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    planet_0022

    @planet_0022

    書きなぐった短編たちの供養所

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    planet_0022

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    ウツハン♀
    人外ウ×ハンターになる前のデシ
    ハンターのあまりに屈強な体の理由は神からの恩寵なんじゃないの、っていうそういう奴。
    いずれ混ざり合って同じ存在になろうね、という話

    #ウツハン♀

    透明の甘味 今日はスタミナ訓練だ、と告げられた時点から嫌な予感がしていた。山を三つ越え、そのまま雲を突く勢いで高くそびえる崖を登り、あげくの果てには山の麓から川を泳いでカムラまで帰れと言われたのだ。
     流石に冗談だろう、と恨みがましく男を見つめれば微笑みを返された。さぁ、早くやりなよと言わんばかりのそれに少女が抗えるはずもない。言い出したら聞かない男なのだ。諦めと自棄をぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、心の中で男に対して罵声を発しつつ山登りを始めると、そういうのは傷つくからやめて、と口を尖らせて男に抗議された。
     山を三つ越えるまでは問題なかった。だが、崖登りが崖の中腹に差し掛かった辺りから怪しかった。岩を掴む手に力が入らない。気力を振り絞って手を伸ばし、岩のくぼみに手を掛ける。けれど、指先の感覚がもうすでにわからなくなっていた。掴力が弱っているせいで岩場に捕まり切れず、上を目指して腕を伸ばしても何度も何度もだらりと下がってしまう。その度にかろうじて岩場に縋りついている利き腕とは逆の腕と、ほとんど足場もない状態で踏ん張っている足に負担が重くのしかかる。ぱらり、ぱらり、と足を掛けている脆い足場から小石の転がる音がする。疲労が蓄積された体は常よりもずっとずっと重たく感じられた。
     すでにかなりの高さまで登ってきてしまっている。このまま両腕が同時に離れることがあれば、高い木の上から落とされて潰れた果実のように、ぐちゃりと汚らしく散るのは間違いなかった。いくらなんでもこの高さから落ちては命が助かるまい。
    「馬鹿なこと考えてないで早く登っちゃいなよ」
     頭上から諭すような声が聞こえた。顔を上げれば、先に崖を登って進んでいった男が、張り出した岩場に腰かけて少女を見下ろしながらそう言っていた。男は汗一つかいておらず、息も全く乱れていない。そよそよと凪ぐ風が、男の首元に巻かれている錆鼠色の襟巻をはためかせていた。
    「大丈夫、キミなら登りきれるさ」
     男は当然だろう、と言わんばかりの穏やかな笑みを浮かべている。ここで、出来ません――と駄々をこねるのは少女の矜持が許せそうもなかった。お望み通り登りきってやろうではないか――と、気合を入れ直して思い切り奥歯を噛み、再び腕を上げ、岩壁を掴む。ほとんど指先の感覚がわからないが、少女はそれでもがむしゃらに崖を登り切ってみせた。
    「さすが、俺の愛弟子!」
     崖の頂上。平らかな岩場で膝を震わせ、肩で息をする少女の姿を見て、男は満足そうに笑いながら褒め称えた。少女は、はい、と男に差し出された水の入った竹筒を受け取ったものの、握力が馬鹿になっていて上手く掴んでいることができない。両手でなんとか竹筒を掴んで中身を一気に飲み干すと、男は少女の肩を抱き、ぎゅっと自身の胸元に手繰り寄せる。
    「なんですか?」
    「あそこに川が見えるかい?」
     少女の背中に、男の厚い胸板がぴたりと密着している。背を軽く曲げて男はぼそり、と少女の耳元で囁いた。その声色に思うところがあり、少女は居心地の悪さを覚えた。男の指さした先を見ると、陽光に照らされてギラギラと水面が反射している川のうねりが見える。眼下に広がる景色を見ながら、なんだかうねうねと蠢く蛇のようだと少女は思った。
    「この崖上から翔蟲を使って川へ飛び込んで、そのままカムラへ泳いで帰ろうか」
    「は……? いや、流石にちょっと休憩、を……!」
     水を飲むにも一苦労だった少女は、体力の限界を感じて男に休憩を要求しようとしたが、当然男がそんなに甘いわけもない。了承したわけでもない課題を告げられた少女は、密着していた男から背中を思い切り押し出され、その体は宙に舞った。当然そこには足場も何もない。呆けたままでは落下して死ぬだけだった。
    「ほら、愛弟子! 早く翔蟲を出して!」
    「~~っ! この……鬼教官!」
    「うんうん、まだまだ元気だね!」
     少女の渾身の叫びも男にはまるで効き目がない。重力に従って落下していく少女は、慌てて翔蟲を取り出し、鉄蟲糸を籠手に巻きつけながら川方向へと向かって放り投げた。途端に糸に導かれるようにして体が引っ張られ、そのまま少女はキラキラ輝く冷たい川へと、ざぶんと音を立てて落ちていった。
