窓絵 縁側に花びらが散る。
曇り空にうっすらと陽がにじんで、あたりの景色をぼんやりとさせる。
庭の木々からこぼれた赤い花弁も、広縁に腰かけたひとの背も、だからだろうか、どこかうそごとめいていた。
わたしは縁を隔てて座敷に膝をついている。
風はなくて、あたりはしんとしていた。
陽射しは広縁のなかほどでとぎれる。敷居からすこしさきにある薄い光と、その境をかたちづくる影とをわたしはみつめる。
「そもそも炎と氷がくっつけば最強なんて小学生みたいなこと考えるの、あなたつくづくばかよね」
縁側にいるひとはふりかえらないまま、その背がわずかに震えた。
「わたし言えばよかった」
応えはないから、わたしは好きなことを口にする。
「はじめにあなたに会ったとき、そんなにうまくいくわけないでしょって言えばよかった」
庭はひっそりとしている。陽が鈍色の雲に呑みこまれ、あたりは色をうしなっていく。
空気がすこし重くなった。水の匂いが鼻先をかすめた。
「怖かったの」
そう言えば、縁先にある背中がまたちいさく震えた。
空はいつしか墨を刷いたように暗い。
さあと静かな雨音が耳を打った。
庇が深いから、縁側に腰かけていてもそのからだが濡れることはない。よかったとわたしは思い、そうして、かつての自分がいまのこの胸のうちを知ったならどう思うだろうかと、そんなことを考えた。
「なんだかよくわからないけどずっと怖かったの」
応えのないまま、わたしは言葉を重ねる。
「言えなかった」
怖くてと、そう口にすれば、かすかに息を呑む気配がした。ずいぶんと律儀なことだといっそおかしくなる。
素直なひとだった。どうしてそれに気づかずにいられたのか、いまとなってはふしぎなほどだった。
ヒーローはどんなときでも笑っているものだと、それはとても格好のよいことで、だから世のひとはそのさまを素朴に賞賛する。
けれどそんな豪胆さを持ち合わせるものなどそうはいない。
笑えないから顔が強張る。それのなにがいけないのかわたしにはわからない。いまのわたしにはと、しばらくしてから心のうちでつけくわえた。
「わたしね」
声は我ながらかぼそく、けれどどうしてか雨音にはまぎれずにいる。
自分の言葉のひとつひとつが、先にいるそのひとを痛めつけていることをわたしは知っていた。残酷なのはどちらなのか、そんなことはもうずっとまえからわからなくなっていた。
「個性以外何の価値もない人間なんだって、あなたに決めつけられてる気がした」
花びらの赤と庭先の薄闇と、そうしてこちらに向けられたままのシャツの白い背とをわたしはみつめる。
「……否定するとかしないとか、そんな難しいこと考えてなかったって、あなたがもっと単純でばかなひとだったって、わたしずっと気づかなかったの」
雨脚が繁くなった。灰色に滲む視界に、こちらに向けられた背ばかりがふしぎと目についた。
「わたし、あの子にお母さんって呼ばれても返事しなかった」
そう口にしながら、ああわたしはまたこのひとを傷つけるのだなとひとごとのように考える。
「自分のやらなきゃいけないことをぜんぶあの子に押しつけた」
ひとつ言うたび、わたしは指をひとつ折る。
「あの子に煮えたぎったお湯を浴びせた。あの子が死んだことも、生きていたことにも気づかなかった」
たくさん傷つけたの、そう言って、わたしはいつつめの指を折った。
「そうしてね、たくさんたくさん傷つけたこどもたちとおんなじ側に立って、あなたに償いを求めたのよ」
縁側に置かれた、拳がきつく固められる。
その拳と、握りこんだままの自分の指とをわたしは眺める。炎と氷と、何ひとつ似通ったところなどないはずなのに、いまそれらはおなじかたちをしていた。
「わたし、かわいそうなんかじゃない」
指をほどき、わたしはそう口にする。
恨みも嘆きも憎しみも、かつてたしかにあったはずのそれらはけれどいつしかどこだかへいってしまっていた。そうしていま胸のうちにあるものがなんなのか、わたしは知らないままに言葉を重ねる。
「ひどいことをたくさんしたの。ぜんぶわたしがしたことなのに、どうしてか、いつのまにかあなたがひとりで背負ってるのよ」
立ちあがって縁を渡り、わたしはゆっくりとそこにあるひとに近づいてゆく。
きぃと板の軋む音がした。
雨は白煙とともに地を穿つ。縁側に腰かけたそのひとの、足のさきが濡れていることには背後に立ってから気がついた。逃げずにいたことを褒めればいいのか、動けずにいたことを哀れめばいいのか、わたしにはもう決めることなどできなかった。
ふたたび膝を折り、その背に触れればびくりとはねるものがある。ほんとうに素直なひとだとすこしおかしくなった。
小山のようなその広い背に、わたしは額をつけてみる。
しんとしたあたりに、声は妙に響いて聞こえた。
「ねえヒーロー、お願いよ。わたしに、あの子たちに合わせる顔を返してちょうだい」
硝煙に似た、どこか懐かしいような甘い匂いがふいとする。
手のひらをその背に添えれば、しばらくして低い声が耳にした。
「そんなものは持っとらん」
言葉ひとつひねることもできない愚直を、けれど笑う気はなかった。
額に、そうして手のひらに伝わる熱はわたしには高すぎていっそのこと疎ましい。
けれども自分から離れることはどうしてもしたくなかった。そこにある背も動くことはなく、奇妙な意地の張り合いをするものだと頭の隅でちらりとおもった。
わたしには強すぎるひとの熱が、すこしの疎ましさとともに手のひらに馴染んでゆく。
それはわたしの知らぬはずの、恋というものに似ているだろうかと考えかけてけれどもやめた。
頼みもしないのに勝手にヒーローの座に収まって、そこから動こうともしない男になど義理立てしてやる気はなかった。
ばかよねとそう呟いて、篠突く雨音とともにわたしはゆっくり目を閉じた。