臆病者の恋『はたして牛人伝説はかような幕切れとなった──』
重々しいナレーションとともに番組がCMに切り替わる。
緊張していたらしい、真白と紫之がそろってほうと息をついた。
星奏館の共有スペースだった。夜も八時を過ぎ、窓の外はとっぷりと暗い。テーブルのうえ、紫之が用意した紅茶がそれぞれのまえに置かれている。
先日、朔間いわくの「フェイクドキュメンタリー」が放送された。録画したそれを見ようと関係者およびそのほか幾人かが集まり、こうしていまみなでテレビをかこんでいる。もっとも首謀たる朔間は仕事だとかで星奏館には戻っていない。
「なかなかよくできていたな!」
声を張りあげたのは守沢で、なにやら嬉しそうに両の拳をにぎりしめている。
たまたま通りがかったところを鬼龍に誘われ、そのままソファの一角にひきこまれたのだけれども、はじめのうちは見るからに腰がひけていた。どうやら怪談の類が苦手らしい、というのにいったいなにが心の琴線にふれたものかと敬人はひとり首をかしげる。
しいて言うなら最後のアクションは特撮ヒーローの決め技らしかったろうか。
怪奇番組とはいえこどもも視聴者となるゴールデンタイム、ならば評価はまずまずだろうと安心する一方、真剣に真白を守ったつもりが結果として茶番じみてしまったことには忸怩たる感がなくもない。
顔をしかめるこちらには気づきもしないらしい、超能力戦隊があるんだから蓮巳がいつか霊能力戦隊になる日もくるかもな! と守沢は呑気にはしゃいでいる。
それおまえ観られねえんじゃねえか、と冷静に指摘しつつ、当時をおもいだしてか鬼龍がしみじみと言った。
「まあ、おもってたよりはうまくまとまってたな」
「夜の山のなかなんて怖かったでしょう」
紫之がたずねれば、真白はうーんと首をひねった。
「いやー、正直なところ蓮巳先輩のこどものころの話がインパクトありすぎてほかはいろいろ抜けちゃったっていうか」
あ、といったん言葉を切り、真白はあわてたようにこちらをうかがう。
「言ってよかったですか」
「ああ、構わん」
なんだ、とかたわらで鬼龍が訝しげにするのに敬人はひらりと片手をふった。
スマートフォンの録音機能には拾われていなかったらしい、幼き日の思い出をかいつまんで話せば、紫之は目をまるくし真白は苦笑し、守沢はぎょっとしたように身をすくませる。
そんな話してたのか、と鬼龍が天をあおぎつつソファの背に腕をまわした。
「後輩をびびらすなよ」
「びびる?」
鸚鵡返しにすれば、鬼龍はそりゃそうだろと呆れたようにかぶりをふる。
「幽霊や牛人より怖ェよ。夜中にそんな話されて真白も気の毒に」
なあ、と呼びかけたさき、後輩たちはけれど額をつきあわせてなにやらひそひそと話しあっていた。
「たしかに怖いお話だなあとおもいますけど、そのひと夜にお墓のまえで、大鉈でなにしようとしてたんでしょう。だって復讐する相手はもういないのに。いえ、生きてるひとのまえで大鉈もってるのはもっと問題なんですけど」
「あー、墓石こわそうとしてた? とか? せめてもの腹いせってことかな。お墓って石だもんな、大鉈くらいじゃないとこわせないよな」
「うーん、お墓をこわすなんてよくないけど、もしかしてそういうことだったのかも」
「お墓掘り返すならスコップとかだもんな、やっぱり大鉈の使い道っていったらそうだよな」
かわいらしい顔をふたつならべて物騒な推理を続ける後輩を見やり、あいつら意外と肝太いな、と鬼龍がつぶやく。
「俺はそんな夜更けにちいさい子がふたり、事情があったかもしれないとはいえ危険物をもち激情した男のそばにいたことが心配だ! くそう俺がその場にいれば」
「いや守沢おまえもな、昔の話だぞ」
なにやらそれぞれの方向に盛りあがっている面々、そのなかふいとひっかかるものを感じ敬人は小首をかしげる。
「……なんだ?」
つぶやいた、言葉はCMが終わり、鬼龍がおら次はじまったぞという声にまぎれてしまう。
