Go west, and「ええ、いや…しかし。──わかりました、一日延長ですね。…はい、猪野君が、はい」
いつも以上に眉間に皺を寄せた七海がスマホの通話を終了し、ソファーに腰を下ろした。はぁ、と背を預けて息を吐く隣へ、護山(もりやま)は座って恐る恐る尋ねる。
「七海さん、もしかして」
「……クソッ」
「京都の禪院家まで荷物を運ぶ、猪野君がその荷物を持ってくる。飛行機は伊地知さんが変更してくれる、お休み一日追加」
「貴女のその聡明なところ、本当に好きですが」
フー、と大きく長い溜息を吐いて、七海が護山を抱き寄せて耳をぺろりと舐めた。そのまま甘く噛まれ、びくり、と護山は体を震わせる。
「せっかくの旅行の予定に、水が差された。癒してください」
「ん…ぁっ…、ちょっ、猪野君、来る…ん、ですよね」
「そうですね、ですが、流石に直ぐ直ぐは来ないでしょう」
胸元の大きく空いたニットの胸元に、七海の大きな手が滑り込み、やわやわと触り始める。そして行為はエスカレートして耳から首筋へと唇が伝い、れろ、と熱い舌が這った時インターホンが鳴った。
「ほら来た」
「…チッ」
「今、チッて言った、チッて」
「言いたくもなりますよ」
…いつも以上に不機嫌そうな七海に出迎えられた猪野が、思わずひっ、と呻いたとき、横からひょこりと護山が顔を見せた。
「お疲れ様ー」
「あっ、お疲れ!」
「猪野君、思ったよりも早かったですね」
「あのー、七海サン、怒ってます、よね、ハイ…。いやなんか聞いてくださいよ!?今朝ガッコ着いたら、とにかくコレを七海さんに持って行けって言われたんですよオレッ!?」
まるで獰猛な肉食獣でもオーラを背負っているかのような七海の気配に後ずさりしながら、猪野が持っていたアタッシュケースを前に差し出した。動かない七海に変わり、護山が受け取ったそれは、軽い。
「何これ、軽いじゃん」
「な。あっ、そんでさ、それ呪符で封してあっから、絶対開けるなって」
「ってことは、開けろって前フリ?」
「護山さん、開けない」
「ふぁい」
七海に言われ、護山は渋々といった顔で、呪符を剥がそうと爪を立てかけていたのを止める。その様子を見て、猪野はほっ、と息を吐きだした。
「七海サン、配達お願いしゃッス。あと伝言ですけど、伊地知サンから『飛行機はキャンセルしておきます、新幹線を押さえて情報送ります』らしいっス」
「わかりました」
「んで、下で新田ちゃんが車で待ってるんスよ。ついでに東京駅まで送るっつってましたけど」
「やったー!楽できるね、七海さん!」
護山がそう言って、握りこぶしを宙に突き上げ、七海はまた、ため息をついた。
…都心にほど近いマンションから、車で十数分。東京駅に到着し、新田と猪野に礼を言って彼らは車を降りた。それぞれ一つずつのキャリーバッグに、手持ちのバッグ、そして軽いアタッシュケースを手にして、二人は駅の構内へと進む。
かと思いきや、だんだんと護山が足早になり、走る寸前の早歩きで口内を進みはじめた。キャリーバッグのタイヤが悲鳴をあげるのも厭わず進む後ろを七海が追い、声をかける。
「急に!どうしたんですか!?」
「思い出したの、急がなきゃ!?」
「なにを!?」
「シウマイ弁当!売り切れちゃう!」
どうやら彼女は、構内で販売している弁当を買いたいらしい。今はまだ朝で、ご飯もまだ食べていないから腹が減っているのだと七海にもわかるが、それにしても彼女の足は速い。
今履いているあのヒールのついたブーツは、実のところ持ち主の腹が減ったら俊敏度パラメーターが上がる呪具なのではないか、と彼が半ば本気で考えだしたころ、護山の足がぴたりと止まった。
