雨天決行 誰かが小さく窓を叩いた気がして、百は目を覚ました。ほとんど無意識的に体を起こして、くしゃみをひとつ。見れば、寝る前にしっかりと肩までかけていたはずの毛布は蹴飛ばしていて、二月らしからぬ薄手で眠りに入っていたらしい。つい数か月前にまたひとつ年を重ねたというのに、いくつになっても寝相の悪さは治らない。
「ベッドから落ちないだけマシかな」
千と生活を共にしていた頃は、せんべい布団を仲良く並べて寝ていた。独立してほんの少しだけいい部屋に住むようになって、意気揚々と購入したベッドに朝まできちんと居られるようになったのは、何か月目のことだっただろう。
「ってか、今何時?!」
慌ててスマホを光らせると、時刻よりも先に通知が目に入った。後輩アイドルを始めとした、スポーツ好きの業界人の集まり。そのチャットグループからのメッセージだった。残念ですが、という文字が並んでいる。
今日は昼から野外コートを借りてテニスをする予定だった。それなりの人数が参加予定で、どうせならトーナメント戦にしようと盛り上がっていたはずだが、参加できなくなったメンツでも出たのだろうか。
「……あ」
チャットを開いて、納得する。
カーテンの隙間から、ガラス戸を雨粒が叩いていた。
キーケースを取り出そうとしてコートのポケットに手を入れ、肩口に水滴が散っていることに気付いた。撥水性の高い素材とはいえ、気に入りの衣服が濡れるのは気分のいいものではない。湿気に負けるようなずさんな手入れはしていないが、自慢の長髪もこうなると鬱陶しく感じるし、気圧のせいで眠気も日頃の三割増しだ。
天気のせいで撮影中のドラマのロケが中止になり、午後がオフになったのは有難いことだが。
マンションのロビーでオートロックに鍵を差し込む。自動ドアをくぐると、エレベーターの前によく知った姿があった。
「……モモ?」
「おわっ!」
猫のごとく飛び上がった百が、大きな瞳をさらに丸くして振り返る。
「ユキ?! なんで? 今日は仕事じゃないの?」
「雨で撮影が流れて……。そっちこそ、一日オフだから運動部で遊ぶって言ってなかったか?」
「それも雨で中止になったから。なんとなく、来ちゃった」
へへ、と恥ずかし気に笑う百と同時に、エレベーターが到着を告げる。
「買い物してないから、何もないよ?」
「いいよ! おつまみと、ユキがこないだ置いていったワイン持ってきたから、適当に映画でも観よう」
「おまえ、僕が帰らなかったらそうやって一人で過ごすつもりだったのか」
エレベーターに乗り込むと、百は迷うことなく千の部屋の階数を押した。この何気ない仕草が、彼が何度ここを訪ねてきているかを示している。
「雨が降ると、千の部屋に行きたくなるんだよ。何時になってもいいから、ユキの顏を一目見たくなるの」
迷惑? と、そんな筈ないのに聞いてくる猫っ気の頭を柔く撫でる。百の笑顔はいつも太陽のようで、外の雨を疎んでいた気持ちはいつの間にか晴れていた。
何もないとは言ったが、つまみの一品も出せないほどではない。貯蔵してある缶詰や、残り物の野菜、百が持参したつまみもアレンジを加え、それらしく皿に盛る。ワイングラスをぶつけて「雨の日に」と呟けば、「ダーリンってばいちいちオシャレ!」と百が嬉しそうにはしゃいだ。
「何をすればファンが喜ぶか、アイドルなら常に考えて動くものだからね」
「俺を喜ばせるためにオシャレにしてるってこと?」
「まあ、そうね」
「ユキがどんなにダサくても、こうやって一緒にいれるだけで俺は嬉しいけどな! もちろん、ユキはいっつもオシャレでイケメンなのが大前提で」
「ふふ、ありがとう」
グラスもボトルも、あっという間に軽くなる。皿の上のものはほとんどが百の胃に収まり、外の雨は少しずつ弱くなる。
