重たげな瞼から覗く虹彩が此方を見詰めている。
「……そうか、なんとなく寂しいと思ってたんだよね。私、君からのキスが欲しかったみたい。いつも……君からしてくれるのに……今日はしてくれてなかったから……」
「あ、いや!お前からしてくれるのを待ってたんだ。いつも俺からばかりだろう?」
途中から不安そうに尻すぼむものだから焦ってそう告げる。計画はおじゃんだ。
「えっ……そうだっけ?」
イライには自覚がなかったらしい。
「そうだよ」
「……言われてみればそうかも」
「!」
ちゅ、となんの前置きもなく落とされたキスに驚く。可愛い恋人は頬を紅潮させたままこう言った。
「これからは僕からもいっぱいするね。だから今まで通り君からも沢山欲しいな……」
物欲しげな視線にヤラれて言われたそばから自分から口付けてしまう俺はやっぱりこいつには敵わないのだろう。これが計算尽くでないのだから困ったものだ。
宣言通り、あれからイライは隙があればキスしてくれるようになった。
「あっ……」
そして、自分の不調の原因も分からない少しボケてるこの恋人は、今またキスをくれたのだが。
「お前らそういう関係なのか?」
うっかり人前でキスをしてしまい、顔色は忙しなく口をぱくぱくさせているイライに代わり、俺がガンジに答える。
「ああ、キスしてなきゃ寂しくてやってられんくらいの関係さ」