彼女は硝子越しのウインドウの中身を覗き込むと振り返り、満面の笑みで七海へこう、告げた。
「ねーまだ全種類あるって!どれ食べるー!?」
「ああもう可愛い、食べたいの、全部買っていいですよ」
「ほんと!?じゃあ、全種類1つずつくださーい」
思わず言葉を失った七海と共に、今回の旅行は幕を開けた。
◆◇◆
「もー。端から端まで、全部食べてみたかったのに。なんで止めたの」
チャーハンを口に詰め込みながら、護山がもごもごと七海へクレームを付けた。向かい合って座る七海が手に持つのはピラフ弁当で、半分はきっちり護山が食べた後だ。
「貴女、『端から端まで』って、言ってましたよね」
「うん、言った」
「五種類ぐらい、並んでたじゃないですか」
「うん、並んでた」
彼女はくぐもった声で咀嚼しながら返事をし、お茶でぐい、と飲み込んだ。間髪入れずスプーンで次の一口分を掬いながら、言葉は続く。
「七海さんと二人なら、総なめできるかなって」
「朝から胃袋が元気すぎる」
「ありがと」
「褒めてません」
ぴしゃり、と七海が答えながら、彼もたっぷりとスプーンへ掬ったピラフを口に運ぶ。
「幕の内は、ほとんど一人で食べたでしょう」
「うん、美味しかったよ」
「それはよかった。私が聞きたいのは、それ以外のこれらです。なぜチャーハン弁当とピラフ弁当、被ったようなものを買うんです」
「味の違いが気になるじゃん。ねー、七海さんはどっちの味のほうが好き?」
はた、と七海の手が止まり、スプーンが護山の持つチャーハン弁当へと伸びた。一匙掬って食べて味わい、返事をする。
「甲乙つけがたい。どちらにも違う美味しさが、あります」
「ほらー。どっちも別の美味しさなんだから、食べ比べしたいじゃん」
「参りました」
ふー、と眉間に皺を寄せ、七海がため息をついたその時、ガラガラとカートの音が聞こえた。護山が座席から少し身を乗り出して笑顔になるのを見、七海がもう一度ため息をつく。
「買いませんよ」
「え」
「シンカンセンスゴクカタイアイスでしょう。買いませんよ」
「えっ……ええっ……!?なっ、なんでぇ、なんでぇー!?」
目を見開いた護山が、小声で喚く。
「食べすぎです。旅行の初日から、そんなに飛ばしてどうするんです。この後も美味しいものを食べ歩くんでしょうし、少しセーブしては」
「わかる、わかるけど七海さん」
「それとも」
すい、と七海の顔が近づき、護山は思わず身を竦める。
「旅行中も毎晩抱き潰せば、カロリー消費出来ますが」
低く甘く周りに聞こえないような小声は、結果として囁き声となり、彼女の耳に入り込んだ。抱き潰すって、と小さく反芻しながら顔が赤くなり、効果を見て取った七海は小さく笑いながら身を引く。
そして、さあ最後の一口、と大口を開けたところに、護山がきっ、と七海を睨みつけながら小声を漏らした。
「わかった。声が出ちゃうと思うので、そのあたりは協力してくださいね」
「んぁっ!?」
予想外の返事に、七海から似つかわしくない驚き声が上がり、それを無視するように彼女は手を上げてワゴンを呼んだ。慌ててお茶で飲み込んだ七海が阻止しようとするが、護山がその手を抑える。
「わかったって、言ったじゃないですか」
「本当に貴女、意味がわかってるんですか」
「わかってますけど。七海さんこそ、『頑張りすぎてバテちゃう』んじゃないですか」
「…そういうことを、言うんですか」
サングラス越しの七海の目が、ギラリとひかる。それに負けぬよう護山が見返した時ワゴンが到着し、販売員から声がかけられた。
◆◇◆
「おー。七海に護山、こっちや!」
「うっわ、直哉じゃん。っていうか、ちょっとお腹痛い気がする」
「ええ、彼が迎えに来ると、説明したじゃないですか。やっぱりアイスが余分だったんでは」
