きみはいいこ「先生、わたしね」
少女の上履きのかかとがとんとんと廊下をはねる。ときおり少女のからだごとふわりと浮きあがって、それからゆっくりと着地する。
「なんもかんも、軽ーくなればいいとおもっとった。お父ちゃんの仕事も、お母ちゃんの仕事も、難しいことようわからんけど重たくならんで、みんな楽しくしあわせになれればいいなって」
開けはなたれた窓、夏の日差しが少女の姿も影も白くする。みんみんと蝉が鳴いていた。顎のあたりを汗が滑って、黒ずくめの服にぽつりと染みて消えていく。
だからこんなかな、と少女は笑う。やわらかな声音、うららかさは夏にあっても変わらない。
「だからこんな、ふわふわーってなるようになったんかな」
スカートの裾をひるがえし少女はふりかえる。
「個性は人格に直結するって」
ねえ先生、素直な声が耳にする。
「先生はなんかを消したかったん?」
答えようとするよりさき、少女のスカートのポケットでぶぶぶとスマートフォンが鳴った。忘れてた! とぴょんとひとつ飛びはねて、少女は廊下を駆けだしていく。
「デクくんたちと勉強会だった! 先生ごめんね、さよなら!」
廊下を走るなという声は届いたかどうか、ちいさな背中があっというまに階段をすべりおり消えていく。
とりのこされるかたちとなり、相澤はちいさく息をついた。
「……おまえとおなじだよ」
少女を前にしていたならその言葉を口にしたかどうか、それはわからない。ち、と舌打ちをひとつして、相澤は少女の去っていったのとおなじ道を辿る。
階段を降り、しばらく歩いて教員準備室のドアを開けた。コーヒーの香りがふと鼻をくすぐった。
ごちゃごちゃとものの溢れた室内、うすっぺらい体がソファに横たわっている。金の髪とこけた頬と、かつて世界を身ひとつで支えていたひとがいま目のまえにいる。
すうすうと眠る姿はこどものようにあどけない。
ソファの肘掛けに座り、相澤はその顔をのぞきこんだ。
そうしながら、うららか、と去っていった少女の名前を呼ぶ。
「俺は、なんもかんも消してやりたかったよ」
それはいつかの昔のことで、もはや記憶もさだかでない。悪も正義もいいやつもむかつくやつもぜんぶ消えてしまえばいいとおもっていた、あれが思春期特有の衝動なのかそれともほかのなにかだったのか、いまさら辿りなおす気もない。
なにもかも消えてしまえばいいという素朴で無邪気な願いはこの目に凝ったまま、いま自分は呑気に先生などと呼ばれている。
眠る男の、尖った鼻梁に指を這わせてみる。こうして触れることをこの男に、それから自分に許すようになってしばらくが経つ。へんなもんだとつぶやいた、言葉もおそらく男には届かない。
立ちあがり、インスタントコーヒーの粉末を瓶からマグカップにざかざかと入れる。電気ポットの湯をそそぐと馥郁たる香がたちのぼった。
ふりかえる。
視線のさき、男は静かに眠っている。
私がきた、その言葉をはじめて聞いたときの衝撃はいまも覚えている。
善悪も個性もいいやつもむかつくやつも、自分の幼さも無邪気さもなにもかも踏み越えて、オールマイトはそこにいた。
「私がきた、ね」
つぶやいてみて、それから照れくささをコーヒーを啜る音にまぎらせる。
いくら口真似したところで、その言葉はこどものごっこ遊びめいて自分の身につくことはけしてない。
なにもかも消えてしまえばいいと願っていたひねくれもののこどもは、ばかでまっすぐなヒーローにあっさりと救われて、そうしていまここにいる。
マグカップを片手にふたたびソファの肘掛けに座る。お行儀が悪いよねとふだんなら諌めるはずのひとはいま眠っているから、ずずずと盛大に音をたててコーヒーを啜る。
マグカップは右手に、あいた左手で眠るひとの頭をよしよしとなでてみる。
この男に救われたのは自分だけではないことくらい、とうの昔に知っている。
いかにもヒーロー然とした体格も偉業も名声も、いっそへたをするとはりぼてじみた、その内側にあるものだってとっくに見せつけられている。
世界中から注がれる感謝と賛美と責任と重圧を一身に受け止めてそれでも笑う、この男の背中にもうひとつ、色恋なんてものをぶらさげてやるのが正解かどうかもわからない。
それでいて手を離すこともできそうにないのだから、まったくどうにも始末に悪い。
金の髪は見ためよりもずいぶんとやわらかく細い。もてあそんでいるうち、何の加減か、眠る男の口元がふいとゆるんで笑みのかたちになる。
それを眺める自分の頬がほころんでいることには、しばらくしてから気がついた。
「おやすみヒーロー、よい夢を」