    「でも、鬼なんかと一緒にされるのは心外だなぁ」
     男はそんな少女の姿を目で追いながらカラカラと笑い、自身も翔蟲を取り出してその後を追っていった。
     結果として、川に飛び込んだ後もまた最悪だった。
     水は冷たく、体温が奪われて体の中心から冷え固まっていく感覚。川の流れ自体は早くなかったが、如何せんすでに少女の疲労はすさまじい。ざぶりと潜った後に水面へ顔を出す為に浮上するだけでも、とてつもなく体が重かった。濡れた修練着がずっしりとした枷になり、水の底へと沈めようと画策しているかのようである。とにかく水を掻いて浮くことに専念することだけで精いっぱい。遠くの方から、夕飯に間に合わなくなっちゃうよ――などと呑気な声が聞こえた気がしたが、少女は全て聞こえないフリをすることにした。一々反応しても腹が立つだけだ。
     川の流れに身を任せながら泳いで進んでいる、と言えば聞こえがいいかもしれないが、その実ほとんど少女の体は流されているだけでしかない。なんとか水を飲まないように、と懸命に藻掻いている姿はさぞや不格好だろうな、とそれぐらいのことを考える余裕はあった。そこかしこにあるごつごつとした岩を避けながら、はぁはぁ、と息を吸いこんで顔に浴びる飛沫に耐える。寒い。疲れた。帰りたい。もう嫌だ。そんな泣き言めいた言葉が少女の頭の中で繰り返し浮かんでは消えていく。
     遠目に見えた大岩を避ける為に、少女は反射的に手近の岩を蹴って軌道を変えた。嫌だ、嫌だと思うのに少女の体には男の教えが染みついているのだ。悔しさで歯噛みする。
    「こら、よそ見しない」
     近くにはいない筈の男の声が耳元で聞こえた気がして驚いて少女が顔を上げると、川の流れが眼前で直角に軌道を変えていた。滝がある。
     しまった、と少女が思った時にはもう遅かった。川の流れに抵抗できるほどの体力が残っているはずもなく、そのまま少女の体は滝つぼへと落下する。どぼん、と派手に音を立てたところまでは少女の耳に届いたが、その後は静かなものだった。
     澄み渡る美しい水の檻に囚われて、浮上することができない。ぼこぼこと泡立つ気泡が少女の口からいくつも零れていって、辺りを舞っている。水の中に差し込む陽の光が美しい。あぁ、綺麗だな、なんて思った瞬間には少しも身体を動かせなくなっていた。もう冷たさも何も感じない。あんなに感じていた疲労もない。体が軽い。水に優しく抱かれて眠るのは悪くないかもしれない、なんて思いながら少女は目を閉じた。
     ざぶん、と水中に重いものが飛び込んできたような音が聞こえた気がしたけれど、もう少女には確かめる気力などなかった。

     ――里に選ばれた子供は、七歳になったら神様の所へ連れて行ってもらえる。
     里の子供たちの間に伝わる他愛無い噂だった。ある子供は親からそういう風に聞いたのだと言っていた。別の子供は実際に神様のところへ連れて行ってもらった子から聞いたと言っていた。そうなんだ、すごいね。なんて言葉を返せば、皆口をそろえて自分も神様に会いたいと言っていた。ヒノエにもらった朱色の毬をてんてん、と突きながら自分には関係のないことだろう、と少女はぼんやりと考えていた。
     けれどある日。里長のフゲンに呼び出され、たたら場の前へと赴けば、そこにいたのは七歳になったばかりの少女の他に同じ年頃の男の子が一人、女の子が一人。フゲンは三人の子供たちの顔を順番にじっくりと眺めた後に口を開いた。
    「其方達には、神の恩寵を受けてもらう」
     少女も、他の子どもたちもフゲンの言う言葉の意味がわからず、お互いの顔を見合わせて首を傾げた。
    「其方達にはこのカムラの里の誇る強者となる素養がある。いずれ来る厄災に備え、神に目通りをし、恩寵を得て強靭な肉体を手に入れるのだ」
     子どもたちはますます首を傾げる。皆一様に頭に疑問符をたくさん乗せている姿が面白かったのか、クスクスとフゲンの傍らにいたヒノエが笑い声を挙げ、その隣にいるミノトが姉様、と呼びかけた。それでは子供達には難しいですよ、とヒノエがフゲンを窘めるとフゲンは眉を下げて困り果てた様子だった。
    「カムラに伝わる伝承に、こういったものがあるんですよ。大社跡の奥の奥、天を目指さんばかりの高さで聳え立つ大ケヤキの根元にある祠。その祠にはケヤキを伝って天から降りてきた神様が住んでいるそうです。その祠に齢七つになった子供を何人か連れていくと、その中に気に入った子供がいれば、その子には神様から特別な力を分け与えてもらえるのだ、と」
     フゲンに代わりカムラに昔から伝わる昔話を絵本の読み聞かせのように語るヒノエ。その話に子供たちは皆真剣な顔をして聞き入っている。
    「ですから、皆さんで神様の住んでいる祠へ遊びに行きましょうね」
     ヒノエの言葉に、はぁいと喜びに逸った大きな返事が二つ、はいと気乗りのしない小さな返事が一つ響いて大人たちは満足そうに笑っていた。
