事前にアドバイスをもらっていたから空港を出る時にはしっかり上着を着込んで、俺は冷たい酸素を肺に取り込み空気の違いに胸を高鳴らせた。
スマホを取り出し履歴の一番上をタップすると数秒も待たずにコールが途切れて『ハロー、もうついた?』と聞き慣れた声が鼓膜を揺らす。
「……ん、ついた。さみぃ」
『ちゃんとあったかい格好してる? いま空港の中? おなかは空いてる?』
「質問多い。一個ずつ」
『……俺のこと好き?』
「……ばかじゃねーの。今どこ?」
『答えてよ〜』
「ちゃんと上着着てる。一回天気どんなもんか見たくて外出たけど今は空港の中戻った。腹は……まぁまぁ。なんか食いたいかも」
『そうじゃなくてさ、……キョウ、今バスターミナル側のラウンジ?』
「たぶんそう」
『見つけた』
電話口に聞こえたニヤけた声にパッと顔を上げてあたりを見渡した。
すらりと背の高い立ち姿は人の多い空港内でも目について、俺はそいつを見ながら最後の質問の答えを呟いた。遠目でも驚いた表情を浮かべたのがわかって思わず笑い声をあげる。
『どうせなら目の前で言ってよ!?』
「電話で質問したのはおまえだろ?」
『オーケー、あとでもう一回聞く』
「もう絶対答えない」
電話越しに話をしながらお互い足を動かして、ちょいちょいと手招きされるまま人の行き来が少ない壁際へ向かった。ようやく声の届く距離で向かい合ったレンは思っていたよりうんと背が高くてムカつく。スニーカーでブーツの横側を蹴飛ばしてもこいつは嬉しそうに笑うだけだ。
「やっと会えた。来てくれてありがとう」
「……でかい。俺より下の位置から喋れ」
「じゃあずっと跪いてないとだ」
「一生跪いてろノッポ野郎」
「ふふ、キョウは本当に小さくて可愛いね」
蹴りだけじゃ物足りなかったようなので拳を脇腹にぶつけてやる。しっかりした生地の暖かそうなジャケットに遮られてしまいダメージが足りてないからもう一度、次は腹を目がけて手を突き出した。が、それはレンの大きな手に包まれてしまう。
「キョーウ、俺に触りたいのは分かるけど、人前だから」
「は?! ばっかじゃねえの!?」
「あは、もう、……どうしよ、楽しすぎてずっとニヤけちゃう。本当にキョウだ。ほんもの」
レンはぎゅっと俺の手を包んだ手を握りしめ、もう片方の手で自分の口元を覆った。緩んだ口角が見えなくたって細められた目だけでニヤけてるのは丸分かりだ。
反射的にムカついて、でもちょっとだけその笑みに釣られて、俺はレンの手を振り解くこともせずそっぽを向いた。
「メシ、まずいもん食わせたらもっかい殴る」
「俺がよく行くレストラン行こ。レストランって言っても優しいおじちゃんとおばちゃんがやってるとこで、食べたいもの言ったらなんでも作ってくれるんだ。夜は家で俺が作る予定だけど、キョウが食べたいものあったらデリバリーでもなんでもいいよ」
「……了解」
「よし、じゃあまずは駐車場。安全運転でオーストラリアをご案内〜」
片手で持てるだけの俺の荷物を持ち、握っていた手を自然な流れでしっかり繋ぎ直して、レンは「行こう」と行って歩き出した。手を引かれてしまえば俺の足は勝手に前に進み、慌てて残った荷物を抱えてその背中を追う。
レンと俺とでは歩幅が全然違うはずなのに、俺は早足になることもなくレンの半歩後ろを歩き続けた。手汗をかいてしまいそうな手を振り解けないのは、初めて触れるレンの体温に心が安らいでいるからだろうか。
一人きりで慣れない土地に降り立った時の不安をまとった緊張感はもうすっかりなくなっていたけれど、代わりに目の前の男への少し恥ずかしくてなんとなく甘ったるい、絶対に言葉になんかできないくすぐったい緊張感が体を満たしていた。いつもはよく回る口もレンの言葉に短く相槌を打つだけ。そっけないのは変じゃないけど全然喋らないのは俺らしくない。
