おかげで向こう半年間ネタにされ続けた事務所に戻ると、そこはポッキーパーティー会場だった。
「……お前ら、何やってんの」
テーブルを囲んでいるのは、三人の男たち。ピンクに、黄色に、それからベージュ色の頭。天羽組の若手の舎弟たちである。
小峠の帰所に気づいた若手どもは、まずは真面目な顔で口を揃えて「小峠の兄貴、おかえりなさいませ」と言う。それからパッといい笑顔を浮かべて、
「今日は、ポッキー&プリッツの日です!」
と続けた。なんでも11月11日の1が4つ揃った形がポッキーやプリッツなどのスティック状菓子と並んでいることから、この日がポッキー&プリッツの記念日なのだそうだ。
「一般社団法人日本記念日協会にも認められている、立派な日本の記念日なんですよ!」
と、速水が得意げに説明してくれる。のに、小峠は気のない顔で「へぇ……」と返事をした。どうせなら、その記憶力やら企画力を、もっと別の方向に活かして欲しいものだった。例えば組のしのぎとか。敵対組織の撲滅とか、空龍街の治安維持とか。
「あ…兄貴もどうです? おひとつ」
傍で聞いていた飯豊と宇佐美が小峠の表情に何かを感じ取ったのか、たらたらと冷や汗を流しつつ、水を向けてくる。恨み節の一つでも聞かせてやろうかと思うが、ここで舎弟たちの密かな楽しみに水をさすのも、それはそれで気が引ける。暫し逡巡したのち、小峠はため息ひとつ、舎弟たちのその誘いに乗ってやることにした。
「で、何があるんだ?」
と此方が問うと、注意をそらすことに成功したと思うらしい飯豊と宇佐美が、明らかにホッとした表情を浮かべた。速水だけは、相も変わらず能天気な表情を浮かべていたが。
「定番のやつに、いちご、アーモンド、塩バニラ。太いのも細いのも、なんでもありますよ。中にチョコレートが入っている方がよかったら、トッポもあります!」
「おい、トッポはグリコじゃなくてロッテの商品だろ!」
競合他社の商品をしれっと混ぜ込んでんじゃねえ!、と呆れた顔で言ってやると、速水が一瞬キョトンとした顔をする。そしてもう一度パッケージを見直し、「あ……本当ですね!」と言って驚いていた。
余談であるが、トッポの日は10月10日である。トッポをグリコの商品だとうっかり勘違いしている人がいたら、ぜひ来年のこの日にでも、トッポの存在を祝ってあげてほしい。
舎弟たちがそれぞれ夜の見回りで事務所を出ていくと、ちょうど入れ替わるような形で、小林の兄貴が事務所に戻ってきた。
「小林の兄貴、お帰りなさいませ」
と、先程舎弟たちがしたように、今度は小峠が小林に向かって頭を下げる。
小林は小峠の顔を見、いつもの笑っているような無感情のような表情で、「おー、ただいまー」と言って寄越す。それからふと、小峠の後ろのデスクに目を止めた。
「それ、ポッキーか?」
言って、不思議そうな顔をする。お前そんなものをわざわざ買うほど、甘いものが好きだったっけ? そんな小林の思考が伝わってくるようで、小峠は少々、居心地が悪くなる。穿ち過ぎだとは思ったが、そんな女子供が好むようなものを、お前も好きだったか、と言われているようで、なんとも決まりが悪かった。こんなことなら舎弟たちから受け取ってすぐに、デスクの引き出しか給湯室の茶棚にでも突っ込んでおけばよかったと、少し後悔する。
そんな思考を追い払ってしまおうと、
「速水たちが買ってきたんですよ。今日は、ポッキーの日だとか言って」
少し早口で、小峠は小林に告げた。舎弟たちの名前を出して、これは自分の趣味嗜好ではないというのを暗に表現したつもりだった。しかし、返ってくるのは「ふーん……」という、気のない返事のみ。益々もって焦った気持ちになって、この窮状をなんとか脱することはできないかと、小峠は必死に頭を巡らる。そして、つい口にしてしまったのだ、舌の滑るに任せて「あ……兄貴も召し上がりますか?」と。
その言葉を聞いた小林は一瞬、パチパチと目を瞬かせる。少しの間、考えるような素振りをみせ、そして次には、悪魔みたいにニマリと笑った。
「なぁ、華太ォ……」
小峠華太は知っている、
「お前が、食わせてくれよ」
この表情をしているときの小林幸真が、頭の中でろくでもない考え巡らせていることを。
「今ここで。ポッキーゲームで」
「…………………………わかりました」
天羽組一の狂人相手に、否やなど、唱えられるはずもなく。かくして小峠は、舎弟たちに持ち込まれた菓子と小林幸真という2つの災厄が重なったことによって、事務所でなんとも恥ずかしい真似をしなければならなくなってしまったのである。
