xxx -side B- がさがさ、と背後で藪を分ける音がする。それだけではない。荒い息遣い、枯葉や小枝を踏む音も聞こえてくる。だが、男はそれを完全に無視していた。
「ねぇ、メフィスト……」
当然、背後からかけられる、疲れた声も。
「まだ着かないのかなぁ。頂上」
小さく溜め息をつく。疲れたとか、お腹が空いたとかいう不平が出ないのは感心だが、五分間隔で尋ねられてはたまらない。
「今晩中には着かないだろう。多分」
背後を歩いていた少年が、素気ない返事に顔を曇らせる。だが、更に言葉を返すことはなく、足を進めた。
と、小さく身体が揺れる。僅かにバランスを崩した足は、確かな足場を見つけられなかった。
「うぁあああああああっっ」
悲鳴を残して、少年は崖を滑り落ちていった。
山道を登っていた時の比ではない凄まじい物音を、男は黙って聞いていた。それが一段落し、静寂が周囲を支配する。
それからたっぷり十秒以上は経ってから、メフィストフェレスは少年の後を追った。
慎重に、滑りやすい崖を降りていく。少年の行き先は、見事に破壊された藪の跡で容易に察することができた。
やがて、小さな手が落ち葉の間から覗いているところまで行き着く。
「真吾?」
メフィストフェレスの呼びかけにも、少年はぴくりとも動かない。中腰で、男は片手を伸ばした。
「大丈夫か、真吾……」
「おっそぉおおおおおい!」
怒声とともに、少年が撥ね起きる。同時に伸ばされていた手を思い切り引っ張った。
「うぉっ」
メフィストフェレスがバランスを崩し、湿った地面に膝をつく。その瞳を至近距離から覗きこむようにして、真吾は更に怒鳴った。
「どうしてすぐに追ってこないんだよ! こんなに経ってからのこのこやってきて!」
「……おい真吾……」
「そもそも、足を滑らせた時に助けようともしてくれなかったじゃないか!」
「お前なぁ! 服が汚れちまったじゃないか!」
男が怒りも露に叫ぶと、少年の瞳がすっと温度を下げた。
「……僕のことがこれっぽっちも心配じゃないわけ? たかが膝が泥の中に埋まったぐらいでなんだよ。僕なんて、全身泥だらけなんだから」
確かに、真吾の身体は髪の毛から足の先まで泥や木の葉で汚れている。が、メフィストフェレスは無意味に胸を張り、冷たく続けた。
「何を云ってやがる。ガキは泥だらけになって遊ぶぐらいがちょうどいいんだ」
「そーいう問題じゃないだろう」
真吾の絶叫が、暮れてゆく空に響いた。
結局かれらはその後三十分に渡って口論を続け、すっかり暗くなった山道を進むことを諦めた。幸い、真吾が落ちた場所からさほど離れていない場所に小さな洞窟を見つけ、彼らはそこへ落ち着いていた。
洞窟の入り口で見張りをしていたメフィストフェレスが、ちらりと奥へ視線を投げる。小さな焚き火の傍で、こちらに背を向けて少年は横になっていた。
メフィストフェレスの魔力で水を出し、泥は落としていたが、真吾の機嫌は直っていなかった。近づいてみると、少し眉を寄せた表情で眠っている。
身体にかけたマントを捲る。むき出しの足や腕には、擦り傷が目立った。捻挫や骨折などはなかったが、それでも痛むのだろう。
右手を取り上げる。手の甲の傷に、唇を触れた。
二の腕や肘の傷も、ひとつひとつ辿る。次いで左手、そして足。首筋や頬にも触れたが、疲れているのか、真吾は目を覚まさなかった。
目につく限りの傷を癒し、一息つく。相変わらず眠り続ける少年に苦笑した。真吾の柔らかな前髪を軽くかき上げたとき、その指が止まる。
額に、小さな擦り傷が残っていた。
「……全く、どうしてこんなところに怪我をするんだ」
そう呟いて、男は、最後の傷に口づけた。