忘羨ワンドロワンライ【遺言】 三ヶ月前、藍忘機は魏無羨との長い知己の関係を終え、ようやく道侶となった。披露目はしていないが、世話になった座学同学の面々には書簡で伝えたようだ。仙門百家には数ヶ月後の清談会で簡単に伝えて終わるだろう。大仰なことは何もしていない。藍家の祠堂で三拝した三日後には魏無羨が結丹したこともあり、藍啓仁が師弟たちに簡単に伝達しただけだ。
『魏無羨が藍忘機の道侶となり、今生での結丹も果たした。修為を上げるために修練に参加することがあるかもしれないので、その際にはよく教えを乞うように』
既に面識があり教えを受けたことのある師弟たちも多く、降って湧いたような慶事に沸き立ったが、藍啓仁の心配をよそに、ひと月もすると師弟たちは元通り――否、元よりはるかに修練に打ち込むようになった。そのたったひと月で、魏無羨は次期双璧の二人を抜き去り、かつての『六芸に秀でた豊神俊朗』と言われるものが如何なるものか、全員に示して見せたからだ。
もともと魏無羨は虞夫人に見事に鍛え上げられている。『礼』は座学の時代からほぼ満点の成績であったし、『算』は陣法の基礎、魏無羨は虞夫人と共に蓮花塢で防衛陣を開発して敷いていたほどの実力を持ち、藍啓仁と未知の陣の解析まで行える。『書』は虞夫人が正式な書簡を代筆させていたし、『射』は実力主義の江氏で大師兄を務められるのだから言わずもがな。『楽』は音律と呪符を組み合わせた詭道術法を編み出しており、その笛の実力は藍氏の多くが聞いて知っている。『御』は御剣を行う仙師であれば馬術というより戦術の知識の方が重宝されるが、これもまた大師兄を務めていたのだから折り紙付きだ。
そもそも少数精鋭で夜狩を行うことが多い江氏は、藍氏が十人で行う夜狩を四人で済ますような世家なのだ。その中で十三で大師兄になり、座学に参加する以前から江氏の夜狩で指揮を取り、生まれの尊卑も立場も全部をひっくり返して世家公子の風格容貌格付けの上位に君臨していたのだ。ある意味、最初から規格外である。
生まれながら才能に恵まれているのだと、そう考えるのは簡単だ。だが、その『規格外』がどのように己を鍛え上げていくのかをまざまざと見せつけられ、師弟たちの背筋は伸びた。才能が規格外だろうと、それに見合うだけの修練を行うからこそ力がつく。才能だけで強くはなれない。才能は能力の最終到達地点の高さと到達の速さを表してはいるが、そこに至る道には近道などなかった。
藍啓仁にとっては嬉しい誤算だが、魏無羨にしてみれば、かつての座学の時の決着をつけるため、藍忘機と匹敵する力を早く取り戻したかっただけである。残念ながらそれは未だ果たされていないが、それでも魏無羨は毎日楽しげである。
藍啓仁は居室の棚から無垢の小箱を取り出した。
藍氏では、直系も傍系も藍の姓を持つものは全て、修為が上がればそれを示すために白銀の髪冠を着ける。修為が高くなるにつれ冠は大きく数も多くなり、それに伴い纏う衣の格も上がる。衣の色は基本は白で、年齢が上になれば濃い色を纏うことが許されるが、藍忘機のように常に白を基調とし、中衣や外衣の一部にのみ色を配することもある。この衣の決まりによって、魏無羨曰く『葬式のよう』な真っ白い集団が生まれるのである。魏無羨は藍忘機の道侶となったが、藍氏に入門したわけではないのでこの決まりには該当しない。事実、魏無羨が纏う衣は黒を基調としている。それは夜襲の際に闇に潜みやすいからという、非常に合理的で現実的な理由によるものだ。あとは単なる慣れである。ただし、藍忘機のたっての願いにより、衣には護身のための雲紋の刺繍が入れられた。
真っ白い群れの中の黒は非常に目立つ。そして、ただ目立つというだけで見咎められることも、ままあるのである。
藍啓仁は昨日の客の言い様を思い出して、忌々しげに首を振る。
『烏が混じっておりますな。他が染まらぬようにお気をつけください』
何が烏だ、空けめ。腐肉を喰らう鳥とでも言いたいのか。生憎うちの烏は、烏は烏でも金烏なのだ。結丹前からお前などより強いが、結丹した今では全てにおいてお前より上だ。へにゃへにゃとした曲がりくねった字しか書けぬくせに、何様のつもりか――と、藍啓仁は腹の中だけで毒吐いた。
