夜の見回り テスト期間中の学生たちを牽制する意味合いも込めて、「夜は見回りをするぞ」と聞きようによっては脅しめいた言葉をチラつかせる教師は中にはいる。
正直なところ夜に見回りをするような余裕は持ち合わせていないので、「釘を刺す」程度に収まるのが通例なのだが、今年に限ってはなんだか風向きが変わってきた。
なんでも、近隣の学校で騒ぎが起きただとかで教育委員会が「おおごと」にし始め、年内最後の期末テスト期間のみ夜の見回りを決行するという旨の通達を出す由々しき事態に陥ったのである。
「生徒を信じている。ゆえに見回りは不必要」という教職員の言い分は、「子どもを守るのが大人の務めです」というどうにも反論をし難い言葉によって簡単に却下されてしまった。校長から漂うのは、みなぎる使命感。お上の決定には逆らえないものなのか。
「――何も起こらないのが一番なんです。でも防波堤にはならないといけない」
黒縁の眼鏡が似合う我が校の校長が柔和な笑みを浮かべている。初老に差し掛かった風貌は誰かを彷彿とさせた。誰だっけか、面映い記憶を呼び起こす。校長が眼鏡のブリッジを押し上げた際に、レンズがきらりと光った。
日課の職員朝礼は冬晴れのなか行われ、カーテンの隙間から零れる陽光はやわらかく温かい。覚醒しきっていない頭はいくぶんぼんやりとしていて、しゅぽしゅぽと燃焼する石油ストーブの音が余計に眠気を誘い心地よかった。
視界の端に映る校長が何かを言っていることは分かるのだが、その言葉をうまく飲み込めずに欠伸を繰り返していると、隣にいる面堂がごほんと咳払いをした。僅かに視線を上げると、薄い虹彩が飛び込んできて、ちゃんと聞け、と窘められた。
聞いとるわい、と言い返そうとした瞬間に廊下側からわっと歓声が響いた。生徒たちが何やら騒いでいるらしいことは分かったが、だからといって廊下に飛び出るようなことはしない。明日から期末テストが始まるというのに呑気なやつら、だとか思っていた矢先の出来事だった。
「――ということで、諸星先生は初日を担当していただけますか。ペアは、そうですねぇ、やはりここは面堂先生が適任かと」
寝耳に水、とはこのことかもしれない。ペア、とは、適任とは。
「え?」
「はい?!」
との素っ頓狂な声も被るってもので。誰かとなんて、言うまでもなく。
「適任とはなんですか?」
「適任、つまりは、よく適していることを指しますね」
「誰が意味を聞いていると言いました!」
先に名指しされたあたるよりも何故か、面堂のほうが困惑をあらわにするので、一歩出遅れた。あたるが言いたかったことを見事にきっちり言ってのけた面堂が、目を吊り上げて感情をむき出しにしている。とはいえ、にべもなくあしらわれるのは目に見えていた。
「明日からの夜の見回り、よろしく頼みますよ」
やわらかな物腰からくる有無を言わさぬ雰囲気に、あたると面堂は押し黙るほかない。
テスト期間中は下校時間が早まるとはいえ、教師はそうはいかない。明日以降のテストの準備やら普段は出来ない雑務の数々をこなせば、あっという間に夕刻を回ってしまう。
下校のチャイムが鳴ったのをきっかけに気まぐれによる採点作業を進めていると、「そろそろ行くぞ」と面堂に声を掛けられた。ふと窓の外を見ればグラウンドの半分ほどが薄いオレンジに染まっている。
「な~んで面堂と夜の見回りなんて行かなならんのじゃ」
「それはぼくの台詞だ」
まだ数人分しか採点の終わっていないテスト用紙をファイルにしまってから鍵付きのデスクに押し込み、面堂のあとを追う様にして職員室を出た。今夜はそのまま帰宅するつもりなので、通勤用のリュックも忘れずに背負う。
影が落ちた校舎の廊下はひんやりと冷たくて切なさがあった。付かず離れずの距離を保ちながら面堂の丸い後頭部あたりに視線を彷徨わせる。コートを着ていても分かる姿勢の良さと精悍な体つき。なんだか、二人で出掛けるみたいな気恥ずかしさが押し寄せてきて、ふいと視線を逸らしてしまう。濃密な肌の触れ合いなんかもよっぽど、いまみたいな瞬間の方が照れる。何度体を重ねても、まだちょっと慣れない。