ふいと画面が暗くなり、きゃーというわざとらしい女の悲鳴ととともに『恐怖! 幽霊屋敷の謎!』という白抜きの書き文字が躍る。守沢がびくりとし、席をはずそうとしてしかし後輩の前ではそれもできないらしい、立ったり座ったりと挙動不審になるのを鬼龍が苦笑しつつながめている。
紫之と真白はといえばそろって両の拳をにぎり、つぎの企画のネタを探すぞーと意気込んでテレビに向き合っている。
度し難い、そうつぶやいて敬人はテーブルのうえに置かれたティーカップを手にとる。
紅茶はいつのまにかさめてしまって、すこし舌ににがかった。
夏の陽はゆるりと溶けて朱をふくむ。
雑踏のなか、敬人はふと立ちどまった。すぐうしろにいたこどもがあわてたようにたたらを踏み、ランドセルの金具の音も高らかに駆けていく。
ビルの谷間に赤い陽が落ちてゆく。
夏の熱はひかずに、腕や首筋のあたりにじわりとまとわりつく。
ショウウィンドウの向こう、すらりと立つマネキンの指先さえもが茜の色に染まった。
街路に沿って植えられたプラタナスが風に枝を鳴らすのも、通りをゆく車の排気音も、ひとびとの話し声もいりまじっては過ぎてゆく。
四車線の道路を隔てた向こう、高層の商業ビルを敬人は仰ぐ。
壁面を大々的に飾るのはむかしより見知った姿だった。水のような夕映えのなか、飄然としたその笑みもまた薄い朱に染まる。
怖いお話だなあとおもいます、紫之の声がふと耳によみがえる。
後輩びびらすなよという鬼龍のあきれ顔もついでとばかりおもいだし、敬人は眉根をさらに深めた。
幼き日にあったできごとを、おそろしいものだととみなは言う。けれど敬人には、あのとき真白を怯えさせるつもりなどまったくなかった。
なかったのだと、たしかめるように口にする。
自分にその気がなかったのだとしてもひとの耳にあれが怪談として聞こえたならば、それはきっとそういうことなのだろうと、理解する一方でけれどやはりすなおには肯えないものがある。
というよりも、とつぶやいた、声は往来をゆく車のクラクションにかき消された。
ほんとうにおそろしいのは心霊や怪異の類ではなく人間の情念、あの日のことを自分はそのようにまとめたけれど、実際のところはすこし違和感がある。
武器をもったおとなは怖い、守沢の言はおそらくただしい。
幼きころの自分にとって大人というものは、頼るべき、仰ぎ見るべき、そうして自分よりも立派であるはずの存在だった。
かつての自分が震えあがったのは深更の墓地という舞台立てにくわえて、大の大人が自身の感情に溺れる様にこそあったのだといまならわかる。その慟哭する姿に、さらに地面に突き刺された大鉈が現実的な恐怖をいや増させた。
復讐するまえに逝かれたのだろうといっぱしの口を聞いてはみたものの、あの男が何者で、なにを嘆いていたのかなどもはや知るすべはない。
死者の還らぬことを憾み憤るひとにちいさな自分は怯え、そうしてすこしばかり戸惑っていた。
大丈夫なのに。
嘆き震える男の肩をみつめながら、恐怖に呑まれかけた頭の隅で自分はおそらくそうおもっていた。
大丈夫なのに。そんなに泣かなくたっていいのに。だって零ちゃんは吸血鬼だもの。だいきらいでもだいすきでも零ちゃんならずっとぼくのそばにいてくれるもの。お墓のなかにいるひとだってもしかしたら還ってきてくれるかもしれないでしょう。だからそんなに泣かなくても大丈夫なのに。
幼き日の夢ものがたりだと頭ではわかっている。けれどその素朴な信頼は、どれだけ歳月が過ぎようともこの身のあちこちにこびりついてしまっている。
「なんじゃ、見とれたか」
背後でふいと声がした。
ふりかえる、そのさきには商業ビルのディスプレイにあるのとおなじ飄然とした笑みがある。夏も盛りに近いというのに黒ずくめの、薄手のコートの裾がひるがえって吸血鬼だのというその名乗りを彷彿とさせる。
まるで心のうちから抜け出たような、まさかと驚く一方でそうだこういうやつだとどこか納得するところもある。
「実物のほうがいい男じゃろ?」
軽口をたたきつつ歩み寄ってくる。朔間、そう呼びかければ相手はさらに笑みをふかめた。