「私その情報嫌すぎて、耳に入れてなかったかも。シンカンセンスゴクカタイアイスは外せないじゃん」
話す二人へ合流した直哉はいつもの袴姿ではなく、短パンにアロハシャツ姿だ。もうすぐ昼になろうかという京都駅構内を先導して歩きながら、後ろの二人に聞こえるように大声の文句が漏れる。
「ほんま、なんやねんどいつもこいつも。俺は遊びにいくとこやったんや、お前らの送迎なんかしとる暇ないねん」
「直哉、お友達いるんだ。その服、いいセンス…んふっ」
「おるわドアホ!人をなんやと思ってんねん、そんでさらっと人のファッション馬鹿にしよってからに」
「ごめんね、直哉様さん」
「クソガキが」
直哉がそう吐き捨て、護山が笑い、七海が眉間に皺を寄せながら歩く。苦々しいその顔は、おそらく笑いだしそうなのを堪えているのだろう。
「護山さんと直哉は、相性がいい」
「七海、オマエ、何言うてるかわかってんのか。前からちょっとズレてるなと思いはしてたけどな、俺らのどこが仲ええように見えるんや」
「そうです、別に仲良くないです。おちょくったらおもしろい程度の知り合いですよ」
「は!?俺の神経逆撫でする天才ちゃうん自分!?」
くくっ、と耐え切れずに七海が小さな笑い声を零した時、一行は駐車場の車へと辿り着いた。ピンクの可愛い軽自動車に荷物を積み込み、体の大きな七海が後部座席へと体を押し込んで、車は発進する。
「車おっも…ゴリラ二匹乗せたら、そら重いわなぁ」
「この車、ピンクで可愛いよね。直哉の趣味?女子じゃん」
「うっさい、家の車全部出払っとって、これしか残っとらんかってん!あんまふざけたこと言うてたら、昼飯連れて行ったらんぞ」
「えっ、ごめん、直哉様さんごめん」
せやからな!とまた喚きかけた直哉の声に、後部座席から聞こえる七海の呻き声が被さった。護山が助手席から後ろを覗き込み、声をかける。
「七海さーん。直哉様さんがいじめる」
「…ん…ひぃ……直哉…様、さん、くはっ」
「どうしよう。七海さんが再起不能。お昼ご飯は食べたいです」
「急にトーン変えんなや」
くはっ、と直哉が脱力したように笑って答える。どうやら七海が笑い死にしそうになっていることで、毒気を抜かれたらしい。しゃあないな、と零しながらの運転で向かって到着したのは、郊外の高級そうな料亭だ。
前もって予約されていた湯葉料理のコースが目の前に並んだ時、護山と七海が嬉しそうな顔となり、直哉がドヤ顔をする。
「君ら、湯葉のコースなんか食べたことないやろ。その湯葉鍋な、待っとったら湯葉浮いてくるから、箸で掬うんや」
「ええ、食べたことあります」
「なんや、あるんかい。七海君、そういうのは早よ言えって、説明した俺が、アホみたいやん」
「得意げだったので、わざわざ水を差すのもどうかと」
言いながら彼らは、箸を伸ばし始めた。湯葉鍋以外も懐石料理がテーブルに所狭しと並べられ、生麩田楽や生湯葉の刺身、蒸し物などに舌鼓を打つ。
護山は、その小さな体のどこに入るのかと思うほど、ぱくぱくと料理を食べていく。同じスピードで食べる七海は、そんな彼女を時折眺めて幸せそうに笑い、対面に座る直哉が呟く。
「七海君が、そんな顔するようになるとは、思わんかったなあ」
「どういう意味です」
「そんな幸せそうに笑う男ちゃうかったやろ。いーっつも難しい顔して、こう眉間に皺寄せて、跡ついてたやないか」
直哉が自身の眉間をごしごしと、擦って見せる。
「それがそんなガキと引っ付いて、緩んだ顔で見とる。牙抜かれたんちゃうか」
「私の恋人は、三次元一可愛い。牙が抜かれたかどうかは、近いうちに手合わせでもして、証明しましょう」
「おおこわ、そんな目で見んなや」