     鬱蒼と茂る森を歩き、隆起した木の根に足を取られそうになりながらそれでも前へ進む。大人たちは酒や食べ物なんかの豪勢なお供え物を飾った供物机を持って、子供たちは普段行ってはいけないと言われている大社跡への道のりにはしゃぎながら、騒々しい一行が集団となり道なき道を行く。
     普段着ている臙脂えんじ色の簡素な着物とは違い、綺麗な韓紅からくれないの晴れ着を着せてもらえた喜びに頬を緩めつつも、土や泥で汚れてしまわないかとひやひやしながら少女は山道を進んだ。男の子は紺碧こんぺき色。もう一人の女の子は蒲公英たんぽぽ色。皆、まだ小さく細い体にまばゆい着物を纏い、遠出に心躍らせている。まるで私を見つけてくださいと言わんばかりに目立つ着物の色。大社跡にはモンスターだって出るというのにこんな目につく色の着物を着ていて大丈夫なのだろうか、と少女の頭には一抹の不安がよぎる。
     道中休憩を何度か挟みながら、一行が目的地にたどり着いたのはすでに陽が傾きかけた夕刻だった。小さな子供たちを連れての山道は大人たちだけのそれと同じ速度というわけにはいかないので、当然と言えば当然であった。
     獣道を進んだ先にある大きな大きなケヤキの木。枝を大きく広げた雄大なる姿。そしてその根元に鎮座する小さな祠。朱塗りの屋根は風雨に晒されているせいか、やや色褪せている。太いしめ縄がかけられ、木製だろう観音開きの厨子が置かれている。何が安置されているのか定かでは無い。
     その祠に枝葉の隙間から夕陽の紅が差し込み、さわさわ、とケヤキの葉が風に揺れる音が聞こえた。空気がまるで違う。澄んだ空気と少し冷たい温度。人ならざる者の住まう空間なのだろう。決して歓迎されている気はしなかった。みだりに立ち入ることを許さないと言わんばかりの圧迫感に、少女はゴクリ、と唾を飲み込む。
     大人たちは手にしていたお供え物を祠の前に置き、皆手を合わせて願いを呟いた。
    「どうか里に強者を……いずれ訪れる災厄に抗えるだけの力を」
     子どもたちも大人のその姿に倣い、両手を合わせて祠に向けてお辞儀をした。大人たちの異様なまでの視線を感じたからだ。しっかりとお願いをしなさい、という無言の圧だった。
     けれど、何も起こらない。
     しん、と痛い程の静寂が続く。先程までは大人たちがあれほどワイワイガヤガヤと煩くおしゃべりをしていたというのに、今は誰一人として声を発さない。それどころか、大人たちは三人の子供たちに鋭い視線を向けて、この子か、あの子か。それともあるいは誰も選ばれぬのか、と縋るような願いを込めた視線を放ってくる。不躾なそのいくつもの眼差しがなんとも言えず居心地が悪かった。しかしそれでも辺りには何も変化はない。
     しばらく静寂が続いていたが、やがてどこからともなく、ダメか……という諦めの声が上がった。それにつられるようにして、大人たちは皆がっくりと肩を落とす。
     どうやら神は不在のようだった。
     仕方がない、帰ろう。そうだな。という大人たちの口ぶりから察するに、所詮伝承なのだから、と必死に言い聞かせているようにも少女には感じられた。共にやってきた男の子も女の子も、やっぱり神様なんていないのか、と残念がっている。
     皆が帰り支度を始めている間に、葉を揺らすケヤキの木を少女は眺めた。ケヤキが揺れる姿がなぜだか、どうして気づかないんだろうという、誰かの主張のように思えたのだ。
     夕陽に染まるこの世のものとは思えない美しく不思議な空間。なんとなく神はこの場にいるような気がした。人間たちが帰るのを待って、自分の姿に気付かない事を嘲笑っていそうだなと少女は思った。モンスターが跋扈ばっこする大社跡で、誰にも踏み荒らされることなくこんなに美しい場所が存在し、この場所にいればそれだけで心穏やかな心地になれることなんて普通はありえない。何か常人ならざるものの加護があるに違いない。見えないけれど、きっとそこには何かいる。大人たちが帰り支度を進め、子供たちがもはや祠から興味を失って背を向けている間に、少女はもう一度祠に向けて手を合わせて願った。
     どうか、里をお救いください――と。
    「うん、キミにしよう」
    「え」
     聞き慣れない声が背後で聞こえた。驚いて振り返ってみてもそこには誰もいない。ふと、視線を落とすと少女の足下には大きな林檎が一つ転がっていた。真っ赤に熟れた美味しそうな林檎。この辺りには林檎の木なんて一つもないのに。
     食べなければいけない。この林檎を口にしなければいけない。そんな強迫観念が少女の心の内に、突如として押し寄せてくる。何故そんなことを思うのだろうという微かな疑問はあっという間に塗りつぶされる。気付けば足下に転がっていた林檎を拾い上げて、少女は小さな歯をその表面に立て、がぶりと噛り付いていた。甘い果汁が口に広がり、脳がえも言われぬ幸福に満たされる。こんなに美味しい林檎は食べた事がない。まるで、を口にしたような、そんな幸せな心地だった。
    「おーい、帰るぞ」