赤い紙箱の蓋を開いて、中から銀色のパッケージを取り出す。パッケージの背張りの部分と表の腹の部分を左右に引っ張ると、バリンと音がして、袋が口を開けるた。開くと同時、チョコレートとビスケットの甘い香りが、ふんわりとあたりに漂う。
久しぶりにかぐその甘ったるい匂いに、小峠は少しだけ眉をしかめる。同じようにでも感じたのか、小峠の隣りに座っていた小林も、すんすんと鼻を動かしてその匂いを嗅いでいる。
「ポッキーなんて食うの、久しぶりだなー」
なんて嘯きながら、物珍しそうに小峠の手元を覗き込んでいる。そんな小林を、小峠はちらりと横目で盗み見た。この甘い匂いに辟易して、辞めると言ってくれたりはしないだろうか、なんて、淡い期待を持ちながら、相手の様を観察する。と、それに気づいた相手が、なんだと言わんばかりの視線をこちらに投げ返してきた。ニヤニヤと笑いながら、
「ほら、早くー」
なんて急かしてくる。もうどうにも、逃げようがなかった。
覚悟を決めて、パッケージの中から一本、ポッキーを取り出す。クッキーの方を口に挟んで、顔を相手の方に仰向ける。自由にならない唇で、
「……ろうぞ」
と、どうにかこうにか口にする。言ってから、どうにも居た堪れなくなって、思わずギュッと、目を閉じてしまった。自分が咥えたものを食べられている間、あのきれいな顔をずっと見つめている余裕なんて、とてもではないが持てそうになかった。
見えなくなった視界の向こう、相手が笑っているのが、気配で伝わってくる。声がしたわけではなかったけれど、空気が震えているのがわかる。口を開いて文句の一つも言ってやりたかったが、生憎、ポッキーの先が下がらないようしっかりとくわているため、それもできない。相手に面白がられようが誂われようが馬鹿にされようが、ただじっと、いい子で我慢しているしかない。
と、サク、と音がして、相手がとうとう、ポッキーの先端をかじり始めたのがわかった。その振動が唇に伝わってきて、思わずびくりと、肩が震えてしまう。目を閉じて自分の無防備を相手にさらしているというこの状況が、もうどうしようもないほどに落ち着かなかった。落ち着かなくて、なんだか背中がゾワゾワするほどに。
逃げたい、でも逃げられない。そんな気持ちに耐えている間に、ポッキーを齧る音が、徐々に近づいてくる。相手の肌の熱が、その息遣いが、自分との間の距離を段々と縮めていく。それがわかって、心臓がどくどくと早鐘を打ち始める。
ゲームという体裁を取っている都合、相手も一応、ポッキーを途中で折らないように気をつけているらしかった。慎重に少しずつ噛み進めているため、ずっと息を詰めていたらしい、その呼吸がふと、こちらの唇をなぜる。近いところに感じたその感触に、ぶわり、と全身が泡立つ。背中と腰のつなぎ目の部分が、一際大きく、ぶるりと震えた。
そこでもう、小峠は限界だった。
「すみ、ませ…っ、……も、らめ、れす」
言ってとうとう、ポッキーの端を挟んでいた唇を、大きく開いてしまう。開いた口からこぼれ落ちたビスケットの部分が、ポトリ、と床に落ちる。落ちて数センチほど、コロコロと転がった。
いつの間にやら眉間が痛くなるほどにキツく閉じていた目を、恐る恐る押し開く。と、間近なところまで迫っていた、アメジストの瞳と目があった。その目尻がふと緩んで、鋭い三日月のような形を作る。
「……ごちそーさん」
悪魔が酷薄な笑みを作って、馳走の礼をいう。そうしてすぐに、離れていってしまった。その様を茫洋とした表情で見つめながら、小峠は辛うじて「……いえ」と返事をする。
と、そこで、
「……お前ら、事務所で何やってる野田?」
と野田の兄貴の声が聞こえてきて、急速に現実に引き戻された。慌てて事務所の入り口の方を振り返ると、そこには今しがた帰ってきたばかりの、野田の兄貴と和中の兄貴の姿があった。それを認めて、小峠の体温が、ざっとマイナス40度ほどまで温度を下げた。
「フゥールボォォーイズ……? ここは親っさんも通る天羽組組員共通の事務所だとわかってやってんのかァ?」
「関関雎鳩。いちゃつくのは自由だが、場所を弁えることだ」
「はーい。以後気をつけまーす」
「……………………本っ当に! すみませんでした!!!」
もちろんこのことで、向こう半年間は揶揄われ続けることになったのは、言うまでもない。