千と百はそれぞれソロでの活躍も目覚ましいが、仕事のほとんどは二人での活動が占めていた。プライベートでもこうして一緒にいる時間は長いし、直接会わずともマネージャーや他のスタッフを通してお互いの情報を得ることもある。
それでも、不思議なもので一緒にいると話が尽きないのだ。千にとっては百の話は歴史的なミュージシャンの音楽と同じくらい価値があって、百は日常の些細なことでも千に話したがった。楽しくて、心地がいい。
お互いに告げていないことがあると理解して、そこに触れさえしなければ。
「そういえば、今朝起きたら毛布を蹴とばしててさぁ。雨で多少暖かかったとはいえ、風邪ひかないようにしなきゃって思ったよ」
「モモはいくつになってもヤンチャだな。ベッドから落ちてはない?」
「それはセーフ! 引っ越しすぐに何度も痛い目見たからね」
「全く……その寝相治さないと、人と寝るのも大変だろ」
グラスを傾けた手が止まる。ミスった。千が百の方を盗み見れば、ビビットピンクの煌めく瞳はアルコールですっかり蕩けていた。
「寝ないよ、モモちゃんアイドルだもん」
「……知ってる」
頷いて、勝手に安堵する。いつまでこの不毛な攻防戦を続けなければいけないのか。
千は百があらゆる意味で好きで、それはもう、仕事上のパートナーとしてはもちろん、自身の生み出した曲を歌うに相応しい相方として、ステージで輝くための相棒として、馬鹿げた思い付きも実行できる友人として、生活の一部を重ねることに躊躇う必要のない家族として、そして、一生を誓いたいと想うほど愛する人として。
百も同じ気持ちであることは明らかで、きっとどちらかが告げればこの関係は一変する。わかっていて、どうにもできない。
『おまえも僕が好きだろう』
何度もそう尋ねようとして、飲み込んでいる。告げるならもっとスマートがいい。どれほどダサい自分でも嫌わないと百は言うが、そんなのは向こうの好意の上に胡坐をかいているに過ぎない。もっとスマートに、何度も思い返してその度に百が赤面してしまうような愛たっぷりの言葉がいい。
ただ、それを実行すれば自分が追う火傷も多大なものであると想像ができる。それ故に何も言えず、そうしてまた、ただの相方のまま明日を迎えるのだろう。
「あ、雨止んでる」
百の言葉に窓の外へ目を向ければ、ぶ厚い雲の隙間でオレンジの太陽が覗いていた。だらだらと呑み続けて数時間、気づけば夜を迎えようとしている。
「泊まるだろ、モモ。明日は朝から一緒だし、帰りは送ってもらうようにすればいい」
「うーん……いや、今日は帰るよ」
「え」
当然、泊まるものだと思っていたせいで間抜けな声が出る。百は気にした様子もなく、皿に残っていたナッツの欠片を口へ運んで「ごちそーさま」と礼儀正しく挨拶をした。そのまま席を立とうとするので、慌てて止める。
「どうやって帰るんだ、もう暗くなるのに」
「? タクシー呼ぶよ! いっつもそうじゃん?」
変なのー! と笑う百に、変なのはお前だと言いそうになった。一緒に呑んで、尚且つ翌朝の入りが同じときは泊まるのが常だ。もちろんそうでない日もあるが、今日はわざわざ帰る理由もわからない。用事でもあるのかと尋ねたが、百は首を横に振る。それどころか、訳のわからない理由を並べた
「だってほら、雨が止んだから」
「……関係なくない?」
「あるよ。言ったでしょ、雨が降るとユキに会いたくなるって」
「止んだら用済みだって? そんな都合のいい男になったつもりはないぞ」
「俺だってそうだよ」
ぴしゃりと返されて、咄嗟に言葉に詰まった。
百も同じ気持ちであると信じて疑わずにいて。叩き合う軽口と夫婦漫才の合間で、どうすればこの想いを真剣に伝えられるか考えて。