考えがまとまらないうちに駐車場に着き、レンは停まっている車に近付くとあっけなく俺の手を離した。鍵を開け、後部座席のドアを開けながら俺を振り返る。
「キョウ、荷物後ろの席に置いちゃうね。持っておきたいものはある? 貴重品が入ってるのはそっちのカバン?」
「……そう」
「オーケー。キョウは助手席、……で、いいよね? 俺の隣やだ?」
「ここまで来て助手席拒否って意味わかんねーだろ。隣でいいよ」
「へへ、ありがと。カーナビあるし難しいルートじゃないからキョウはのんびり景色楽しんでて。眠かったら寝ちゃってもいいよ」
「……じゃあおまえのこと見て今のうちに慣れとく」
そう言って助手席側に回ろうと足を踏み出した俺の肩をレンが掴み、なかば無理矢理振り向かされる。目を丸くしてレンを見上げると怒ったような顔で俺を見つめていて余計に驚いた。
「……悪い、冗談。そんな怒るなよ……」
「……怒ってない。……怒ってないけど、……も〜……キョウ、好きな人にそんなこと言われて、安全運転できるほど俺は大人じゃないんだけど」
「……、……ごめん?」
「全然わかってないでしょ。……一個だけ、お願いしてもいい?」
「……内容による」
「キスは家に帰るまで我慢するから、ぎゅーってハグしたい。だめ?」
ぴかぴかの車に背中を押しつけられ、レンの腕の間に閉じ込められている。いわゆる壁ドンの体勢で見上げるレンは熱のこもった瞳で俺だけを見つめてた。
……確かに、このまま車を運転したら事故を起こしそうだ。俺は目を逸らして数秒考え、言葉にはしないでただ重心を傾けてレンの体に寄りかかった。レンも何も言わずに俺の背中を抱きしめる。
壁ドンだって十分距離が近くてハグみたいなもんじゃんって思ってたけど、全然違かった。体丸ごとレンに包まれて、全身が心臓になったみたいにバクバクしてる。キツく抱きしめられているせいで身を捩っても逃げることはできず、俺は俯いてレンの胸に額をぶつけた。だって、たぶん、顔が赤くなってるから見られたくない。
時間が止まったみたいにレンはひたすら俺のことを抱きしめていて、俺はようやくレンの心臓もドキドキと騒がしく鳴っていることに気がついた。きゅっとレンの服を握ると俺の背中を抱く腕の力が強くなる。
「……キョウ、離せって言わないの」
「……じゃあ離せ」
「やだ……」
「……ばかれん。……はやく、家連れてけよ」
囁くような小さな声でもこんなに近けりゃレンが聞き逃すはずがない。バッと体を離したレンは俺の顔を覗き込もうとして、俺はそれを避けて腕の中から逃げ出した。車の反対側に回って助手席の窓ガラス越しにレンを睨みつけるとすぐにレンが鍵を開けてくれて、俺たちはほとんど同時に車のドアを開けた。
「キョウ、さっきのどういう意味」
「テメェで考えろ」
「……ねえキョウ、俺のこと、好き?」
電話口でなら言えた言葉は、レンを見つめ、見つめられながら言うにはあまりに重かった。口を開くために目を逸らし、「キョウ」と名前を呼ばれてもう一度視線を上げる。
たった二文字でこいつが笑うなら安いもんじゃないか。恥ずかしさを押し込めて、俺は口を開いた。
「……好き」
「……ああ……俺、もう、……どうしよう。キョウのこと好き過ぎて困る……」
「……べつに困んねーだろ」
「困るよ。帰ってほしくなくなっちゃう」
「まだ来たばっか」
「わかってる。余裕な顔してるけど、キョウだってきっと帰りたくなくなるよ」
余裕な顔に見えているなら良かった。俺はレンから目を逸らしてフロントガラスを見ながら「早く車出せ」と言った。