     しゃり、しゃり、と夢中で林檎を貪っていると遠くから大人たちの呼び声が聞こえた。その瞬間少女の動きがぴたり、と止まり林檎を取りこぼす。我に返った少女は林檎が手元から転がり落ちていくことを見つめていることしかできない。すでに半分ほど欠けた林檎は地面に二度ほどぶつかって、スッとその姿を消した。まるで、元から林檎など存在していなかったかのように。
     いったい自分は今、何を食べていたのだろうか。
     きょろきょろと少女が周りを見回すと、大人たちも子供たちもすでに帰路に着き始め、ケヤキの前に残っているのはもう少女一人だけであった。帰らなきゃ、と慌ててその場を離れようとすると、ぶるり、と少女の背が震える。祠の方から鋭い視線を感じた気がしたが、やはりそこには誰もいない。あるのは静寂ばかりだった。駆け足でその場を離れる時、決して少女は後ろを振り向かないようにした。どうしてか、すぐ背後に常に気配を感じるのが恐ろしかった。
     再び元来た長い道のりを戻り、里に戻った頃にはすでに夜もとっぷりと更けた頃合いだった。少女と共にやってきた男の子も女の子も疲れた、とべそをかいて、大人に背負われて眠りこけてしまっている。疲れているならお前もおぶってやるぞ、と大人達に声を掛けられたけれど、不思議な事に疲労は全くなかったので首を横に振って断った。あのケヤキにたどり着くまではあんなに疲れていたのに、帰り道では不思議なぐらいに少女の足は軽かったのだ。
     やがて里へ辿り着くと、里のあちらこちらでは煌々とかがり火が焚かれ、橙色の優しい灯りが一行を迎え入れてくれた。正門を越えた朱塗りの橋の前ではヒノエやミノト、ゴコクやフゲンと里の人間が大勢で一向を出迎えて、労いの声を掛けている。ゴコクやフゲンは一向からの報告を受けて何やら難しい顔をしていたが、ヒノエやミノトは安堵した表情で、大人に背負われて眠っている子供たちを起こしてしまわないように丁寧に預かり、それぞれ里の中へと戻っていった。きっとそのまま親元へと返されるのだろう。少女にはそういった肉親も家族も、誰もいない。
     大人たちは互いに、今回も駄目だった――だの、また来年か――だのと語り合いを始めてしまい、少女を気に留めるような者は誰もいなかった。このまま帰ってしまっても問題はないのだろう。大人たちが生み出す喧騒をかき分けて、とぼとぼ、と朱塗りの橋を渡っていると突然ふわり、と少女の体が宙に浮いた。いや、違う。誰かに抱き上げられたのだ。
    「やぁ、おかえり! ケガはないかい?」
     闊達でよく通る声。にこにこと笑う整った顔立ち。老竹色した髪がふわふわと風に揺れて、黄金色をした瞳が少女の顔を覗き込む。稲妻の形をした頬の傷、帷子に隠れた口元。立派な戦装束を身に着けた常人ならざる気配を持つ男。
     
     少女は目を見開いて顔をまじまじと見つめ返すものの、言葉が返せない。いなかった。確かに、こんな男は里の中にはいなかった筈だ。人口の少ない里の人間は皆互いが顔見知りだ。生まれたばかりの赤子ならまだしも、この里に住む大人の顔を少女は皆覚えている。ましてこんな特徴的な風貌の男を知っているならば忘れる筈もない。
    「ん? どうしたの? 疲れちゃった?」
     そうだよねぇ、長い事歩いたもんね。男はうんうん、と一人納得したように頷いて、抱き上げていた幼い体を下ろして優しく頭を撫でてくる。慈しみしか感じられないその手つきにますます少女の混乱が募っていった。
    「俺達も引き上げますね。早くこの子を休ませてやりたいので……」
    「おう、長い事連れ回しちゃって悪かったな。あ、ウツシ教官、良かったらこれ持っていきなよ」
    「いいんですか? ありがとうございます。折角だから夕飯に使わせてもらおうかな」
     男は少女の手を握り、何やら難しい話を続ける大人たちに向かって帰宅を告げた。大人たちは笑顔でそれを了承すると、神様へのお供え物だと言って大社跡へ持参していたサシミウオを三尾ほど魚籠に入れて男に渡した。大人たちは男の姿を見ても何も言わない。まるで男が昔からこの里にいる仲間の一人であるかのように接していた。
     ウツシ教官? そんな人はいない。だって、この里にいる教官は少し前に遠くへ旅に出た、優しい笑顔をする女の人だ。
     老竹色の髪、頬に傷、元気が有り余った太陽のような笑顔をする素敵な女の人。どことなく、今隣にいる男に姿が似ている、と勘付いて少女はぶるりと寒気を覚えた。
    「さぁ、帰ろうか。色々があるだろう?」 
     男は少女を逃がすまい、と言わんばかりに、ぎゅうとその小さな手を握る力を強めた。逃げられないな、と観念して少女はこくりと小さく頷いた。

     男と共に帰ってきたのは少女の自宅ではなく、男の自宅だった。
     里の集落区域の端の端。高く立ち並ぶ防護壁代りの杭がすぐ傍にそびえたつ静かな場所だった。こんな所に家があったことすら少女は知らない。
    「食べなよ。毒なんて入ってないから安心して」