「ああ、朔間さんじゃよ。寺生まれのKさんや」
たとえば、と頭の隅でちらりと考える。
生まれ育ちもあってか、ひとの死はつねに身近にあった。
香の匂いは身に染みつき、習わずとも経はそらんじられた。母が鯨幕を広げればきょうは寺にひとが多く来るのだと言われずともわかった。父が法要を営むかたわらで拝みごとのまねをすれば親族や檀家からは喜ばれた。
きのう寺に顔を見せにきたひとが次の日にははかなくなる。棺におさまったひとはもとのとおりに動くことはなく、かいなでてくれた手はけして戻らない。そのことわりをうまく呑みこめなくなったのはいったいいつのことだったか。
こどものころ、たとえば寺のぐるりにある躑躅の茂みの下、還らぬひとをおもって泣いていた自分がいたかもしれない。
そのとき寄り添ってくれたもうひとりのこどもに、大丈夫だと、自分は吸血鬼だから死なないと、そう言われたことがあったかもしれない。
記憶はおぼろでとりとめもない。ただこの身のあちこちに幼き日の名残りは染みついている。
社会人というのはたいしたものだな、とかたわらにあるひとには聞こえぬように口にする。
大人社会に揉まれたせいか、ものごとを確かめずにはいられぬ性分をすこしばかり矯められるようになった。
そうであるから胸のうちにあるものを口にはせずに、敬人は高層ビルを見あげる。
その壁面にはアルファベットの飾り文字が仰々しく躍っていた。
アンデットだのデッドマンズだの、いっそ念入りにすぎるだろうと、そんなことをぼんやりと考えた。
つねに飄々としているように見せかけてひとには気づかれぬように義を通す、朔間はそういう男で、朴念仁だのなんだのとそしられることの多い自分にはだからどうにも手にあまる。
つい眉をひそめれば、なんじゃ、と朔間が小首をかしげた。
「気にいらんかったか」
Kさんやというその声に、むかしの呼び名のなごりを聞きとってしまうのははたして自分の甘えだろうか。
冗談にまぎらせて霊とその名をなぞらえるのも、そうしておいて朔間さんチームだの蓮巳くんチームだのとわざとらしく線引きをするのも、そうしてそれに気づかないふりをしつづけるのも、滑稽でいっそばかばかしい。
ばかばかしいと頭ではわかっていて、けれどおたがいにやめることができないでいる。
「いや、問題はない」
そう言えば、わかっているのかいないのか朔間はふうんと鼻を鳴らした。
「ならまあ、ひさびさに一緒に帰ろうぞ」
かつんとひとつ靴底を鳴らし朔間は歩きだす。暮れなずむ陽に、黒衣はまぎれず妙に目に残った。
ちいさいころは夕方になるとそれぞれの家に帰っていったものだった。
もっと一緒に遊びたいなあ、そうおもったことがあったかもしれない。
もしそうだったならこどものころの自分の願いはかなったのかもしれないと、そんなことをちらりと考えた。
朔間は呑気に、きょうの夕飯なんじゃろなあとつぶやいている。
「せっかくじゃから蓮巳くんにつくってもらおうかのう」
「ふざけるな」
ならんだ影は舗道に長くのびて、かつての記憶にあるよりすこしばかり離れている。そのくせ歩調は合わせずともそろうから、おさないころに身に染みついたもののぬぐいきれなさに敬人はちいさく息をつく。
香水にまじり、かずかに馴染んだひとの匂いがした。
しろい横顔を敬人はながめる。目線はさほど変わらない。整ったそのおもざしに、かつての墓地での姿がちらりと重なった気がした。
コートのポケットに隠されたままの手、その熱はいまもむかしのままだろうかと、そんなことがふと気にかかった。
ほんとうにおそろしいのは心霊や怪異の類ではなく人間の情念、そうしてその恐怖をくだき癒やすのもまたひとの情なのだといつか教えてくれた指。
その手がふたたびこちらにさしのべられることはあるのだろうか。
あったなら、そのとき自分はどうするのだろうか。
答えをみつけられずに敬人はただ歩く。
かたわらにあるひとからもその解は得られないまま、ただ並んでゆくことにとても落ち着く心地がした。