腹いせに、客が是非にもと求めた礼法の書は、魏無羨が年少の者が学びやすいようにと工夫して『より大事なところを僅かに大きく書いて分かりやすく写本したもの』を持たせてやった。客は大喜びで『さすがは藍家の写本、字まで清廉で美しい』と褒め称えて帰って行った。知らぬが仏である。
魏無羨が結丹して三ヶ月――おそらくは既に座学の頃の藍忘機は上回っただろう。魏無羨は藍家の系譜に名を刻まれたものの、師弟ではない。だから本来は髪冠も改める必要はない。それでも――。
それでも、この者は藍家双璧の背を守る者で、背後を任されるほど強く、そしてそれを藍家は認めているのだと周囲に知らしめたい。そんな我欲を藍啓仁は持っている。
蔵色に笑われそうだ――。
かつてこの雲深不知処を思う存分引っ掻き回した女仙師は、一目惚れした黒衣の仙師を追いかけて雲夢に去っていった。去り際に、ようやく伸び始めた藍啓仁の髭を笑いながら『いつか生まれる私の息子を宜しく』と言った。藍啓仁は『宜しくなどせぬ、門前払いだ』と吠え、その様子を女仙師は指差して笑った。
その後も陣のことなどで交流はあったが、後にも先にも、彼女が自分の何かを藍啓仁に託すような素振りを見せたのは、その時が最初で最後だ。
結局、その息子を宜しくすることになってしまっている。運命とは不思議なものだ。
藍啓仁は思い出を振り払うように小さく首を振って、そっと無垢の小箱を開けた。中にあるのは座学の頃の藍忘機が付けていた髪冠である。ちょうど含光君の号が世に広まり、それに合わせて髪冠を改めたことからこの冠は使わなくなった。それ以降は藍忘機は髪冠を改めず、付ける位置を変えて数を増やしている。養い子の修為が上がればこの髪冠を与えようかとも思っていたが、むしろこれは黒衣に映えるかもしれない。
はあと大きくため息を吐き、藍啓仁は忌々しげに髭を撫でつけた。
「髪冠を賜る?」
魏無羨はキョトンと首を傾げて目の前の藍忘機を見返した。
「藍先生が、俺にくれるの?」
「うん」
藍忘機は藍家における髪冠の意味を教え、師弟に示すためにも髪冠だけでも藍家に準って欲しいそうだと、藍啓仁の意向を伝える。
「江氏でも髪冠は大事だったろう?」
「んー、外向きの用の時はちゃんとしてたな。俺の髪冠は大師兄になった時に師姉が作ってくれて、座学でも着けてたんだけど、それはよそ行き用で、普段は自分で作った皮の髪冠だったんだ。裏にびっしり護身の文字を書き込んだ特別製のやつだったから、弱い水鬼なんかは近づいても来なかった。――でも確かにそうだな、普段は髪冠も衣も何も言われなかったけど、対外的な行事の時は衣から何からうるさかった。大世家だと、まあそれが普通だろうな」
藍忘機は流れるような滑らかな動きで茶を煎れると、酒器としても使う小さな茶碗で魏無羨の前に出す。その香りを嗅いで、魏無羨はにこりと笑った。
「これ、この間の酒店で美味しいって思ってたやつだ」
「そう、君がとても喜んで飲んでいたから」
イヒヒと嬉しそうに笑って、魏無羨はゆっくりと口に含みコクリと大切そうに飲み干す。その一挙手一投足を見つめて、藍忘機は柔らかく笑った。
「君が嫌なら、叔父上も無理にとは仰らないだろうが」
「いや、受けるよ。ちゃんと受ける。だって、藍先生が考えに考えて決めてくれたんだろう? 藍先生は堅いし小言も多いけど、厄介な相談事を持ち込まれることも多いこの雲深不知処で、長年宗主代理を務めてきた人なんだ、きっと必要だと思う何かがあったんだろう」
「どうも客人に何か言われたようだ。腹いせに若年用の礼法の書を渡してやったと言っておられた。あの書は座学前に目を通すには良いと評判が良く、残りが少なくなってきた。今度またいくつか写本しておいて欲しいそうだ」
「若年用って――」
「それで十分だと思ったそうだ」
若年用は雲深不知処の十にもならない童用の書だぞ――と、たまらず魏無羨は吹き出して、そのままケラケラと腹を抱えて大笑いする。
「そうだ、藍湛。ものは相談なんだけど――」