     男は帰宅すると、部屋に明かりを灯し、手早くもらってきたサシミウオを調理して板間で待つ少女へと夕飯の膳を用意した。きょろきょろと少女が家の中を見回しても不自然な場所は一つもなかった。間違いなく、昔からここに人が住んでいた形跡がある。家具も、武具も、書物も、今の今用意されたものではない使い込まれたものばかり。生活感があるとでもいえばいいのだろうか。怪しい点もどこにも見当たらなかった。
     少女に出された膳に並べられているのはサシミウオのお造りと、白飯、葉物のおひたしと汁物。白飯と汁物からはゆらりと白い湯気が立ち昇っている。
    「あなたは、たべないんですか?」
    「ん? 俺? あぁ、気にしないで。俺は食べなくても大丈夫なんだ」
     男は胡坐をかいて自分の膝の上に頬杖をついて少女の姿をじっと眺めている。
    「まずはきちんと食べてから。お話はその後で」
     ね? と優しく諭されるように言われて、少女はおずおずと申し訳なさそうに返事を返す。
    「あの、おはし、もらえますか……」
     その言葉に男は大きな声で笑った。ごめんごめん、と笑いながら男は炊事場へと行き、漆塗りの箸を手にして戻り少女に手渡す。少女は箸を受け取ると手を合せて、いただきますと呟き一口一口と食事を進めていった。
    「うーん、はまだまだ勉強しなきゃだめだな」
     男は愉快そうに笑いながら少女の食事風景を眺めて呟いた。

      ごちそうさま――と、少女が出されたものを全て食べ終えて手を合わせると男は満足そうに笑っている。お茶でも飲む? なんて甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくるので、少女は首を横に振って断った。
    「じゃあ、聞きたいことあったらどうぞ。何でも答えるよ」
     男は掌を少女へ差し向けてさぁ、どうぞと言い放つ。帷子に隠されていた口元が顕になって初めて男の容貌の全容が見えた。薄く口端を上げてひどく機嫌が良さそうである。
    「お名前は?」
    「ウツシ。この里の教官だよ」
    「この里の教官はちがう人です」
    「うん、知ってる。今その人は里を離れているんだろう? だから、その人の姿を土台にしてね、似姿を取らせてもらってるよ」
     少女の脳裏に浮かぶ優しい女性の笑顔と、目の前にいる男の笑顔がなぜか重なった。
    「……あなた、本当はだれなんですか?」
    「……神様、って言ったら信じるかい?」
     自身でウツシと名乗った男は不遜な態度で笑っている。かみさま、と少女がその言葉を反復すると、ウツシはそうそうと頷いた。
    「キミたちが願いに来たんだろう? 里に強者を、と。その願いを叶えてやろうと思ってね」
     だから、キミにした――ウツシはゆっくりと少女を指さして笑う。神にお前は選ばれたのだ、という信じ難い宣告だった。
    「キミを強者にしてあげよう。里の災禍が払える程のね。俺が教官としてキミを導いてあげる」
    「私、が」
    「あぁ。キミはどんなモンスターにも怯まなくなるし、負ける事もなくなる。ただ、そういう力は一足飛びに身につくものじゃあないんだ。だってキミは、ただの人間だからね」
    「では、どうしたらいいんですか?」
     ぐ、と両の拳に力を込めて膝の上で握り締める。黄金色した瞳を正面から見つめ、少女は真剣な眼差しをウツシへとぶつける。そんな少女の様子を見たウツシの顔から笑みが消えた。端正な顔をした男から笑みが消えると、どこか冷たさが漂うのだと少女は初めて知った。
    「こっちにおいで」
     ウツシは少女へ手招きをする。ひょいひょいと呼び寄せるように人差し指だけを上向けて動かしてこちらに来い、と。少女はウツシの指示通りに立ち上がり、膝を突き合わせる程の近さにまで接近して再びその場に正座をする。少女が顔を上げウツシの顔を覗き込むと、ウツシもまた真剣な面持ちのまま少女の顔をまじまじと眺めていた。
    「里の為に戦いたい?」
    「はい」
    「強くなりたい?」
    「はい」
    「うん、わかった。じゃあキミを鍛えて上げよう。代わりに人間をやめて俺の花嫁になってもらうよ」
    「え?」
    「神の恩寵はタダじゃない。俺にも見返りを貰わないとね。あんなサシミウオ三尾じゃ到底足りない」
     ちらり、とウツシは視線を炊事場に置かれた魚籠へと寄越してからすぐに少女へと視線を戻す。ウツシは困惑を瞳に湛えた少女の姿を見て再び口元を緩めている。
    「やめる?」
     ウツシはそれでもいいよ、と言った。
    「キミがやめたら、里は次の災禍に耐えられるかな。強者が現れなかったら、この先この里は……この里に住む人たちはどうなってしまうんだろうね」
     俺には関係ないことだけれど――と、ウツシはにこりと微笑んで言った。信じられない、という言葉の代わりに大きく目を見開いて体を震わせる少女へとウツシは言葉を続けた。
    「でもキミが人間をやめて俺の花嫁になってくれるというなら、話は別だ。キミは強者になれるし、俺も自分の花嫁が大切に思う故郷をみすみす災禍に飲み込ませたりはしない」
