面堂先生と諸星先生「知ってる? 春に赴任してきた面堂先生とあの諸星先生の噂」
「ああ、知ってる知ってる。なんでも、高校の同級生だって」
「そうなの、それなのに二人が会話してるところ見掛けないでしょう」
「私も気になってたのよ。昔から犬猿の仲だったって」
「そうみたいよ。顔を合わせれば喧嘩三昧だったらしいの」
面堂先生の想い人を諸星先生が力づくで奪ったとか。クラス委員長を決める際に殴り合いの喧嘩をしただとか。あれやそれや、それはもう本当に凄くて。
「ずいぶんと血の気が多いのね。だから今もまともに会話出来ないって言うじゃない」
「そんな様子で、おんなじ職場でやっていけるのかしら」
「でもまあ二人も良い大人だから、やっていけるんじゃない?」
「それもそうね」
担当クラスの授業を終え、狭苦しい職員室へ戻る気にもなれずに、時間を潰すために保健室へと向かっている途中に出くわしたハプニングだった。
盗み聞きをするつもりは毛頭なかったが、人の往来が激しい廊下で立ち話をしている方が悪いと思う。女子生徒に噂をされることに関しては悪い気はしないが、問題は内容だった。噂話には尾ひれがつくとはよく言ったものだが、こうも脚色されるとは。とはいえ、火のないところに煙は立たないとも言う。まあ、高校時代に何かと張り合っていたことは事実ではあるけれど。
「…そんなに、仲が悪いように見えるのか」
仲良し認定されるのはもちろんのこと御免だが、生徒たちから物騒な印象を抱かれるのも困りものではある。仮にも、教職に就くものとして。
「…さて、どうしたものか」
右手に持っていた出席簿を持ち替えた瞬間に予鈴が鳴り、二人の女生徒が足早に駆けていった。
「次、移動教室じゃなかった?」
「急がないと!」
ぱたぱたと廊下に響く二人分の上履きの音。遠くの方でドアの開閉音が聞こえたのでほっと胸を撫で下ろした。頭上で喧しく鳴り始める本令を合図として歩みを再開する。
「噂ってのは、どうも一人歩きするらしい」
独り言を呟きながら校舎三階から階段を使って一階にある保健室へと急いだ。踊り場を大股で歩き、手すりをうまく使って遠心力で下へと駆け下りる。本令後の廊下はしんと静まり返っていた。教室に生徒たちはわんさかといるのに、誰もいない街へと放り出された気分になる。とにかく、保健室を目指した。
水曜日の三時間目は、保健医が不在なのをあたるは知っていた。体育の授業に同行しているようで、その時間帯だけ施錠もされている。とはいえ役得につき鍵なんてものはいつだって手に入る。だから毎週この時間帯は、あたるの休憩時間にあてられていた。
授業真っ只中の廊下は水を張ったように静かで、遠くの方からピアノの音とホイッスルの音が聞こえてくる。いかにも学校って感じがする。
保健室は予想通りもぬけの殻だった。太陽の昇り切った空は眩しくて、僅かに開いていたカーテンをぴしゃり閉じる。砂埃の舞うグラウンドをカーテンの隙間から眺めつつ、ベッドに寝転ぶか椅子に腰掛けるか思案していると、がらりとドアが開いた。
「――失礼します、って、なんで貴様がいるんだ」
後ろから声がして振り返ると、面堂がいた。すぐ脇に佇む体操服姿の男子生徒がそれはそれは居心地悪そうにしていたので思わず笑った。
「まあ、成行きってやつじゃ」
椅子に掛けられていた白衣をおもむろに羽織ると、面堂の眉根がいっそう寄った。
「…そんな風にはいっさい見えんが」
呆れたように目配せをした面堂が「貴様の考えることなど高が知れる」と言ってのける。さすがに善良な生徒の前で教師のサボりを暴露する気はないらしい。精神面で成熟したゆえの気配りなのか、ただ単にあとの「ゆすり」のためなのか。どちらにせよ今の状況は切り抜けられそうだった。
「彼、体育の授業で突き指をしたらしい。湿布をくれないか」
「湿布ねえ。どこにあるんじゃろ」
「お前、保健医代理じゃないのか?」
「代理でも知らんもんは知らん、ちょっと待っとれ――ここかな」