ギラリ、と睨まれた直哉が肩を竦めたとき、護山が御馳走様と手を合わせ、男たちは後は黙って食事を摂ることにした。
◆◇◆
「おとん、連れて来たったで」
スパーン!と勢いよく開けられた障子の向こうでは、直毘人が着物を着換えている途中だった。すべてを脱ぐところまでは至ってないものの上半身裸の姿を見て、一瞬だけ客たちは硬直してから後ろを向いた。
「七海殿、とお連れの方。女中を呼ぶので、客間で待っていてくれ。…直哉は残れ」
「なんやねんもう。裸見られて恥じらうような年ちゃうやろ」
「い い か ら 残 れ」
苦々しい声が直哉をそこへ留まらせ、ついで張り上げられた当主の声で女中が駆けつける。その彼女に客間へ案内された二人が待つ頃十数分、頭に絵に描いたようなたんこぶを作った直哉と、当主が姿を見せた。
「先程は見苦しい姿をお見せして、失礼した」
「いえ、問題ありません。…直毘人さん、ご無沙汰しております」
「久しぶりだな。して、そちらは」
「初めまして、二級術師の護山と申します。本日七海との共同任務にて、同行いたしました」
護山が綺麗な動作で頭を下げ、直毘人は髭を摘まみ形を整えるようにしごく。数秒そのままで値踏みするような視線を投げていたが、それを遮るように七海が声を発した。
「任務内容ですが、こちらのケースをお届けするようにと、預かりました」
「おう、夜蛾に頼んでいたものだ。六眼の当主が届けてくれると聴いていたが、何故七海殿に変更になった」
「どうか『七海』と、お呼び捨て下さい。…理由は聞かされておりません」
「ふむ、まぁよかろう。あいつが来たところで、酒の相手もようせんからな。どうだ七海、今晩は儂に付き合わんか」
「「ええー!?」」
直哉と護山の両名から、素っ頓狂な声が上がった。思わずと言った顔を二人が見合わせ、それぞれ小声の抗議が始まる。
「七海さんっ今日の夜の便で、あっち飛ぶんだよね?そうだよね?飛行機予約取ってるよね!?」
「そうですが護山さん、禪院家当主のお誘いを無下に断るわけにもいきません。それにXデーは明日ですから余裕はありますし、直毘人さんはきっと美味しいものを食べさせてくれますよ」
「おっさん何言うてんねん、まさか俺も同席せぇっちゅー話やないやろな。俺、こいつらと酒飲むとか、ほんまにごめんやで」
「たわけ、次期当主になりたいと抜かすのなら、こういう付き合いを覚えるのも必要じゃわい。…ということで七海殿」
「ですから」
「そうだった、七海。それに、護山との関係も聞かせてもらいたいものだ」
話の出所は直哉か、と、七海と護山が睨む。頭にたんこぶを作った本人は目を逸らしているが、微妙な顔つきだ。直毘人とは仲が良くないと聞いていたが、それなりの会話をしているのか、と七海の口の端が上がりかけ、鉄面皮へと引き戻された。
…その夜彼らに振舞われたのは、禪院家の調理場が腕を奮った料理たちである。先に七海が先手を打ってリクエストしたのもあり、大きなテーブルに並んだのは京のおばんざいの数々だ。京野菜や旬の食材が煮炊きされたそれらで、彼らは地酒を楽しむ。
酒豪ぞろいの術師たちの中でも、直毘人と七海は上位のランキングといってよいほどの酒量である。普段こうして飲みかわす相手のいない直毘人は大いに楽しみ、七海はそれに付き合う。
必然、護山は苦い顔をする直哉と飲むことになり、言葉の応酬が続いている。それが、直毘人と七海の酒の肴にもなっているようだ。
一升瓶が二本転がった頃、七海がそろそろ、と酒宴を辞すると申し出た。感謝の意を述べる当主と不貞腐れる直哉に見送られ、二人は寝床としてあてがわれた離れへと向かう。