     どうだろう? とウツシは言った。どうも何もない。拒否権も、選択権も少女にはないのだということを突き付けられただけだった。人をやめ、人ならざるものとなり、ウツシの花嫁になる以外の答えは少女には最初から用意されなかったのだ。
    「ずるい……」
    「そうだね」
     思わず少女の口から零れ出た言葉は侮蔑に近い響きを持っていた。それをウツシは否定しなかった。自分がいかに傲慢で卑怯な事を言っているかを自覚しているのに、それでもなお撤回をする気もないのだろう。たった齢七つの少女に、頷く以外の選択肢を与えない酷い神様。
    「……でも、それじゃあ、あなたが私の家族になるのですね」
     少女はそう言った。少女には身寄りがない。親もいない、兄弟、姉妹もいない。よくしてくれる里の者はいるし、友達もいる。けれど、皆陽が落ちれば少女を一人にする。だって皆にはすでに他に大切な人がいる。少女には誰もいない。
    「うん。キミがなんと言おうと、何をしようとずっとずっと傍にいるよ。一人にしないし、寂しがらせたりもしない。他の誰かに気を寄せたりもしない。キミだけの家族になってあげる」
     ウツシの答えは、少女が昔からずっと欲していたものだった。かけがえのない自分だけの誰か。寂しさの隙間に寄り添ってくれる誰か。少女を決して一人にはしないという約束。それを叶えてくれるのならば、人間でなくなることなど些末なこととしか少女には思えなかった。
    「わかりました」
     少女は朗々とした声を発して板間に両手をつけて、少しだけ体を後方へ滑らせると、三つ指ついて頭を下げた。
    「ふつつかものですが、よろしくおねがいします」
     契約は成立した。ウツシは少女の家族となり、里の災禍を払う為に少女を鍛え上げる事を誓った。少女もまた、ウツシの花嫁となり、里の災禍を払うべく人間を捨てることを誓った。満足げに微笑むウツシは、こっちにおいでと少女の腰に腕を回して、胡坐をかく自身の足の上にその小さな体を乗せた。
    「口を開けて」
     ウツシは少女の小さな体を逃がすまいと両腕で抱きかかえながら、「あ」と声を発するように口を開けて見せた。少女にも同じようにしろ、という指示だ。何をするのだろう、と疑問を抱えながらも少女は同様に「あ」と口を開ける。じろじろとウツシの不躾な視線が少女の口内へと注がれた。居心地が悪くなった少女は口を開けながら視線に耐え切れず、そのまま瞳を閉じてしまう。あーあ、完全に委ねちゃってまぁ……とウツシは心中呟きながらも悪い気はしなかった。逃がすまいと片腕を少女の腰に回して、逆の手でそっと少女の頬に触れる。柔らかく、張りのある、幼子独特の感触にウツシの心が躍った。これが自分のものとなるのか、という満ち足りた心地だった。
     ウツシは口を開けたままの少女にそっと顔を近づけて、その口内に自身の舌を滑り込ませた。覚えのない感覚に驚いたのか、少女はびくりと体を跳ねさせたが、腰を掴んだウツシの腕に止められて逃げる事は出来ない。ちゅぷ、と唾液の混ざり合う音が静かな室内に響く。目を閉じている少女には視覚がない分余計に生々しく聞こえる事だろう。大きく分厚いウツシの舌から逃げようとさまよう少女の小さな舌は容易く絡め取られ、吸われ、嬲られ、口端から粘性のある銀糸が零れ落ちる。
    「ふ、っ……ん、は……」
     眉間に皺を寄せながら、懸命に鼻で呼吸をして幼子とは思えない艶やかな声を出し、それでもなお頑なに目を開けようとしない少女の様子を見て、ウツシの胸に愛おしさが込み上げてくる。可愛い可愛い妻が出来た。
     やがて充分に小さな舌を嬲ったウツシが満足げに顔を離すと、紅潮した顔で息を荒くした少女が薄く目を開けた。
    「苦かった?」
     ウツシがそう少女に尋ねると、少女は、コクリと弱々しく首を縦に振った。視点が定まっていないその様子にウツシが笑う。
    「苦いのはまだ俺の味に慣れてないからだね。少しずつにしよう。キミの体が唾液これに慣れてきたらもっと甘く感じるようになるよ。あの時食べた林檎みたいにね」
     べろり、とウツシはてらてらと唾液で濡れる少女の唇を舌で拭う。少女はぼんやりとした頭で、あのケヤキで噛り付いた林檎の味を思い出して、舌なめずりをした。反射的だっただろうその仕草を見て、ウツシは笑みを深くする。
    「これが完全に甘く感じられるようになったら、その時にはもう、キミは人ではなくなってるから」
     人ならざるものの体液は人の体を内側から変えていくんだ。楽しみにしててね、とウツシは笑った。
     静かな夜。二人だけの室内。こっそりと行われた契り。里の者は誰も知らない。

     ぱち、と少女が目を開くと青空が広がっていた。うつ伏せに寝ころんでいたことを理解して、大きく息を吸い込もうとした途端、気道にまとわりついていた水分が肺に押しやられてしまい、大きく咳き込んだ。
     かひゅ、と情けない喉鳴りが聞こえた。あぁ、これは自分のものかと気づいた途端に更に肺が苦しくなる。