思う存分笑ったのち、魏無羨は身を起こして、悪戯を思いついた子供のように目を輝かせた。
その日、雲深不知処はらしからぬほど落ち着きがなかった。それも仕方ないかもしれない、なにしろ魏無羨が髪冠を賜るというのだ。結丹して僅か三ヶ月、凄まじい勢いで剣技も弓技も勘を取り戻している。かつて座学の時に含光君と互角で決着がつかなかったという伝聞は、嘘でも法螺でもなかったのだ。
藍曦臣が閉関を理由に同席を辞したため、その場には次期双璧の二人と、もはや魏無羨の祖母代わりのような椿の先達、見届け人として離れ地の傍系の先達が二人同席する。藍曦臣の代わりに藍啓仁が髪冠を与え、藍忘機は介添えとなる。他の師弟たちは同席は叶わなかったが、蘭室前の前庭で終わって出てくるのを待っていても良いと言われ、我先にと勤めを終わらせて声を潜めて待っている。
髪冠には決まりがある。いったいどんな髪冠を頭上に戴くのだろうと、師弟たちは落ち着かない。
蘭室の中、思追の隣に座って藍景儀は緊張していた。自分もいつか、こうして新たな冠を戴くのだ。夜狩を許された証の揃いの飾りから、少しずつ重責を担うものに変わっていく。たぶん、自分達の代では思追が最初で、次が自分。できれば同時に戴きたいと思うのは、欲張りすぎだろうか。
藍啓仁は既に正面に立ち、景儀の向かいには先達二人を従えて椿のお婆婆が白髪を綺麗に結い上げてちんまりと座っている。あとは介添の藍忘機と主役の魏無羨を待つだけだ。
するりと滑る音がして、蘭室の横扉が開かれる。介添の藍忘機の背後に、それよりほんのひとまわり小さな人影が立っている。ゆっくりと藍忘機が藍啓仁の待つ壇上へと歩み去ると、その場に残ったのはいつもとは全く異なった人影だった。
櫛目を入れて綺麗に上半分を結い上げた髪は、背中にしなやかに真っ直ぐに流れ落ち、顔の側面に落ちる前髪がほっそりとした顔に淡く影を落とす。象牙色の滑らかな額には抹額はないが、その全身を包む衣は雪のように白い。胸の前一面に白い雲紋、里衣だけが絹の光沢を湛えた縹で、道侶となって以来腰に下げるようになった藍忘機と揃いの腰佩の紐と色合わせされている。新たに衣を作る時間はなかったはずだ。だとすればこれは――
「忘機の衣か――」
藍啓仁の小さな呟きに応えるように、魏無羨は完璧な作法で長い袖をふわりと翻して深く礼をした。
他が全員息を呑む中、椿のお婆婆がだけが満足げに微笑んでいる。里衣を新たに誂えたのはお婆婆なのだろう。
藍景儀は、ポカリと口を開けたままその流れるような美しい礼を眺め、藍啓仁の前に跪き完璧な所作で白銀の冠を戴く魏無羨を眺めた。
魏無羨はいつもガサツで適当な事が多く、景儀はそれを見て実はちょっと安心していた。大丈夫大丈夫、ちょっとくらい完璧じゃなくても、自分だけじゃない――と。
全然違った。なんのことはない、元々完璧だからこそ、日頃は適当でもお小言くらいで済んでいたのだ。
「忘機の若い頃の冠だ。新たに作るより、お前にはこの方が良いだろう」
藍啓仁が藍忘機の冠を贈ったのは、魏無羨を藍忘機の片翼として認めるから、そして魏無羨が藍忘機の昔の衣を纏ったのは、片翼としての自覚を藍啓仁に示すため。
「励むように」
立ち上がり、もう一度綺麗な礼をすると、魏無羨は白い袖を翻し、流れるように蘭室の外扉へと歩き出す。
藍景儀はその横顔をまじまじと見つめた。整った顔立ちをしていることは知っていた。いつも大口を開けて笑い、目も眉も感情のままに表情を崩していたので改めて考えてみたこともなかったが、魏無羨は静かに慎ましく表情を整えていると、とんでもなく美しかった。
なるほど、含光君が骨抜きにされるわけだ――。
罰当たりなことを考えたのがバレてしまったのか、チラリと含光君から視線を投げられ、藍景儀は慌てて口を引き締めて背筋を伸ばした。
藍忘機に付き添われて外扉まで進んだ魏無羨は、両手で大きく扉を開いた。現れた真っ白なその姿を認めた前庭の師弟たちから、途端にわっと歓声が上がる。雲深不知処にはあるまじきその声に藍啓仁の雷が落ちる前に、魏無羨は素早く片手の人差し指を唇の前に立てて『しぃ――』と鎮める。
そして真っ白な牡丹が綻ぶように綺麗に笑った。