深夜の屋敷の廊下には、二人きりだ。七海が歩きながら護山に顔を寄せ、小声で囁く。
「お風呂から上がったら、約束ですよ」
「んぇ…?約束?」
「アイス」
「あっ」
まだ風呂に入る前だというのに、護山の首筋から耳元にかけてが赤く染まったのは、酒のせいだけではないだろう。
◆◇◆
「護山な」
「はーい」
「はーい、じゃないわ、呑気な返事しよってからに。お前の体のどこに、食いもん入っていくねん」
「意味が分からなくて、可愛いでしょう」
「ちょっと七海君は、黙っとってくれるか。…あんなぁ、なんでかすうどん食うのに、俺の財布が空になってんねん?こんのドブカスカップルが」
二人が禪院家の歓待を受けた翌朝、やけにつやつやした七海と少し動きのぎこちない護山を、直哉が前日の約束通り難波まで送り届けたのだ。
リクエスト通り、朝から開いているかすうどん屋へ送り届けた後の、会話である。
「昨日奢ってくれるって、言ったじゃん」
「言うた、言うたよ?けどな、普通朝から三杯も食べるなんて、思わへんやん」
「まったく」
「七海君、君も三杯食うてたよな!?…まぁええわ、ここでバイバイやし。ほななドブカスちゃん」
直哉がそう言って、手をひらひらと宙で振る。護山はそれを無視して七海を見上げ、目くばせしてから問う。
「直哉に聞きたいことあるんだけど」
「なんやねんな、もう」
「今日も送ってくれたのって、昨日と同じピンクの軽自動車でしょ。あれ、誰の車なの」
「……」
直哉が黙って背を向け、歩き出そうとする。その背に七海が今度は、再度問いを投げかけた。
「もしかして、君の車ですか」
「…わかってて聞いてんちゃうか、ソレ」
「さあ、どうでしょう。まさか、禪院家の跡継ぎが隠し事をするとは思えませんが」
「あーーーーもううっさいな!俺の!お!れ!の!く!る!ま!で!す!これで満足かドブカスども!」
直哉が、髪をガシガシと掻きむしって喚く。心底嫌そうな顔で二人を見る彼の前で、護山がニンマリと笑って七海を見やり、七海が頷いた。
「やはり勝負になりませんでしたね」
「本当に」
「待て、勝負てなんやねんお前ら」
「えー」
掴みかかろうとした直哉の手から、護山はひらりと身をかわして七海の陰に隠れた。さすがにそれ以上は追いかけることをせず、じとりとした目をする直哉に、七海が言う。
「今日私たちと別れるまでに、何回ドブカスと言われるかを賭けようとしたのですが、二人とも三回以上という結果に落ち着いたので結果ドローです。では、お世話になりました」
「じゃあねー、直哉様さん」
「二度と来んなお前ら!!!」
直哉の罵声を背に、二人は笑いながら歩き始めた。禪院家の現当主にいろいろと持たされた土産で、思いのほかキャリーバッグは重くなっており、路面をこするタイヤはゴリゴリと音を立てる。
引きずるようにしながら二人が向かうのは、空港行きのバス乗り場だ。
キャリーバッグを預け、手荷物検査を経て、二人はラウンジへ向かう。どこの空港でも術師専用のラウンジが設けられており、そこで寛ぐうちに護山が大声を出す。
「七海さん!やっちゃった!」
「声が大きい。…どうしたんです」
しっ、と人差し指を七海に立てられ、護山は慌てて辺りを見回してから、小声で答えた。
「あのね、さっき朝ご飯、食べたじゃないですか」
「ええ、食べましたね。かすうどんを三杯ずつ」
「これから行く先にも、名物の麺類があったのを思い出して…!」
「別にいいでしょうに」
そう言われた護山が、信じられないといった風に、大きく目を見開いた。えええ、と言いながらぱくぱくと動く口へ七海が指を突っ込んで唇をつまむ。
「んあぁああ」
「静かに、出来ますか。…このまま貴女の唇を摘まんでいても、私としては構いませんが。なかなかお目にかかることが出来ない変顔が愛らしい」