あたると面堂が言い渡された見回り箇所は、学校から徒歩圏内の駅周辺および近くの百貨店だった。すっかり夜に沈んだ繁華街を歩きつつ、我が校の生徒がいないかくまなく探す。平日とはいえ、師走を前にした街はどこか忙しなくて、新年を待つそわそわとした気配が漂っていた。
「さすがにテスト初日だぞ。遊んどるわけなかろ」
「ぼくもそう思う。だけど、見回りをした、という事実が大事なんだ」
「いやな言い方するの」
「ぼくだって、そういう言い方はしたくない」
既成事実、みたいな印象を受けて、正直あまり良い気はしなかった。とにかく早く終わらせて帰りたい。とはいえ、本当に生徒を見つけてしまったら厄介だな、とも思う。生徒を信じているとはいっても、万が一を考え、その万が一が発生した場合に解決策を導き出すのも大人として大切な使命だ。
「これ、二人でおんなしところ回る必要あるか?」
「それもそうだな。諸星は駅の北側を見てくれ。僕は南に回る」
「はいよ」
見回りが終われば報告書を提出しないといけない。そういう面倒くさい作業は面堂に押し付ける気満々で、かったるそうじゃなあとまるで他人事みたいに思っていると、目の前の細長い雑居ビルから見慣れた学生服を着た男子生徒が出てきたのでさすがに唖然とした。視界の端っこで面堂もあんぐりと口を開けているので、ほんの少しだけ冷静になれた。こんなところで面堂との一蓮托生を感じるなんて、どうかしとる。
「――あれ、諸星先生と面堂先生?」
二人の教師から注目を一身に集めた当の本人は、呆れるほどに平然としている。あまつさえ、「こんなところで何してるんですか」などと言い出すので思わず大きな声が出た。
「お前こそ、な~にやっとんじゃ」
「き、き、きみは今何時だと思っとる!」
「えっと、十九時過ぎですか?」
「真面目に答えんで良い!」
ぜえはあと息を荒げる面堂の頭のなかでは、おそらくありとあらゆる「よくないこと」が駆け巡っているのだろう。不純異性交遊? 危険なアルバイト? このままでは面堂がパンクしてしまいそうだったので、ちょいちょいと彼を呼んで、ビルの脇の路地に入った。
「お前、確かきょうは早々に帰ってたな?」
「ええ、そうですけど」
幸か不幸か彼はあたるが担当するクラスの生徒だった。三教科分のテストが終わり、簡単なホームルームが終わると我さきにと教室を飛び出していったのだ。それがあまりにも急いでいる様子だったので、印象に残っていた。利発そうな細身の男子だけに、まさか夜の見回りで鉢合わせするとは夢にも思わない。
「おれはこれでも理解のある教師だと思っている」
「はあ、そうですか」
「だから、嘘はついてくれるな、本当のことを話してくれ」
声のトーンを落とし、懇願と諭しのちょうど中間くらいの声色を意識する。努めて真面目な顔を作れば、男子生徒が困惑げに眉を下げた。
「本当のことって…」
「さあ、早く」
ええっと、と口ごもりながら人差し指で頬をかく。内心どぎまぎしながら、彼の次の台詞を待っていると、思いもよらない返事が返ってくる。
「学習塾の帰りですけど」
「………え?」
「あの、だから、学習塾の、帰り」
ここ僕が通う塾です、と指差したのは雑居ビル。思わず面堂と顔を見合わせる。あたるが瞬きをしたタイミングで面堂も瞬きをした。はあ、とまたもや同じタイミングでため息を吐けば、全身から力が抜けていった。
「ったく、紛らわしいことしおって」
「きみの担当クラスの生徒は揃いも揃って問題児だな」
「なにを言うか」
やいややいやと面堂と言い合っていると、プッと車のクラクションが聞こえた。大通りに視線を移すと、停車した白いバンの窓が開き、男子生徒を呼ぶ声が聞こえる。
「あ、お父さん」
「父さん?」
生徒の両親が迎えに来たようだった。三人の視線が一点に集まり、微妙な戸惑いをはらんだ空気が流れる。
「じゃ、諸星先生と面堂先生、さようなら」
爽やかな笑みを残して生徒が去っていった。白いバンに乗り込む際に見えた彼の父親と一瞬だけ目が合ったので、一応軽く会釈をした。ドアが閉まる際に男子生徒があたるたちに向き直った。
「そういえば先生たち、あんなところで何してたの?」
もしかして二人で飲みに行くとこ? なんて、楽しげに続けて。は、と声にならない声が漏れたのは面堂も同じようだった。屈託のない笑みを前におのずと二人の声が重なる。
