冬の日 冬の匂いがする。
路地裏には枯葉が溜まって、そのうえに血の跡がこびりついていた。
救急車のサイレンが次第に遠くなっていく。野次馬のひとだかりは興奮もさめやらぬように、スーパーの袋をさげた女性が同年輩の女性にあれやこれやと顛末を語っている。すごかったのよ、不良同士の喧嘩でね、どっちも顔がぱんぱんに腫れて血だらけでさァ。きゃーと悲鳴をあげたのはどちらだったか、女性たちはひとしきり噂話に興じたのちじゃあねとなにごともなかったかのように別れていく。
かたわらで三井がへぇと感心したように肩をすくめた。
「最近のやつらは手厚いな、なんかあったらすぐ救急車呼んでもらえるのか」
「ふつうは救急車呼ばれるようなことなんてしないんだよ」
ため息とともにそう言えば、三井はスーパーの袋を片手にきょとんとする。いやするだろと真顔で返してくるのに、木暮はしないよとかぶりをふった。
スーパーのある通りを抜けてしばらくいけば道は住宅街にさしかかる。ブロック塀のうえを三毛猫がよぎって、おお猫だと三井があたりまえのことをのんきに口にする。その横顔には、喧嘩に明け暮れた高校のころの名残はなかった。
冬の薄い日差しがあたりの景色をやわらかく染めてゆく。木枯らしが吹いた。革ジャンひとつで寒い寒いと身をちぢこまらせる三井に、だから家出るとき言っただろと木暮は肩をすくめてみせる。そうしながら、かたわらにあるひとの横顔が綺麗でよかったとおもう。十年まえより精悍さを増したその頬にふと手をのばしかけて、いかんいかんとかぶりをふった。こんなところで迂闊に手をだせば、家に帰ったときにどうなるものかと考えただけで面倒になる。
「花道も流川もぼこぼこにしちまったもんな」
十年もまえの昔の話を、三井はさも最近のことのように口にする。ぼこぼこにされたのはおまえだろとため息混じりにそう言えば、そうだったかなあ忘れたわと、忘れた気配など微塵もない声が返ってくる。
「みんな血だらけでな、おまえのことも殴ったし」
ひゅと耳元で風が鳴った。木暮はマフラーに顔をうずめる。ああという返事が三井に届いたかはわからなかった。あのときの三井の拳は眼鏡のつるをゆがめるほどの威力もなかったと、そんなことをいまさらながらに考えた。
「まあ、オレは血は出なかったな」
しばらくしてそう言えば、三井はそうだなと気のないように呟いた。
空は薄紙を張りつめたように青い。道端に生えた木々、灰色の枝がさやさやと風に鳴る。
隣を歩くひとから煙草の匂いが消えたのはいったいいつのころだったか、そんなことをぼんやりと考える。革ジャンを着こなした精悍な姿と、スーパーのビニール袋からのぞく野菜と、取り合わせが妙でおかしかった。おかしなはずなのに、気づけばどちらもいつのまにか自分にとっての日常になっている。へんなもんだなと木暮はマフラーのなかでひとりごちる。
「あ」
不意に三井が立ち止まった。なにやら考えこむように腕組みをする、その姿に不穏なものを感じて木暮はあとじさる。
「オレ、おまえに血ィ出させたことある」
うんとひとつうなずき、三井は神妙な顔で先を続ける。
「あれだな、はじめてっつーのはどうしても力んじまうっていうか、いや悪いとは思ったんだけどよ、歯止めがきかなったっていうか、あ、歯といえば噛んで血ィ出させたのもあったな、やっぱ前歯つくるときに歯医者に『なんでもぱりばり噛める最強の歯にしてくれ』て言ったのあれかなりまずかったな」
あれっ考えてみたらおまえ結構満身創痍じゃね? と三井は真顔で尋ねてくる。悪気は一切なさそうなそのそぶりに、照れや恥じらいよりいっそ頭痛がして木暮は眉間を揉んだ。
「ちょっと黙ってくれ」
なんでだ、と三井はスーパーのビニール袋片手に小首をかしげる。無邪気そのもののふるまいに、困ったやつだと木暮はため息をつきつつ歩きだす。
しばらくしてビニール袋のがさがさという音が背後からついてくる。横に並んだひとの顔は見ないまま、木暮はマフラーの奥でちいさく言った。
「おかげさまで大事にしてもらってるよ」
ハハ、と耳のそばで笑い声がする。
「ま、そんくらいしか能がねーからな」
よく言うよというこちらの声はけれど届かなかったらしい、三井はそれきり話は済んだとでもいうように、ふんふんと鼻歌まじりに歩いていく。野菜とビール缶、日常のこまごまとしたものを詰めこんだビニール袋がその手元で揺れている。
冬の日がやわらかにあたりの景色をぼかしていく。
ほんとに困ったやつだよと呟いて、木暮はゆっくりと革ジャンの背を追った。