「ああうううあう」
こくこく、と頷いたのを確認すると、七海がやっと指を離した。護山は摘ままれていた唇をぺろりと舐め、深呼吸してから七海へ告げる。
「七海さん、もしかして名物って何か、わかってないんじゃ」
「ソーキソバでしょう」
「わかっててッ!」
しっ、と、七海の人差し指が口元に当てられ、護山がまた黙った。むー、と唸る彼女を見る彼の顔は、どことなく楽しそうだ。
「まあ、大丈夫でしょう。一杯ぐらいなら、昼には入るんじゃないですか」
「一杯しか食べれない…」
「…夜の運動、増やしますか?私はそれでも、構いませんが」
「いや、昨日以上ってなると朝までじゃん」
最後は流石に声を潜めた時、登場へのアナウンスが始まり、二人は腰を上げた。
◆◇◆
空港へ降り立つと、思っていたより暖かかい。飛行機に乗るまで着ていたコートは必要性を失い、片手にまとめて抱えられたままだ。
キャリーバッグをピックアップし、スマホの履歴を確認しながら、彼らは出口へと向かって歩く。
ゲートを抜けた先に、知った顔が手を振っていた。そりゃもう元気にぶんぶんと手を振り、大きな声で二人の名を呼ぶその女性は、護山の友人で七海の顔見知りでもある。そもそも今回の旅行は、旧知の仲の彼女に会いに来る予定にしていたのだ。
「もーりーやーまー!!」
「クロちゃあああああん!!遅くなってごめええええんん!!」
走り寄った二人がハグをし、背中を叩き、いったん離れてから手を繋いでぐるぐると回るのを、七海は苦笑交じりで眺める。そして護山の放置したキャリーバッグを一緒に持って近づくと、軽く頭を下げた。
「クロさん、ご無沙汰しております」
「七海さん!元気そうでなによりッスー。旅行の日程は伸びたし、護山の相手、大変だったっしょ」
「ええ、食費が」
ふふ、と七海が小さく笑って告げた横から、護山が二人の顔を覗き込んだ。
「あのさあ、お腹空いた!」
「かすうどん、もう消えたんですか」
「どっかいっちゃった…」
「えっ、朝うどん食べたの?じゃあ、お昼の予定変更しよっかな…ソーキソバの美味しいとこに行こうと思ってたんだけど」
クロと呼ばれた女性が腕を組み、思案顔になる。それを慌てて打ち消したのは、護山だ。
「ソーキソバでいいよ、これからお店変更とか大変デショそれにワタシソーキソバタベタイ」
「なんで片言なってんの…いいけどさこっちは。でも、麺が続くじゃん。どうせ護山の事だから、七海さんも付き合わせてんだよね?七海さんはいいのー?」
「ええ、構いません。彼女は言い出すと、聞きませんし」
「相変わらず、ベタ惚れっすね」
歩き始めたクロが、いひひ、と笑ってそう茶化すと、七海が珍しい表情になった。眉間に少しだけ皺が寄り、唇が少し尖ってそっぽを向くその顔は、間違いなく照れている。護山がそれを見て、満足そうにニタリと笑うと、声を上げた。
「じゃ、クロちゃん連れてって!私は休暇を満喫するのだー!」
「案内は任せといて!食べ終わったら貸別荘借りてるから、買い物しながらそっちに向かうよー」
「クロさん、何から何までお手数をおかけしてすみません。…ああ、そうだ。後でお渡ししたいものがあります」
「なになに、お土産とか?気を使わなくていいのにー」
「東京近郊で買い集めた、ミートソースの詰め合わせです」
「サイコーか、貰います!夜食べよー!」
「そうだ、忘れてた」
はた、と護山が足を止めた。つられて七海が足を止め、振り向いたクロに二人が言う。
「お誕生日、おめでとう!」
三人の休暇は、こうして幕を開けた。この話の続きは、また機会があれば披露することもあるだろうし、無いかも知れない。