「夜の見回りじゃ!」
「夜の見回りだ!」
言い返したは良いものの、彼を乗せたバンのドアは無常にも締まる。あたると面堂の声が彼に届いたかどうかは、明日問い詰めないことには分からない。
寒空の下、面堂と二人残されて居た堪れない。今夜の見回りは十分だろうという判断を勝手に下し、退陣準備に入った。
明日もテスト、明後日もテスト。それが終われば採点の嵐。終業式が終われば束の間の休息に入るが、年末年始の休暇なんて寝て食べて寝て食べて体を重ねたりなんだりしたらあっという間に終わる。
「ほんまに飲んで帰っちゃろか」
「馬鹿言うな。生徒に示しがつかんだろう」
「はあ、世知辛い世の中じゃ」
そう呟きながら上着のポケットに両手をつっこむ。裏起毛のついた赤色のウインドブレーカーは温かくてお気に入りだった。路地裏から大通りへ出ると人の流れも落ち着いていた。縁石のあたりで立ち止まった面堂が、きょろきょろとあたりを見回すので、不思議に思った。
「なにしとるんじゃ」
「タクシー」
「え?」
「タクシーだ。乗るだろ」
頭脳明晰を専売特許にしているわりに面堂は、切羽詰まったときなどに単語だけで返すことがよくよくあった。たどたどしい話し口調はちょっとあどけなくて、こういう面堂と出会うたびに、生徒たちには見せられんな、と思う。馬鹿にしてやりたい気持ちと、独り占めしたい気持ちが綯い交ぜになる。
そうこうしているうちに一台のタクシーが面堂に気付き、二人の前にすっと停車した。程なくし後部座席のドアが開き、面堂が無言で乗り込むのであたるもそれに倣う。
「――まで行ってくれ」
面堂が指示した場所があたるの家の近所だったので「ほう」と思った。ほう、と満更でもない気分で思いながら、シートに背中を埋める。タクシーが動き始める。
「面堂先生、課外授業ですかぁ?」
カッチコッチカッチ、指示器の音を聞きながら、囁くようにからかうように言えば、面堂がくんと息を吸った。射抜くような瞳で見つめられる。触れるか触れないかの絶妙な距離を保ちつつ、暗い車内で視線を絡ませる。暗くたって、街はネオンが輝いているから。どうってことないのだろう。
「――そうだ、と言ったら大人しくなるか?」
なんて、呆気なく認めるもんだから拍子抜けどころか、興奮した。こくん、と唾を飲み込む。腰を打たれる想像をして、ちょっと濡れた。
さんざんした。平日だとか職業柄だとか堅苦しいことはお構いなしに、いつも以上に激しく求め合った。気付いたら朝だった。
気だるげな体を起こす気にもなれない。枕元では鬱陶しいアラーム音が鳴り響いていて、十中八九、セットしたのは面堂だろう。
「…あ~…最悪じゃ…声が出ん…」
掠れた声を喉奥でごろごろと鳴らしていると、寝返りを打った面堂に正面から抱き締められた。汗のほかに色っぽいそれが混じり合った匂いが鼻孔いっぱいに広がって、再びその肌にすべてを委ねたくなってしまう。
「生徒に示しがつかないね、面堂先生」
「…貴様、意地が悪いぞ」
「そう? 昨日さんざん激しくしたのはどこの先生かなあ」
もう無理じゃ体がもたんって何度も何度もお願いをしたのに、奥をぐちゃぐちゃに突いてきたでしょう。鼓膜にキスを落としながら拗ねたように言うと、脇腹をくすぐられた。やり返して、やられて、またやり返して。それだけで朝の貴重な五分があっという間に溶けていく。
「…そろそろ起きなあかんぞ」
「…ああ、知ってる」
したあとの肌はなんともいえない心地よさがある。しっとりと火照った素肌をべたべたに触って回って、どちらからともなくキスをする。こめかみや額、むき出しの部分に順に口づけを落としていくと、無敵になれる気がした。
恥ずかしくてベッドの上でしか出来ないので、手を繋いで最後に口づけをして、甘いものをぜんぶ堪能して。は、と吐息をはき出す。
「…見回りだって口実があれば、夜に二人で歩いてたって変じゃないな」
ついうっかり、みたいな感じで口をついて出たあたるの本音を、面堂はかなりの衝撃を持って受け取ってしまったらしい。耳まで真っ赤にしてあたるの首元に顔を埋めるので、珍しく寝癖のついた後頭部をぐちゃぐちゃにかき撫ぜて、つんと尖った耳先を甘噛みした。