壁側に設置された天井の高さほどある戸棚のなかをがさごそと探ると、プラスチックの道具箱が出てきて、湿布類はそのなかに保管されていた。手の指サイズのものを見繕って男子生徒の元へと近付き、出してみろ、と投げやりに言う。
「――へ?」
「突き指、したんじゃろ。おれの気が変わらんうちにはよ手を出せ」
「あっ、は、はい――」
男子生徒の手はあたるよりもほんの少し大きかった。いまどきの若いもんは憎たらしいほどに成長著しい。どこの指だ、と小さく尋ねると、人差し指だという答えが返ってくる。
すらっとした指をひと撫でしてから、「ずいぶんと腫れとるな」と独り言のように呟いた。
「…だから突き指をしたって言ってるだろ」
「なんで面堂が答えるんだよ。…そうだな、予備の湿布も出しておいちゃる」
風呂入ったあと張り替えろよ。そう言って男子生徒の肩をぽんとはたくと、弾かれたようにして顔を上げた。あたると面堂の顔を三度ほど交互に見たあとに、先生たちって、と何かを言い掛けようとするので、視線で阻止をする。
「授業中だろ、はよ戻れ」
「…は、はい」
有無を言わさぬ口調で伝えれば、押し黙った男子生徒は大人しく帰っていった。保健室に残ったのは、保健医代理もとい絶賛サボり中のあたると、それから――。
「面堂はどうするんだ?」
白衣のポケットに両手を入れたまま上目使いに聞けば、面堂がふいと視線を逸らした。
「先生をつけろ。…ぼくも戻るに決まっとろう」
名残惜しそうな声と顔で言ったところで説得力に欠ける。こういった仕草を見るにつけ、素直に「可愛い」と認めるようになった。これも大人になった証だろうか。
「あ、そう、戻っちゃうの、面堂先生」
「なにを笑っとる」
「べつにぃ」
少しだけトーンを落として、もう一度「先生」と言ってみた。面堂の眉がぴくりと動くので満更でもない気分だった。そのまま近づいて、埃ひとつついていない面堂のネクタイを敢えて整えて掴み、くいと引き寄せる。頬が触れるか触れないかの距離までくちびるを寄せ、ふと息を吐いた。
「…噂されるかもしれんな」
誰にも暴かせないように、そっと秘密を囁くようにして、触れるだけのキスをする。僅かに香る煙草の香りに情事を思い返して興奮した。距離を取ったつもりが、いつの間にか腕を掴まれて引き戻された。
「…噂ってなんの話だ」
「知らんのか。面堂先生はもう少し、生徒たちの話に耳を傾けた方が良いよ」
面堂の腕に収まりながら、それっぽいことを言ってからかってやった。女生徒に人気なのは知っているが、男子生徒と男性教諭に対しても、もっと心をひらいた方が良い。
「…貴様だって、男子生徒からの信頼だけは厚いと聞いたぞ」
「なんじゃその話、初耳だぞ」
だったら給料上げてくれんかね。本音と冗談を織り交ぜた声色で笑ってみせると、面堂が調子の良いやつ、と不貞腐れたように言った。こんなにも嫉妬を全面に出されると、あたるの方が照れてしまう。
「…あのな、男にモテたところでこれっぽっちも嬉しくないからな」
「…ぼくでもか?」
「ああ、もちろん。もれなくお前もじゃ」
勝ち誇ったように笑えば、機嫌を悪くした面堂に後ろから抱き締められた。なんだか楽しくなって、笑いを噛み締めるようにしてくつくつと喉を鳴らす。ふいに面堂の腕時計に視線を移動させれば、あと十分で授業が終わるではないか。
体を重ねる時間は、さすがに、ないか。
したい、なんて真正面からおねだりをすれば面堂は耳まで赤くして怒って照れるかもしれない。それはそれで見てみたいけど、でもぼくたちは健全たる立派な教師なので。倫理に反するようなことはいたしません。愛し合うならしかるべき場所で愛し合います。
「…仲が悪いのは本当だったって噂されるかもしれんな」
あたるを背中から抱き締める面堂が「仲?」と訝しげな声を上げた。
窓側から響くのは生徒たちの元気な声。時計の針の音。シャツ越しに伝わる体温。くんと匂いを嗅げば、保健室特有の薬の匂いがした。
「仲が悪いのは本当だろ」
「ああ、そうだった」
では、噂されても一緒だな。だって、すべてが本当なのだから。
そう言って後ろ手で頬を撫でる。面堂の手を取りながら、すべてが馴染んだその胸に背中を預けた。