     息をいくら吸い込んでも喉の奥に入っていかない。気道が馬鹿になって、酸素を取り込むことを拒んでいるかのようだった。吸って吐いて、吸って吐いて。簡単な反復動作をなんとか思い出しながら呼吸を整える間にも、開けっ放しだった口からはダラダラと唾液が零れ、柔い土に沈んで染みを作っている。ぽた、ぽた、と濡れた頭から落ちる水と唾液の染みが混ざって小さな泥溜まりが生まれようとしていた。掻きむしるように地面を引っ掻いたせいで、切り揃えられた爪の奥に細かな砂が食い込んで痛む。
    「あと何分ぐらいそうしているんだい?」
     そんななんとも無様な姿を、傍らに立つ男はまじまじと眺めながら問いかけてきた。悪意がないだけに余計に腹が立つ。そうだ、この男は本当にのだ。
    「っ、は、……そんなの、私の体に、っ、聞いてくださいよ……!」
     息も絶え絶えに文句を述べれば、男――ウツシは全く仕方のない子だな――と嘆息をした。
     あれから九年の歳月が流れた。里に存在しなかった筈のウツシは上手いこと人間の皮を被り、里の教官として里守の指導やハンターの指導を始めた。いつか来る災禍を払うため、里の総力を持って災厄に立ち向かうために。誰にもウツシの出自を疑われることなく、里で生まれ育ったという認識を里の者は皆持っているようだった。無論、少女を除いてだが。
     ウツシの指導は厳しく、少女に対しては事更で、難題を課せられることが多かった。今回のスタミナ訓練もそうだ。人間の体の限界というものを、神様なんかがわかるわけないのだ。
    「じゃあ、口を開けて」
    「……嫌です」
     これからウツシに何をされるかを理解している少女は、ぶっきらぼうにウツシの指示を断った。はぁはぁ、と乱れていた息がようやく整い始める。ふぅ、と一つ息を吐いて、とんとんと胸を叩くとバクバクと五月蠅く鳴っていた鼓動が平静を取り戻す。疲労で重かったはずの体は、すでに怠さも重さも感じられない。ぐるぐると肩を回してどこにも違和感を覚えないことを確認してから、水滴でぬかるんだ泥だまりの上で起き上がる。
     ずいぶんと体力の回復までの時間が早くなったな、という感慨深さがあった。人ならざるものになりつつある実感が少女の中に湧いてきたのは、昨日今日の話では無い。
    「でも、助けてくれて、ありがとうございました」
     少女はウツシに向けて、ぶっきらぼうながら礼を述べた。少女と同じく全身ずぶ濡れになっているウツシの姿を見れば、わざわざ川に飛び込んで助けてくれただろうことは明白だったからだ。
    「今からもうひと泳ぎして里まで戻りますから」
     ウツシが黙ったままなのをいいことに、訓練を放棄する気はない、と少女は言い切って再び傍らでさらさらと流れている川へと体を向けた。が、その腕を有無を言わせない強い力で引かれてしまい、少女の体はバランスを崩して後ろへ倒れ込む。とす、と倒れることなくその身を支えたのはウツシの体だった。ウツシの体に凭れるようにして背中を預ける事になった狩人の乙女が視線を上げると、無表情のままウツシの視線が注がれている。これは機嫌を損ねたな、と少女は心の中で舌打ちをする。
    「わかってるなら言うこと聞いて」
    「人の心を勝手に読むのはやめてくださいって、いつも言ってるじゃないですか」
    「でも、最近は昔ほど聞こえないんだよ。キミが少しずつ人間じゃなくなってるからかな」
     九年の歳月をかけて、夜毎に舌を絡ませ合い続けた結果、少女の体は少しずつ変容をしていった。同年代の子供に比べて、いや大人と比べても体力スタミナが大きく飛躍した。多少の高さの崖から飛び降りても痣一つ作らなくなった。鋭利なもので傷をつけられれば血こそ流れるが、すぐに傷が塞がる様になった。神の恩寵を得た体は、当然ちょっとやそっとのことで死にはしない。ウツシも約束を守り、丁寧に根気強く狩猟技術を少女へと伝授した。今や少女は里の期待を一身に背負ったハンター見習いである。頑強な肉体を得た少女は間もなく正式なハンターとなるべくハンターズギルドへと認可申請を出す予定だ。
    「それでもまだ完全じゃない。。こうして川で溺れて息の音が止まれば死んでしまう」
     俺を置いていくつもりなの――と、まるで人間のような神様の拗ねた物言いを聞いて、少女はそこで初めてウツシが怒っているのではなく、恐れているのだと知った。少女は唇を尖らせて、むぅ、と唸った後にウツシの体から背を離し、くるりと向き合う様に視線を合わせる。
    「あ」
     少女はもう、昔と違って目を閉じない。目を開いたまま口を開けて、ウツシを受け入れる態度を見せた。たったそれだけでウツシは歓喜の色を浮かべて少女の顔を挟むように両の掌で触れてくる。体温の高い掌が、指先が輪郭をなぞるだけで、少女はソワソワとした心地になった。これが嫌なのだ。昔からの習慣であれば、そろそろ慣れてくれればいいものの、年を経るごとに落ち着かない心地は増していくばかりだった。