考えながら、いつも何処かで不安になって。
「晴れでも雨でも、僕はモモに会いたい。それは、おまえが雨の日に僕に会いたくなるのと同じじゃないのか?」
尋ねる声が震える。百の前では、いつだって自信を持っていたいのに。
「……全然違う」
「は、」
「全然違うよ、ユキ。違うんだ。……ごめんね」
酔いが覚めたから歩いて帰る、片付けを任せて申し訳ないということを告げると、ショックを受けたように固まる千を残し、百は部屋を出て行った。
アルコールとは違う何かで瞳を潤ませて。
◇◇◇
「失礼は承知の上で……ユキさん、今日アイドルの顏じゃないっすよ」
「……わかってる」
楽屋挨拶に訪れた三月を迎えた千は、メイクのおかげで顔色こそまともだったが、その顔つきには普段のオーラやスター性は感じられなかった。
「カメラが回ればいつも通りになれるから……ごめんね、三月くん」
「いや、俺はいいですけど! 本番になればってことで言えば、むしろ先輩がゲストなのは一番やりやすいくらいですし」
百とのすれ違いから一晩。翌朝一本目の二人での取材を終えると、千は三月がMCを務めるバラエティ番組の収録だった。よく知った相手がいるというのが有難いような、気まずいような。
今朝、事務所で顔を合わせた百は昨夜のことなんて忘れたかのように普段通りに「おはよ!」と微笑んだ。取材中も変わらず、千をイケメン、ダーリン、ジェントルと褒め称え、別れ際には「午後もお互い頑張ろうね!」と千に向かって片目を瞑って見せる。残っていたスタッフに「流石の仲の良さですね」と囁かれるほどだった。
「あからさま過ぎて、おかりんには今度は何が原因ですかって言われたけどね」
「あー……マネージャーってやっぱり鋭いですよね」
うんうん、と頷いて激しく同意して見せた三月は、次の瞬間には司会業魂を光らせて「で、何が原因なんですか?」とつっこむ。先輩や目上の相手に対しても遠慮なく切り込んでいく姿勢というのは、間違いなく百から学んだ姿だろう。厄介な後輩を育ててしまったものだ。
オーラどころか生気のない体をソファに沈め、切れ長の瞳で何処か遠くを見つめる。オーラも生気もないくせに、その憂いさが絵になることがいっそ憎らしいと三月は密かに思った。
「僕が百に会いたいと思う理由と、百が僕に会いたいと思う理由は違うんだって。それで揉めた」
「説明する気ないですね、ユキさん……」
「全部は言えないよ。こんな情けない話、失恋ソングにだって使えない」
もしもRe:valeとして失恋ソングを作って歌うことがあったとして、それがどれほど素晴らしい歌になろうとも、この気持ちを活かしはしないだろう。
あまりにも滑稽だ。叶わなかった思いを、願った相手に歌わせるなんて。
「僕はずっと、百の気持ちを知ってる気でいたけど、それは僕の都合のいい夢だったんだよ」
「ユキさん……、
そうやって変なところで弱気になるから駄目なんじゃないすか?」
「刺さった! なんかすごい刺さった! 和泉兄弟のシャープさってときどき遠慮がないよね!」
似ているようで似ていない。今日がIDOLiSH7全員との仕事だったなら、あらゆる意味で遠慮のない後輩たちに囲まれて今頃千は灰になっていただろう。ちくちくと痛む胸を抑え、むしろこのくらいの痛みで治まったことに安堵する。
くすくすと千を笑っていた三月は、ふっとその表情を柔らかいものに変えて口を開いた。
「うちのリーダーに聞いたことがあります。昔、あの人がまだ捻くれまくってたときのこと。相方のためならどんなに格好悪い仕事でも受けて、それを一切恥じない、めちゃめちゃ格好いい人に会ったことがあるって」
遠く、記憶の奥底で蝉の音が響く。