     ウツシは少女の頬に唇を落とすと、舌先で下唇をなぞる。少女は、それが合図だと覚えさせられている。ゆっくりと赤い舌の先端を差し出すと、その先端を啄むようにして吸われる。ひ、と少女の背中が跳ねた。もっと、と言われているような心地になってだらり、と舌を出せば、縁をなぞるようにウツシの舌先が周回していく。もどかしいざらつく舌の感触が耐え難い。擦り合わせるように舌が絡み合えば、ちゅ、とやけに湿った音が耳に入って落ち着かない。頬を撫でていたウツシの指先はやがて、弄ぶように輪郭を辿って、少女の柔い耳に触れた。
    「ひっ」
     少女の態度に気を良くしたようで、ウツシはたっぷりと唾液と舌を絡ませ、少女に体液を分け与えながら、指先は耳殻を弄ぶ。耳たぶを爪先で撫で擦り、耳裏を優しく撫でてやると少女は顔を真っ赤にして久方ぶりに目を閉じた。これ幸いとウツシは絡まり合う舌を剥がして、今度は少女の左耳へと唇を落として耳の形を舌先でなぞった。
    「や……っ」
     口端からみっともなく唾液を零しながら、少女は体を震わせた。そっちは違う、という抗議の声は心の中でしか上げられなかった。湿り気を帯びた粘着質な音が、全て直接鼓膜に叩き込まれるように響いてくる。
    「も、もうおしまいです!」
     少女がそう言ってウツシの胸元を力を込めて押し、突っぱねるとウツシは満足そうな笑みを浮かべて、残念、と呟いた。ちっとも残念そうではない。
    「ほら、泳いで帰りましょう。教官も一緒に泳ぎますか?」
     頬を染めて恥ずかしそうにしながら、先程までウツシに嬲られていた左耳に指先で触れている少女の姿を見て、ウツシの身には焦燥感が募った。
     あぁ、早く、早く人間なんてやめてこちらの世界にきておくれ――と。
    「うん。ちゃんとキミの側にいるから。続きは夜だね」
     懲りないウツシのその態度に、もう! と少女の拗ねた声が響いた。あはは、と笑うウツシは先程まで自分が嬲っていた左耳にそっと顔を寄せて、少女に問いかける。
    「実際のところ、どうだい? もう今は結構甘いんじゃない?」
     ウツシが尋ねてきているのが、舌を絡め合う際の唾液の話だと気づいて、少女は身を固くした。そんなこと聞かないでください! と顔を真っ赤にしたまま言い放ち、少女はそのまま翔蟲を使って川へと飛び込んでった。逃げられちゃったか、とさして残念にも思っていない口調でウツシは言葉を零して、少女の後を追い川へと飛び込んでいった。
     あの子は逃げない。無論逃がすこともない。手にした可愛い妻をみすみす誰かに渡すこともしない。あぁ、災厄が本当に来るなら、とっとと来てくたばってしまえ。早くあの子を誰にも見られぬ地で囲わせてくれ、と思いながらウツシは川の先を行く少女を追う。
     少女もまた、そんなウツシの気配を背にしながら川を進む。
     実のところもう昔とは違い、八割ほど唾液は甘く感じられていて、舌先が触れ合うたびに喜びを覚え始めていることを少女はまだもう少しだけ隠し通しておきたかった。
     少女が身も心もグズグズに溶けて、人間じみた執着を見せる神の本当の家族になるまで、あと少し。
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    💒💒💒💒💒💒❤☺🌸💘
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    Replies from the creator

    planet_0022

    DONE現パロ
    旅館経営者御曹司ウツシと住み込みで旅館で働く苦労人元JK愛弟子ちゃんのド健全ラブストーリー

    ろまこさん(@romako_ex)が書いていらっしゃった元ネタ(https://poipiku.com/6214969/8696907.html)を許可頂き小説化したものです。
    めーっちゃくちゃ楽しかった!書かせて下さってありがとうございました!
    夜明けのワルツ ピピ、というアラーム音が鳴るのとほぼ同時にぱちりと瞼が開いて覚醒する。時刻は朝の四時。日の出まであと三十分といったところだろう。窓の外はまだ薄暗い。けれどやるべき仕事は山ほどある。掃除、朝食準備、来訪予定のお客様の人数把握……数えればキリがないほどに目まぐるしい。この生活にもずいぶんと慣れてきたけれど、それでも朝方の布団の中ほど離れがたい場所はないものだ。
     うー、と唸るような声を上げて後ろ髪をひかれる思いであっても、仕事は待ってくれやしない。がばり、と勢いよく起き上がってそのままの流れで布団を畳み、身支度を済ませて……と、一連の動作を流れでやってしまわないことには、いつまでたっても次へ進まないことをヤコは嫌というほど知っていた。ふわぁ、と大きなあくびを一つして、洗面台の鏡に映るまだ寝ぼけた瞳をしている自分へ喝を入れるべく、ぺち、と両手で軽く頬を挟むようにして叩いた。蛇口を捻って出てくる冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗って、気合の入れ直し。
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