「モモさんはユキさんが大好きですよ。誰に聞いても知ってることです。だからこそ、モモさんはちゃんと聞きたいんじゃないですか。ユキさんの言葉で」
「……どんなにダサくてもいいのかな」
「当たり前ですよ! むしろめっちゃ格好いいし、嬉しいです。自分のことを真剣に想っての言葉なら、きっと」
楽屋を出る直前、最後に三月は自身のスマホを取り出した。
「運動部の集まりって雨で流れること結構あるんですけど。スポーツできなくても、誰かの家で呑みとかゲームとかに変更して集まったりはしてるんです」
三月が示したチャット画面では、天気予報を恨む言葉に続いて、すぐさま屋内での集まりを呼びかけるやりとりが昨日の日付で行われていた。野外でのテニスが中止になった代わりに、昨日はパーティールームでのカラオケ大会が開催されたらしい。賑やかなものだ。
三月がそのチャット欄を下へスクロールすると、参加者を確認するメッセージに紛れてよく知ったアイコンが現れた。
『ごめん! 俺は不参加で! 次回晴れたらよろしくね』
ピンク色の目をしたウサギのスタンプが、手を合わせてぺこぺこと頭を下げている。
「雨のときの集まりにモモさんが来たこと、無いんですよ。何か理由があるのかなって思って聞いたら、ちょっとした賭けだって教えてくれました」
トーク回しを磨きまくったかわいい後輩は「賭けの内容はユキさんがいちばんわかるはずですよ」と意地悪く笑い、彼の戦場であるスタジオへ颯爽と向かったのだった。
◇◇◇
マンション地下の駐車場に愛車を止めると、百は一度エントランスの外へ出た。なんとなく、空が見たかった。
東京の夜空は狭く明るい。それでも見える大きな星に、しばらく天気の良い日が続くようにと勝手に祈る。雨が降ってしまえば、きっとあの部屋に行ってしまう。無謀な賭けを続けるために。
白い息を吐き、そろそろ部屋へ帰ろうかとしたところで声がした。聞こえるはずのない声。
「モモ!」
「……ユキ?」
振り返ると、目の前の路肩でタクシーが停止した。全開にさせた窓の向こう、後部座席で千が嬉しげに微笑んでいる。
なんで。どうして。今日は何の約束もしていない。いや、約束がなくとも互いの部屋を行き来することはある。昨日の自分がまさにそうだった。
でも、昨日は雨で。雨だから。退屈だから。そんな小さな理由をくっつけて、何かあればいいなんて期待をして、何もなくて、やっぱりなって諦めて逃げて。
それでも、昨日の今日で来てくれた。
これは、都合のいいことに思っていいの?
「これで。ああ、釣りはいいよ。またよろしく」
爽やかにタクシーから降り立った千の背後を、緑の車体が滑っていく。目の前の景色がなんだかとてもゆっくりに見えた。
「ユキ、なんで」
尋ねる声が震える。千の前ではいつだって、自信を持っていたいのに。
「言っただろう。晴れでも雨でも、僕はモモに会いたいって。その理由を、伝えに来たんだ」
我儘だとわかっていた。千の気持ちは自分と同じものだと信じていて、疑う必要はないのだと頭では理解していた。それでも聞きたかった。はっきりと聞かなければ、いつかのときのように自分の思わぬところで不安定になる気がしていたのだ。
千と歌えなくなるなんて、二度とごめんだった。
千の手が、百の手を握る。揃いの指輪には石がついていないのに、煌めくダイヤモンドのように輝いて見えて、まるで世界が塗り変わっていくようだ。
「今から、すごくダサい姿を見せると思う……呆れずに、最後まで聞いてくれる?」
おずおずと、緊張した面持ちでダサい姿でも見てくれと言ってくれる。この人のこんな姿を、きっと自分だけが知っている。
ばかだなぁ、と呟いた。
「聞くに決まってるよ。そんなの、世界でいちばんかっこいいんだから!」